2015/05/12 - 2015/05/12
1248位(同エリア6991件中)
junemayさん
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- 旅行記226冊
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- フォロワー41人
2014年6月から7月にかけて、イタリア、フランス、スペインを勝手気ままに歩いた一人たびの心地よさが忘れられず、年が明けるや否や新しいプランを作成。今年は昨年最も強く心を惹かれてしまったイタリアに集中することにしました。6月のトスカーナは連日35度を超す猛暑だったので、今年は1か月前倒し。
まずは行きたいところをピックアップして、たびの拠点となる都市を選定。宿泊施設を押さえてから、詳細を詰めていくというのが私のスタイルなのですが、例によってこれも見たい、あそこも行きたい・・・とかく欲張りな私のこと、1か月じゃあ全く時間が足りないことがすぐに判明しました。とはいえ、時間とお金は限りあるもの。優先順位を決めて、何とかやりくりをして決めたのが下記のプランです。
イタリアには過去3度行ったことがあります。
最初のたびは、大学生の頃、スイスのチューリッヒから日帰りで行ったミラノ。最後の晩餐だけ見に行ったような、慌ただしいたびでした。
2回目は2001年、シシリアとアルベルベッロ、カプリ島、ローマを2週間かけて回りました。
3回目が2014年、ベネチアとトスカーナ州、リグーリア州が中心の2週間。
今回は、過去に行ったことのない場所をメインとした旅程となりました。たびを重ねるうちに、自分が最も興味を惹かれるものは、古い建物、神社仏閣教会等、そして彫刻、絵などの美術品 全て人が作り出したものだということがわかってきました。中でも、ここ2、3年、以前はあまり興味が沸かなかった教会に強く惹かれる自分がいます。基本的には無宗教なのですが、現在より人々の心が純粋で、神を敬う気持ちが強かった頃でなければ、創り上げられなかった文化の結晶とでもいうべき施設には畏敬の念を覚えます。というわけで、今回のたびの中心は教会を巡る街歩きとなってしまいました。
イタリア語は皆目見当がつかず、付け焼刃で2週間ほど本を見て勉強しましたが、やるとやらないでは大違い。後は度胸と愛嬌?で前進あるのみ。御陰様で、とても自己満足度の高いたびになりました。
2015/5/6 水 成田→モスクワ→ローマ
2015/5/7 木 ローマ
2015/5/8 金 ローマ→ティヴォリ→ローマ
2015/5/9 土 ローマ
2015/5/10 日 ローマ
2015/5/11 月 ローマ
2015/5/12 火 ローマ
2015/5/13 水 ローマ→ナポリ
2015/5/14 木 ナポリ→ソレント→アマルフィ→ラヴェッロ→アマルフィ→サレルノ→ナポリ
2015/5/15 金 ナポリ
2015/5/16 土 ナポリ→エルコラーノ→ナポリ→カゼルタ→ナポリ
2015/5/17 日 ナポリ→バーリ
2015/5/18 月 バーリ→マテーラ→バーリ
2015/5/19 火 バーリ→レッチェ→バーリ
2015/5/20 水 バーリ→オストゥーニ→チェリエ・メッサピカ→マルティーナフランカ→バーリ
2015/5/21 木 バーリ→アンコーナ→フォリーニョ
2015/5/22 金 フォリーニョ→スペッロ→アッシジ→フォリーニョ
2015/5/23 土 フォリーニョ→トレヴィ→スポレート→フォリーニョ
2015/5/24 日 フォリーニョ→ペルージャ→フォリーニョ
2015/5/25 月 フォリーニョ→コルトーナ→オルヴィエト
2015/5/26 火 オルヴィエト→チヴィタ ディ バーニョレージョ→オルヴィエト
2015/5/27 水 オルヴィエト→アレッツォ→オルヴィエト
2015/5/28 木 オルヴィエト→フィレンツェ→ボローニャ
2015/5/29 金 ボローニャ→ラヴェンナ→ボローニャ
2015/5/30 土 ボローニャ→モデナ→ボローニャ→フェラーラ→ボローニャ
2015/5/31 日 ボローニャ
2015/6/1 月 ボローニャ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/2 火 ヴィチェンツァ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/3 水 ヴィチェンツァ→ヴェローナ→ヴィチェンツァ
2015/6/4 木 ヴィチェンツァ
2015/6/5 金 ヴィチェンツァ→ミラノ
2015/6/6 土 ミラノ
2015/6/7 日 ミラノ
2015/6/8 月 ミラノ→モスクワ→
2015/6/9 火 →成田
時刻は午後3時。こんな時間に開いていたマグダラのマリア教会に感謝! まだ閉まっている教会が多いので、得意の足の向くままにほっつき歩く「地球の迷い方」を実践。地図を見ないで、「こっちかな?」と歩きだしたのは良いのですが・・・
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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マグダラのマリアに捧げる教会を出て、また彷徨っているうちに、見覚えのある広場に出ました。サンタ・マリア・イン・アクイロ教会。昨日すでに訪れましたね。
流石に私でも、入る前に気が付きましたよ。 -
教会が面している広場の店先に山と積まれていたのは海綿。実物は見たことがないのですが、無脊椎動物の一種だそうです。ヨーロッパでは昔から入浴・洗顔用具として使われてきました。特に地中海産のものが質が良いんですって。一緒に売られているのはヘチマかな? こちらは日本でもお馴染みですね。
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建物の装飾などを写しながら、なおも彷徨います。下でキリスト像を持ちあげている二人の格好と表情がおかしい! 一生懸命踏ん張っているようです。
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横道に入ると、人通りがパタッと絶えることがあります。周りを気をつけながら、気持ちを引き締めて参りましょう。
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ロマネスクの鐘楼が取ってつけたような、こちらの教会は、サン・サルヴァトーレ・アッレ・コッペッレ。 ローマにある教会は殆どが、日本語でいう「西方教会」(カトリック、聖公会、プロテスタントなどの総称)ですが、この教会は「東方典礼カトリック教会」に属する教会で、正教会式の典礼を行いながらもローマ教皇下のカトリックの教義を受け入れている教会なのだそうです??? 要はカトリックと正教会の混血といったところなのでしょうか。
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現在こちらの教会は、ルーマニアのナショナル・チャーチとなっています。ルーマニアは周りを正教徒の多い国、スラヴ語圏にある、唯一のラテン語国家です。歴史的にも文化的にも、スラヴ語圏(正教徒圏が比較的多い)から様々な影響を受けているのでしょうね。
教会の歴史は12世紀にはじまりますが、17世紀に再建されています。鐘楼は1195年の創建当時の物。ファサードと全然マッチしていないなあ・・・ -
次にやってきたのは、イン・カンポ・マルツィオ広場。カンポ・マルツィオとは、日本語ではカンプス・マルティウスと言っているパンテオンを中心とした古代ローマの公共地域のことで、今朝からずっとうろついているエリアのことです。名前につられてやってきたのですが、狭いちっぽけな広場でした。
前に見えるのは、サンタ・マリア・イン・カンポ・マルツィオ教会。こちらはシリアやアルメニア系の正教会です。8世紀にコンスタンチノープルから逃げてきたバシリアン・ナンズという修道女達が創建したと言われています。 -
広場にあった唯一の古代ローマを彷彿させる石棺は、風雨にさらされて今は見る影もなくなりましたが、エレガントな装飾がかろうじて残っていました。
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Giolitti ジオリッティを見つけたので、ここで一休み。遅い昼食を取りました。ジェラートが有名ですが、デリも充実していますよ。
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なんてキュートな街灯でしょう! こういうものを探しながら歩くだけでも楽しいですね。
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休憩後に見つけたのは、サン・アゴスティーノ教会。ここではラファエロとカラヴァッジョに会うことが出来ます。まだお昼休み中だったので、また後で寄ることにしましょう。って後回しが増えてきたので、まずはサン・ルイージ・デイ・フランチェージ教会に戻ることにしましょう。
実は、この後、ナヴォナ広場に通じる道を探して回ったのですが、入口が見つからず随分時間を食ってしまいました。いつものトホホです。 -
サン・ルイージ・デイ・フランチェージ(フランスの聖ルイ)教会に戻って参りました。16時の開門を待っていた人達がどぉっといっぺんに入場したので、混雑しています。その殆どがフランス人の観光客でした。フランスのナショナル・チャーチだから当たり前か?
現在教会が建っている場所は、古代の皇帝ネロの浴場があったところで、ドミティアヌス競技場(現在のナヴォナ広場)とパンテオンのちょうど中間地点でした。最初の教会は、この教会が捧げているルイ9世が列聖されてほどなくの14世紀に建てられましたが、現在の教会は1518年に創建。1589年、ドメニコ・フォンターナにより完成しました。ファサードの設計はお馴染みジャコモ・デッラ・ポルタです。 -
金メッキのスタッコが目に眩しい身廊です。アーチのスタッコは、フルール・ド・リスfleur de lisと呼ばれるアヤメ模様が主流。この模様はフランス王家と関係が深いのだそうです。
柱には様々な色や模様の入った大理石がふんだんに使われています。祭壇に向かって左側にある木製の説教壇は16世紀の中頃の作品で、とても美しいものでした。 -
天井も眩いばかりです。ここにも、楕円形のスタッコの中にフルール・ド・リスの装飾が見られます。フランスっぽい雰囲気。
中央のフレスコは、「聖ルイの神格化」。1756年シャルル・ジョゼフ・ナトワールによって描かれました。彼の作品は、ヴェルサイユ宮殿で沢山見ることが出来ます。 -
右側の礼拝堂から参りましょう。
最初の礼拝堂はパリのディオニュシウスに捧げられていました。3世紀にパリで司教をしていた人で、250年頃殉教したそうです。一般的にはサン・ドニと呼ばれていて、パリ郊外にあるフランス歴代の君主が眠るサン・ドニ大聖堂は彼に捧げられています。
祭壇画は、「盲人を癒すサン・ドニ」。ルノー・ルヴュによる作品です。ここには通常礼拝堂にみられる左右の柱がついたエディクラがないので、妙にスッキリと見える祭壇でした。 -
2番目は聖チェチリアの礼拝堂です。こちらにはよくみかけるエディクラがありました。この礼拝堂にも、様々な色の大理石が使われていました。祭壇画はグイド・レーニによる「聖チェチリアのエクシタシー(法悦)」。
オリジナルはラファエロにより1516年〜1517年頃に描かれたものです。左から聖パオロ。福音記者聖ヨハネ、聖チェチリア、聖アウグスティヌス、マグダラのマリア。ボローニャにある教会のために描かれたもので、現在オリジナルはボローニャ国立絵画館にあります。
グイド・レーニがなぜこれを描いたのかについては不明。こちらは1614年の作品。音楽の聖人らしく、楽器を携えていますね。福音記者聖ヨハネの横顔、美しすぎます! -
左右の壁、そして天井には、ドメニキーノによる「聖チェチリアの生涯」からのフレスコ画で飾られています。1613年〜1614年にかけての制作で、祭壇向かって左側には、「サウナで窒息死させようとした企みから回復した聖人」。
ローマの初日にサンタ・チェチリア聖堂に行きましたが、殉教する前にこんな話があったとは知りませんでした。彼女は自宅のサウナのある部屋に3日間閉じ込められましたが、仮死状態から生還。続いて斬首されましたが、なおも3日の間生き続けたそうです。チェチリアについては、過去の旅行記を参照くださいね。
http://4travel.jp/travelogue/11027144 -
祭壇向かって右側のフレスコは、貧しい人々に自身の衣服を配るチェチリアです。
上で衣服を手渡している女性がチェチリアかしら? 画面下中央に座っている女性も気になる存在なのですが・・・ -
ヴォールトの中央には「聖チェチリアの神格化」。左側には、ローマの神の偶像への生贄を拒絶するチェチリア、いわば一種の「踏み絵」のようなものでしょうね。そして右側には、夫ヴァレリアーノと共に天使による戴冠を受けるチェチリアが描かれていました。
ドメニキーノはボローニャ出身でカラッチの弟子と言われています。今回のたびですっかりファンになってしまいました。サンタ・マリア・イン・トラステヴェレ聖堂で見た「聖母被昇天」がきっかけでしたよ。
http://4travel.jp/travelogue/11028029 -
右側4番目の聖レミギウスの礼拝堂にやってきました。レミギウスはシャンパンで有名なランスのノートルダム大聖堂の司教だった方で、フランク王国の王クロヴィス1世をカトリックに改宗させた人でもあります。ランスのノートルダム大聖堂は、歴代フランス国王の戴冠式が行われた場所として知られています。
ジャコピーノ・デル・コンテによる祭壇画は、王が聖人の前で改宗した場面が描かれています。王の前には、破壊された偶像が転がっていて、王が右手を掲げてキリストの磔像を力強く示しているのがとても印象的。 -
祭壇の右側には、クロヴィス1世がゲルマン人部族(アラマンニ人)を破った496年のトルビアックの戦いの様子が描かれています。中央の赤い十字の旗の下にいるのがクロヴィス1世。この戦い以後、アラマンニ人の間にも急速にカトリックへの改宗が進んだそうです。
絵の作者ははっきりとは分かっていませんが、おそらく16世紀中頃のものと言われています。同様の戦いのシーンは天井のヴォールトにも描かれていました。 -
聖域は、白地に金色のスタッコというエレガントな装飾でまとめられていました。黄色っぽい大理石の柱の柱頭と祭壇画の額縁も黄金色に輝いています。ペディメントの上には、白いスタッコで作られた天使達の住む栄光の世界。手前の白い網は何を示すのでしょうか?
祭壇画は、フランチェスコ・バッサーノ(祖父と孫が同名でこちらは孫の方)による「聖母被昇天」です。バッサーノはルネッサンス時代(16世紀)の画家で、ヴェネツィアのドゥカーレ宮殿には彼の作品が多く残されています。1585年の作品。 -
お待たせしました!
左側5番目が、この教会で一番有名な福音記者聖マタイの礼拝堂(コンタレッリ礼拝堂とも言う)です。1585年に亡くなったフランスの枢機卿マテュー・コンテレーの莫大な遺産により作られたのだそうです。彼の名字Cointerelのイタリア語読みがコンタレッリです。
1599年に礼拝堂の装飾の仕上げのため、カラヴァッジョは聖マタイの生涯から3枚の絵を描くよう依頼されました。そしてこちらがその3枚のうちの1枚 祭壇画の「聖マタイの霊感」です。「聖マタイと天使」と呼ぶこともあるみたいですよ。 -
実はこれはカラヴァッジョによる2作目の聖マタイ。最初の作品は敬虔さに欠けるとの理由で突っ返されたそうです。理由がおかしいんですよ。聖人の足が野卑である。天使が馴れ馴れしく近すぎる距離にいる云々・・・。
前にもこんな話ありましたよね。サンタ・マリア・デル・ポポロ教会のチェラーシ礼拝堂にあった絵でも、カラヴァッジョは描き直しをさせられていました。
で、描き直しした方はと言うと、聖人は少しばかり威厳が増し、天使は節度ある距離を保っているように思えますね。最初の作品は、空襲で惜しくも焼失したとのことです。 -
「聖マタイの霊感」に続いて、こちらは「聖マタイの召命」です。右から2番目に描かれているのがキリスト。キリストがマタイを召命する瞬間と言われています。中央の髭の男性がマタイであるというのが通説でしたが、左端でお金を数えている(ここは税を取り立てる役所の中です)若い男性がそうだと言う説が有力だそうです。髭の男性も「こいつ?」とでも言いたげな風に彼を指さしているので、こちらが当たっているかもしれません。
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それにしても、座っている連中の着ているものがカラヴァッジョの年代の服装で、キリストが身につけているローブとは全く時代が異なるところも面白いですね。
一人ひとりの手の動きが推理小説のように、様々なことを語っています。見れば見るほど、ぐいぐいと画面に惹きつけられていく気がします。光の当たり方がにくい! 左を向いているキリストの顔は殆ど判別できませんね。 -
そして連作の最後は、エチオピアを伝道中に刺客に見舞われた「聖マタイの殉教」です。こちらの絵は「動き」に満ちています。ここでも目立つのは中央の大きく広げられた手ですね。
カラヴァッジョはこの絵でも多くの論争を引き起こしました。マタイの手をつかんでいる半裸の男性は刺客ではなく、ショックを受けている洗礼志願者で、洗礼のために半裸になっている とか、画面後方に見える髭の男が真の暗殺者であり、これはカラヴァッジョの自画像だとか、サスペンスに満ちた憶測が山ほど。カラヴァッジョの人気が高い証拠でもあります。 -
人を殺め、ローマから逃げだし、各地で乱闘騒ぎを起こし、ローマに戻る途中に熱病にかかって亡くなったカラヴァッジョの人生を思い起こしながら、ハラハラドキドキ胸が早鐘を打つのを感じました。
トリックが一杯のカラヴァッジョは、何度食べてもおいしい。何度見直しても新たな発見がある。この上ない贅沢気分をたっぷりと味わうことができたコンタレッリ礼拝堂でした。 -
主祭壇左側4番目の聖母の礼拝堂です。
祭壇画は、チャールス・メリンによる「キリスト降誕」。写真にはありませんが、彼はヴォールトのフレスコ画も手掛けています。
祭壇左右のフレスコ画は、共にジョヴァンニ・バリオーネの作品。「マリアの訪問」と書かれていましたが、「東方三博士の礼拝」のように見えるなあ・・・エキゾチックな雰囲気の漂う人物が一人、二人、三人・・・東方三博士の礼拝は、中東地域の風俗が描かれていることが多く、今更ですが、キリストが生まれた土地がヨーロッパではないことを思い知らされます。 -
主祭壇左3番目の礼拝堂は、フランス王聖ルイ9世に捧げられています。ルイ9世は1226年に12歳で即位。1275年に亡くなるまで、フランスを繁栄に導きました。彼はキリスト教に基づいた倫理観の持ち主で、神への冒とく、ギャンブル、有利子ローンや売春等を禁止し、パリ中心部、シテ島にサント・シャペルを築き、そこに購入した聖遺物のコレクションを納めました。
教会一豪華なこの礼拝堂を作ったのは、ベルニーニの弟子で女性建築家のプラウティッラ・ブリッチ。彼女はこの祭壇画も描いています。1680年。
祭壇の左側のフレスコ画は、ニコラス・ピンソンによる「フランス王アンリ2世とその妃カトリーヌ・ド・メディチが教会建設のプランをルイ9世に見せている場面」。アンリ2世とカトリーヌ・ド・メディチは16世紀中頃に、この教会を建てるために多くの寄進をしています。 -
祭壇の右側のフレスコ画は、茨の冠を見る聖ルイ9世。ルドヴィコ・ジニャーニの作品です。彼が購入した聖遺物の一つで、サント・シャペル建設のきっかけとなりました。
高潔で敬虔な名君という評価は常に一致しており、フランス国王で列聖されたのは彼のみであるためか、彼の名前にちなんで名づけられた場所が数多く存在します。一番有名なのは、前の旅行記でも書きましたが、アメリカのセント・ルイスでしょうか。 -
続いての礼拝堂は、バーリの聖ニコラウスに捧げられていました。少々わかりづらいですが、祭壇画は、「殺され、塩水付けにされた三人の男の子をよみがえらせている聖ニコラウス」。
左下に男の子たちの姿が見えます。彼に関わる伝説の一つに、幼い子供を食用とするため、塩水でピクルス漬けにした宿屋の主人の話がありますが、それから取った場面だと思われます。なんとも物騒な内容ですねえ。しかし、このお話から、ニコラウスは子供の守護聖人と言われるようになったのです。
祭壇画の左右のフレスコは、左側がアレキサンドリアの聖カタリナ。右側は誰なのか分かっていません。
祭壇に向かって左右の壁のフレスコ画は、聖ニコラウスの誕生と死が描かれていて、こちらは「誕生」です。彼はローマ帝国リュキア属州、現在のトルコのアンタルヤ付近の生まれです。 -
そして、こちらが聖ニコラウスの死。生まれ故郷のトルコから、南イタリアへと彼の遺体を運び出したのはバーリの船乗りたちで、トルコがセルジューク朝に占領された1087年のこと。それ以来、聖ニコラウスは、バーリの聖ニコラ大聖堂で静かに眠っています。
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最後の礼拝堂は、聖セバスティアーノに捧げられています。こちらの礼拝堂のエディクラを支える大理石は大変見事。墨流しのような紋様が特徴のチポリーノ・マーブル、別名玉ねぎ大理石と呼ばれています。ギリシャや古代ローマの建築において珍重された石です。祭壇の装飾も素敵。左右の模様が「森」と読めちゃいました。
祭壇画はフランス人画家ヌーマ・ボウコアランの1850年の作品です。 -
いつもながら、超ムキムキの肉体美を見せつけていますね。
美術館のようなサン・ルイージ・デイ・フランチェージを駆け足で一周しました。どの礼拝堂も素晴らしく、観光客が多いのもうなづけます。思い出すのはやはりカラヴァッジョ。ああ、今でも胸が高まるのを覚えます。 -
さあてと 今度こそナヴォナ広場に行きつくかなあ〜 コルソ・デル・リナシメントと言う広い通りから広場に入る道はたった2本しかありません。
遠くに見えるのは、サン・タンドリア・デッラ・ヴァッレ。あそこまで行かない内に曲がり角があるはずなんだけれど・・・ -
やりましたぁ!
ありましたよ。曲がり角。
目の前に、今回のたびで12本目の古代ローマのオベリスクが姿を現しました。その背後には、サンタニェーゼ・イン・アゴーネ教会。な〜んだ。こんなに近かったのか・・・ -
ナヴォナ広場は 古代ローマで、紀元86年に作られた陸上競技場ドミティアヌス競技場のトラック跡に作られた広場です。Uの字の形をしていて、長い方の辺は200m以上ありそうです。幅が狭いので、とても細長い気がします。
ご覧のように、広場の真ん中の部分には大勢の画家達のギャラリーとなっていました。 -
ローマの13古代オベリスクの12本目は、オベリスコ・アゴナーレです。4大河の噴水の一部になっていて、高さは単独で16.53m。台座と噴水、頂の装飾を合わせると30mあります。
こちらは完全なるローマンメード。ローマ帝国の第11代皇帝で、この競技場を建設したドミティアヌスの命により作られ、イシスとセルピスを祀った神殿前に立てられました。
その後4つに割れてしまったようです。イングランドのアランデル伯爵がそれを購入し、ロンドンに運び出そうとしたのを教皇ウルバヌス8世が1630年代に差し止めたという記録が残っています。 -
1651年に教皇インノケンティウス10世がベルニーニにオベリスクを立てるに相応しい新たな噴水の設計を依頼。それ以来、オベリスクはナヴォナ広場の真中に立つことになりました。頂には、インノケンティウス10世の紋章、オリーヴを銜えた鳩が羽ばたいています。
エジプトメードを見てしまった者としては、やはりローマ製のヒエログリフはいただけません。彫りのシャープさが全くありませんし、所々ぼやけてしまっている部分も見受けられます。石自体の質の問題もあるかもしれませんが、改めてエジプトの技術水準の高さを思い知らされました。 -
ベルニーニ設計の4大河の噴水には、大河を象徴する像が四体、オベリスクを取り囲んでいます。こちらは、アルゼンチンとウルグアイの間を流れるラ・プラタ川の神で、何かに驚いている様子。「教会が崩れてくる〜」と手で押さえるポーズを取っているんだというもっぱらの噂ですよ。
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その教会とは、ボッロミニがメインで作ったこちらのサンタニェーゼ・イン・アゴーネ教会(陸上競技場の聖アグネス教会)。ベルニーニとボッロミニが仲が悪かったという話はよく聞きますが、後の時代の人が、面白おかしく話を膨らませたのではないのかなあ。
噴水の制作にしても、ベルニーニはコンペで勝ちとったという記録が残っているので、まさか私怨でここまではしないでしょ。 -
後姿になってしまったこちらの像はドナウ川の神。この方も何かに驚いているような大きな手のしぐさが特徴的です。唯一のヨーロッパの大河です。
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このタイプの男性には何度か前にお会いいたしました。ここでは、ガンジス川の神だそうです。長いオールは川の航行可能性を表しているとか。よーく見ると蛇がいますね。
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そして、お終いはナイル川の神。目隠しをしているのは、誰もナイルの源流を知らない、見えないということからなんだとか。
ベルニーニの世界は常に劇場です。この噴水も、4つの芝居が上演中。好きな場所に陣取って、ドラマの進行を見守ることが出来る素敵な空間でした。 -
さて、このサンタニェーゼ・イン・アゴーラ教会。事前に調べることは全くしなかった教会ですが、折角なので(いつものことです。はい。)ちょっと寄って行きましょうね。
教会は17世紀の創建ですが、ここは元々ドミティアヌス競技場があった場所。教会のクリプトには、その名残りがあるそうです。10000人以上収容できる観客席があった部分ですね。競技場は何とか中世を生き延び、中央市場がここに移転してくる1477年までは、スポーツの各種試合会場として利用され続けました。
教会が捧げられている聖アグネスは304年に殉教した後、現在サンタネェーゼ・フォーリ・レ・ムーラ(城外の聖アグネス)教会が建っているカタコンブに埋葬されました。彼女に関しては、伝説以上の信頼できる手がかりは何一つ残されていません。
最初に祈祷所が建てられたのが8世紀の終わりとされています。再建は1652年に始まり、最初はジローラモとカルロのライナルディ親子が設計を担当しましたが、教皇インノケンティウス10世は彼らの図面が気にいらず、ボッロミニにその設計を委ねたのです。
しかし1655年に教皇が亡くなると事態は急変します。新しい教皇アレキサンデル7世はもはやボッロミニの友人ではなく、彼を追い落としにかかったのです。ボッロミニは解任される前に自ら辞め、カルロ・ライナルディが返り咲きを果たします。悲しいかな ボッロミニの想像力に富んだデザインはこの時点で反故にされるのです。
そして、最終的に教会を完成させた人は、なんとまたこの人でした。ジャン・ロレンッツォ・ベルニーニ。彼はファサードはボッロミニの設計を採用しましたが、周りに高い装飾壁がついたペディメントを追加したのです。
4人の有名な建築家がその建設に関わったサンタネェーゼ・イン・アゴーネ教会は1672年に完成しました。ボッロミニの教会と言われていますが、事実とは異なりますね。 -
教会の入り口には、ローマの教会としては珍しく、額入りのドームの写真と入場可能な時間を知らせるプレートがありました。
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内部は最初の設計者ライナルディのプランを採用して、ギリシャ十字の形になっています。8本の赤い大理石でできた巨大な柱を追加したのはボッロミニです。今まで見た教会と大きく異なるところは、祭壇画がなく、大きな浅レリーフのパネルが置かれていること。
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主祭壇のパネル「聖家族と洗礼者聖ヨハネとその両親」はドメニコ・グイディによる1683年の作品。聖ヨハネは、キリストの前に跪いている少年で、彼の両親ゼカリヤとエリザベスは彼の右側にいます。
3日目に行ったサンタ・マリア・デッラ・ヴィットリア教会のベルニーニ作「聖テレサの法悦」の真向いに彼の作品「聖ヨセフの夢」があったのを思い出しました。
http://4travel.jp/travelogue/11044288
パネルの上のペディメントには天使のペアが座っていて、中央には3人のプッティが巻紙を支えています。巻紙には「どんな女性も、洗礼者ヨハネ以上の息子を持っていません」と書かれているそうです。
というわけで、主祭壇は、聖アグネスではなく、洗礼者聖ヨハネに捧げられています。どうして〜??? この辺りが全く理解不能な部分です・・・ -
ドームのフレスコは、ローマの教会にはいくつかある、いわゆる天空の世界を表現しています。聖アグネスが神格化し、天の栄光の世界に迎えられている場面です。相変わらず、天国と言うところは人口過密地帯ですね。
フレスコ画を描いたのは、チロ・フェッリですが、1689年に彼が亡くなったため、完成させたのは彼の弟子の一人です。 -
フレスコ画が極端に少ないこの教会で、初めて見たフレスコがドームの下の部分の4つの美徳の寓話画でした。ベルニーニに面倒をみてもらったジョヴァンニ・バッティスタ・ガウッリの作品です。
キリスト教の美徳は、正義、節制、剛勇(不屈の精神)、思慮分別、信仰、希望、慈愛の7つと聞いていましたが、ここに登場しているのは、左側が思慮分別と信仰、右側が正義と平和だそうです。これを枢機卿の美徳と呼ぶんですって。
どうやって彼女達を見分けるのか、どなたかご存知でしたら教えてください。 -
サイドチャペルに参りましょう。
まずは、ギリシャ十字の右手の部分にある聖アグネスの礼拝堂です。祭壇がコッタネッロ産の赤い大理石を使った石棺型で、非常にユニークです。こちらはライナルディの作。ここにもオリーヴを銜えたハトみっけ!
祭壇の上には、炎に包まれる聖アグネスの像が置かれています。エルコーレ・フェラッタ作。彼は著名な彫刻家アレッサンドロ・アルガルディの弟子でしたが、アルガルディの死後はベルニーニの影響を強く受けたと言われています。燃え盛る炎の中に凛として立つアグネスの姿には、ベルニーニ流の感情に訴える表現が見事に表れていると思います。 -
聖アグネスの礼拝堂の先、「頭の聖体の礼拝堂」cappella della sacra testaと書かれた方向に進むと、ある小さな部屋です。これは、聖アグネスの神格化のフレスコでしょうか?
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聖アグネスの頭蓋骨が聖遺物として納められている祠がありました。頭蓋骨の所有権はローマ教皇に帰属するのだそうですが、詳しい説明がないので、当方にとっては意味不明。
中央の黄金色の社の下の方に、頭蓋骨があるのわかりますか? -
壁には珍しいトンドのフレスコ画が飾られていました。
福音記者4人のフレスコ画のようです。左から、マタイ − 天使、マルコ − 獅子・・・ -
ルカ − 雄牛、ヨハネ − 鷲の順に並んでいました。彼らを表すシンボルが一緒にいるので、わかりやすいです。
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聖アグネスの真向い、ギリシャ十字の左手にあったのは聖セバスティアーノの礼拝堂です。聖アグネスと同じ石棺の形の祭壇ですね。装飾もほぼ同じ。セバスティアーノの像はネオ・クラシック様式が取り入れられていて、1719年にピエトロ・パオロ・カンピにより制作されました。
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いつものことながら、また何枚も撮ってしまいましたよ・・・
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ドームを支える窓間壁にある4つの小さな礼拝堂の一つが、こちら聖チェチリアの礼拝堂です。ここにある礼拝堂のパネルはいずれもカーヴを描いています。
祭壇のパネルは、教皇ウルバヌス1世(在位 222年〜230年)が訪問中の、チェチリアの死に行く姿を表現しています。アントニオ・ラッギの作品です。 -
窓間壁2つ目の礼拝堂は、聖アグネスの娘の乳母であった聖エメレンティアーナという初期の殉教者の礼拝堂です。アグネスが埋葬された後、彼女は毎日墓で祈りを捧げていましたが、ある日、異教徒らによって石を投げつけられ亡くなりました。祭壇には、その時の場面が再現されています。
こちらもエルコーレ・フェラッタの作品ですが、完成前に彼は亡くなっているので、仕上げたのはレオナルド・レッティです。どちらかと言えば、こちらはアルガルディ風かなあ・・・ -
窓間壁3つ目は、聖アレッシオに捧げられています。ローマ初日、アヴェンティーノの丘にある、アレッシオに捧げる教会を訪れました。そこではこんな話を書きましたよ。
4世紀ローマの貴族の一人息子アレッシオは若い時から神への奉仕に身を奉げてきたが、両親が彼のために花嫁を選んだ翌朝、全ての装飾品を彼女に与え、旅に出る。メソポタミアを巡礼して回り、弱者、病人の世話をし、自らも貧困と謙虚の中で神に仕える日々を過ごす。長い年月の後、彼は再びローマの自宅に戻るが、家族でさえも彼のことがわからず、召使は階段下に彼を追いやる。父親がその夜、夢の中のお告げで男が誰だかを知り、駆け寄ったが、時すでに遅く、アレッシオはすでに疲労と飢えにより息絶えていた。
祭壇のパネルはまさに、この最後の瞬間を描いています。教皇インノケンティウス1世(在位 401年〜417年)は、聖人が持ち歩いていた彼の出征を証明する書類を両親に見せているところです。
残念ながら、肝心のアレッシオが顔だけしか見えません。トホホ・・・ -
窓間壁にある最後の礼拝堂は、猟師の守護聖人である聖エウスタキウスに捧げられていました。
伝説の人エウスタキウスは、ある日森の中でヴィジョンを得て改宗。富を失い、妻を誘拐され、息子たちをライオンとオオカミの餌食にされても、彼は信仰を捨てなかったとされています。最後はハドリアヌス帝により、家族とともに、雄牛の群れの中に閉じこめられ、火あぶりの刑に処されたそうです。
祭壇のパネルは、円形劇場のライオンの群れの中に投げ込まれた彼と家族の姿ですね。雄牛の群れじゃあなかったのかな? 作品はメルキオーレ・カファにより始められて、最後はフェラッタとロッシが協同して仕上げました。 -
思ったより、彫刻類が充実していたサンタニェーゼ・イン・アゴーネ教会でした。地下にあった聖アグネスのクリプトに気が付かずに外に出てきてしまいました。ドミティアヌス競技場の遺跡と聖アグネスのカタコンブがあったらしいのですが、事前調査をしていないので、ま、仕方ないですね。
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ナヴォナ広場にもう二つある噴水を見ていきましょう。
こちらは、広場の南端にあるムーア人の噴水です。ローマの噴水は、水道施設に作られることが多く、以前見たサンタ・マリア・デッラ・ヴィットーリア教会そばの「モーゼの噴水」は、アクア・フェリーチェ(フェリックス水道)の終着点でした。こちらの「ムーア人の噴水」は、再整備されたアクア・ヴィルゴ(おとめ座水道)の分岐点にあります。1574年、教皇グレゴリウス13世の命により、ジャコモ・デッラ・ポルタが制作しました。広場のもう一方の端にある、「ネプチューンの噴水」も同時期に同じプロジェクトの一環として作られました。 -
先行して1651年に開始された広場中央の「4大河の噴水」に似たデザインになった最初の作品は教皇に気にいられず、作り直しとなった第二作がこちら。中央でイルカの尻尾をつかんでいる男性と、口から水を吐きだしている人魚?のような像を制作したのはジョヴァンニ・アントニオ・マリです。
ムーア人とは、モロッコやアルジェリアなどに住むベルベル人を指す言葉でしたが、次第にイスラム教徒を指す言葉になっていったと言われています。 -
おちゃんこしている姿がとてもユーモラスで、独創的。下半身は鱗でおおわれています。半魚人? 人魚?
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両手に持っているのは何でしょうか?貝殻かな?
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両脇のイルカは、やはり可愛くありません。一体どうしてこんなに醜く作れるのかなあ・・・
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今度は広場を突っ切って、反対側(北側)へと移動します。
おお〜なかなか良い眺めじゃあないですかぁ・・・ -
ナヴォナ広場北端にある、こちらの噴水は「ネプチューンの噴水」です。水盤を作ったのは、「ムーア人の噴水」と同じく、ジャコモ・デッラ・ポルタですが、実は、この噴水には300年の間彫像はありませんでした。資金不足がその理由と言われています。
公開入札が行われて、二人の彫刻家による彫像が完成したのはなんと1878年のことです。 -
中央の大変印象的なネプチューンが戦っている相手は、なんとタコです! こちらは、アントニオ・デッラ・ビッタの作品。タコの彫刻なんて初めて見ましたよ!
そして、神話をテーマとした「キューピッドとセイウチといるネレイス」を手掛けたのはグレゴリオ・ツァッパーラ。ネプチューン一人では寂しいと、他の二つの噴水とのバランスを考慮して、追加された彫像なんですって。 -
ネレイスと言うのは、ギリシャ神話に登場する海の女神たちのことで、その美貌で有名です。赤いサンゴの冠をつけ、金の縁取りのある白いシルクのローブを身にまとい、世にも美しい声で歌を歌ったのだそうです。
左側に馬発見! この馬は、どういう存在なのかしら? -
3つの噴水を見終わって、ナヴォナ広場に別れを告げます。かつての陸上競技場。走りがいのありそうな、細長〜い広場でした。
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広場の北端から外の世界に戻るには、こんな小さなゲートしかありません。これじゃあ、広場への入り口が分からなかったのも、無理もないと思いませんか? ってただの言い訳ですが・・・
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最後に、こちらはおまけです。ナヴォナ広場の北側ゲートから出てすぐのトール・サングイニャ通りにあった、かつてのドミティアヌスの競技場の遺跡です。建物の中に、すっぽりと納まっていました。
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2000年近く前の地面は、かなり今より低いですね。グラディエーターの衣装等も展示している博物館になっていました。サンタニェーゼ教会で遺跡を見逃したので、ここで見れて良かった!
長くなりましたので、この続きは、イタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その33 ローマ サンタゴスティーノ〜ジェズで!
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