2015/05/12 - 2015/05/12
1383位(同エリア6975件中)
junemayさん
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2014年6月から7月にかけて、イタリア、フランス、スペインを勝手気ままに歩いた一人たびの心地よさが忘れられず、年が明けるや否や新しいプランを作成。今年は昨年最も強く心を惹かれてしまったイタリアに集中することにしました。6月のトスカーナは連日35度を超す猛暑だったので、今年は1か月前倒し。
まずは行きたいところをピックアップして、たびの拠点となる都市を選定。宿泊施設を押さえてから、詳細を詰めていくというのが私のスタイルなのですが、例によってこれも見たい、あそこも行きたい・・・とかく欲張りな私のこと、1か月じゃあ全く時間が足りないことがすぐに判明しました。とはいえ、時間とお金は限りあるもの。優先順位を決めて、何とかやりくりをして決めたのが下記のプランです。
イタリアには過去3度行ったことがあります。
最初のたびは、大学生の頃、スイスのチューリッヒから日帰りで行ったミラノ。最後の晩餐だけ見に行ったような、慌ただしいたびでした。
2回目は2001年、シシリアとアルベルベッロ、カプリ島、ローマを2週間かけて回りました。
3回目が2014年、ベネチアとトスカーナ州、リグーリア州が中心の2週間。
今回は、過去に行ったことのない場所をメインとした旅程となりました。たびを重ねるうちに、自分が最も興味を惹かれるものは、古い建物、神社仏閣教会等、そして彫刻、絵などの美術品 全て人が作り出したものだということがわかってきました。中でも、ここ2、3年、以前はあまり興味が沸かなかった教会に強く惹かれる自分がいます。基本的には無宗教なのですが、現在より人々の心が純粋で、神を敬う気持ちが強かった頃でなければ、創り上げられなかった文化の結晶とでもいうべき施設には畏敬の念を覚えます。というわけで、今回のたびの中心は教会を巡る街歩きとなってしまいました。
イタリア語は皆目見当がつかず、付け焼刃で2週間ほど本を見て勉強しましたが、やるとやらないでは大違い。後は度胸と愛嬌?で前進あるのみ。御陰様で、とても自己満足度の高いたびになりました。
2015/5/6 水 成田→モスクワ→ローマ
2015/5/7 木 ローマ
2015/5/8 金 ローマ→ティヴォリ→ローマ
2015/5/9 土 ローマ
2015/5/10 日 ローマ
2015/5/11 月 ローマ
2015/5/12 火 ローマ
2015/5/13 水 ローマ→ナポリ
2015/5/14 木 ナポリ→ソレント→アマルフィ→ラヴェッロ→アマルフィ→サレルノ→ナポリ
2015/5/15 金 ナポリ
2015/5/16 土 ナポリ→エルコラーノ→ナポリ→カゼルタ→ナポリ
2015/5/17 日 ナポリ→バーリ
2015/5/18 月 バーリ→マテーラ→バーリ
2015/5/19 火 バーリ→レッチェ→バーリ
2015/5/20 水 バーリ→オストゥーニ→チェリエ・メッサピカ→マルティーナフランカ→バーリ
2015/5/21 木 バーリ→アンコーナ→フォリーニョ
2015/5/22 金 フォリーニョ→スペッロ→アッシジ→フォリーニョ
2015/5/23 土 フォリーニョ→トレヴィ→スポレート→フォリーニョ
2015/5/24 日 フォリーニョ→ペルージャ→フォリーニョ
2015/5/25 月 フォリーニョ→コルトーナ→オルヴィエト
2015/5/26 火 オルヴィエト→チヴィタ ディ バーニョレージョ→オルヴィエト
2015/5/27 水 オルヴィエト→アレッツォ→オルヴィエト
2015/5/28 木 オルヴィエト→フィレンツェ→ボローニャ
2015/5/29 金 ボローニャ→ラヴェンナ→ボローニャ
2015/5/30 土 ボローニャ→モデナ→ボローニャ→フェラーラ→ボローニャ
2015/5/31 日 ボローニャ
2015/6/1 月 ボローニャ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/2 火 ヴィチェンツァ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/3 水 ヴィチェンツァ→ヴェローナ→ヴィチェンツァ
2015/6/4 木 ヴィチェンツァ
2015/6/5 金 ヴィチェンツァ→ミラノ
2015/6/6 土 ミラノ
2015/6/7 日 ミラノ
2015/6/8 月 ミラノ→モスクワ→
2015/6/9 火 →成田
いよいよローマ最終日。すでにわが人生でこれほど一度に教会を訪れたことはないのですが、まだまだ行きたいところが沢山あります。最終日は昨日の続きなので、モンチトーリト宮殿そばからスタートです。さあ、今日も気張りまっせ!
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
ローマ6日目の最初に選んだのは、こちらサン・ロレンツォ・イン・ルチナ。ちょっと分かり難い場所にありましたが、コルソ通りから一歩入っただけなのに、観光客の数は少なく、いかにも庶民の町といった雰囲気の同名の通りに面しています。
いかにもローマの古い教会と言う佇まいの、このファサードに惚れたのですが、果たして中はどうなっているでしょうか? -
ロマネスク様式の鐘楼が「おいで!おいで!」と手招きをしていますよ。
3世紀の殉教者、ロレンツォ(日本語では、ローマのラウレンティウス)に捧げられた教会です。ロレンツォは、鉄板で焼かれて殉教したので、彼を描くときには、その鉄板を手にしていることが多い聖人です!
彼については、昨年の旅行記でも書いたので、よろしければご参照ください。
http://4travel.jp/travelogue/10942843
この教会は、「伝説によれば」、教皇ダマスス1世が366年に建てたということになっていますが、再建、修復を何度も繰り返しています。
道路に面している拝廊=ナルテックスは12世紀再建前からあり、6本の寄せ集めの柱で支えられています。エンタブラチュアの一番下の部分の大理石は大変古いものだそうですよ。 -
ナルテックスに入ってまいりました。ポーチとナルテックスの違いを認識していなかったのですが、本来、ナルテックスは教会の入り口に設けられた広場で、信者以外はこの先お断りだった場所なのだそうです。つまり、ポーチより閉鎖的な空間なのですね。
ナルテックスの左側の壁には、初期キリスト教時代のバシリカの古い柱がわざわざ見えるように壁の一部がくり貫かれていました。 -
こちらは、入り口に向かって右側の壁です。扉のそばには15世紀頃と思しき、司教の石棺、その横の壁には、コズマーティの残骸? が飾られていました。
入り口側の壁には、1825年と書かれたクレリア・セベリーニと言う女性のモニュメント・レリーフがありました。19歳で亡くなった彼女の足元にはペットの犬。左右の両親は、深い悲しみの中にいます。 -
中央の壁には、12世紀頃と思われる碑文がいくつか見られました。
至る所で見かけるD.O.MとはDeo Optimo Maximoの略 「最良にしてもっとも偉大な神に」と言う意味だそうです。 -
中央扉の脇を固めるのは、二頭のライオン像。これは中世を感じさせますねえ。こちらはお父さんかな? 足の間に子供がいます。いや、待てよ。これはライオンの子ではなくて、多分羊かヤギの子のようです。
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そして、右側のライオンを見てびっくり! ライオンが抱いているのは、どう見ても人間の子供じゃないですか? どういう意味なんだろう・・・ローマには、オオカミだけでなく、ライオンの育ての母もいたのかなあ・・・
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思った通り、内部はすっかりバロックに作り変えられていました。ちょっとがっかり・・・1650年の再建時に、身廊とサイド・チャペルとの間に壁が作られ、元々のバシリカ様式の面影は姿を消したようです。
コズマーティの床も1743年の修復で黒と白の幾何学模様に変身してしまっていました。むむむ・・・ -
左右の丸いトンドの中には、聖ロレンツォの生涯がフレスコで綴られていました。エンタブラチュアの上には、長方形の聖人画と窓が交互に並んでいます。
中央よりやや左寄りにある白いモニュメントは、フランスの画家、ニコラ・プサンの墓です。真っ白でとても目立っていますね。私はあまり馴染みがありませんが、ルーブルには彼の絵が沢山あるそうです。 -
主祭壇向かって左側で目に付いたのは、中ほどの説教壇。コジモ・ファンツアーゴによるもので、二色の石を使った装飾が大変見事です!二人の天使像がやはりバロックですねえ。
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主祭壇は、カルロ・ライナルディが1669年に完成させたものです。左右3本ずつの黒地に白い筋が入った大理石の柱がとても立派です。本当は、柱は左右4本ずつらしいのですが、裏側にあるので、ここからは見えませんね。
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中央の祭壇画は、グイド・レーニの1640年頃の作品。でも、あまりに痛ましくて、私はあまり見ていられませんでした。キリストの足元にある茶色いラグビーボールのようなものは一体なんでしょうか?
祭壇画のはるか上には、3人のプット達が支えるトンドの聖母子像がありました。17世紀の修復の際に見つかったもので、それ以来ここに飾られています。 -
それでは、駆け足のサイド:チャペル巡りに出発です。ここは鐘楼の1階部分に当たるところで、たくさんの記念碑や碑文が壁を覆っています。
中央の赤い服を着た肖像が見えるのは、枢機卿シルヴィオ・パッセリーニのモニュメント。1529年と書かれていました。
下の方では、プットの顔がついた聖水盤が目立っていますね。 -
右側4番目は、受胎告知の礼拝堂。卵型の祭壇画を黒い2人の天使が支えています。ポルトガル出身で、教皇インノケンティウス10世のお抱え医師だったガブリエル・フォンセカからの依頼で、こちらの礼拝堂を設計したのはベルニーニです。
受胎告知の祭壇画は、ルドヴィーコ・ジミニャーニによるもの。黒い縁取りと天使の像は同じ大理石で作られているようです。1664年。
個人的には、大天使と聖母の距離が狭すぎるような気がします。ダヴィンチやフラ・アンジェリコの絵を見慣れているせいでしょうか? -
祭壇画の右側の絵は、ルドヴィーコの父ジャンチント・ジミニャーニで、「エリコ(ジェリコ)で苦い泉に塩を注ぐ預言者エリシャ」。旧約聖書に収められている古代ユダヤの歴史書の1つ 列王記第2章に、飲むことが出来なかった泉に塩を注いだことで、飲める水になったという「奇跡」のことが書かれているそうです。1664年頃の作品。
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左側の絵はサルス・ポプリ・ロマーニ「ローマの人々の健康」というような意味のビザンチン様式のイコン(現在、サンタ・マリア・マッジョーレのパオリーナ礼拝堂にあります)を模倣した作品で、こちらは作者不明のようです。
サンタ・マリア・マッジョーレでは二度ともミサの最中で、見逃してしまったローマで一番古いと言われるイコン。思わぬ場所で、見ることが叶いました!
http://4travel.jp/travelogue/11031577 -
この礼拝堂には、赤い大理石で作られたフレームの中に、フォンセカ・ファミリーの3人の胸像が置かれています。向かって右は、ガブリエル・フォンセカ自身で、ベルニーニの作品。1668年。今にも動き出しそうな、生き生きとした表情が印象的ですね。
向かって左側は、フォンセカ家の一員で、ベルニーニの弟子の作品とされていますが、詳細は分かっていません。 -
祭壇に向かって右側です。赤い大理石のフレームの中は、同じくベルニーニの弟子の作品でフォンセカ・ファミリーの一員。左は、教皇ピウス9世(在位 1846年〜1878年)の内務大臣を務めたデ・ウィッテンと言う人がモデルだそうです。
これは1868年の作品ですが、作者の名前がありませんでした。 -
ヴォールトは、華やかな天使達の住む世界がスタッコで作られています。さあ、天使は一体何人いるでしょうか?
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右側の最後の礼拝堂の前です。ここにも色々なモニュメントが壁を覆い尽くしています。中央は、フェルディナンド・フーガ作の枢機卿アントニオ・ダヴィアのモニュメント。
フェルディナンド・フーガは、サンタ・マリア・マッジョーレ、サンタ・チェチーリア・イン・トラステヴェレ、ジェズ教会等のファサードを作った18世紀の著名な建築家です。 -
右の通路を行くと、聖具室と、地下エリアにつながります。
1993年に古い初期キリスト教時代のバシリカの遺跡が発見されました。壁の厚みが65cm、直径3.5mもある円筒形をしていて、その中から4世紀の碑文が見つかったことから、5世紀の建物であることが分かったそうです。
月末の土曜日夕方に見学ツアーが行われるという話を聞きましたよ。 -
右側の一番聖域に近い、小さな十字架の礼拝堂。とても暗い礼拝堂でした。中央の磔像は、17世紀の作品。
暗い写真で、見にくいのですが、左右の天使像が少々興味深いです。左の天使は、大天使ラファエル。ラファエルがユダヤ人の青年トビアスに魚を取るよう指示している場面だそうです。この話はトビト記という旧約聖書続編にでてくるのですが、トビアスはその魚から薬を作って、失明した父親トビトの目を直すのです。
右側は守護天使。守護天使は、人間一人ひとりについていて、右にいる守護天使は、個人を善に導き、左にいるのは悪に向かわせるのだそうです。右側にいるから、そばにいる子供を守っているのでしょうね。 -
ああ、こちらの写真の方が、トビアスと魚がはっきりと写っていますね。
グロテスク様式の装飾が目を惹きます。 -
右側の壁は傷みが激しいようです。壁に何度もフレスコを描いては塗り、描いては塗りしてきた経緯が窺えますね。
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聖域が始まる、主祭壇から数えて最初のアーチの両側には、ランプを掲げた大きな天使像が立っていました。こちらは右側の天使。
天使の左に見える金色をした焼き網に注目。
聖ロレンツォは、生きながら、あの鉄格子の上で焼かれて殉教したと言われています。 -
やたらめったらと飛び回っている天使を見ると、少々うんざりするのですが、こちらは華やかさはないけれど、見ていて安心できる天使像です。教会で座って眺めているだけで、心を穏やかにしてくれる存在です。
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こちらは、主祭壇に向かって左側の天使。
聖ロレンツォの焼き網は、左右に一つずつありました。 -
主祭壇左側の「マリアの穢れなき御心」に捧げる礼拝堂は、彼女に似つかわしい白い清楚な花々が沢山飾られていました。
説明書きが全く見当たらないところを見ると、芸術的な価値はあまりない礼拝堂のようですが、私は気に入りましたよ。19世紀中頃らしい、ネオ・バロックでまとめられた中央の祭壇と周りのフレスコ画すべてに統一感があって、癒される空間となっていました。 -
祭壇向かって左側の壁のモノクロームのフレスコ画も素敵!
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こちらは右側の壁です。
入口にある黒い錬鉄製の門扉もおしゃれでした。 -
「マリアの穢れなき御心」礼拝堂のすぐ前にあった枢機卿ガブリエレ・デッラ・ゲンガ・セルマッティの大層立派なモニュメント。この写真の中に合計なんと8人のプット達を見ることが出来ますよ。
背後のステンドグラス右側にも聖ロレンツォが焼かれた焼き網が描かれていますね。 -
アッシジのフランチェスコとフランシスコ会の修道女聖ギアチンダ・マレスコティに捧げられた礼拝堂。
色々な形の額縁を組み合わせて装飾が行われているところが面白いですね。祭壇画は、マルコ・ベネフィアルによる「ギアチンダの死」。その上には、小さな「気高き聖母」のスレート画が飾られています。 -
ナザレのヨセフ(キリストの養父)に捧げられた礼拝堂。彼は大工だったというところから、労働者の守護聖人とされています。
祭壇画は、アレッサンドロ・トゥルキによる「聖家族」。聖なる白いハトが発する光線が、聖家族を明るく照らし出しています。 -
続いて聖ジョヴァンニ・ネポムチェーネに捧げられた礼拝堂。彼は、チェコ人(当時はボヘミア)で、プラハの司教代理だった1393年、女王が彼に告白した内容を王ヴァーツラフ4世に漏らすのを拒否したかどで、拷問されたうえヴルタヴァ川に投げ込まれ、殉教したそうです。
祭壇の上の彼の銅像は、ガエターノ・アルトベッリの1732年の作品。 -
祭壇の上、光線の具合で、どこから撮ってもうまく写らない「大天使聖ミカエル」は、お馴染みグイド・レーニのもののコピーです。
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最後の礼拝堂は、前々回の旅行記サン・カルリーノ・アッレ・クアトロ・フォンターネで紹介したミラノ司教カルロ・ボッロメオに捧げられていました。
http://4travel.jp/travelogue/11051436
カルロ・ボッロメオと言えばペスト大流行の際に私財を投げ打って町の人々を援助したことで知られていますが、この祭壇画も、人々に施しを与えながら歩くボッロメオの姿が描かれています。画家はカルロ・サラチェーニ。 -
入口近くにあった洗礼堂は、とても変わった形をしていました。ジュゼッペ・サルディ設計の洗礼堂はドームの中央が正方形の形をしていたのです!
初めて見る形で、少々ごてごてのきらいのある装飾にもかかわらず、じっと見入ってしまいました。 -
祭壇画は洗礼堂にはよくある「キリストの洗礼」。ジュゼッペ・ニコラ・ナジーニの作品です。
その前に置かれているのが、古い大理石で作られている緑の洗礼盤。どこかの聖堂の模型が上に置かれていました。 -
駆け足のサイド・チャペル 一周してきました。ここは、出発点からみるとちょうど対面に当たる場所です。
ここにもプットの頭のついた聖水盤がありましたよ。これもペアになっていたんですね。 -
中はちょっぴりがっかりでしたが、ローマらしい教会に満足。この教会前の広場は朝から大賑わい。ジモティが集まる場所のようで、バールではオバサンよりもオジサン連中が井戸端会議の真っ最中。他にルイ・ヴィトンだとかローマで最高のカフェと言われているチャンピーニなどもこの教会の裏の広場にあって、町を歩いているだけでも楽しめるエリアでした。
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全くもって統一感のない、勝手気ままに建てた風のローマの町を歩きます。
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メインロードから一歩横丁に入ると、ここで生活している人々が緑を欲しているのがよくわかります。東京下町の路地裏と同じように、手作りの緑をとても大事にしているのが伝わってきますね。
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方向を間違えたみたいで、昨日行った、ボルゲーゼ広場に出てしまいました。ポスターや楽譜、古い印刷物を取り扱っているストールが並んでいる広場です。
広場の正面に、ど〜んと構えているのがパラッツオ・ボルゲーゼ。シエナ出身の富豪ボルゲーゼ家のローマにおける拠点です。宮殿は大きすぎて1枚の写真には収まりませんが、空から見ると台形のような複雑な形をしていることから、チェンバロと言う愛称で親しまれているそうです。
現在ボルゲーゼ美術館が所蔵するラファエロやティッツィアーノ等の作品はもとはと言えば、この屋敷にあったんですね。 -
元来た道を引き返し、モンテチトーリオ宮殿に向かって歩きます。昨日からこの辺りをウロウロしていますね。
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なんと驚くなかれ、この宮殿もベルニーニの設計でした。一体いくつの建物や彫像を作ったのでしょう?ローマの町中ベルニーニだらけですね。
枢機卿ルドヴィーコ・ルドヴィージが彼の住居用にとベルニーニに依頼したのが1650年のこと。 -
バロックの神髄を知り抜いていたこの建築家は、起伏のあるここの土地に適した、構造上も装飾面も申し分のない設計を行いました。
誤算と言えば、ルドヴィージの財政状態の悪化でしょう。工事は途中であえなく中断。インノケンティウス12世(在位 1691年〜1700年)が建物を今でいう「ローマ教皇庁」の司法機関とすべく工事を再開させたときには、すでに30年以上がたっていました。現在は、イタリア議会下院の建物となっています。
パルラメント広場に面したこちらの部分は、1919年にパレルモ出身の建築家エルネスト・バジーレにより拡張された部分で、中には円に近い多角形をした議事堂があります。 -
表玄関に回ろうとすると、こんなに細い道を辿ることになります。行き止まりじゃないと良いのだけれど・・・議事堂そばの通りがこんな細い道っていうのが面白い・・・
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途中で見つけたアンドレアあるいはルカ・デッラ・ロッビア風のスタッコのモニュメント。彩色陶板ではないけれど、雰囲気は十分伝わってきますね。
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ようやく正面入り口に到着。こちらが、ベルニーニ設計部分のモンテチトーリオ宮殿です。建物は、地形と高低差をものともせず、わずかに湾曲しながら左右に伸びていきます。右側の土地がかなりの急こう配で下っていっているのがよくわかりますね。
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ファアードを撮ろうとすると、こんな風に歪に撮れてしまうんですよ。建物の中がどうなっているのか、好奇心で一杯でした。入っていくには流石にちょっと敷居が高いなあ・・・
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そして、モンテチトーリオ広場に立っていたのは。今回の私のたびで9本目となるローマにある13本の古代オベリスクの一つ、モンテチトーリオのオベリスクです。
「ソラーレ」と言う名前でも知られているこのオベリスクは、エジプトのファラオプサムティク2世時代(紀元前595年〜589年)のもの。赤い花崗岩でできていて、高さ21.79m。台座と頂の球を入れると33.97mあります。 -
紀元前10年にアウグストゥスがエジプトのヘリオポリスから持ち帰り、彼の邸宅のサン・ルームで太陽の座標軸として使っていたのだそう。
子午線などもきちんと計算されていて、日時計としての役割は勿論、彼の誕生日の9月23日(秋分の日ですねえ)に、彼の邸宅そばにあったアラ・パキス(アウグストゥス廟のあったところ)にその影が落ちるよう、設定してあったそうです。芸が細かいですね。 -
正面から写真を撮ればまともなヒエログリフが見えたのですが、私のやることはこんな程度。モンテチトーリオ宮に向かって右側の側面は、かなり傷んでいて、修復の跡だらけでした。
しかし、残っている部分のヒエログリフ、実に鮮やかですね。
オベリスクは9世紀から11世紀の間に、多分地震等の影響で倒れ、崩壊し、次第に地面に埋もれていったようです。
後年地面から掘り出し、立て直し、何人もの教皇が日時計としての機能を復活させようと修復を試みました。かつてのローマの中心地カンプス・マルティウスのシンボルを復活させる試みは、建築家ジョヴァンニ・アンティノリに託され、彼が行った研究成果はヴァチカン美術館に今も保存されています。
1998年には、モンテチトーリオ広場のレイアウトを一新し、太陽の影を追跡できるよう広場の舗装を行ったのですが、結果的にはオベリスクの影は正しい方向を示していないそうです。人類は進歩したのか、後退したのか分かりませんね。 -
モンテチトーリオ広場には、こんな立て札も立っていましたよ。
モンテチトーリオ広場
この広場はローマそして全世界にとって大変貴重な芸術的財産です。
清潔で魅力的な広場とするために、力をお貸しください。
違反者は厳しく罰せられます。
ああ、でもビラなんぞがその上に貼られているし・・・ -
モンテチトーリオ広場からまたまた方向を間違えて、地図を確認するために、近くにあった教会にふらりと入ってしました。またかよ〜 いい加減にせえと言われそう・・・
サンタ・マリア・イン・アクイロ教会。教皇グレゴリウス3世(在位 731年〜741年)時代に修復が行われたという記録が残っているので、創建は8世紀初頭以前だと思われます。 -
見事に人っ子一人いない静かな空間です。独り占め! だ〜いすきです!
教会の説明書きによると、初期キリスト教時代のティトルスが教会の起源で5世紀とありました。1583年には旅人の宿泊所として、建築家フランチェスコ・ヴォルゲッラが再建を開始。ヴォルゲッラが亡くなった後はカルロ・マデルノが引き継いで完成させました。ファサードの完成には、それより160年以上かかったようです。
1845年、火事により内部は消失しています。そのため、内部のインテリアは全てそれ以降のものとなります。1856年には、ルカ・カリミーニにより大規模な修復が行われました。 -
身廊は狭いながらも3廊式。側廊には左右3つずつ礼拝堂があります。全体的に控えめな色調で、心を落ち着かせるのには、最適の場所と言えます。
天井中央の3つの八角形のパネルには、聖母のシンボルを携えた天使たちが、左右には4人の福音記者達がフレスコで描かれています。
暫くここに座って、休んでいきましょう。 -
主祭壇に向かって左側のアーチ。19世紀に修復作業がチェーザレ・マリアーニによって行われましたが、火事消失以前の教会のイメージを損なっていないそうです。フレスコ画は、ネオ・マニエリスム様式と書いてありましたが、どこがそうなのか、さっぱりわかりませんねえ。
柱に描かれているのは、4人の教会博士達。ここから見える柱にはアンブロジウス(これまでも何度か登場している4世紀のミラノ司教)、そしてグレゴリウス1世(こちらも何度か登場しています。7世紀のローマ教皇)。 -
そして右側の柱には、ヨハネス・クリュソストモス(4世紀の神学者)、カイサリアのバシレイオス(4世紀のギリシャ教父)。
教会博士達の上には、トンドの中に巻物を携えたプット達のフレスコ。更に上には、一見浅浮彫に見える、聖母の生涯からの場面がモノクロームのフレスコで描かれています。 -
狭い後陣のドームは六角形の窪みが特徴的な古いローマ時代の様式を取り入れていますね。壁面も古代ローマ調の多色大理石のパネルで覆われています。
主祭壇はルネッサンス様式で、後陣のカーヴに合わせて作られています。ピエトロ・カヴァッリーニの弟子たちの手による祭壇画「聖ステパノと聖母子」は14世紀の作品です。この教会で最も重要な祭壇画が光っていて、全く見えないって言うのはどういうこと?? -
予定していなかった教会で、素敵な絵画に出逢えるのは本当にラッキーなことです。聖セバスティアーノの礼拝堂では、こちらのセバスティアーノと対面しました。腰巻がやや不自然ですが、こんなポーズのセバスティアーノにお目にかかるのは初めて。筋肉物凄〜い! 背後の風景も素敵!
カラッチに影響を受けたとされ、ローマの画家の一人であることは確かなのですが、作者不詳。17世紀の作品です。 -
3番目の礼拝堂の「受胎告知」も構図が新鮮。舞い上がっている(あるいは舞い降りてくる途中?)天使からのお告げは初めてかも。1635年頃のフランチェスコ・ナッピの作品と考えられています。
祭壇画左右にある楕円形の肖像画は、この礼拝堂のパトロンであるオラツィオ・フェッラーリとその妻エルミニア・ソルビです。 -
礼拝堂全体のフレスコは、カルロ・サラチェーニ。彼はこれまでにもたびたび私めの旅行記に登場していますよ。彼につけられたあだ名が、「セカンドランクにおける第一流の画家」! 何て失礼なあだ名なんでしょうね。
祭壇向かって右側の大きなフレスコは、「マリアの誕生」。 -
そして左側は、「マリアの神殿でのお披露目」です。残念ながら、下半分に傷んでいる箇所がありますね。
嫌味のないバロックでまとめられた、美しい礼拝堂でした。 -
左翼廊の聖ジェローラモ・エミリアーニに捧げる礼拝堂です。
個人的には、この赤に白が混じるシシリア産碧玉の柱が大好きで、いつも見とれてしまいます。これは、ちょっと白い部分が多すぎるし、他の色が混じっているのが気になるけれど、十分見応えがありました。
祭壇画は、聖人が聖母子に孤児たちを紹介している場面。聖ジェローラモは16世紀に設立された「ソマスカニの父たち」と言う名の慈善宗教団体の創始者で、ペストの流行で孤児となった多くの子供たちに手を差し伸べました。 -
無原罪の御宿りの礼拝堂の祭壇画は、「ルルドの聖母」でした。この絵は1873年頃の作品で、「ルルドの聖母」としては最も古いことで知られています。ルルドの奇跡があったのは1858年のことです。比較的最近のことだったんですね。絵の中、手前で跪いているのが、ルルドの洞窟で聖母に話しかけられた14歳の女の子です。
所有権をめぐって争いの種になったことがあったそうですが、教皇レオ13世(在位 1878年〜1903年)がここに安置し、参拝については教区の奉仕団体の元に置くことを命じたとのことです。 -
圧巻はこちらのピエタの礼拝堂でした。
「えっ カラヴァッジョ?!」 と思わず言葉が出てしまいました。とても素晴らしい3枚の絵が目に飛び込んできたからです。カラヴァッジョ本人ではありませんでしたが、カラヴァッジョ派の中でもとびっきりの秀作が並べられていたのです。
祭壇画は、「キリストの埋葬」。作者はマエストロ・ジャコモとありました。1635年の作品です。 -
祭壇左側の絵のテーマは、キリストが茨の冠を被らされる場面。これなど、まさにカラヴァッジョの世界ですよね。
作者はオランダ人画家ヘラルト・ファン・ホントホルスト。彼はイタリアに4年間滞在して、カラヴァッジョに深く傾倒します。こちらも同じく1635年の作品です。 -
祭壇画と構図が似ている右側の絵は「キリストの鞭打ち」。教会の説明書きには作者はアントニーモ・カラヴァッゲスコと言うカラヴァッジョをもじったような名前になっていましたが、他で調べてみたら、フランス人画家トロフィーム・ビゴーの1634年作となっていました。結構いい加減。教会の説明書きも意外と当てにならないのです。
トロフィーム・ビゴーは別名「キャンドルライトのマスター」と呼ばれていて、わずかな光の中でうごめく人物描写には定評があります。 -
最後の礼拝堂は守護天使の礼拝堂。ルカ・カリミアーニによって1866年頃修復されています。
先ほどサン・ロレンツォ・イン・ルチナでみた守護天使も子供を背後から護っていたので、この構図が定番なのかもしれません。
ふらっと寄っただけなのに、大層満ち足りた気分になれたサンタ・マリア・イン・アクイロ教会でした。疲れも吹っ飛びましたよ。モンテチトーリオ広場から歩いて5分 コロンネッレ通りぞいにあります。 -
さあて、そぞろ歩きに戻りましょう。早速また引っかかりましたよ。
日本にも支店が出来た、木の壁時計やおもちゃが満載のお店バルトルッチ。いつもピノッキオが呼び込みをやっています。
店の奥には、途方もない数の壁時計がかかっていますよ。ローマの町の色にぴったりのお店ですね。 -
ようやく探し当てましたよ。こちらのピエトラ広場。地図を確認しようと教会に入ったのに、内部に気を取られて地図を見ないまま出て来たもので、またまたあっちへふらふら、こっちへふらふら。それまた楽し♪
ハドリアヌス帝の神殿は、145年、彼の後継者アントニウス・ピウス帝により建てられました。ハドリアヌス帝は138年に亡くなっていますので、亡き父を神格化して捧げた神殿といったところでしょうか?
蛇足ですが、ハドリアヌス帝は女性に興味を示さず、もっぱら少年を好む性向でしたので、このアントニウス・ピウスはお気づきでしょうが養子です。 -
15mもあるコリント式柱頭を持つ柱が11本残されています。土台部分の4mを合わせると19mの柱が伸びていることになります。これには圧倒されました。
しかし、元々は一辺の柱の数は13本あるいは15本だったと言われています。
17世紀後半、カルロ・マデルノはこの柱を組み込む形で、教皇の宮殿を建設しました。現在宮殿は更に修復されてボルサ・イタリアーナ銀行(証券取引を行う銀行?)が使用しています。
今まで、外観は古いけれど、中は最新式という建物は数限りなく見ましたが、このようなコラボは多分初めてです。違和感が全くないと言えば嘘になります。 -
ちょっと近づいて見てみましょう。
あっ ローマ名物のモデルさんたちがたむろしていますね。
柱の基盤部分が見えてきました。 -
ご覧の通り、古代ローマの地面は、今より相当低い位置にあったということがわかりますね。柱の基盤部分は、かつて大理石のレリーフで飾られていました。
そうそう、カピトリーニ美術館で見たレリーフはここにあったんですね。 -
こちらが、カピトリーニ美術館の中庭にあったレリーフです。レリーフは建物の外側だけでなく、内側にも使用されていたようです。
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ギリシャやローマの神殿には欠かせない建物のパーツであることが今ようやく理解できました。
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神殿はコの字型の列柱が立ち並ぶアーケードで囲まれていて、開かれた部分は現在のコルソ通りに面していたそうです。
しかしながら、う〜ん、まだ違和感ありますね。この近代的な窓は隣の古びた柱とはあまりマッチしてないように思えて仕方ありません。 -
長くなりましたので、ここで一旦終了です。最期の写真は今日も皆ののどを潤すナゾーネ君。いつ見ても今のローマにぴったりお似合いの、言うなればベスト・コラボの産物だと思っています。
この続きは、イタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その30 ローマ サンティ・ニャッツィオ・ディ・ロヨラ〜サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァで。
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