2015/05/12 - 2015/05/12
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junemayさん
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2014年6月から7月にかけて、イタリア、フランス、スペインを勝手気ままに歩いた一人たびの心地よさが忘れられず、年が明けるや否や新しいプランを作成。今年は昨年最も強く心を惹かれてしまったイタリアに集中することにしました。6月のトスカーナは連日35度を超す猛暑だったので、今年は1か月前倒し。
まずは行きたいところをピックアップして、たびの拠点となる都市を選定。宿泊施設を押さえてから、詳細を詰めていくというのが私のスタイルなのですが、例によってこれも見たい、あそこも行きたい・・・とかく欲張りな私のこと、1か月じゃあ全く時間が足りないことがすぐに判明しました。とはいえ、時間とお金は限りあるもの。優先順位を決めて、何とかやりくりをして決めたのが下記のプランです。
イタリアには過去3度行ったことがあります。
最初のたびは、大学生の頃、スイスのチューリッヒから日帰りで行ったミラノ。最後の晩餐だけ見に行ったような、慌ただしいたびでした。
2回目は2001年、シシリアとアルベルベッロ、カプリ島、ローマを2週間かけて回りました。
3回目が2014年、ベネチアとトスカーナ州、リグーリア州が中心の2週間。
今回は、過去に行ったことのない場所をメインとした旅程となりました。たびを重ねるうちに、自分が最も興味を惹かれるものは、古い建物、神社仏閣教会等、そして彫刻、絵などの美術品 全て人が作り出したものだということがわかってきました。中でも、ここ2、3年、以前はあまり興味が沸かなかった教会に強く惹かれる自分がいます。基本的には無宗教なのですが、現在より人々の心が純粋で、神を敬う気持ちが強かった頃でなければ、創り上げられなかった文化の結晶とでもいうべき施設には畏敬の念を覚えます。というわけで、今回のたびの中心は教会を巡る街歩きとなってしまいました。
イタリア語は皆目見当がつかず、付け焼刃で2週間ほど本を見て勉強しましたが、やるとやらないでは大違い。後は度胸と愛嬌?で前進あるのみ。御陰様で、とても自己満足度の高いたびになりました。
2015/5/6 水 成田→モスクワ→ローマ
2015/5/7 木 ローマ
2015/5/8 金 ローマ→ティヴォリ→ローマ
2015/5/9 土 ローマ
2015/5/10 日 ローマ
2015/5/11 月 ローマ
2015/5/12 火 ローマ
2015/5/13 水 ローマ→ナポリ
2015/5/14 木 ナポリ→ソレント→アマルフィ→ラヴェッロ→アマルフィ→サレルノ→ナポリ
2015/5/15 金 ナポリ
2015/5/16 土 ナポリ→エルコラーノ→ナポリ→カゼルタ→ナポリ
2015/5/17 日 ナポリ→バーリ
2015/5/18 月 バーリ→マテーラ→バーリ
2015/5/19 火 バーリ→レッチェ→バーリ
2015/5/20 水 バーリ→オストゥーニ→チェリエ・メッサピカ→マルティーナフランカ→バーリ
2015/5/21 木 バーリ→アンコーナ→フォリーニョ
2015/5/22 金 フォリーニョ→スペッロ→アッシジ→フォリーニョ
2015/5/23 土 フォリーニョ→トレヴィ→スポレート→フォリーニョ
2015/5/24 日 フォリーニョ→ペルージャ→フォリーニョ
2015/5/25 月 フォリーニョ→コルトーナ→オルヴィエト
2015/5/26 火 オルヴィエト→チヴィタ ディ バーニョレージョ→オルヴィエト
2015/5/27 水 オルヴィエト→アレッツォ→オルヴィエト
2015/5/28 木 オルヴィエト→フィレンツェ→ボローニャ
2015/5/29 金 ボローニャ→ラヴェンナ→ボローニャ
2015/5/30 土 ボローニャ→モデナ→ボローニャ→フェラーラ→ボローニャ
2015/5/31 日 ボローニャ
2015/6/1 月 ボローニャ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/2 火 ヴィチェンツァ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/3 水 ヴィチェンツァ→ヴェローナ→ヴィチェンツァ
2015/6/4 木 ヴィチェンツァ
2015/6/5 金 ヴィチェンツァ→ミラノ
2015/6/6 土 ミラノ
2015/6/7 日 ミラノ
2015/6/8 月 ミラノ→モスクワ→
2015/6/9 火 →成田
サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会を出るとすぐ、前の広場の斜め右方向にパンテオンが見えます。パンテオン初心者にとっては、一刻も早く、写真でお馴染みの雄姿を見たいと思っていたのですが、はやる気持ちを押さえて、あえて後ろ側に回ります。
まずは、パンテオンの後ろ側からじっくり観察!
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
表側からのパンテオンの美しい姿を先に見てしまうと、この後ろ側からの景色は見たくないと思うかもしれません。
しかし裏側は、パンテオンの歴史を色々と教えてくれます。ここから見えるだけで、少なくとも8つのふさがれたアーチ跡が見えます。建物に幾度となく手が入ったことがわかります。 -
更に狭い歩行者専用のパロンベッラ通りを行くと、白いスタッコの装飾が残っていました。よく見ると、海の生物イルカや帆立貝、海藻類などが確認できます。
ここはかつてのネプチューン(海の神)のバシリカの跡なのだそうです。 -
現在パンテオンは周りの建物から離れて建っていますが、紀元前27年にアグリッパがパンテオンを建てて以来、色々な建物がパンテオンにくっつくようにして建てられました。その一つがネプチューンのバシリカ。
マルクス・アントニウスとクレオパトラに対するアクティウムの海戦での勝利を祝して、紀元前25年と言いますから、パンテオンのわずか2年後に、同じアグリッパが建設しています。 -
紀元前33年〜25年にかけて、アウグストゥスとアグリッパが行った、カンプス・マルティウスの大型建設プロジェクトの一環として、工事は行われました。
ネプチューンのバシリカは神殿ではなく、会議室、集会所といった場所だったようです。 -
現在の地面より4、5m低い場所にあるエゼドラ(半円形の壁)の内部です。
石が敷き詰めてある床が確認できますね。エゼドラの中にある煉瓦でできた土台の様なものは何でしょうか? 祭壇のようなものかな? -
ポセイドンはギリシャの海の神、ネプチューンはローマの海の神。同じような存在なので、いつもこんがらがってしまいます。どっちだったっけ? てね。ネプチューンのバシリカを後に、ゆっくりと表側に回ります。
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おお〜見えてきました。私にはぞくぞくする瞬間なのです。今回のわたくしのたびで11本目となる、ローマの13古代オベリスクの一つも姿を現しましたよ。
おお〜少し休憩しよう。心を落ち着かせなくっちゃ! -
古い印刷物専門店のウインドウを覗き込みながら、あえてパンテオンは後のお楽しみに取っておきます。
手前の赤いカップ、素敵ですねえ。 -
一休みしたのはこちら。カフェ・タッサ・ドーロTassa'oro。ダン・ブラウンの「天使と悪魔」にも登場したカフェです。
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店内に漂う焙煎の香りとお客さんの多さから予想はついてましたが、間違いなく、ローマで飲んだ一番おいしいコーヒーでしたよ。最高!!
ああ 落ち着きましたぁ・・・ -
広場に戻ります。ここがかの有名なロトンダ広場です。そして、目の前には前述したように、今回のたびで11本目のオベリスク オベリスコ・デ・パンテオンが見えてきました。
高さ6.34m。噴水の中に設置されているので、噴水の高さと土台、そして頂の十字架を合わせると14.52mとなります。 -
エジプト産オベリスクで、ラムセス2世時代(紀元前1290年年〜 紀元前1224年)に作られたものです。11代ローマ皇帝ドミティアヌスによりローマに運ばれ、この近くにあったイシスの神殿前に立てられました。元々これはペアの片割れで、ヘリオポリスのラー神殿にありました。1373年に近くのサン・マクート教会で埋まっているのが見つかり、カピトリーノの丘のサンタ・マリア・イン・アラコエリ教会前に立てられたものを、1711年に教皇クレメンス11世が、こちらに移したものです。
双子の片割れは、現在、ヴィッラ・チェリモンターナの庭に立っています。残念ながら、このオベリスクだけ、見逃したようです・・・ -
噴水は、1575年にジャコモ・デッラ・ポルタが作ったものです。その真ん中にオベリスクを立てたのは、彫刻家フリッポ・バリギオーニ。
噴水にいるイルカは相変わらず怖い顔をしていて、写真を撮る気にもなれないようなご面相をしています。
それにしても凄い人、人、人・・・近づく気になれません。 -
さあ、いよいよご対面です。なんて立派なのでしょう!パンテオンとは、「全ての神々の神殿」と言う意味のギリシャ語なのだそうです。紀元前25年にアグリッパが建てた最初の神殿は80年に焼失したので、今見ているのは125年頃に再建されたものです。
ローマの神々の神殿の時代が125年〜395年(約270年)
宗教行事には使われなかった時代が395年〜609年(約214年)
そして、キリスト教会としての時代が609年〜現在(なんと1406年!)
簡単に言えば、パンテオンはこのような歴史を辿っています。現役の教会だということをうかつにも知らなかったのですが、「全ての殉教者のための聖マリア教会」という名前が付いていました。誰もパンテオン以外の名前で呼ばないでしょうけれどね。 -
長いローマの歴史の中で、一度も廃墟にはならなかったのは、2日目に行ったサンタ・プディンツィアーナ教会、コロシアム近くの聖コズマ・エ・ダミアーノ教会とパンテオンだけだそうです。
切妻屋根のギリシャ神殿造りのポルティコ部分と直径43.2mの球がすっぽりと入る円筒形+半球の部分を、真ん中の長方形の平らな屋根の部分がジョイントの役割ををしています。
ウィキペディアには、そのジョイント部分に双子の鐘楼のあるパンテオンの絵が載っていました。ドイツ人画家の描いた1836年頃の景色です。これだと教会というイメージがぐっと増します。どこかの時点で元に戻したんですね。興味のある方は、こちらからどうぞ。
https://en.wikipedia.org/wiki/File:Jakob_Alt_-_Das_Pantheon_und_die_Piazza_della_Rotonda_in_Rom_-_1836.jpg -
ここまで来ると、背後の丸い部分の建物が見えなくなってしまいますね。
高さ12.5mの太い柱(柱の周りの長さが4.5mある)が、前に8本。後ろに2本×4の計16本並んでいる様は威圧的! 一番左側の列の3本はオリジナルではなく、ネロの浴場から運んできたものだそうです。柱頭のデザインが若干異なりますね。
エンタブラチュア上の碑文には、「ルキウスの息子マルカス・アグリッパがこれを作った」と書かれています。彼が作ったものは焼失したにもかかわらず、再建したハドリアヌス帝はアグリッパの功績を称えて碑文を入れたのでしょうか?
三角形のペディメントは今は何も描かれていませんが、何かが置かれていたような跡が残っていますね。
胸が又ドキドキしてきました。 -
いよいよ、中に入ります。
前列の柱は灰色の花崗岩。後ろの柱は大変高価なアスワン製のピンク色の花崗岩です。
左右の壁の巨大なニッチェには、かつてアウグストゥスやカエサル、アグリッパなどの彫像が置かれていたのでしょうね。 -
上を見上げると、ポルティコには短い樽型のヴォールトだけで、天井はありませんでした。かつて、天井には金メッキをした青銅が張られ、黄金色に輝いていたはずだったのですが、17世紀に略奪されたとのこと。
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横から見ると、こんな感じです。右上に見える入口のアーチも金メッキをされた青銅のパネルが張られていたと言われています。
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中央の大きな扉の左側部分。浅浮彫で花輪が彫られた大理石のスラブや碑文が沢山見られました。これは後年のものですよね。
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右側も同じような装飾。一番大事なのは、こちらの館内の案内図です。
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ビックリするほど背の高い青銅製の扉です。残っている数少ないオリジナルのものだと言われていますが、元々ここにあったものではないと言う説もあります。
この扉も、かつては黄金色に輝いていたんですって! それにしても高さ何mあるのでしょう? 人が大勢いますよ。すりにくれぐれもご用心下さ〜い! -
ドームの建物は頑丈に作られていて、基礎部分は全てローマ時代のコンクリート製。この辺りは沼地だったため、建物の重さによる地盤沈下を恐れ、リング状のコンクリート基盤は幅7.3m、深さ4.5m。地上部分の壁の厚みは、一番厚いところで6mに達するそうです。壁は次第に薄くなっていき、屋根部分には軽い石材(石灰華や石灰岩)が使われていて、屋根の重さを考慮する構造になっています。
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ドームの中には、他に燈がないはずなのに、太陽の光だけでこんなに明るいなんて不思議です。神聖な光が降り注いでいるという印象を受けます。ここに来たら、誰でも圧倒されますね。ぽかんと口を開けて天井を見入る人々ばかりです。その間にお財布盗まれないでね!
このドームも最初青銅にメッキした金色のタイルで覆われていたそうです。663年に皇帝コンスタンス2世が略奪し、今ではオルクス(頂上部分の開口部分「目」という意味)の周りにしか残っていません。 -
オルクスからの光線はゆっくりとこのドーム内の壁を照らしながら反時計回りで一周していきます。光線の加減により、ドームの色はどんどん変わっていくので、運が良いと、金色に輝く時間もありそうです。
さて、中央奥に見えるエゼドラの前にあるのが主祭壇です。左右それぞれ90度の位置にもエゼドラがありました。4本ずつの柱が支えているエンタブラチュアがぐるりとドームを一周しています。その上にも、もう一本のエンタブラチュアが見えますね。 -
ドーム内には主祭壇を含めて8か所の祠や祭壇、墓が設けられていました。2本のエンタブラチュアの間にも、三角形のペディメントをつけた祭壇のようなものが見えますが、こちらは18世紀の修復の際に整備されたものだそうです。かつては、ここにもローマの神の偶像が置かれていたのでしょうか?
では、太陽光線に倣って、私もゆっくりと反時計回りで見て行くことにします。 -
最初の祭壇は、「受胎告知」に捧げられています。このフレスコも前回見たのと同じく、全能の神からの伝書鳩ならぬ「聖なるハト」がマリアのところにやってくる寸前の場面です。メロッツォ・ダ・フォルリの作品と言われています。
左側の壁には「聖ロレンツォと聖アニェーゼ」(クレメント・マイオーリ作)、右側には、「聖トマスの不信」(ピエトロ・パオロ・ポンツィ作)がありました。
12使徒の中で、唯一キリストの復活を目撃していなかった聖トマス。「主の傷痕に指を差し入れるまでは復活を信じない」と言ったトマスの前にキリストが現れ、自ら彼の指をとって傷痕に指を入れさせる場面です。
左右の絵画は17世紀の作品。 -
「受胎告知」コレクターなので、もう1枚。こちらは16世紀初頭の作品です。
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二番目の祠には、ダメージの激しい、こちらのフレスコがありました。聖母、天の女王に捧げる祭壇で、15世紀トスカーナ派による「聖母戴冠」が描かれているそうですが、よくわかりませんね。
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続いては、イタリア王国建国の祖ヴィットリオ・エマニュエーレ2世の墓です。主祭壇に向かって、右側のエゼドラにありました。
彼が1878年に亡くなった時、墓のデザインを公募したそうです。設計する名誉を与えられたのはマンフレード・マンフレディ。彼が作った墓はローマのトレードマークの一つ鷲が載った大きな青銅製の銘板。出身のサヴォイア家の紋章もついています。 -
とっても気難しそうな顔をしている聖アンナ(マリアの母親)とマリアの祠。彫刻はロレンツォーネの愛称で親しまれるロレンツォ・オットーニによるものです。
この聖アンナは何か理由があって、厳しい表情をしているのでしょうかねえ。 -
次の祭壇には、15世紀のウンブリア派によるフレスコ画がありました。アッシジの聖フランチェスコと洗礼者聖ヨハネの間に座る聖母は「慈悲のマドンナ」と呼ばれています。
元々、このフレスコ画はポルティコの中央扉に向かって左側のニッチェに飾られていて、人々が触ったり、悪戯を防止するてすりがつけられていたことから、「てすりのマドンナ」と呼ばれていたそうです。 -
主祭壇です。主祭壇と後陣は、教皇クレメンス2世の時代(在位 1700年〜1721年)に再建されています。設計者はアレッサンドロ・スペッキ。
後陣のドームのモザイクは金色と青色が組み合わさったとても美しいデザインでした。 -
後陣中ほどのニッチェに祀られているのは、7世紀ビザンティン様式の聖母子のイコン。但しこれはコピー。とても小さなものです。
オリジナルは、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノの参事の礼拝堂にあるとのことですが、はて・・・参事の礼拝堂もイコンも記憶にないし・・・。 -
こちらは、「石の聖母」に捧げられている祭壇です。なぜ「石」と呼ばれているのかと言うと、彼女が左足を玉石に乗せて休んでいるようなポーズを取っているからだそうです。
この作品は、ラファエロの委託により、1524年ロレンツェットにより制作されました。 -
ラファエロの墓は、「石の聖母」の彫像の下、思いのほか目立たない場所にありました。
偉大なる芸術家ラファエロの墓の右側には、彼の公式のフィアンセ マリア・ビッビエナが埋葬されていました。彼女のほかにもラファエロには意中の人がいたというのがもっぱらの噂ですけれどね。マリアはラファエロと結ばれる前に亡くなってしまいました。 -
ラファエロの墓は、教皇グレゴリウス16世の命によるもので、ピエトロ・ベンボによる碑文が刻まれています。
ここにラファエロは横たわっています。彼が生きている間、母なる自然は彼に克服されまいと恐れ慄きましたが、彼が亡くなると、まるで後を追ったかのように静まりかえっています。
まずい訳ですが、大体こんな感じかな? -
ヴィットリオ・エマニュエーレ2世の墓のデザイン・コンテストでは惜しくも選外だったジョゼッペ・サッコーニは、ウンベルト1世の墓を設計するという栄誉を得ました。
ここは、ちょうどヴィットリオ・エマニュエーレ2世の墓の対面に位置している場所。時計で言うと9時の方角、主祭壇に向かって左側のエゼドラに当たります。ウンベルト世はイタリア王国第二代の王ですが、その頃のイタリアは王制廃止を求める共和勢力との対立が絶えず、1898年に彼は暗殺されてしまいます。その後を継いだ息子のエマヌエーレ3世は亡命中のエジプトで亡くなるので、イタリア王国は実質的にはわずか二代で潰えたことになります。
墓の左右の柱、そして背後の石の装飾が見事。墓のことを褒めなくて、サッコーニさんごめんなさいね。 -
こちらは、聖アネェーゼの彫像。ヴィンチェンツォ・フェィーチの作品。わずか13歳で、ディオクレティアヌスの迫害により殉教したと言われる3世紀から4世紀にかけての女性です。殆どが伝説の中の人物です。
しかし、この像は13歳とはとても思えぬ大人の女性の雰囲気ですよね。 -
最後の祭壇は、聖地の聖ヨセフ(キリストの養父)に捧げられています。祭壇には、16世紀の彫刻家ヴィンチェンツォ・デ・ロッシによる聖ヨセフと幼いキリストの像があります。
祭壇の左には、「羊飼いの礼拝」、右側には「東方三博士の礼拝」のフレスコ画。共にフランチェスコ・コッツァによる1661年の作品です。 -
ぐるりと一周りした間にも、刻々と太陽はその位置を変えていました。教会と言うよりは、やはりここは建物そのものを愛しむ場所であるような気がしました。
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昔人類が空を見上げて、「これこそ神だ!」と信じた太陽こそ、パンテオンの主役であるように感じました。ここに来られたことを太陽に感謝。
月並みですが、2000年近く前に、こんな素晴らしい建物を建てることが出来たローマ帝国の力と技にも敬服しました。太陽とローマ帝国 ハハ〜!!(とひれ伏す)
雨の日、雪の日は、このドームどんな雰囲気なのでしょうね。他に光源が見当たらないのですが、昼から暗い冬のどんよりした日に再度訪れてみたいと思いましたよ。 -
初めてのパンテオンを満喫して外に出ます。なんだかふわふわして不思議な気分。目の前のいつものローマの町並みを見て、我に返った気分です。
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もう一度、噴水とオベリスクを拝んでから・・・
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また町歩きに戻ります。何せあともう半日しか時間が残されていないのですから。
途中で教会らしい建物があったので、中を覗いてみると・・・ -
確かに教会らしいけれど、中では皆さんが会食中!
し、失礼しましたぁ・・・
聖エウスターキ教会。初期キリスト教の殉教した聖人を祀る教会ですが、エウスターキについては詳細は殆ど分かっていません。聖人のシンボルは鹿の角の間に十字架が生えている少々変わったもの。1枚前の写真の教会のてっぺんについているんだけれど、小さすぎて見えないかも・・・教会はこの地域を象徴するもので、古くから貧しい人々の救護所の役割も果たしてきたそうです。 -
サン・テウスタキオ広場に出ると、次のターゲットが見えてきましたよ。
おお〜 あの歪んだ曲線の続く、コークスクリューのような尖塔は紛れもなくボッロミニです。サピエンツァ宮(国立文書館)の中にあるサンティーヴォ・アッラ・サピエンツァ教会。
フランスのシャルトル大聖堂の司教だったイーヴォに捧げられた教会です。 -
サピエンツァ宮そのものが公開しているのかどうかも知らずに訪れたので、これが近づける至近距離かもと何枚も同じような写真を撮っています。
手前の建物と全く雰囲気が異なるのだけれど、周りとの調和は考えなかったのかなあ? と少し首をかしげます。 -
教会は、1642年から1660年にかけて、「ラ・サピエンツァ(知識、智慧)」として知られるローマ大学の教会として、ウルバヌス8世の命を受け、ボッロミニにより建てられました。
建設当初は絶賛を浴びたこの教会、特にこのコークスクリュー型尖塔は、コペンハーゲンの救世主教会に多大な影響を与えたと言います。こちらにその写真があります。
https://en.wikipedia.org/wiki/File:Copenhagen_-_Church_of_Our_Saviour_-_2013.jpg
しかし、続く18世紀頃になると、ネオクラシック様式の出現で、いつしかこの教会のことを世間は忘れていきました。大学は1930年までここにありましたが、手狭になったのを理由に移転。それと共にこの教会は一時奉献を解かれました。
現在は再奉献されましたが、宗教的な内部の設備はすでになく、教会であるにもかかわらず、殆ど開いていないために、蝋燭を灯すことさえ容易でない場所となっているそうです。(内部を見ていないので詳細は分かりません) -
じゃーん
適当にサピエンツァ宮の建物の中に入っていったら、中庭に出ましたよ。その中庭の奥にあったものこそ、私が目指すものでした。美し〜い!! 全然問題ありません。周りの建物と十分調和がとれています!!
内側にカーヴした2階建てのファサードは、左右3本ずつの柱で支えられています。中央は扉。その左右にはアーチ型に凹んだ壁の中に長方形の窓が2つずつ。2階もほぼ同じ。その上に少し歪んだ丸い窓が見えます。
あららっ この教会はサンタ・マリア・ポポロ同様、キージ家出身の教皇アレキサンデル7世のシンボルだらけですね。塔の前、左右のこんもりとした月見団子! と星は、紛れもなくキージ家の紋章です。丸窓にも星のマークが入っているし、中央にはアレキサンデル7世の名前入りの碑文までありました。
1600年代のこの3人 バルベリーニ家のウルバヌス8世(蜂)、パンフィリ家のインノケンティウス10世(オリーヴの枝を銜えた鳩とアヤメ)、アレキサンデル7世(山と星)は、特に自分の紋章を教会の装飾に使うのに熱心というか執着していた教皇なのだそうですよ。「蜂」が依頼したけれど、完成したのは「団子」の時代になっていたということですね。
はっきり言って左右の月見団子 全く不要ですよね。 -
ファサードの上のドームは、ここから見ると全体像が見えませんが、外側にカーヴしている膨らみが全部で6つある六角形に近い形をしているそうです。一つの膨らみごとに窓が一つずつ。その上の頂塔は内側カーヴの六角形をしていて、2本ずつのイオニア式柱がぐるりとその周りを取り囲んでいます。
そして、先端のらせん状になった尖塔部分! バベルの塔のように、どこまでも天に続く階段というイメージで作ったのでしょうか?
カーヴの連続は、バルベリーニ宮殿の階段でもサン・カルリーノ教会でも、ボッロミニの得意分野でしたが、周りとの整合性を考慮してしつつ、一度見たら忘れられないような強烈な個性をここでもプンプン匂わせていました。
それがまた、大変心地よいのです。いつまでも浸っていたい気分・・・ -
現在、教会には日曜日の午前中(9:00〜12:30)のみ入れるようです。私には、この外観のみで十分。中庭、そして回廊を歩きながら、時々立ち止まって教会の姿に見とれていました。
もしかして寂しいインテリアを見ないで良かったと思っています。ドームの内側にはちょっと興味がありましたけれどね。
なお、7月、8月は全面的にクローズされるそうです。これは2015年の情報なので、あくまでも参考程度にしてくださいね。 -
中庭のアーチから、左右のサピエンツァ宮を眺めます。ちょうどこの時、サピエンツァ宮では、「智慧の工場 ボッロミニの時代の大学」展をやっていましたよ。
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いかにもイタリアという雰囲気満点の2階建てのアーチが続いています。
サピエンツァ宮は、1562年〜63年にかけて、建築家グイデット・グイデッティにより建設を開始しました。中庭を含めて、主要な部分を創り上げたのは、ご存知ジャコモ・デッラ・ポルタです。彼は亡くなるまでここの建設に携わっていました。その際、彼はメディチ家のコジモ1世が作ったピサの「ラ・サピエンツァ」宮殿(ピサ大学)をモデルにしたそうです。
そしてボッロミニは最後まで残っていた北側部分の工事を行ったということになります。それも完璧に。 -
テアトロ・ヴィッレ通りとコルソ・デル・リナシメントの間にあるこの中庭の回廊は、地元の人達の通路としても使われていました。強烈な太陽を遮ってくれる回廊は、ローマっ子にとっても大変ありがたい存在でしょうね。
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サンティーヴォ・アッラ・サピエンツァ教会の催しのビラです。
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サピエンツァ宮からコルソ・デル・リナシメントに出たところです。このオレンジ色の建物の背後がナヴォナ広場なのですが、この時は全く気付いていません。広場につながる道が分からなくて、後刻随分迷ってしまいました。
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昼下がりのローマの町をお散歩。この道をまっすぐに行くとパンテオンに戻ります。
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コルソ・デル・リナシメント沿いに続いて現れたのはパラッツォ・マダーマ。モンテチトーリノ宮が下院。マダーマ宮は上院に当たります。こちらは正面入り口ではないのか、辺りは閑散としていました。入口はどこだ?
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マダーマ宮の先の角を右に曲がると、すぐにそこは次の目的地サン・ルイージ・デイ・フランチェージ教会がありました。しかし、思った通り、お昼休み中でした。分かってはいたんですけれどね。念のため確認してみると、午後は4時からと書いてありました。
ローマでは久々のルネッサンス様式のファサードで、こちらもジャコモ・デッラ・ポルタの1581年の作品。教会そのものはファサードより遅く1589年に完成しました。手掛けたのはドメニコ・フォンターナです。
聖ルイに捧げるフランス教会という名前の通り、こちらは、フランスのナショナル・チャーチで、国王ルイ9世に捧げられています。 -
左右のニッチェにはピエール・・ド・レスタクによる彫像がありました。左にはシャルルマーニュ=フランク王国の国王(在位 768年〜814年)。そして、右が教会が捧げる国王ルイ9世(在位 1226年〜1270年)です。死後列聖されて、聖ルイ(サン・ルイ)となりました。アメリカのセントルイスって彼から来ているんですってね。知らなかったぁ・・・
下のトンドの中は、おや〜 これはフランス国王フランソワ1世のシンボルである火を吐くサラマンダーではないですか? 5年前、ロアールの古城シャンポール城で、いやと言うほど見たので、間違いありません。
調べてみると、フランソワ1世(在位 1515年〜1547年)は1547年に亡くなっていますが、建設を開始した当時は存命中だったんですね。 -
実は私、サラマンダーに目がないんです。こちらが本日、新たなコレクションに加わりました。♪(^^♪
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サン・ルイージ・デイ・フランチェージは後で戻ってくることにして、次に行きます。
途中レストランがひしめくロンダニーニ広場を横目に見ながら、サンタ・ジョヴァンナ・ダルゴ通りを行くと・・・ -
マッダレーナ広場に到着です。内側に浅いカーヴを描いたファサードが特徴のサンタ・マリア・マッダレーナ教会にやってきました。ロココ様式と言うのだそうですが、バロックとの違いは私にはよくわかりません。年代的には18世紀、フランスを中心に流行したとのことです。
ボッロミニの影響を受けているとしか思えないファサードですよね。ローマにたった一つしかないロココ様式のファアードだそうですよ。
調べてみると、建築に関わった人達の名前は分かっているのですが、このファサードが実際に誰によって作られたのかは、はっきりしていないとか。完成したのは1735年。近くのサン・ティーヴォ・アッラ・サピエンツァを全く意識していないとは言わせませんよ。 -
1階部分の根元が太いドーリア式の柱に力強さを感じます。ニッチェには、左に聖カミロ・デ・レリス、(1582年に大きな赤十字がシンボルの、「病人のしもべ」という医療修道会を創設、この教会には墓がある)、右に聖フィリッポ・ネリ(オラトリオ会の創設者で司祭)の彫像。二人ともポーズが決まっていますね(ってモデルじゃあないんですよ!)。
ロココ調らしさが出ているのは、彫像のあるニッチェの上下、そして、中央扉上の装飾だそうで、確かに、今まで見たことのない要素が含まれているのを感じます。中央の十字架と天使たちの辺りは、「普通」のバロックという印象でした。
ゴシック、ギリシャ神殿、バロック、ルネッサンス、ロココと、こんな狭いエリアなのに、様々な様式を見ることが出来るローマってやはり素晴らしいとしか言いようがありませんね。
教会は、マグダラのマリアに捧げられています。 -
中に入って気が付きました。教会は長方形ではなく、ファサードの部分が一番狭くなっている細長い楕円形のような形をしています。奥行きはありますが、横幅がないために、サイド・チャペルはやや扁平です。
灰色がかった赤い大理石の柱と、そのいぶし銀のような柱頭、そしてエンタブラチュアが途中アーチによって切れているのが印象的。それぞれのアーチの上の装飾も独創的ですね。
床は、シンプルな図形模様ですが、こちらも初めて見るデザインで新鮮でした。 -
主祭壇に向かって右側のパオラの聖フランチェスコ(アッシジの聖フランチェスコとは別人)に捧げられた礼拝堂です。両親はアッシジのフランチェスコを崇拝しており、息子にもその名をつけたと言われています。
彼に関わる有名な伝説があります。1464年のこと、シチリアに行こうとして船頭に断られたフランチェスコは、彼のマントを帆に見立て十字を切ります。そしてそのまま荒れ狂うメッシーナ海峡を無事に渡ったというお話。
フランツ・リスト作曲の「伝説」の第2曲、「波の上を渡るパオラの聖フランチェスコ」はこの伝説を元にしています。ちなみに第1曲は、「小鳥に説教をする聖フランチェスコ」。こちらはアッシジのフランチェスコです。
祭壇画も彼の別の奇跡「小さな子供の奇跡的な治癒」を表しています。ピエトロ・ガリアルディ作。 -
2番目の礼拝堂は、マドンナ・デッラ・サルーテ「健康)に捧げられていました。
マドンナ・デッラ・サルーテは、聖カミロ・デ・レリス率いる「病人のしもべ」カミロ修道会が一貫して崇敬してきた偶像で、今まで私が見てきた物はビザンティン様式でしたが、こちらは16世紀スタイルの作品。1614年にカミロ修道会に寄贈されたものだそうです。聖母の長い手が印象に残っています。
祭壇左右の柱の石に注目。この石もローマでは初めて見る模様の入った石です。日本には結構ありそうですが・・・ -
3番目は聖カミロの礼拝堂。祭壇画を撮った写真はあまりにもボケボケで没。聖カミロの墓だけ、かろうじて写っていました。
教会が用意した説明書きも、ここだけは、日本語を含めて20か国語で書かれていました。
棺の左右に見える斜めにひしゃげたような形の十字架のモニュメントは、フランチェスコ・ジョルダーリとヴァレンティオン・コンサルヴィの作品です。 -
聖域の右側にある十字架の礼拝堂は、祭壇にこれまたお初にお目にかかる、小さな「奇跡の十字架」が天使を両脇に伴ってガラスのカプセルの様なものの中に祀られていました。一見金属製に見えますが、実は木製だそうです。
なぜ「奇跡」なのかというと、聖カミロが死の床についていたときに、このキリスト像が十字架から離れて、聖カミロにこう話しかけて慰めたというのです。
「勇気を持って、貴方が始めた仕事を続けなさい。私はいつもあなたと共にいる。それが私の仕事なのです。」 -
十字架の礼拝堂には、他にもマグダラのマリアの素朴な木像が安置されていました。15世紀のもので、この教会では一番古い木像です。彼女が手に持っているのは、軟膏が入ったポットだそうです。「病人のしもべ」カミロ会らしい像ですね。
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聖域です。祭壇画は後陣の壁にありました。太いコリント式の黄色い柱が目を惹きます。この教会の柱頭は、どれも非常に凝っていて、見応えがありますね。ペディメントの中央には、十字架を携えた天使達。これはバロック調かな?
祭壇画は「十字架を崇め、懺悔するマグダラのマリア」。ミケーレ・ロッカの作品です。
左右の浅レリーフは、ピエトロ・ブラッチによるもので、マグダラのマリアの生涯から、左「他の二人のマリアと空っぽの墓に到着した場面」と右「キリストと庭園でであった場面(我に触れるな)です。どちらもマグダラのマリアが聖書に登場する有名な場面で、大変わかりやすいです。 -
後陣の半円形部分のフレスコ画は、アウレリアーノ・ミラーニによる「キリストの説教」。右手をかざしたキリストの右隣にマグダラのマリアがいます。キリストの花嫁ともかつて娼婦だったとも言われる謎の女性ですが、前述したように、キリストの復活を見届け、復活したキリストと最初に言葉を交わした女性と言う部分については、解釈が一致しているようです。1732年。
聖域手前のドームにも、天空を描いたフレスコ画があります。雲が一部垂れ下がってきていて、3Dを意識した造りがみてとれます。エティエンヌ・パッロチェル作。
ややごちゃごちゃしたきらいはありますが、この教会のフレームの縁取りは大変豪華。一見の価値があると思います。今までの教会とは全く異なった内装で楽しいです。 -
聖域の左隣にあるのは、聖遺物の礼拝堂と呼ばれています。この礼拝堂で最も重要な聖遺物は、なんと! 聖カミロの心臓なのだそうです。
想像したくもありませんが、どういう処理を施しているのでしょう??? -
小さなドームには、聖なるハト。グロテスク様式のフレスコ画が周りを取り囲んでいました。
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続いての礼拝堂は、バーリの聖ニコラスに捧げられています。あのサンタ・クロースのモデルとなった人です。私はこの後、巡礼地となっているバーリの彼の聖堂に行ってまいりました。
肝心の礼拝堂そのものを写していませんが、カルロ・フォンターナにより設計されたものだそうです。1673年。
祭壇画は、「聖ニコラスのヴィジョン」。ジョヴァンニ・バッティスタ・ガウッリの1698年の作品。聖ニコラスは、カトリックよりギリシャ正教、ロシア正教等の正教会で広く信仰されているようですね。 -
立派な祭壇画続きます。
こちらは、なじみがない方ですが、聖ロレンツォ・ジュスティニアーニに捧げる礼拝堂。ヴェネツィアで初の大司教となった人です。
祭壇画はこれまたヴィジョンを受ける聖人。祭壇画を描いたルカ・ジョルダーノと言う人は、大変絵を描くのが早いことで有名で、一晩で仕上げるという伝説の持ち主です。 -
この絵、結構気に入ったのですが、彼が見ているのが誰なのか気になります。左にいる天使なのか、ゆりかごの向こう側に小さく見える聖母? あるいはその隣のキリスト? あまりにも沢山天使が飛び回っていて、ウザったいなあ・・・
祭壇画下の炎のような、石の紋様にも注目してしまいました。こういう石が採掘出来るところに行ってみたくなりました。 -
おまけですが、プット達の聖水盤その1
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聖水盤その2 左のプットがやんちゃ坊主らしくて好みです。
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お終いは、素晴らしいカウンターファサードを紹介します。オルガンを中心とした、極めて完成度の高いロココ調の装飾ギャラリーと書かれていました。金色をした部分は木に金メッキしたもの。寓話像はスタッコでできています。華やかですねえ・・・ドイツ人ハンス・コンラッド・ウェールレの作品だそうです。1758年。
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オルガン・ギャラリーのアップをどうぞ。
これを見ていると、バロック、ロココに明確な違いは無いようですね。年代によって、様式が少しずつ変化したと考えるのが無難かもしれません。
個人的な好みはロマネスクですが、その時代時代を代表するものが残っている時、発見した時が一番の嬉しい経験となります。マッダレーナはロココ初体験として、大変印象に残った教会でした。 -
やはりこのファサードが一番傑作かもしれません。しっかりと目に刻んで、次の目的地に移動します。何せローマ最終日。まだまだ行きまっせ。
この続きは、イタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その32 サン・ルイージ・デイ・フランチェージ〜ナヴォナ広場で!
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