2015/10/03 - 2015/10/03
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イロコさん
NHK大河ドラマ「花燃ゆ」の関係で今年は幕末の毛利家や歴史に関するイベントが数多くあります。
今回は幕末と明治の厚狭毛利家と長府の毛利家ゆかりの地を訪れるイベントがあったので参加しました。
全部初めての場所でした。
ちょっと離れた所にあったりで、自分一人ではとても回れなかったなと思いました。
ちょっとだけ歴史に詳しくなりました。
- 旅行の満足度
- 4.0
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厚狭の毛利家の居館跡に行きました。
今は標識と石垣の一部しか残っていないそうです。
以前屋敷内に祀られていた神社が、道の向こうに移設されていました。
しかも夏の草でボーボーでした。 -
居館跡は今は会社の寮が建っています。
奥の方に石垣を見に行きました。
こちらのyさ芯は上から下をのぞき込んでいる状態です。
写真苧上側が石垣の下側です。 -
頑張って横の方から写してみましたが・・・。
右側が石垣の下の方です。
周りはお堀だったようです。
慶長5年(1600年)関ヶ原戦後、毛利家は防長二州36万9千石に減封あれ、
それに伴って一門・家臣団もそれぞれお国入りをし、いわゆる幕藩体制の中で、近世膨張しの幕が開かれるのでした。
その後、毛利家一門三席に列した毛利元宜は、父元康が慶長6年大阪で没した跡を継いで、寛永2年(1625年)厚狭の郡・舟木・その他に1万500石を与えられて厚狭に入り、殿町の一角に居館を構えた。
これを厚狭毛利家といい、また萩の四本松に出屋敷があったので、四本松毛利家などともいっている。
厚狭毛利家はその家系としては、元就の五男元秋が椙社を称して、島根県富田に分家を与えられた跡を八男元康が継いだもので、以後維新にいたるまでこの地を離れることはなく、十四代一彦および弟宜男の両名が、太平洋戦争で戦死したことによって、その直系が断絶した。 -
かつての井戸のあとだそうです。
今は一つしかないけど、かつては4か所あったそうです。
今は井戸は現代風になっています。
ちなみにこちらの井戸は住宅の中にあります。 -
居館跡の周りは殿町戸呼ばれていたそうです。
中級武士の家にお邪魔しました。
土塀が一部残っています。 -
土塀アップ
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こちらの家にお邪魔をして、お話を聞きました。
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こちらは毛利元康公の奥さん勅子(ときこ)さんの書
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こちらは厚狭毛利家の菩提寺、洞玄寺 (とうげんじ)
寺伝によると、草創は舒明天皇の御代(635年)辰狐連が新善光寺を創建したことに始まる。
正平年中(1350年頃)には寺号を長光寺と改め、今川了俊は「道ゆきぶり」に、長光寺に一泊した旨お記しており、記録上に同寺の名を示す。
毛利家の防長両国への入国後、毛利元宜が厚狭の地に領地を与えられると、父元康(洞玄寺殿)の菩提をとむらうため、荒廃していた長光寺跡に湯本大寧寺の宗珍和尚を請うして一宇を建立し、洞玄寺と寺号を改め。曹洞宗の寺院として再建した。
以来、厚狭毛利お菩提寺として庇護を受けたが、明治に入り十七世
実音和尚が説隊騒動のさなか脱隊側に加担したことから寺院整理の対象となった。
しかし、明治三年には本寺大寧寺から孫末寺にあたる向津具正福寺の洞玄寺跡への引寺を嘆願して許された。
正福寺の引寺は、洞玄寺の寺跡を引き継ぎ、さらに洞玄寺の旧寺号を復活しようとした意図がみられ、明治33年(1900年)に旧寺号の復興を嘆願したが許されず、昭和44年になって洞玄寺の寺号を復興した。
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山門アップ
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お寺の山門前にある看板
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山門前にある歌碑
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歌人の足跡の説明
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山門
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山門の額
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山門の説明
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山門そばの仁王
ちょっと小さ目です。
石で出来ています。 -
山門と塀
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山門の近くにある千林尼(せんりんに)の墓
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千林尼の墓の説明
宇部の床波・大沢で生まれた人。
離縁ごにときわ池のほとりにある庵に住む。
人が困っているのを見て、ボランティアの先駆者となって石畳を敷いたりした人。
墓と言っても石のみで、玉泉庵が廃寺になったので移されたそうです。 -
山門を入ると塔があります。
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塔跡の説明
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本堂
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本堂から墓所に向かう所にある庭
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墓所に向かう所にある庭
右手前にあるのは蘇り地蔵尊 -
蘇り地蔵尊
明治に入り十七世実音和尚が説隊騒動のさなか脱藩側に加担いたことから寺院整理の対象になった。
家臣が地蔵尊の首を切って首なし地蔵になっていた。
昭和61年に首を付けて現在の状態になる。 -
毛利家の墓地へは苔むした石段を上がります。
日ごろ運動をしないので結構きつかったです。 -
毛利家の墓所 入り口
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毛利家墓所の説明
2代から14代までのお墓があります。 -
毛利家の墓
正面にあるのは2代元康公の墓。
右側の手前に見えるのは10代、元美公と勅子夫婦の墓 -
毛利元美公と勅子夫婦の墓
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毛利勅子の墓 アップ
勅子さんは徳山毛利家の娘だそうです。
血族結婚が多いような・・・。 -
毛利勅子先生墓所の説明
勅子は日本で3番目の女学校を設立した人です。 -
厚狭毛利家の墓
2代元康公の墓。 -
毛利家の墓
左側のお墓 -
毛利家の墓
左側のお墓 -
毛利家の墓
右側 -
洞玄寺を見た後は蔵田家屋敷跡に向かいました。
結構山奥の方です。
バスから降りると神社がありました。
神社の近くに蔵田幾之進の墓があるとのことでしたが、草木が伸びていてとても入れる状態ではありませんでした。 -
神社の側にある大きなモミジ
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蔵田幾之進の家の石垣
蔵田幾之進、名は信勝。
松ケ瀬奥の浴に領地をもつ石高259万の大組士。(高杉晋作は石高200石)
幾之進は家伝の居合術・柔術・長刀に優れ、その師範家を勤めるほかに、銃陣用掛、蘭式大砲小銃の教練伝習を命じられていた。
土着令によって奥の浴に在住していたが、文久三年(1863年)七月に選ばれて先鋒隊に加わり出陣して、その宿営教法寺に入った。
八月十八日に騎兵隊らが大挙して同寺に乱入した。
先鋒隊士は防戦しながら逃走したが、たまたま同日病気で臥床中の幾之進も襲われた。
幾之進は病床に刀を抜き応戦したが重傷を負い、同夜ついに死亡した。
行年三十四歳。
幾之進の遺骨は奥の浴に送られ、同家の墓地に葬られた。 -
石垣の下の風景
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石垣を見上げる。
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今は石垣のみ残っています。
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次の岡崎熊吉のお墓に向かう時の風景。
稲が黄色に輝いています。 -
左側がお堂で、写真には写っていませんが右側が公会堂でした。
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お堂
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小さなお堂の横には古い塀の跡があります。
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境内
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岡崎熊吉の墓
萩藩に仕えた無給通士の岡崎利行の長男として天保三年に生まれた。
嘉永三年春、彼は二十歳で結婚し、その妻の家(厚狭赤川)黒石勘右衛門の家の近くに移り住んだ。
元治三年(1864年)夏、熊吉は来嶋又兵衛遊撃隊の本陣付き幕僚となって赤川の家をあtにし、京都の蛤御門に急いだ。
七月十九に遊撃隊は強盛なる敵と激突した。
剛胆な熊吉は先頭に立って前進し、塀によじのぼり、門内に飛び降りようとしたが、無念にも敵兵のくりだしたやりに腹部を疲れ、重傷を負って塀から落ち、壮烈無残な最期をとげた。
この激突の際ちゅう、彼につき従っていた中間の玉井は、熊吉の臨終を見届け、その遺髪をおさめとり、それを厚狭赤川の岡崎邸に届けた。
彼の遺髪は一族哀悼の中に、赤川の虚空蔵堂境内に埋葬された。
記念の石塔が建てられ、碑面には「岡崎熊吉平利謙之墓」と深く刻まれた。 -
岡崎熊吉平利謙之墓
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岡崎熊吉の名前 アップ
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境内から眺めた風景。
左端の平屋の家の前のあたりが熊吉の家があった場所との事です。 -
午後からは長府毛利家ゆかりの場所に行きました。
まず長府藩櫛崎城跡です。
豊浦高校のすぐ近くです。 -
長府藩櫛崎城跡
松崎口の大手門二重櫓の跡とみられる場所。 -
松崎口の大手門二重櫓の跡と考えられる石垣
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説明
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説明 アップ
天慶3年(940年)、天慶の乱で調停に謀反を起こした藤原純友の配下の
稲村平六景家が砦w築いたともいわれている。
戦国期になると、大内氏の重臣内藤隆春が築城。
隆春は、家臣勝間田盛長を白番として置いた。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで敗れた毛利輝元は、防長2ケ国36万石に
大減封となった。
これに伴い、周防山口17万8千石を領していた毛利秀元も領地を減じられ長府を
領することになった。
慶長7年(1602年)、秀元は内藤隆春に築いた古城址を整備し、近世的な天守・石垣を持つ城とした。
元和元年(1615年)。一国一城令によって櫛崎城は廃城とされた。
秀元は櫛崎城のふもとに新たに長府陣屋を築いて写り、櫛崎城は破却された。
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なだらかな細い坂を上りました。
民家がたくさんありますが、車は入らないような場所です。
やっと城跡近くまでやって来ました。
浜辺の広場の方はとても長めの良い所とか。
初日の出を見るのに最高だそうです。 -
城跡の石垣が見えて来ました。
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石垣
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こちらは昔水族館があった時の建物が残っています。
クジラ館です。 -
くじら館の説明
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海がきれいです。
遥か向こうに見えるのは山陽小野田市の竜王山です。 -
展望所があります。
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櫛崎城址の説明
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平成9年当時の櫛崎城の様子。
大分埋め立てられてますね。 -
真ん中の下の突き出た所に天守がありました。
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当時の様子を再現したもの
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こんな感じで城が建っていたようです。
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階段を上がり展望台に向かいました。
もう一段あります。 -
さて、もう一段上がりましょう。
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左手に見えるのは下関市立美術館。 -
展望台からの眺め。
くじら館の向こうに見えるのは九州です。
四境戦争の時は大里や小倉口での戦いでした。 -
展望台から見た海。
山陽小野田方面
ここでも初日の出が見られるかな。 -
方角案内
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左手手前は病院。
奥に見えるのは下関市立美術館。 -
病院ちょっとアップ。
左手に見えるのは九州。
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見学を終えて今度は駐車場がある道の方に下りました。
駐車場に行くには、先ほど見えた病院の手前の交差点を曲がると行けるそうです。
ただこちらは急な坂を上がって展望台に行くようになるので、私たちはあえて細い道の方から上がったとのことでした。 -
大手門二重櫓の跡とみられる塀に続く石垣の道を歩きます。
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石垣の右端に小さな階段を発見
この階段から上に登っていく人がいたのかしら。 -
長い石垣。
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手入れがされていないので草や木が生えています。
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石組み
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今歩いて来た道を振り返る。
石碑がある場所まで戻ってkました。 -
こちらは豊浦高校の塀。
お城を破却した後はこちらに御屋敷を建てて住んでいたとのことです。
厚狭の毛利家よりも土地が広いです。 -
こちらは前田台場の石碑
今年(平成27年)の3月に建てられていました。
NHKの大河ドラマで長州が欧米の船を大砲で打つ場面が出て来るからかな。
砲台は関門海峡近くのみもすそ川にもあったとの事です。 -
石碑
江戸時代末期に萩藩毛利氏によって築かれた台場です。
前田の地には高低二カ所(御茶屋台場と高台場)の台場が設けられた。
文久3年(1863年)5月10日米国商船ベンブローグ号に対して萩藩の軍艦三隻と
前田台場など下関側の台場から一斉砲撃が加えられ、馬関戦争が始まった。
5月23日には仏国軍艦キンシャン豪、5月26日には蘭國軍艦メヂュサ号にも砲撃が加えられた。
6月?日には米国軍艦ワイオミング号が報復攻撃のために馬関に現れ、庚申丸と
壬戌丸は撃沈され葵亥丸も甚大な被害を出した。 -
説明板 アップ
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前田台場
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前田台場
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前田砲台跡の説明
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説明 アップ
日仏国軍艦セミラミス豪と交戦し、前田の高低台場あともに陥落し占拠され大砲などが戦利品として接収された。
大砲は今もフランスのアンバリドにあるようです。
以前テレビで放送していたです。 -
昔の写真に写っている火の山の端と、現代の日の山の端を併せると、大砲はこの辺りに並んでいたと言うことですね。
-
次は長府勝山御殿跡に行きました。
1863年5月に関門海峡で外国船を次々に砲撃をしました。
そのため下関(馬関)戦争が勃発。
6月にはアメリカとフランスの報復攻撃により大きな被害を受けました。
金箔する状況の中、貼付藩主・毛利元周は海岸に近い長府長屋陣屋から内陸部に移転することとし、突貫工事で勝山御殿を築き始めました。
築城には男女を問わず領民が総動員され、7ケ月御に完成。
勝山御殿は勝山の山麓にきずかれたが、「御殿」と称したのは幕府の「武家諸法度」を意識したからであり、実質的には総石垣造りの「城」でした。
構築は南北に階段状に本丸、二の丸、三の丸が構えられ、最上段に藩主の居間、
中断に御座の間・御次・御茶屋・殿間・大御所院などの反省を司る施設があった。
二の丸の石が木は石財を交互に斜めに組み合わせる「落とし積み」という技法が用いられている。 -
御殿跡の様子
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アップ
本丸表と本丸奥があった場所。 -
御殿跡
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まず坂道を下り二の丸の方に向かいました。
左手に見えるのは本丸表の石垣 -
説明の看板
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本丸御殿の配置図
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本丸御殿の建物の様子
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発掘調査の様子
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本丸の石垣
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ここだけちょっととびぬけています。
本来ならお城を築くところなのかしら。 -
本丸への上り口
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階段を上がり
大手口方面を眺める。
大手口にも石垣があるようですが、残念時間がないので行けませんでした。 -
ミツガシワが自生する場所。
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ミツガシワの説明
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ミツガシワの葉
花は4、5月に咲くようです。 -
本丸奥の石垣
1段高くなっています。 -
駐車場から見た本丸奥方面
明治になると、長州藩は「豊浦飯」と改称して勝山御殿は豊浦県庁として
利用されましたが、すぐに山口県に統合されたため、建物は撤去されました。
しかし、石垣は現存しており、幕末に築城された本格的な城郭以降として貴重
と言うことです。 -
さて駐車場に戻りました。
左手が本丸奥
今回は全部初めて訪れる場所だったので、歴史の勉強になりました。
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