2015/05/23 - 2015/05/24
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mistralさん
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以前トルコを旅した折、日本語が堪能なトルコ人のガイド氏と、塩野七海さんの「コンスタンティノープルの陥落」という本についての話をした。
その折、“陥落”という言葉は西欧から見た言葉で、トルコ側から見たら、“奪還”という言葉になるんでしょうね、と彼は言った。
その言葉がずっと心に残っていて、次の機会があったら、その陥落?あるいは奪還?の現場をもう一度、じっくり見てみたいと思っていた。
すんなりとそのチャンスは訪れた。
5月23日、旧市街をぐるりと取り囲んでいる城壁を見るためにトラムに乗った。
(表紙写真はなんの変哲もないような門だが、ビザンティン帝国を滅ぼしたモハメット二世が白馬にのって入場を果たした有名な門。この門をずっとこの眼で見てみたいと思っていた。
本によってはメフメット2世とも書かれているが、ここでは塩野さんの本にならって、モハメット2世として統一している。)
(この旅行記は旅の順番通りには編集していません。)
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 友人
- 交通手段
- 鉄道 タクシー 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
ガイドブックの他に読んでいた本。
「一都市の陥落が、長い歳月にわたって周辺の世界に影響を与え続けてきた一文明の終焉につながる例となると、人類の長い歴史のうえでも、幾例を数えることができるであろうか。そして、それがしかも、年がはっきりしているだけでなく、何月何日と、いや時刻さえもはっきりと示すことができるとしたら、、、」
(塩野七海氏によるコンスタンティノープルの陥落、より引用。
以下引用する際には「陥落」と記します。)
ビザンティン帝国(東ローマ帝国)の始まりは
この街が、330年5月11日、コンスタンティヌス大帝によってコンスタンティノポリスと命名された時にさかのぼる。この日がギリシャ語を話す、ローマ帝国の始まりの日で、その後
1123年にわたって首都として存続し続けた。
6世紀半ば、東ローマ帝国の勢力圏は最大のものとなる。
その後、東方に台頭し始めたオスマン・トルコによってビザンティン帝国は
次々に領土を失っていく。 -
1402年当時の勢力分布図
1362年にはすでにアドリアーノポリはトルコにより陥落し、
トルコは首都をアジア側のブルサからアドリアーノポリに移し
西方へと躍進を続ける。
1385年、ブルガリアの首都、ソフィアもトルコ軍により陥落。
14世紀末にはビザンティン帝国皇帝の力が及ぶ範囲は首都
コンスタンティノープル周辺とペロポネソス半島内陸部のみと
なってしまっていた。 -
5月23日、まず
ホテルより、T1の路線でまっすぐのトプカブで下車。
1453歴史パノラマ博物館を訪れた。
内部にはコンスタンティノープルが滅亡する1453年の
その日の様子が描かれているとのこと。 -
しかし到着時はすでに
入場を待つ人の列がびっしりと。
おそらくトルコの人たちの列と思われる。
どのぐらいの待ち時間がかかるかわからず、
入場はあきらめることにした。 -
「領土的にはトルコに囲まれ、軍事的には無も同然、経済的には西欧の商人国家に支配されていた15世紀のビザンチン帝国をひきいる皇帝が、偶然にも、創立者と同じ名のコンスタンティヌス11世であった。東ローマ帝国最後の皇帝となるこの皇帝は、しかし、滅びゆく優雅な文明を体現するかのように、名誉を尊びながらもおだやかな性質の、49歳の洗練された紳士であった。2回の結婚も、いずれも妃に先立たれている。子はなかった。
このコンスタンティヌス皇帝に、古代ギリシアとローマの文明から影響を受けながらもそれらとはちがい、またオリエントの影響からそれを充分に吸収しながらも独自性を保ちつづけた、ビザンチン文明の象徴、コンスタンティノープルを守る使命が課せられたのである。
相手は、20歳を越えたばかりの、一人のトルコの若者であった。」
「陥落」より引用 -
一方の対戦国、トルコ側は
1432年、スルタン・ムラードの三男として生まれたマホメッド2世は、
長兄の死、続いて次兄が暗殺され亡くなった後、11歳のとき、スルタンの世継ぎとしてアドリアーノポリの宮廷に移る。
12歳でいったん、父ムラードから位を譲られスルタンとして即位するが、2年後復権した父親からマニサに追放される。
1451年、父の死とともに、正式にスルタンに即位。
即位後の新スルタンは、ビザンチン帝国、オリエントの諸国と、前スルタン時代に結ばれた不可侵条約を更新。当初は周辺諸国は新スルタンに対しての楽観的評価をしていた。
しかし、コンスタンティヌス皇帝ただ一人、即位のわずか一か月後には、西欧に向けて、援軍派遣要請の為の使節を送っていた。
(写真は軍事博物館に展示されていた当時の絵地図。
コンスタンティノープルをぐるりと城壁が取り囲んでいる様子がよくわかる。) -
マルマラ海から金角湾まで連なる城壁は全長6.5キロ。
その大部分は5世紀前半、テオドシウス2世の時代に築かれた。
当初は一重の城壁だったが、後に外壁に濠を加えて補修され、一千年余にわたってコンスタンティノープルを守り続けることとなった。
絵図左にあるのが、ビザンティン時代は聖ロマノスの門と呼ばれた、トプカプ(大砲の門の意)。攻防の際、モハメット二世はハンガリー人技師に造らせた大砲をこの門の前に据えて攻撃を続けた。
右手に見えるのがエディルネ門。イスタンブールで最も高い丘の上に建っている。
ビザンティン時代はカリシウス門、或いはアドリアーノポリ門とも呼ばれた。 -
トラムで一駅もどり、バザルテッケにて下車。
トプカプへと向かう。
(このトプカプはトプカプ宮殿とは別の場所にある。) -
近づくにつれ城壁がかなりの大きさであることが実感される。
ハンガリー人のウルバンがアドリアーノポリの宮廷を訪れ、この城壁を破壊できるほど巨大な大砲を造れると言ったとき、宮廷の人々は初めは誰も相手にしなかった。
最初はウルバンはこの話をビザンティン帝国の宮廷へもっていったようだが、当の帝国ではすでに、その話にのれるだけの財力がなかった。 -
当時の地中海世界で最も堅固だとの評判のこの城壁が
破壊できるというウルバンの話に興味をもったモハメット二世は
ウルバンがビザンティン皇帝に要求した3倍の報酬を約束。
その後、大砲の製作が進むにつれ
コンスタンティノープル奪還の具体化計画が進むこととなる。
ある夜、呼び出された宰相の一人は
スルタンから
「わたしがあなたから欲しいと思うものは、ただひとつ
あの街をください」
とあっさりと告げられる。
この宰相が進めてきた共存共栄主義はここから方向転換することとなる。 -
この周辺は補修工事も行われ、きれいに整備されている様子。
場所によっては崩れ果てた城壁がそのまま放置されている
地区もあるようで、
そこに無断で住み着いているジプシーたちもいて
昼間でも一人では近寄らないようにとの注意書きのある
ガイドブックもある。 -
しかしこの周辺は
城壁にそってレストランのテラス席も設けられていて
しばらく日差しをさけてチャイでのどを潤した。 -
トプカプ周辺部の城壁を見学した後、
カーリエ博物館まではタクシーを利用。
博物館見学のあと
友人を残して
城壁へ向かって坂道を
上っていってみることにした。 -
坂道を上りつつ
今来た道を振り返ってみている。
たしかにエディルネカプと呼ばれる門
は一番高い地に建っているということが
わかる地形。 -
上りきった左手(写真では後の右手)に
その城壁があるはず。 -
坂道を登り切ったところには
予想通り城壁が立ちはだかっている。
丁度手前にあるレストランの外に立っていたー
人に聞いてみた。
モハメッド2世が入場した門はどこですか?と。
“スルタンのことか?”
とうれしそうな様子で聞いてきたその人から
左手の、城壁が途絶えていて、いまでは交通の激しい
大通りを渡った所の、しばらく先にあることを
教えていただいた。 -
その先の大通りは信号もないし
渡るのは難しそうだから・・・
と答えたら、全く問題ないよ!と軽く言われ
その気になって渡ってしまった。
(その大通りを渡り、来た方向を振り返って見ている。) -
間もなくこんな立て看板が。
-
この城門から
マホメッド二世は入場をしていった。 -
-
-
-
5月24日
タクシム広場から歩いて軍事博物館へ向かった。
ここも前回見学できなかったところ。
入場料はカメラ持ち込み料金こみで
12.5TL。 -
時代を追って
軍事関連の展示物があるようだが
おもにコンスタンティノープルの攻防関連
の展示を見たいと思っていた。 -
歴代のスルタン
(新しいものは大統領も?)
を表す画像。 -
ヴィザンティン帝国とトルコとの攻防を簡単に。
1453年4月2日
金角湾は鉄の鎖で封鎖された。
船の操縦能力では劣っているが、数では数十倍にもなるという
トルコ軍への対抗手段。
敵の侵入も防げるが、同時に味方にとっても逃げ道が絶たれることとなる。 -
この鉄の鎖は
男性の二の腕の太さもありそうな
鉄の棒で編まれている。 -
この鎖が、一方はコンスタンティノープル側の城壁の塔に結び付けられ
金角湾では重い鎖が海中深く沈まないよう木製のいかだに固定されつつ
もう一方は対岸にあるジェノヴァ居留区を囲む城壁の塔の一つに固定
された。 -
一方トルコ側は
ジェノバ居留区を巡る城壁沿いの少し離れたところの道路整備を始めた。
地固めの後、木材で軌道を敷設。そこに動物の脂を塗り滑りを良くして
艦隊の陸越えを計画。
押し上げた船はガラタの丘の最も高い地点からは金角湾に向かって滑りこませていった。
4月22日、70隻ものトルコ艦隊が封鎖されたはずの金角湾の内部に突然出現した。 -
コンスタンティノープル陥落の前夜となる1453年5月28日、
人々は日没後からアヤ・ソフィア教会に集まり、決して起こることのない奇跡を求めて一晩中、祈り続けた。夜が明けて、トルコ軍の先兵がこの教会に殺到し、閉ざされた扉は打ち破られた。
(陥落後、モハメット二世はただちに損傷した教会を修理し、モスクに造りかえた。) -
城壁をはさんで攻防戦の様子を
現わす絵図。
手前にあるのはウルバン製作による大砲。
一日に七発しか発射することが出来なかったという大砲は
陥落の日まで、七週間にわたってその轟音をとどろかせたという。 -
5月29日になったばかりの夜半から
トルコ軍全軍あげての総攻撃が開始された。
やがて
破壊された城門からなだれ込むトルコ兵の勢いはどんどん増していき
塔の上に翻っていた帝国旗とヴェネツィア旗が落ち
代わりに赤字に白の半月の旗が翻った。
ビザンティン帝国最後の皇帝は、紅の大マントを脱ぎ捨て
皇帝の印を示す飾りを服からはぎ取って捨てた。 -
そして、皇帝は剣を拔き、なだれをうって迫ってくる
敵兵の真っただ中へ姿を消した。
他の二人の騎士も、それにつづいた。
(陥落より引用) -
-
入場する際、モハメット二世は
今まで愛用していた黒馬にかわり
ビザンティン皇帝にならって白馬にまたがった。
一都市の征服から
モハメット二世は、「征服王」
と呼ばれることとなる。 -
モハメット二世は
そのまま廃墟と化した街をまっすぐアヤ・ソフィアへと向かった。
聖堂の壮麗さに感動した青年スルタンは、寺院の前にひざまずくと、
両の手で砂をすくい、自らのターバンに振りかけて、アッラーへの恭順の
意を表したという。
(「イスタンブール歴史散歩」より引用) -
-
モハメット二世の妃、ギュルバハルはフランス王の娘に生まれ、ビザンティン最後の皇帝、コンスタンティヌス・ドラガセズに嫁すべくコンスタンティノープルに送られたが、そのときすでに都を包囲していたトルコ軍に捕えられ、征服王の妃になった。
スルタンはいたく彼女を寵愛し、彼女は後のバヤジェット二世の母となったが、けっしてイスラムに帰依することなく、キリスト教徒として死んだという。
数奇な運命に翻弄された王女も、今は清楚な廟(ファティフ・モスク裏にある霊廟)に安らかに眠っている。
(「イスタンブール歴史散歩」より引用) -
近代ギリシャの人々にはいずれはトルコ人の手から自分たちの首都を奪還するという夢想が、ある時期まではあった(実現性はまったくなかったのだが)。今でもギリシャ人はイスタンブールをコンスタンティノープルと呼ぶし、東ローマ帝国最後の皇帝コンスタンティヌスは決して戦死したのではなく、白い大理石の像となってあの都市の地下に眠っている。時が来れば目覚めて再びギリシャ軍を指揮するなどという伝説もあった。要するに、ギリシャ人はさまざまな意味で今でもオスマン・トルコを心の中に強く意識して生きているのである。
(池澤直樹氏 「記憶の都市」より引用)
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この旅行記へのコメント (7)
-
- しにあの旅人さん 2019/06/21 08:44:11
- シチリアからやってきました
- 歴史の舞台を訪ねる旅、いいですね。城や風景をただ見るだけでは、それこそただの物見遊山。その背後に歴史と人物の物語があってこそ、旅だと思っています。歴史は見えませんが、資料を調べてそこに行くと、当時の雰囲気を感じます。帰ってきてブログにまとめていると、はっきりと見えてくるような気がします。
楽しませていただきました。
トルコも行ってみたいけれど、ギリシャもまだだし、イタリアはかたづいていないし。
お金はなんとかなるとしても、健康と寿命がもつかな、と思っています。
- mistralさん からの返信 2019/06/21 17:14:22
- RE: シチリアからやってきました
- シニアの旅人さん
こちらへもメッセージをありがとうございました。
随分昔、イスタンブールへは行ったのですが、その折は
まだ塩野さんには出会っていなかったようです。
その後、次々と読みはじめ
マルタ、コンスタンティノープル、数度のヴェネツィア、
ロードス島はまだですが、など
我ながら随分影響を受けたなあ、と今更ながらに思いました。
他の作家さんからも、別ジャンル、例えば巡礼路とか、カタリ派とか
影響を受けますので
訪問したい地は増えるばかりです。
おっしゃるように、1番必要なのは自身の、もちろん相棒もですが、
健康でしょうね〜
これからもワクワクできる旅ができますよう
奥様も、我が夫も含めて、お互いに健康に留意しつつ
旅を楽しみましょう。
mistral
> 歴史の舞台を訪ねる旅、いいですね。城や風景をただ見るだけでは、それこそただの物見遊山。その背後に歴史と人物の物語があってこそ、旅だと思っています。歴史は見えませんが、資料を調べてそこに行くと、当時の雰囲気を感じます。帰ってきてブログにまとめていると、はっきりと見えてくるような気がします。
> 楽しませていただきました。
> トルコも行ってみたいけれど、ギリシャもまだだし、イタリアはかたづいていないし。
> お金はなんとかなるとしても、健康と寿命がもつかな、と思っています。
-
- 2013tomoさん 2015/08/13 15:43:12
- 詩情を感じました。。
- 私たちも2012に夫婦でトルコを訪問いたしました。
私も塩野さんお本を読んで興味を持っていましたが
旅の丁度初日が偶然にコンスタンチノープル陥落の日
でした。
空は晴れていたのですが肌寒い日であったことを覚えて
います。
mistralさまの記事や写真や絵を見ていて何か1000年帝国
が消滅する叙事詩を読んでいるような気持になり熱い想い
を感じました。
私も巡礼路を歩いていますと「いつか来た道」のノスタルジアを
たどっているような懐かしい気持ちになるときがあります。
これからもよろしくお願いいたします。
- mistralさん からの返信 2015/08/13 17:59:28
- RE: 詩情を感じました。。
- 2013tomoさん
沢山の投票、そしてコメントを
ありがとうございました。
塩野さんのご本、何故か惹かれます。
その本の舞台をたどると、その時代に生きていた
人たちの熱い息が感じられるようです。
多分、塩野さんご自身がそのような想いで、小説を
かかれているからなのでしょうね。
> 私たちも2012に夫婦でトルコを訪問いたしました。
> 私も塩野さんお本を読んで興味を持っていましたが
> 旅の丁度初日が偶然にコンスタンチノープル陥落の日
> でした。
> 空は晴れていたのですが肌寒い日であったことを覚えて
> います。
すごい偶然でしたね〜
まさに呼び寄せられたかのような。
> mistralさまの記事や写真や絵を見ていて何か1000年帝国
> が消滅する叙事詩を読んでいるような気持になり熱い想い
> を感じました。
ありがとうございます!!
> 私も巡礼路を歩いていますと「いつか来た道」のノスタルジアを
> たどっているような懐かしい気持ちになるときがあります。
実は、サンティアゴ巡礼
ここをたどらなくてはいけない想いがずっとありました。
この9月、最後の100kmだけですが歩いてきます。
tomoさんはとっくに達成されているんでしたね〜
その上で、さかのぼって歩かれているご様子。
お写真の数が少ないのですが
歩くことの過酷さが伝わってきます。
でも、心の中の動きがたくさんあって・・・
とっても興味深く拝見しました。
こちらこそ、よろしくお願いいたします。
mistral
- 2013tomoさん からの返信 2015/08/13 18:29:46
- RE: RE: 詩情を感じました。。
- > 2013tomoさん
>
> 沢山の投票、そしてコメントを
> ありがとうございました。
>
> 塩野さんのご本、何故か惹かれます。
> その本の舞台をたどると、その時代に生きていた
> 人たちの熱い息が感じられるようです。
> 多分、塩野さんご自身がそのような想いで、小説を
> かかれているからなのでしょうね。
>
> > 私たちも2012に夫婦でトルコを訪問いたしました。
> > 私も塩野さんお本を読んで興味を持っていましたが
> > 旅の丁度初日が偶然にコンスタンチノープル陥落の日
> > でした。
> > 空は晴れていたのですが肌寒い日であったことを覚えて
> > います。
>
> すごい偶然でしたね〜
> まさに呼び寄せられたかのような。
>
> > mistralさまの記事や写真や絵を見ていて何か1000年帝国
> > が消滅する叙事詩を読んでいるような気持になり熱い想い
> > を感じました。
>
> ありがとうございます!!
>
> > 私も巡礼路を歩いていますと「いつか来た道」のノスタルジアを
> > たどっているような懐かしい気持ちになるときがあります。
>
> 実は、サンティアゴ巡礼
> ここをたどらなくてはいけない想いがずっとありました。
> この9月、最後の100kmだけですが歩いてきます。
> tomoさんはとっくに達成されているんでしたね〜
> その上で、さかのぼって歩かれているご様子。
>
> お写真の数が少ないのですが
> 歩くことの過酷さが伝わってきます。
> でも、心の中の動きがたくさんあって・・・
> とっても興味深く拝見しました。
>
> こちらこそ、よろしくお願いいたします。
>
> mistral
miistral様
2012年の秋にサリアからコンポステーラまで
歩いたのが巡礼の始まりでした。
翌年の早春にパンプローナからアストルガ、
晩春にアストルガからコンポステーラ、そして
フィニステーラまで歩きました。
しかし、何度歩いてもカミーノは初めて歩くような
気持ちがしています。
今回もピレネーを越えてからスペイン側も少し奥まで
歩いたのですがまた違った経験を得ることができました。
ヘラクレイトスの言葉にありますように
「万物は流転する」、「太陽は日々新たである」
なのかもしれません。
mistral様の言われる通り
写真が少ないのは歩くのに精一杯でカメラを手に
取るゆとりがなかった時期です。
巡礼も後半になりますと(相変わらず下手ですが)
写真の枚数も増えてきました。
文書も写真も力が足らず経験したことをお伝えできず
いつももどかしい思いをしています。
でも拙いながら一緒に来れなかった家内や仲間たちに
少しでも巡礼の楽しさや驚きを伝えれことができればと
筆をとっています。
これからもお時間がありましたらご意見を下さい。
ご返信ありがとうございました。
Buen camino!
Tomo
-
- わんぱく大将さん 2015/06/17 05:46:22
- 私の頭では手に負えない
- mistralさん
一度旅行記拝見させていただきましたが、歴史が頭に入らない。 自分のノートに書いて表にしないと今、頭の中はぐちゃぐちゃ。 要は頭が悪いってことでしょう。 もう一度拝見します。
大将
- mistralさん からの返信 2015/06/17 08:21:24
- RE: 私の頭では手に負えない
- 大将さん
おはようございます。
すみませんね〜
ぐちゃぐちゃした旅行記でして。
伝えたいものはあるんだけど、
すっきりと書くのが難しいのです。
軽く流して下さいな。
mistral
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