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【あみんちゅ暴走南国の旅その参奄美群島編~奄美大島・喜界島~】<br /><br />2013年9月に〝初石垣〟を体験したことからはじまった〝南国の旅〟シリーズですが、今回は鹿児島県の離島である〝奄美大島〟と〝喜界島〟を訪ねます。LCCを使った旅がほとんどですが、今回の目的地である〝奄美大島〟は関西地区からのLCC便は今現在ありません。成田発のバニラエアーの便はありますが、成田まで行ってから奄美まで向かうことを考えると〝時間のロス〟の割には〝金額的なメリット〟があまりないという結論に至りました。休みを取る〝日数〟はともかく、その〝時間のロス〟が出ないようにするパターン、それが今回利用した私にとっては〝天敵(笑)〟のH旅行社のフリープラン、奄美大島1泊5日を利用しました。私自身このエリアに関する情報には疎いため、JALの単独運行=すごく高い!というイメージしかありませんでした。しかしふたを開けると…基本(往復飛行機+一泊の宿泊代)が25,500円♪ただ今回は1・2泊目を合わせるために1,000円アップの26,500円で手配ができました。最近のIT運賃と呼ばれるものの〝クラス分け〟がどうなっているのかはわかりませんが、10日前締め切りのこの商品、事前指定できる座席には限りはあるものの、本当に〝お気軽料金〟で旅することができます。当日空席があればの条件はあるものの、空いていれば1,000円追加でCLASS Jが利用できます。これはオススメです♪<br /><br />それでは今回の旅第五章〝あみんちゅ暴走南国の旅その参之⑤奄美群島~4日目後半:喜界島観光編~〟がはじまります♪この4日目のみ便宜上前半と後半に分けて書いております。<br /><br />2015年5月21日木曜日<br /><br />癒しの宿さとの家  08:55<br />奄美空港  09:52(ADD362.2km:TP36.2km)<br /><br />10:50搭乗開始 JN3831《1C:6,600円》<br />10:53搭乗<br />10:59ドアクローズ<br />11:02ムーブ<br />11:05離陸<br />11:08着陸案内コール<br />11:12着陸<br />11:14停止<br />11:15降機<br />喜界空港  11:20(ターミナル)<br /><br />Jネットレンタカー喜界空港店 12:30(レンタカー乗り出し)<br />旅館早町荘 18:50(81.3km)<br /><br />あっという間の7分間の貴重な〝空の旅〟を経験し、やってきました〝初喜界島〟です。多分ここまでローカルな空港というと、一昨年冬の〝与那国空港〟以来だと思います。しかしその時は夜着の夜発だったため、制限区域からの空港建物を見た記憶がありません。なので機内から見た〝空港建物〟と駐車場から見た〝空港建物〟の一見した区別がつかないものには〝新鮮味〟すら覚えます。とは言え建物を通過するのに〝○(一桁の数字)秒〟しかかからないので、あっという間に建物外に出てしまった後、荷物を受け取りに建物内に戻ります。荷物を受け取ってから一服し、レンタカーを借りに行きます。Jネットレンタカー喜界空港営業所、空港から徒歩1分で到着する場所に位置しており、通常はレンタカー会社にありがちな〝送迎〟は雨天以外ありません。別にそれは気にもならないのでバックを抱えて歩いて行きます。直近の予約として軽自動車3台入っているのでしょうか。新型の〝モコ〟くんがスタンバイしています。ついつい1時間前に乗っていた旧型〝モコ〟くんと比較してしまいます。おまけに〝奄美ナンバー〟なので♪<br /><br />≪施設情報:レンタカー≫<br />Jネットレンタカー喜界空港営業所<br />〒891-6203 鹿児島県大島郡喜界町中里200番地イ<br />(TEL)0997-65-4355<br />J1クラス(軽自動車)免責補償込(4,270円)<br />JN150502-1947-39374<br /><br />このJネットレンタカーのご主人、〝ザ・地元〟の方で、観光地案内をしてくれます。私はお店から見えている喜界町指定史跡の〝戦闘指揮所跡〟をお伺いしたので、車を乗り出す前に見学するために向かいます。喜界島と言っても知名度はさほど高くはないのかも知れません。奄美大島から25km程離れたところにある隆起珊瑚礁の島になります。鹿児島と奄美大島を結ぶ空路がそれぞれ3往復あるものの、現在ではの~んびりとした町となっています。しかし今から約70年前の第2次世界大戦末期には、旧海軍飛行場として沖縄戦に向かう〝特攻機〟の中継基地になりました。負の歴史ではありますが、それを後世に伝えるべく保存に尽力されている場所こそがこの喜界町ではないかと思います。全国に点在する戦争史跡全てにいえることではありますが、経年による劣化は否めないところはあります。しかしこの喜界町にある戦争史跡は全て保存状態としてはかなり良好ではあるように思います。勿論保存をするだけでは伝わらないことも多いかと思います。しかしJネットレンタカー喜界空港店のご主人をはじめとした〝島の方々〟が観光で来る来島者に、その史跡の情報を伝えておられ、最終的な判断は本人達の判断に委ねられるものの、その積極的な姿勢により感化され、〝訪問地〟として加えてみようかと考える材料となっていることは、やはり喜界島で現実にあった歴史の事実を風化させないためだという強い信念に基づいていることのように思います。<br /><br />今回空港近くの戦闘指揮所跡の他、掩体壕、そして旧海軍戦没者慰霊塔を訪問しましたが、他ににわか作りの掩体壕も現存していると言った生きた情報を聞くこともできました。なかなか時間のやり繰りの関係で全てを一度に回り切ることも難しいことではありますが、そのこと即ち〝何もない島〟のようで、実は色々なものがたくさん隠れている〝宝の島〟ではないかと思います。そのため今回回り切れなかったところは次回の課題として、再訪する必要性を改めて感じました。また平家の〝落人伝説〟に纏わるものも多々あり、歴史に触れる体験ができることも喜界島の〝良いところ〟ではないでしょうか。<br /><br />Jネットレンタカー喜界空港店隣の戦闘指揮所跡を見学に行きますが、入口が破損し、鉄筋が見えている部分があります。これは連合国の爆撃によって破壊されたものだそうです。ひとつの入口が破壊されても機能するように4つの入口が作られているこの建物、中へと入ることができます。なかなかそのような体験をすることはできないので、70年前へと〝疑似タイムスリップ〟を体験されても良いかも知れません。ただ〝蜘蛛の巣〟が張っていることがありますので、気にされる方は気をつけて下さい。ちなみに喜界島には〝ハブ〟は生息していませんので安心です♪<br /><br />小一時間ほど戦闘指揮所跡を見学した後、いよいよ車を乗り出して、喜界島ドライブが始まります。北上するかたちで向かった先は〝子午線東経130度モニュメント〟。こちらは小野津集落の海辺にあるグラウンドの駐車場に位置しています。海を背にしてモニュメントが建っていますが、それだけと言えばそれだけかも知れません。それより道路に引かれた〝オレンジ色の線〟、これが東経130度の〝子午線〟になりますが、島の反対側の早町集落でも同じものを見ることができます。当たり前のことですが、南北を結ぶ子午線は島を横断する形で走っています。でもそれを該当エリアでは必ず見ることができるので、そちらの方が印象深く残っています。確か島の道路には〝追越禁止〟がなかったので、それらしき線は、東経130度の子午線だと思って間違いないはずです。<br /><br />そして一旦早町漁港へ向かう道を走り、〝雁股の泉〟へとやってきます。流罪になった〝源為朝〟所縁の場所とされており、為朝が放った矢を抜いた場所から泉が湧いてきたという伝説があるそうです。まあ出来過ぎた話にも思えますが、昼間でも少し暗くなっている場所にあるため、その〝伝説〟が強ち伝説だけではないように思える場所でもあります。<br /><br />そして次に訪れた先が〝ムチャ伽那公園〟、加計呂麻島に住んでいたとされる絶世の美女〝ウラトミ〟、そして娘の〝ムチャカナ〟の悲話伝説の場所でもあります。加計呂麻島にすむ美しい〝ウラトミ〟に群がった奉行の誘いを断ったがために、村に重税が課せられることになってしまい、それを思い悩んだ父母は船に身の回りのものを乗せて〝ウラトミ〟を島から出すことにします。その船が着いたのが今の喜界島の小野津集落でした。ここで〝ウラトミ〟は島の役人と恋に落ち、貧しいながらも幸せな生活を送っていました。やがて二人の間に〝ムチャカナ〟という女の子が生まれます。月日が経つに連れ〝ムチャカナ〟は母に負けじ劣らじの美人になっていきますが、それが島の女たちから不評をかい、アオサ取りに誘われた際に、崖から突き落とされ亡くなってしまいます。ムチャカナが帰ってこないことを心配し方々を探していた両親は、崖下に群がるカラスを発見し、ムチャカナの変わり果てた姿を発見します。ムチャカナの遺体を小山に埋め、供養のためにウラトミが杖代わりに使っていた〝ガジュマル〟の枝を塔婆として立てました。しかしその後も娘を失ったウラトミの悲しみは消えることがなく、遂には崖から身を投げてしまいます。これに似た話として宮古島の〝マムヤ伝説〟がありますが、なぜ南の島では〝美人〟は悲劇の主人公になってしまうのでしょうか…。一説には〝部外者説(島外の出身者)〟というのもあるようですがどうなんでしょうか?昔から〝美人薄命〟とは言われますが、幸せになれなかったことが、いっそうその〝美人〟という形容詞を増幅させているようにも思います。そういう話では私はある意味〝幸せ〟なのかも知れません…チャンチャン。<br /><br />そしてここから左折し、島最北端のトンビ崎を目指します。ただこのあたりはナビのガイドが使えず、現在地を表示させながら地図で位置関係を確認しながら走ります。トンビ崎公園とされているものは、多分海水浴場の場所ではないかと思います。ただこの一帯は少し進めば砂浜が広がっているので〝どこからどこまで〟か良くわからないまま進んでしまいました。そして海岸沿いの道からふと見えた灯台、これが〝トンビ崎灯台〟になりますが、観光地化されてはおらず、実際に使われている灯台としての説明が書かれていました。灯台と言えば、眼下に絶景が広がっているのは観光地化されたものが多くある中、このトンビ崎灯台下からは、残念ながら海も見えませんでした。<br /><br />そのまま海岸線を進んで行くと、左手に大きな〝トイレ〟らしきものが目に入ります。この場所が〝平家上陸之地〟になります。それ程大きくない碑がポツンとある場所ではありますが、白砂の浜辺に天然の入江があるこの場所は、今から約800年前に壇ノ浦で敗れた平家の残党200余名が上陸したところとされています。源氏の追手から逃れるために南へと逃げていることは間違いないのですが、ここの風景から推測するに少し〝目立ち過ぎる場所〟のようにも思います。その当時情報網がどれほどのものだったかはわかりませんが、住人に気付かれて通報される危険性もあったのではないかとも思います。しかし一方源氏に敗れたものの平氏も天皇家の血筋であることから、その一団がまとまって上陸できる場所として選んだのではないかとも思います。いずれにせよ鎌倉時代初期のことを想像するのは面白いものです。知識がないから〝想像が膨らむ〟的なものもあると思うので…。<br /><br />平家上陸之地近くには菅原神社があります。この喜界島沖名泊に無事上陸した平資盛一行が、無事漂着したことを神に感謝し、また平家一門の武運を祈願して奉納されたことがはじまりとされており、以前は村社の扱いだったこともあるように書かれていましたが、現在では宗教法人の所有と書かれてます。ここらの話はホント無知なので、〝宗教法人〟が持つ〝神社〟というものがわかりません。でもやはりお参りだけはさせて頂いてきました。<br /><br />お参りを済ませた後車へと戻り、島一周コースを進んで行きます。途中今宵の宿のある早町集落を通過しますが、郵便局へと立ち寄っただけで走って行きます。そして場所表示のあった〝嘉鈍の巨大ソテツ〟へと立ち寄ろうとしますが…、道がわかりません。迷うものでもないだろうと言われそうな喜界島の農道ですが、そのピンポイントがわからぬまましか〝走れない〟ため、どうも効率が悪いように思います。それでも執念でたどり着いた場所にある樹齢300年と言われるこのソテツの大木、やはり見ごたえがあります。しっかりと写真に収めて次へと急ぎます。<br /><br />途中集落内の細くて入り組んだ道をヒヤヒヤしながら走って行き、郵便局へと立ち寄った後、空港前迄帰ってきます。そしてなぜか向かった先がドコモショップ喜界島店。なぜここまで来てドコモショップなのか、ドコモユーザーならわかるかも知れませんが、マイショップ登録のためです。普段行きつけのお店としてのマイショップなのに、関西在住がなぜ喜界島店なのか?別に深い意味はないのですが、行動範囲にキャリア(ここでは電話会社)のショップがないため、旅行先で登録しています♪あ、ちなみにもう1店舗は石垣店になっています(笑)。<br />しかしドコモショップと言うと実機がゴロゴロ置いてあって、体験ができるイメージがあるのですが、ドコモショップ喜界島店には実機がありませんでした。まあいろんなお店がありますね♪またドコモショップの並びにはクリーニング屋さんとスーパーがあります。最初中で繋がっていることがわからずにスーパーに入り、通路を発見!スーパーで聞くと同じ系列だということが判明。う~ん面白いです♪<br /><br />待ち時間なしで手続きが終わると、次に向かった先は〟ヨシカワおみやげセンター〟。スーパーも併設しているので、お土産屋さんと言っても地元の方も普通に買い物をされており、知らずに行くと???となるかも知れません。しかし間違いではありません。でもひとつのお店で用が済むのも便利で良いかも知れません♪他の場所の〝お土産屋さん〟と比べると、品数は若干少ないようにも思いますが、それでも職場や自宅用のお土産は揃うので、使い勝手はありますね♪<br /><br />お土産と飲み物を購入し、次に向かうは〝空港臨海公園〟と〝スギラビーチ〟。空港臨海公園の中にスギラビーチという〝人工のビーチ〟があるようになっています。喜界空港の海側一帯になっていますが、これまたナビ検索ができません。どこを曲がって行けばいいのかが良くわからず、空港一帯の道をぐるぐる迷子になりながら走ります。結局空港前を一旦南下し、そのまま空港滑走路の脇を走った後に走って行くと…ありました。シーズンになると相当な数の海水浴客が集まるのでしょうか、トイレやシャワー設備も整っています。このスギラビーチですが、先述したように〝人工〟で作られたものです。喜界島の海岸は、砂浜が少なく海水浴に適する場所が少ないためだということが理由だそうです。確かに〝天然〟のものほど荒々しさはなく、一見すると〝違和感〟すら覚えるこのビーチではあります。しかし〝離島〟でありながら〝海水浴〟ができないことを考えたものであり、その考えには賛同できます。もう日がだいぶ傾いてきているため、海に入っている方もいませんでしたが、このビーチがどのような感じで使われているのかを見てみたいようにも思います。そしてスギラビーチのすぐ脇にある石碑が〝海軍航空基地戦没者慰霊之碑〟になります。先述のように約70年前、この喜界島は特攻隊を含めた主に沖縄戦に向かう飛行機の中継基地でした。夕闇と共に本土から飛んできた飛行機は、給油・整備をした後、明け方に南方へと飛んで行きました。そういった背景もあり、平成6(1994)年に建立されたものがこの慰霊之碑になります。喜界町や島民の方々が積極的に史跡の保存とその場所への観光客を案内することに尽力をされている中、慰霊塔の建立そのものは旧海軍航空基地戦没者慰霊之碑建立期成会であるものの、島全体が戦争を経験した生き証人となっていることは、負の遺産を後世の〝戦争を知らない世代〟へと引き継ぐ〝伝道師〟としての役割を担ってくれていることに、個人的な意見ではありますが〝ファイト!〟とエールを贈りたいように思います。<br /><br />この慰霊塔から、喜界空港全体が見渡せます。先の大戦中に海軍の不時着用飛行場として産声を上げた喜界島飛行場ですが、南方の戦線状況の悪化に伴い、旧海軍喜界島飛行場となり、沖縄戦線に向かう特攻隊を含む戦闘機の中継基地としての役割を果たしました。当時は東西南北に1,000mの滑走路を持ち、状況を問わず離発着できる飛行場であったようです。敗戦と共に閉鎖され、その後喜界町が昭和34(1959)年に1,080mの未舗装滑走路を持つ喜界飛行場として運用開始、昭和43(1968)に1,200mの舗装滑走路を整備、昭和46(1971)年喜界島空港と改名、昭和49(1974)年に運営が鹿児島県に移り鹿児島県管理の喜界空港として生まれ変わりました。現在では一地方のローカル空港として、6便のJACのSAAB340B型機が鹿児島と奄美を結んでいます。往年の東西の滑走路の面影はなく、エプロンを出た飛行機が、滑走路端でクルッと回って北方向へと飛びたっていく姿を、の~んびりと眺めることができます。<br />機内からも慰霊塔前からもどちらからもお互いの姿を確認できることは、戦争という〝暗黒の時代〟に弄ばれたことを連想することは何ひとつないようにも思います。しかし戦争の犠牲者を祀る慰霊塔が目の前の滑走路を走る飛行機を見守っていることこそが、戦争を知らない世代が暴走し、飛行機を利用することをけん制しているように見えてなりません。そう離陸して行く飛行機を見ながら思いました。<br /><br />17:00発の鹿児島行き最終の飛行機を見送り、時間を少し気にして次へと向かいます。掩体壕、喜界徳洲会病院の近くになりますが、またこの場所が地図だけの頼りになります。路肩に止まりながら現在地を確認しながらなんとかたどり着きました。掩体壕とは、戦闘機を爆撃から守るために作られた駐機場のことですが、大戦末期には作る材料がなく、コンクリートに入れる混ぜ物を増やして作られたものもあります。この喜界島でも鉄筋入りのまともなものはここだけであり、あといくつかあるものは突貫工事の末に作られたもののようです。全国に点在していた掩体壕は、元々軍の飛行場自体土地の強制収用のもとで作られているため、戦後農地として払い下げられ、農家の倉庫として使われたものもあれど、あまり使い勝手が良いものとは言えず、劣化とともに壊されてきたものが多いとは聞いていました。しかしこの掩体壕は保存状態が良く、内部には立ち入りを禁止されてはいるものの、飛行機を守るという目的がうなずけるものだと思います。この喜界島の戦争史跡は私有地にあるものが多いと聞いています。保存はもとより、場所を確保しておくのも労力は必要だと思います。しかし可能な限り現状維持の対策をして頂けること、観光客の戯言とは思いますがお願いしたく思います。<br /><br />この掩体壕のすぐ近くには〝俊寛僧都の墓〟伝承地があります。平安時代末期の平氏絶頂期の時代に、打倒平家の企てとして〝鹿ケ谷の陰謀〟に加わった俊寛僧都、その陰謀が密告によって露見し、平清盛に捕えられ、陰謀に加わった藤原成経・平康頼と共に流罪に処せられた先がこの喜界島とされています。その後清盛の娘で高倉天皇の中宮である〝建礼門院徳子(※建礼門院は出家後の追号)〟の安産祈願のための恩赦を受け、藤原成経と平康頼は京都へと戻されますが、俊寛僧都は最後まで許されず、失意のままこの地で没したとされています。この流罪に処せられた場所は諸説あり、喜界島もそのひとつではあります。しかしよくある間違いとして、〝喜界島〟=〝鬼界島〟と誤変換または勘違いされていることがあり、その一般的に存在する〝間違い〟こそが俊寛僧都の流罪先説とされている根拠であるようにも思います。ちなみに私もしばらく前まで知りませんでした…チャンチャン。<br />俊寛僧都は自ら食を断ち自害したとされており、決して明るい話ではありませんが、もしその最後の地が〝喜界島〟であれば、平家の落人伝説を含め、平安末期から鎌倉初期の時代に、〝自らの意思〟ではないものの、歴史のイチページが〝圧縮〟されていることになります。歴史好きはもとよりあまり関心のない方も、約1,000年前の時代の流れを〝垣間見る〟ことができることは〝いとをかし〟ではないでしょうか。<br /><br />結構のんびりと回ってくると、どんどん時間がおしてきます。既に18:00前でもう一ヶ所位しか回れそうにはありません。頂いた地図を目安にして考えた先は喜界島最高地点の〝ポイント211〟。その言葉通り標高211.96mの場所ですがこれまた場所がわかりません…(泣)。旧日本軍通信施設跡が残っているこの場所には、是非とも行ってみたい想いはあったのですが…時間の絡みもあり今回は断念します。海上自衛隊の通信基地を目安に回って行きついた先が〝中西公園〟。島の南東部に位置し、標高130mのところにあるこの公園、特に〝なにか〟があるわけでもありません。芝生の広場が広がっている場所の端まで行くと、眼下に広がるサンゴ礁と、果てしなく広がる水平線に時間を忘れてのんびりできる〝と〟書いてありました。この場所を〝アタデノハナ展望台〟とする名称の謂れを説く石碑が、芝生広場の端に置かれていましたが、特に〝別個の名詞〟をつけるまでも無いようには思いました。しかし太陽が西に傾き、雲に隠れているこの時間なので〝のんびり〟する時間もなく写真に収めて先を急ぐしかありませんでした。そこから僅かな距離にあった展望スペースで、少し景色を見ようといったところ、珍しく先客がおられました。地元の方ですが、本格的な一眼レフのカメラを持っておられたので違和感を感じ、暫く話をしてきました。どうも喜界島の記録写真を撮っておられるようで、色々と島の話を聞くことができました。日本で最も隆起が激しいこの喜界島、年間2mmずつ隆起していること等、後から文献考察で知った事等含め興味深い話でした。この隆起の結果200万年後の例えはよく話されていることのようですが、2×2,000,000=4,000,000、4,000,000÷10÷100=4,000mになる答えを、私が数字ではなく〝富士山より高くなる〟のですねと答えたことがウケたようで、その他にも色々な話を聞くことができました。話好きなので時間があればお付き合いをさせて頂きたいところなのですが、宿泊のこともあり丁重にお礼を言ってお別れを致しました。ただひとつふと気になったことがありました。この喜界島は終戦間近に、飛行機の中継基地としての役割を担ったことは先述しましたが、当然基地であるがため、爆撃を受けた歴史もあります。事実現喜界空港を整備した時も〝不発弾〟がゴロゴロと出てきたこともあり、あまりの数の多さに〝埋めて〟処分をしたことなどの話も聞きました。そして空中戦も当然のことながらあった訳で、その模様が島全体で見ることができたとのこと。私自身それ程想像力が豊富な訳ではないために、話を聞くだけではなかなか〝イメージ〟として捉えられないところが多くあります。しかしこの空中戦の話を聞いた瞬間、ゾクゾク感とともに戦闘機が目の前で戦っている姿が見えたように感じました。〝déjà vu〟(デジャヴ:既視感)という程大そうなものではないのではとも思いますが、この体験は初めてのものでした。それがなぜ起こったのかはわかりません。しかしその出来事が、私自身に〝この場所〟へ再び〝誘(いざな)って〟いるのではないかと思えてなりません。残念ながら今日の〝島巡り〟を終えると明日は帰るだけになり、すぐにもう一度来られる訳でもありません。でも〝不思議な縁〟ができたようにも思え、次回の来島は〝必ずある〟と思った瞬間でもありました。<br /><br />時間を見ると18:30、さすがにそろそろ宿へと向かわないと行けません。本日の宿のある〝早町集落〟へはこのまま島一周道路に沿った道を走って行く方が、地図を見る限りでは早いように思います。しかし〝ナビ〟の案内は、一旦空港方面へと走った後に早町集落へと走れと出ています。時間の絡みもあり、〝自分のカン〟より〝ナビ〟を信じて走り始めます。途中〝ヨシカワおみやげセンター〟へ立ち寄り、飲み物購入と一服をした後にまたナビに従って走って行き、18:50無事本日の宿〝旅館早町荘〟へと到着しました。本日の走行距離81.3km、おおよそ島を2周した距離を走ったことになります。<br /><br />この〝旅館早町荘〟ですが、空港とは反対側の早町集落にあります。旅館とはいえどその表記がわからず、webページで見た記憶のある隣の〝ヨネモリストアー〟の前から電話し、その場所を確認してやっとわかりました。時間も時間なので部屋へと案内された後食事を頂くことにします。ボリューム任せの食事ではなく、地の物も適度に入った〝普通の食事〟です。このあたりは人によって解釈は別れるのかも知れませんが、どうしても離島旅を続けていると〝魚〟の食材が多くなり、苦手な方は辛いこともあることを考えると、私的には良いように思います。ただ4日目の夜であり、疲れが溜まっていることも否定できない状況で出して頂いたお食事、食べきれない量でもありました。色々とお気遣い頂いたことはありがたいのですが、それが余計に申し訳なく思うところもありました。<br /><br />この旅館早町荘を今回の旅に於ける〝喜界島の宿〟として選んだのは、クチコミの影響もあります。空港近くにある3つのホテル、こちらは色々と泊まった方が書いておられるので情報としては結構あったものの、〝離島旅〟の醍醐味である〝島宿チック〟ではないため〝営業〟されていることがわかるところを探していました。そこで出てきたところがこちらであったもののなかなか宿泊の連絡を入れるタイミングが取れず、やっと1週間前になって電話を入れることができました。そのとき印象に残ったのが、〝空港とは逆だよ~〟とのご主人のお言葉、それは知っていたもののわざわざ電話でも言っておられたことを〝そういう誤解もあるのかな〟とも思いながらこの日を楽しみにしていたこともあります。とにかく〝フレンドリー〟という書き方をされているこの〝旅館早町荘〟、お世話になってわかりました。オーナーファミリーが暮らす中での宿泊、生活の中に溶け込む形で暮らすことは、島宿宿泊を結構こなしてきた私に取っても、結構斬新的でした♪<br /><br />旅館というと、家族との接点はないところが多いと思うのですが、こちらではそれを逆に〝武器〟としているように思います。食事とは言っても家族と同じものなので、特別なものではないにしろ、逆にそれがまた目新しいことでもありました。ご主人は〝酒〟は飲まれませんが〝タバコ〟は吸われます。それが食堂で宿泊客も含めた〝語らい〟の場所であるため、苦手な方はあるかと思いますが、それもまた新鮮なところでもありました。お部屋は当日の混み具合の絡みもあるとは思うのですが、この日は離れの部屋を一人で使わせて頂いたので堅苦しさもありませんでした。この離れの部屋しかわからないのでその印象はというと二部屋あり、奥の部屋は和室、入口の和室には二段ベットが置かれています。テレビは個々の部屋にあり、共用部にバストイレの他、洗面所と洗濯機がついており、トータルで5~6名が泊まれるようになっているようでした。<br /><br />見た目で判断してしまうと、建物そのものは古いこともありひと言で〝キレイ〟とは言えないのかも知れません。それをどう取るのかは個々の判断に委ねられるものだとして、〝リゾートホテル〟のアミューズメントを期待するのではなく、〝島での生活〟を経験するのにはうってつけの場所だと思います。ちなみに誤解をされないように注釈を入れておきますが、建物は古くても、その他は清掃やクリーニングも行き届いており、そういう点の妥協はされていません。たまに見かけるヘンに〝快適さ〟のある〝島宿〟だと、〝小さなこと〟が引っ掛かってしまい、それ以上のことが見えなくなったことは経験済みです。しかしこの旅館早町荘、宿泊代金も格安なこともあり、全てが〝理に叶う〟ものだと思うと〝ハマります〟♪そしてファミリーとのふれあいが〝サービス〟であれば、リピーターになる方の気持ちがよ~くわかるような気がします。<br />ご主人に明日の予定を聞かれたとき、素直に〝朝イチ便で奄美を経由し大阪へと帰ります〟と答えましたが、すぐに〝時間は関係ないから♪〟って切り返されたとき、リップサービスかも知れませんが、なんとかなるものだったら変更したいとマジで思ったことに邪念はありません。それでも時間が過ぎて行くのは本当に早く、機内預けと手荷物にする荷物の整理をするために部屋に戻ります。いつもなら翌日の行程の確認をするのですが、旅最後の晩なので、喜界島出発の時間だけを確認すると、後は横になりながら4日間を振り返りますzzz。そうしていよいよ5日間の旅最終日を迎えます。<br /><br />≪宿泊:直接手配≫<br />旅館早町(そうまち)荘<br />一泊二食付<br />現地払い:4,860円<br />〒891-6152 鹿児島県大島郡喜界町早町8<br />TEL 0997-66-1166<br /><br />【本日のお支払】<br />(奄美)<br />ガソリン:2,740円《16.93L*149.9円》<br />ASJ-KKX:6,600円<br />Jネットレンタカー:4,270円《J1クラス(軽)24時間免責補償込》<br /><br />小計:18,470円<br /><br />《本日の立寄り郵便局》<br />竜郷郵便局(79006)<br />喜界郵便局(79036)<br />坂嶺郵便局(79037)<br />小野津郵便局(79040)※ATMなし<br />早町郵便局(79039)<br />上嘉鉄郵便局(79038)<br /><br />これで〝あみんちゅ暴走南国の旅その参之⑤奄美群島~4日目後半:喜界島観光編~〟は終わります。<br />

あみんちゅ暴走南国の旅その参之⑤奄美群島~4日目後半:喜界島観光編~

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2015/05/18 - 2015/05/22

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たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。

たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん

【あみんちゅ暴走南国の旅その参奄美群島編~奄美大島・喜界島~】

2013年9月に〝初石垣〟を体験したことからはじまった〝南国の旅〟シリーズですが、今回は鹿児島県の離島である〝奄美大島〟と〝喜界島〟を訪ねます。LCCを使った旅がほとんどですが、今回の目的地である〝奄美大島〟は関西地区からのLCC便は今現在ありません。成田発のバニラエアーの便はありますが、成田まで行ってから奄美まで向かうことを考えると〝時間のロス〟の割には〝金額的なメリット〟があまりないという結論に至りました。休みを取る〝日数〟はともかく、その〝時間のロス〟が出ないようにするパターン、それが今回利用した私にとっては〝天敵(笑)〟のH旅行社のフリープラン、奄美大島1泊5日を利用しました。私自身このエリアに関する情報には疎いため、JALの単独運行=すごく高い!というイメージしかありませんでした。しかしふたを開けると…基本(往復飛行機+一泊の宿泊代)が25,500円♪ただ今回は1・2泊目を合わせるために1,000円アップの26,500円で手配ができました。最近のIT運賃と呼ばれるものの〝クラス分け〟がどうなっているのかはわかりませんが、10日前締め切りのこの商品、事前指定できる座席には限りはあるものの、本当に〝お気軽料金〟で旅することができます。当日空席があればの条件はあるものの、空いていれば1,000円追加でCLASS Jが利用できます。これはオススメです♪

それでは今回の旅第五章〝あみんちゅ暴走南国の旅その参之⑤奄美群島~4日目後半:喜界島観光編~〟がはじまります♪この4日目のみ便宜上前半と後半に分けて書いております。

2015年5月21日木曜日

癒しの宿さとの家 08:55
奄美空港 09:52(ADD362.2km:TP36.2km)

10:50搭乗開始 JN3831《1C:6,600円》
10:53搭乗
10:59ドアクローズ
11:02ムーブ
11:05離陸
11:08着陸案内コール
11:12着陸
11:14停止
11:15降機
喜界空港 11:20(ターミナル)

Jネットレンタカー喜界空港店 12:30(レンタカー乗り出し)
旅館早町荘 18:50(81.3km)

あっという間の7分間の貴重な〝空の旅〟を経験し、やってきました〝初喜界島〟です。多分ここまでローカルな空港というと、一昨年冬の〝与那国空港〟以来だと思います。しかしその時は夜着の夜発だったため、制限区域からの空港建物を見た記憶がありません。なので機内から見た〝空港建物〟と駐車場から見た〝空港建物〟の一見した区別がつかないものには〝新鮮味〟すら覚えます。とは言え建物を通過するのに〝○(一桁の数字)秒〟しかかからないので、あっという間に建物外に出てしまった後、荷物を受け取りに建物内に戻ります。荷物を受け取ってから一服し、レンタカーを借りに行きます。Jネットレンタカー喜界空港営業所、空港から徒歩1分で到着する場所に位置しており、通常はレンタカー会社にありがちな〝送迎〟は雨天以外ありません。別にそれは気にもならないのでバックを抱えて歩いて行きます。直近の予約として軽自動車3台入っているのでしょうか。新型の〝モコ〟くんがスタンバイしています。ついつい1時間前に乗っていた旧型〝モコ〟くんと比較してしまいます。おまけに〝奄美ナンバー〟なので♪

≪施設情報:レンタカー≫
Jネットレンタカー喜界空港営業所
〒891-6203 鹿児島県大島郡喜界町中里200番地イ
(TEL)0997-65-4355
J1クラス(軽自動車)免責補償込(4,270円)
JN150502-1947-39374

このJネットレンタカーのご主人、〝ザ・地元〟の方で、観光地案内をしてくれます。私はお店から見えている喜界町指定史跡の〝戦闘指揮所跡〟をお伺いしたので、車を乗り出す前に見学するために向かいます。喜界島と言っても知名度はさほど高くはないのかも知れません。奄美大島から25km程離れたところにある隆起珊瑚礁の島になります。鹿児島と奄美大島を結ぶ空路がそれぞれ3往復あるものの、現在ではの~んびりとした町となっています。しかし今から約70年前の第2次世界大戦末期には、旧海軍飛行場として沖縄戦に向かう〝特攻機〟の中継基地になりました。負の歴史ではありますが、それを後世に伝えるべく保存に尽力されている場所こそがこの喜界町ではないかと思います。全国に点在する戦争史跡全てにいえることではありますが、経年による劣化は否めないところはあります。しかしこの喜界町にある戦争史跡は全て保存状態としてはかなり良好ではあるように思います。勿論保存をするだけでは伝わらないことも多いかと思います。しかしJネットレンタカー喜界空港店のご主人をはじめとした〝島の方々〟が観光で来る来島者に、その史跡の情報を伝えておられ、最終的な判断は本人達の判断に委ねられるものの、その積極的な姿勢により感化され、〝訪問地〟として加えてみようかと考える材料となっていることは、やはり喜界島で現実にあった歴史の事実を風化させないためだという強い信念に基づいていることのように思います。

今回空港近くの戦闘指揮所跡の他、掩体壕、そして旧海軍戦没者慰霊塔を訪問しましたが、他ににわか作りの掩体壕も現存していると言った生きた情報を聞くこともできました。なかなか時間のやり繰りの関係で全てを一度に回り切ることも難しいことではありますが、そのこと即ち〝何もない島〟のようで、実は色々なものがたくさん隠れている〝宝の島〟ではないかと思います。そのため今回回り切れなかったところは次回の課題として、再訪する必要性を改めて感じました。また平家の〝落人伝説〟に纏わるものも多々あり、歴史に触れる体験ができることも喜界島の〝良いところ〟ではないでしょうか。

Jネットレンタカー喜界空港店隣の戦闘指揮所跡を見学に行きますが、入口が破損し、鉄筋が見えている部分があります。これは連合国の爆撃によって破壊されたものだそうです。ひとつの入口が破壊されても機能するように4つの入口が作られているこの建物、中へと入ることができます。なかなかそのような体験をすることはできないので、70年前へと〝疑似タイムスリップ〟を体験されても良いかも知れません。ただ〝蜘蛛の巣〟が張っていることがありますので、気にされる方は気をつけて下さい。ちなみに喜界島には〝ハブ〟は生息していませんので安心です♪

小一時間ほど戦闘指揮所跡を見学した後、いよいよ車を乗り出して、喜界島ドライブが始まります。北上するかたちで向かった先は〝子午線東経130度モニュメント〟。こちらは小野津集落の海辺にあるグラウンドの駐車場に位置しています。海を背にしてモニュメントが建っていますが、それだけと言えばそれだけかも知れません。それより道路に引かれた〝オレンジ色の線〟、これが東経130度の〝子午線〟になりますが、島の反対側の早町集落でも同じものを見ることができます。当たり前のことですが、南北を結ぶ子午線は島を横断する形で走っています。でもそれを該当エリアでは必ず見ることができるので、そちらの方が印象深く残っています。確か島の道路には〝追越禁止〟がなかったので、それらしき線は、東経130度の子午線だと思って間違いないはずです。

そして一旦早町漁港へ向かう道を走り、〝雁股の泉〟へとやってきます。流罪になった〝源為朝〟所縁の場所とされており、為朝が放った矢を抜いた場所から泉が湧いてきたという伝説があるそうです。まあ出来過ぎた話にも思えますが、昼間でも少し暗くなっている場所にあるため、その〝伝説〟が強ち伝説だけではないように思える場所でもあります。

そして次に訪れた先が〝ムチャ伽那公園〟、加計呂麻島に住んでいたとされる絶世の美女〝ウラトミ〟、そして娘の〝ムチャカナ〟の悲話伝説の場所でもあります。加計呂麻島にすむ美しい〝ウラトミ〟に群がった奉行の誘いを断ったがために、村に重税が課せられることになってしまい、それを思い悩んだ父母は船に身の回りのものを乗せて〝ウラトミ〟を島から出すことにします。その船が着いたのが今の喜界島の小野津集落でした。ここで〝ウラトミ〟は島の役人と恋に落ち、貧しいながらも幸せな生活を送っていました。やがて二人の間に〝ムチャカナ〟という女の子が生まれます。月日が経つに連れ〝ムチャカナ〟は母に負けじ劣らじの美人になっていきますが、それが島の女たちから不評をかい、アオサ取りに誘われた際に、崖から突き落とされ亡くなってしまいます。ムチャカナが帰ってこないことを心配し方々を探していた両親は、崖下に群がるカラスを発見し、ムチャカナの変わり果てた姿を発見します。ムチャカナの遺体を小山に埋め、供養のためにウラトミが杖代わりに使っていた〝ガジュマル〟の枝を塔婆として立てました。しかしその後も娘を失ったウラトミの悲しみは消えることがなく、遂には崖から身を投げてしまいます。これに似た話として宮古島の〝マムヤ伝説〟がありますが、なぜ南の島では〝美人〟は悲劇の主人公になってしまうのでしょうか…。一説には〝部外者説(島外の出身者)〟というのもあるようですがどうなんでしょうか?昔から〝美人薄命〟とは言われますが、幸せになれなかったことが、いっそうその〝美人〟という形容詞を増幅させているようにも思います。そういう話では私はある意味〝幸せ〟なのかも知れません…チャンチャン。

そしてここから左折し、島最北端のトンビ崎を目指します。ただこのあたりはナビのガイドが使えず、現在地を表示させながら地図で位置関係を確認しながら走ります。トンビ崎公園とされているものは、多分海水浴場の場所ではないかと思います。ただこの一帯は少し進めば砂浜が広がっているので〝どこからどこまで〟か良くわからないまま進んでしまいました。そして海岸沿いの道からふと見えた灯台、これが〝トンビ崎灯台〟になりますが、観光地化されてはおらず、実際に使われている灯台としての説明が書かれていました。灯台と言えば、眼下に絶景が広がっているのは観光地化されたものが多くある中、このトンビ崎灯台下からは、残念ながら海も見えませんでした。

そのまま海岸線を進んで行くと、左手に大きな〝トイレ〟らしきものが目に入ります。この場所が〝平家上陸之地〟になります。それ程大きくない碑がポツンとある場所ではありますが、白砂の浜辺に天然の入江があるこの場所は、今から約800年前に壇ノ浦で敗れた平家の残党200余名が上陸したところとされています。源氏の追手から逃れるために南へと逃げていることは間違いないのですが、ここの風景から推測するに少し〝目立ち過ぎる場所〟のようにも思います。その当時情報網がどれほどのものだったかはわかりませんが、住人に気付かれて通報される危険性もあったのではないかとも思います。しかし一方源氏に敗れたものの平氏も天皇家の血筋であることから、その一団がまとまって上陸できる場所として選んだのではないかとも思います。いずれにせよ鎌倉時代初期のことを想像するのは面白いものです。知識がないから〝想像が膨らむ〟的なものもあると思うので…。

平家上陸之地近くには菅原神社があります。この喜界島沖名泊に無事上陸した平資盛一行が、無事漂着したことを神に感謝し、また平家一門の武運を祈願して奉納されたことがはじまりとされており、以前は村社の扱いだったこともあるように書かれていましたが、現在では宗教法人の所有と書かれてます。ここらの話はホント無知なので、〝宗教法人〟が持つ〝神社〟というものがわかりません。でもやはりお参りだけはさせて頂いてきました。

お参りを済ませた後車へと戻り、島一周コースを進んで行きます。途中今宵の宿のある早町集落を通過しますが、郵便局へと立ち寄っただけで走って行きます。そして場所表示のあった〝嘉鈍の巨大ソテツ〟へと立ち寄ろうとしますが…、道がわかりません。迷うものでもないだろうと言われそうな喜界島の農道ですが、そのピンポイントがわからぬまましか〝走れない〟ため、どうも効率が悪いように思います。それでも執念でたどり着いた場所にある樹齢300年と言われるこのソテツの大木、やはり見ごたえがあります。しっかりと写真に収めて次へと急ぎます。

途中集落内の細くて入り組んだ道をヒヤヒヤしながら走って行き、郵便局へと立ち寄った後、空港前迄帰ってきます。そしてなぜか向かった先がドコモショップ喜界島店。なぜここまで来てドコモショップなのか、ドコモユーザーならわかるかも知れませんが、マイショップ登録のためです。普段行きつけのお店としてのマイショップなのに、関西在住がなぜ喜界島店なのか?別に深い意味はないのですが、行動範囲にキャリア(ここでは電話会社)のショップがないため、旅行先で登録しています♪あ、ちなみにもう1店舗は石垣店になっています(笑)。
しかしドコモショップと言うと実機がゴロゴロ置いてあって、体験ができるイメージがあるのですが、ドコモショップ喜界島店には実機がありませんでした。まあいろんなお店がありますね♪またドコモショップの並びにはクリーニング屋さんとスーパーがあります。最初中で繋がっていることがわからずにスーパーに入り、通路を発見!スーパーで聞くと同じ系列だということが判明。う~ん面白いです♪

待ち時間なしで手続きが終わると、次に向かった先は〟ヨシカワおみやげセンター〟。スーパーも併設しているので、お土産屋さんと言っても地元の方も普通に買い物をされており、知らずに行くと???となるかも知れません。しかし間違いではありません。でもひとつのお店で用が済むのも便利で良いかも知れません♪他の場所の〝お土産屋さん〟と比べると、品数は若干少ないようにも思いますが、それでも職場や自宅用のお土産は揃うので、使い勝手はありますね♪

お土産と飲み物を購入し、次に向かうは〝空港臨海公園〟と〝スギラビーチ〟。空港臨海公園の中にスギラビーチという〝人工のビーチ〟があるようになっています。喜界空港の海側一帯になっていますが、これまたナビ検索ができません。どこを曲がって行けばいいのかが良くわからず、空港一帯の道をぐるぐる迷子になりながら走ります。結局空港前を一旦南下し、そのまま空港滑走路の脇を走った後に走って行くと…ありました。シーズンになると相当な数の海水浴客が集まるのでしょうか、トイレやシャワー設備も整っています。このスギラビーチですが、先述したように〝人工〟で作られたものです。喜界島の海岸は、砂浜が少なく海水浴に適する場所が少ないためだということが理由だそうです。確かに〝天然〟のものほど荒々しさはなく、一見すると〝違和感〟すら覚えるこのビーチではあります。しかし〝離島〟でありながら〝海水浴〟ができないことを考えたものであり、その考えには賛同できます。もう日がだいぶ傾いてきているため、海に入っている方もいませんでしたが、このビーチがどのような感じで使われているのかを見てみたいようにも思います。そしてスギラビーチのすぐ脇にある石碑が〝海軍航空基地戦没者慰霊之碑〟になります。先述のように約70年前、この喜界島は特攻隊を含めた主に沖縄戦に向かう飛行機の中継基地でした。夕闇と共に本土から飛んできた飛行機は、給油・整備をした後、明け方に南方へと飛んで行きました。そういった背景もあり、平成6(1994)年に建立されたものがこの慰霊之碑になります。喜界町や島民の方々が積極的に史跡の保存とその場所への観光客を案内することに尽力をされている中、慰霊塔の建立そのものは旧海軍航空基地戦没者慰霊之碑建立期成会であるものの、島全体が戦争を経験した生き証人となっていることは、負の遺産を後世の〝戦争を知らない世代〟へと引き継ぐ〝伝道師〟としての役割を担ってくれていることに、個人的な意見ではありますが〝ファイト!〟とエールを贈りたいように思います。

この慰霊塔から、喜界空港全体が見渡せます。先の大戦中に海軍の不時着用飛行場として産声を上げた喜界島飛行場ですが、南方の戦線状況の悪化に伴い、旧海軍喜界島飛行場となり、沖縄戦線に向かう特攻隊を含む戦闘機の中継基地としての役割を果たしました。当時は東西南北に1,000mの滑走路を持ち、状況を問わず離発着できる飛行場であったようです。敗戦と共に閉鎖され、その後喜界町が昭和34(1959)年に1,080mの未舗装滑走路を持つ喜界飛行場として運用開始、昭和43(1968)に1,200mの舗装滑走路を整備、昭和46(1971)年喜界島空港と改名、昭和49(1974)年に運営が鹿児島県に移り鹿児島県管理の喜界空港として生まれ変わりました。現在では一地方のローカル空港として、6便のJACのSAAB340B型機が鹿児島と奄美を結んでいます。往年の東西の滑走路の面影はなく、エプロンを出た飛行機が、滑走路端でクルッと回って北方向へと飛びたっていく姿を、の~んびりと眺めることができます。
機内からも慰霊塔前からもどちらからもお互いの姿を確認できることは、戦争という〝暗黒の時代〟に弄ばれたことを連想することは何ひとつないようにも思います。しかし戦争の犠牲者を祀る慰霊塔が目の前の滑走路を走る飛行機を見守っていることこそが、戦争を知らない世代が暴走し、飛行機を利用することをけん制しているように見えてなりません。そう離陸して行く飛行機を見ながら思いました。

17:00発の鹿児島行き最終の飛行機を見送り、時間を少し気にして次へと向かいます。掩体壕、喜界徳洲会病院の近くになりますが、またこの場所が地図だけの頼りになります。路肩に止まりながら現在地を確認しながらなんとかたどり着きました。掩体壕とは、戦闘機を爆撃から守るために作られた駐機場のことですが、大戦末期には作る材料がなく、コンクリートに入れる混ぜ物を増やして作られたものもあります。この喜界島でも鉄筋入りのまともなものはここだけであり、あといくつかあるものは突貫工事の末に作られたもののようです。全国に点在していた掩体壕は、元々軍の飛行場自体土地の強制収用のもとで作られているため、戦後農地として払い下げられ、農家の倉庫として使われたものもあれど、あまり使い勝手が良いものとは言えず、劣化とともに壊されてきたものが多いとは聞いていました。しかしこの掩体壕は保存状態が良く、内部には立ち入りを禁止されてはいるものの、飛行機を守るという目的がうなずけるものだと思います。この喜界島の戦争史跡は私有地にあるものが多いと聞いています。保存はもとより、場所を確保しておくのも労力は必要だと思います。しかし可能な限り現状維持の対策をして頂けること、観光客の戯言とは思いますがお願いしたく思います。

この掩体壕のすぐ近くには〝俊寛僧都の墓〟伝承地があります。平安時代末期の平氏絶頂期の時代に、打倒平家の企てとして〝鹿ケ谷の陰謀〟に加わった俊寛僧都、その陰謀が密告によって露見し、平清盛に捕えられ、陰謀に加わった藤原成経・平康頼と共に流罪に処せられた先がこの喜界島とされています。その後清盛の娘で高倉天皇の中宮である〝建礼門院徳子(※建礼門院は出家後の追号)〟の安産祈願のための恩赦を受け、藤原成経と平康頼は京都へと戻されますが、俊寛僧都は最後まで許されず、失意のままこの地で没したとされています。この流罪に処せられた場所は諸説あり、喜界島もそのひとつではあります。しかしよくある間違いとして、〝喜界島〟=〝鬼界島〟と誤変換または勘違いされていることがあり、その一般的に存在する〝間違い〟こそが俊寛僧都の流罪先説とされている根拠であるようにも思います。ちなみに私もしばらく前まで知りませんでした…チャンチャン。
俊寛僧都は自ら食を断ち自害したとされており、決して明るい話ではありませんが、もしその最後の地が〝喜界島〟であれば、平家の落人伝説を含め、平安末期から鎌倉初期の時代に、〝自らの意思〟ではないものの、歴史のイチページが〝圧縮〟されていることになります。歴史好きはもとよりあまり関心のない方も、約1,000年前の時代の流れを〝垣間見る〟ことができることは〝いとをかし〟ではないでしょうか。

結構のんびりと回ってくると、どんどん時間がおしてきます。既に18:00前でもう一ヶ所位しか回れそうにはありません。頂いた地図を目安にして考えた先は喜界島最高地点の〝ポイント211〟。その言葉通り標高211.96mの場所ですがこれまた場所がわかりません…(泣)。旧日本軍通信施設跡が残っているこの場所には、是非とも行ってみたい想いはあったのですが…時間の絡みもあり今回は断念します。海上自衛隊の通信基地を目安に回って行きついた先が〝中西公園〟。島の南東部に位置し、標高130mのところにあるこの公園、特に〝なにか〟があるわけでもありません。芝生の広場が広がっている場所の端まで行くと、眼下に広がるサンゴ礁と、果てしなく広がる水平線に時間を忘れてのんびりできる〝と〟書いてありました。この場所を〝アタデノハナ展望台〟とする名称の謂れを説く石碑が、芝生広場の端に置かれていましたが、特に〝別個の名詞〟をつけるまでも無いようには思いました。しかし太陽が西に傾き、雲に隠れているこの時間なので〝のんびり〟する時間もなく写真に収めて先を急ぐしかありませんでした。そこから僅かな距離にあった展望スペースで、少し景色を見ようといったところ、珍しく先客がおられました。地元の方ですが、本格的な一眼レフのカメラを持っておられたので違和感を感じ、暫く話をしてきました。どうも喜界島の記録写真を撮っておられるようで、色々と島の話を聞くことができました。日本で最も隆起が激しいこの喜界島、年間2mmずつ隆起していること等、後から文献考察で知った事等含め興味深い話でした。この隆起の結果200万年後の例えはよく話されていることのようですが、2×2,000,000=4,000,000、4,000,000÷10÷100=4,000mになる答えを、私が数字ではなく〝富士山より高くなる〟のですねと答えたことがウケたようで、その他にも色々な話を聞くことができました。話好きなので時間があればお付き合いをさせて頂きたいところなのですが、宿泊のこともあり丁重にお礼を言ってお別れを致しました。ただひとつふと気になったことがありました。この喜界島は終戦間近に、飛行機の中継基地としての役割を担ったことは先述しましたが、当然基地であるがため、爆撃を受けた歴史もあります。事実現喜界空港を整備した時も〝不発弾〟がゴロゴロと出てきたこともあり、あまりの数の多さに〝埋めて〟処分をしたことなどの話も聞きました。そして空中戦も当然のことながらあった訳で、その模様が島全体で見ることができたとのこと。私自身それ程想像力が豊富な訳ではないために、話を聞くだけではなかなか〝イメージ〟として捉えられないところが多くあります。しかしこの空中戦の話を聞いた瞬間、ゾクゾク感とともに戦闘機が目の前で戦っている姿が見えたように感じました。〝déjà vu〟(デジャヴ:既視感)という程大そうなものではないのではとも思いますが、この体験は初めてのものでした。それがなぜ起こったのかはわかりません。しかしその出来事が、私自身に〝この場所〟へ再び〝誘(いざな)って〟いるのではないかと思えてなりません。残念ながら今日の〝島巡り〟を終えると明日は帰るだけになり、すぐにもう一度来られる訳でもありません。でも〝不思議な縁〟ができたようにも思え、次回の来島は〝必ずある〟と思った瞬間でもありました。

時間を見ると18:30、さすがにそろそろ宿へと向かわないと行けません。本日の宿のある〝早町集落〟へはこのまま島一周道路に沿った道を走って行く方が、地図を見る限りでは早いように思います。しかし〝ナビ〟の案内は、一旦空港方面へと走った後に早町集落へと走れと出ています。時間の絡みもあり、〝自分のカン〟より〝ナビ〟を信じて走り始めます。途中〝ヨシカワおみやげセンター〟へ立ち寄り、飲み物購入と一服をした後にまたナビに従って走って行き、18:50無事本日の宿〝旅館早町荘〟へと到着しました。本日の走行距離81.3km、おおよそ島を2周した距離を走ったことになります。

この〝旅館早町荘〟ですが、空港とは反対側の早町集落にあります。旅館とはいえどその表記がわからず、webページで見た記憶のある隣の〝ヨネモリストアー〟の前から電話し、その場所を確認してやっとわかりました。時間も時間なので部屋へと案内された後食事を頂くことにします。ボリューム任せの食事ではなく、地の物も適度に入った〝普通の食事〟です。このあたりは人によって解釈は別れるのかも知れませんが、どうしても離島旅を続けていると〝魚〟の食材が多くなり、苦手な方は辛いこともあることを考えると、私的には良いように思います。ただ4日目の夜であり、疲れが溜まっていることも否定できない状況で出して頂いたお食事、食べきれない量でもありました。色々とお気遣い頂いたことはありがたいのですが、それが余計に申し訳なく思うところもありました。

この旅館早町荘を今回の旅に於ける〝喜界島の宿〟として選んだのは、クチコミの影響もあります。空港近くにある3つのホテル、こちらは色々と泊まった方が書いておられるので情報としては結構あったものの、〝離島旅〟の醍醐味である〝島宿チック〟ではないため〝営業〟されていることがわかるところを探していました。そこで出てきたところがこちらであったもののなかなか宿泊の連絡を入れるタイミングが取れず、やっと1週間前になって電話を入れることができました。そのとき印象に残ったのが、〝空港とは逆だよ~〟とのご主人のお言葉、それは知っていたもののわざわざ電話でも言っておられたことを〝そういう誤解もあるのかな〟とも思いながらこの日を楽しみにしていたこともあります。とにかく〝フレンドリー〟という書き方をされているこの〝旅館早町荘〟、お世話になってわかりました。オーナーファミリーが暮らす中での宿泊、生活の中に溶け込む形で暮らすことは、島宿宿泊を結構こなしてきた私に取っても、結構斬新的でした♪

旅館というと、家族との接点はないところが多いと思うのですが、こちらではそれを逆に〝武器〟としているように思います。食事とは言っても家族と同じものなので、特別なものではないにしろ、逆にそれがまた目新しいことでもありました。ご主人は〝酒〟は飲まれませんが〝タバコ〟は吸われます。それが食堂で宿泊客も含めた〝語らい〟の場所であるため、苦手な方はあるかと思いますが、それもまた新鮮なところでもありました。お部屋は当日の混み具合の絡みもあるとは思うのですが、この日は離れの部屋を一人で使わせて頂いたので堅苦しさもありませんでした。この離れの部屋しかわからないのでその印象はというと二部屋あり、奥の部屋は和室、入口の和室には二段ベットが置かれています。テレビは個々の部屋にあり、共用部にバストイレの他、洗面所と洗濯機がついており、トータルで5~6名が泊まれるようになっているようでした。

見た目で判断してしまうと、建物そのものは古いこともありひと言で〝キレイ〟とは言えないのかも知れません。それをどう取るのかは個々の判断に委ねられるものだとして、〝リゾートホテル〟のアミューズメントを期待するのではなく、〝島での生活〟を経験するのにはうってつけの場所だと思います。ちなみに誤解をされないように注釈を入れておきますが、建物は古くても、その他は清掃やクリーニングも行き届いており、そういう点の妥協はされていません。たまに見かけるヘンに〝快適さ〟のある〝島宿〟だと、〝小さなこと〟が引っ掛かってしまい、それ以上のことが見えなくなったことは経験済みです。しかしこの旅館早町荘、宿泊代金も格安なこともあり、全てが〝理に叶う〟ものだと思うと〝ハマります〟♪そしてファミリーとのふれあいが〝サービス〟であれば、リピーターになる方の気持ちがよ~くわかるような気がします。
ご主人に明日の予定を聞かれたとき、素直に〝朝イチ便で奄美を経由し大阪へと帰ります〟と答えましたが、すぐに〝時間は関係ないから♪〟って切り返されたとき、リップサービスかも知れませんが、なんとかなるものだったら変更したいとマジで思ったことに邪念はありません。それでも時間が過ぎて行くのは本当に早く、機内預けと手荷物にする荷物の整理をするために部屋に戻ります。いつもなら翌日の行程の確認をするのですが、旅最後の晩なので、喜界島出発の時間だけを確認すると、後は横になりながら4日間を振り返りますzzz。そうしていよいよ5日間の旅最終日を迎えます。

≪宿泊:直接手配≫
旅館早町(そうまち)荘
一泊二食付
現地払い:4,860円
〒891-6152 鹿児島県大島郡喜界町早町8
TEL 0997-66-1166

【本日のお支払】
(奄美)
ガソリン:2,740円《16.93L*149.9円》
ASJ-KKX:6,600円
Jネットレンタカー:4,270円《J1クラス(軽)24時間免責補償込》

小計:18,470円

《本日の立寄り郵便局》
竜郷郵便局(79006)
喜界郵便局(79036)
坂嶺郵便局(79037)
小野津郵便局(79040)※ATMなし
早町郵便局(79039)
上嘉鉄郵便局(79038)

これで〝あみんちゅ暴走南国の旅その参之⑤奄美群島~4日目後半:喜界島観光編~〟は終わります。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ホテル
5.0
グルメ
5.0
ショッピング
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
5万円 - 10万円
交通手段
高速・路線バス レンタカー タクシー JALグループ JRローカル 自家用車 徒歩
旅行の手配内容
その他
利用旅行会社
阪急交通社

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