2016/10/07 - 2016/10/07
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ベームさん
上野・谷中その1の続きです。
谷中の散歩と言っても、人気のお店などの写真はありませんのでお退屈とは存じます。
谷中にはお寺の数がおよそ70あるそうです。江戸時代初期、今で言う都市計画で谷中に多くの寺院が集められました。東京が江戸開府により発展した町ですから、谷中に限らず東京の寺の多くはその前後に造られたもので国宝級のような古い寺はあまりありません。
しかし幕末から明治にかけて近代日本の基礎を作った多くの先人たちがここ谷中のお寺や谷中墓地に葬られています。
それらの痕跡を訪ねてしばし感慨にふけってみたいと思います。
今日一日で上野、谷根千を歩くつもりでしたが、途中で足を痛めてしまい根津、千駄木他日としました。
作成に当たり森まゆみ氏の著を参考にさせて頂きました。有難うございました。
写真は森まゆみ氏命名の夕焼けだんだん。
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
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谷中地図。
丸で囲ったところが訪問地。 -
愛玉子(オーギョーチー)で一服し散策再開です。
愛染寺の方に戻りその先の金嶺寺。 -
新派の高田実の墓があります。
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高田実。明治4年~大正5年。東京出身。
川上音二郎一座をスタートに、のち喜多村緑郎、河合武雄らとともに劇団を結成し新派全盛時代を築いた。 -
その先に大きな木が道路の上を覆っている所があります。
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随分頭でっかちですが、今まで何十年もの間風雨に耐えてきたのでしょう。
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巨木に抱かれるようにして小さな家お店があります。
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由来を読むと、側のパン屋さんの初代主人が植木鉢で育てていたヒマラヤ杉が大きく育ったものだそうです。今では台東区の保護樹木で、谷中の名物になっています。
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みかどパン店。
育った木に押しつぶされそう、いや守られているようです。。いつまでも残ってほしいですね。 -
パン屋さんの裏手の方から。
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ヒマラヤ杉の手前を右に曲がると日本美術院の蔵のような建物があります。。
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1898/明治31年、東京美術学校を追われた岡倉天心を中心に橋本雅邦、横山大観、下村観山らにより谷中・大泉寺に設立。その後天心が拠点を茨城県の五浦に移すに従い一時衰退する。
1914/大正3年、官制の文展(文部省美術展覧会)に不満を持つ横山大観、下村観山らが日本美術院を現在地に再興。 -
「院展」はこの団体の展覧会の名称、日本画のみ。
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日本美術院の前の広い道を突き当たると瑞輪寺。
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瑞輪寺。
大沼沈山、河鍋暁斎、大久保主水の墓があります。 -
大沼沈山の墓は見つかりませんでした。事務所の若造に訊いて、あそこら辺ですというそこら辺を探しても無い。
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大久保主水(おおくぼもんと)。
三河の武士、家康に仕える。家康江戸入城後用水事業を命ぜられ神田上水を完成。 -
河鍋暁斎(かわなべきょうさい)。1831~1889/明治22年。
浮世絵師、日本画家。歌川国芳門下。 -
墓石は暁斎が好んで描いた蛙の形をしています。
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地獄太夫と一休。
堺の遊女で一休に教えを乞う。 -
豊干禅師と寒山拾得図。
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三崎坂(さんさきさか)に出ると永久寺があります。
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仮名垣魯文(かながきろぶん)の墓とか碑があります。
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1829~1894/明治27年。
幕末から明治のかけての代表的戯作者、新聞人。本名野崎文蔵。
「西洋道中膝栗毛」、「安愚楽鍋」、高橋お伝など毒婦もので人気を博す。新聞記者を経て「仮名読新聞」を発刊、花柳界、芸妓の内幕を描いた「猫々奇聞」シリーズは読者に好評だった。そのほか記者、主筆として関係した新聞は「横浜毎日」、「いろは新聞」、「東京絵入新聞」など。
石柱にはかろうじて「かながきろぶむ」と彫られているのが読めます。 -
側面。
江戸以来の戯文の伝統は彼の死によって終わったとされます。辛辣な文芸、社会評論で知られる斉藤緑雨は彼の弟子でした。 -
俗名仮名垣魯文。
遺言本来空 財産無一物 -
猫々道人(みょうみょうどうじん)記念碑。
魯文は猫が大好きで、自ら猫々道人と称していました。 -
魯文記念碑。
成島柳北が選んだ文の上に猫の顔が彫られています。 -
猫の顔。
目、鼻、口は魯の字の形をしているそうです。 -
山猫めおと塚。
芸者の事を猫といい、狭斜の世界を好んだ魯文に榎本武揚が贈った夫婦の飼い猫の塚。福地桜痴の字。
成島柳北によると、芸者は三味線を弾き、三味線は猫の皮を張るので芸妓のことを猫と言うようになったそうです。 -
永久寺の前、三崎坂を渡って横道に入ると安立寺。
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下村観山の墓です。
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明治6~昭和5年。和歌山出身。
日本画家。狩野芳崖、橋本雅邦に師事。
岡倉天心の日本美術院創設に参加。 -
弱法師(よろぼし)。
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大原御幸。
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谷中にはこういった古い家が残っています。
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錻力/ブリキなんて言葉、死語に近いのでは。
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加納院の赤門。
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加納院の横には観音寺の築地塀(ついじべい)が続いています。
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土と瓦を交互に積み重ねた土塀に屋根瓦を葺いた珍しい物。
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築地塀。
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登録有形文化財。平成6年まちかど賞。
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観音寺。
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赤穂浪士ゆかりの寺です。
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赤穂浪士供養塔。1707年。
この寺に浪士の縁故者がいて、討ち入り前たびたびここで会合を開いていたという。
この付近の蕎麦屋で昼にもりそばを食べました。 -
観音寺築地塀の向かいに長安寺。
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狩野芳崖の墓があります。
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狩野芳崖。1828~明治21年。下関出身。
フェノロサの勧めで西洋画法を日本画に取り入れて近代日本画の父といわれる・ -
悲母観音。
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伏龍羅漢図。
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長安寺の並びの功徳林寺(くどくりんじ)。
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笠森お仙を祀った祠です。
この辺りに笠森稲荷があって門前の水茶屋「鍵屋」にお仙という看板娘がいた。評判の美人で、お仙を見んものと客は引きも切らず。明和期(1765年頃)の実在の人物で、江戸3美人の一人といわれ浮世絵に描かれ、歌に詠われ、芝居にもなったそうです。
「向う横丁のお稲荷さんへ一文あげて、ざっと拝んでおせんの茶屋へ。」 -
笠森稲荷堂。
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鈴木春信「お仙茶屋」。
浮世絵師鈴木春信の美人画に描かれ一躍大人気になった。 -
観音寺の前を進むと朝倉彫塑館があります。
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彫刻家朝倉文夫の住居。国登録有形文化財。
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朝倉文夫。明治16~昭和39年。大分出身。
近代日本を代表する彫塑(彫刻)家。明治40年この場所に住居兼アトリエを造り朝倉塾を開く。 -
中には入りませんでした。
前庭にあるブロンズ「雲」。明治41年。 -
幸田露伴旧居跡。
朝倉彫塑館の横の狭い路地を抜けた右手にあります。
説明板と当時からある珊瑚樹があるのみです。 -
右の角。
道路を隔てて左は谷中の墓地で寂しい場所でした。手伝いの老女があまりの寂しさに逃げ出してしまったそうです。今でも夜は不気味でしょう。 -
明治24~明治26年、2年足らずここに住まいしました。露伴25、6歳のころです。このころ「露団々」、「風流仏」などで文名が挙がり紅露時代と云われた時で、饗庭篁村、幸堂得知、山田美妙、淡島寒月、森鴎外、斎藤緑雨などがよく集まったそうです。この間名作「五重塔」を書いています。五重塔が放火心中で炎上したのをあの世から見て悲しんだことでしょう。
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この珊瑚樹は露伴当時からあるそうです。
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朝倉彫塑館の屋上の彫刻が見えます。
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和風の門は朝倉文夫邸の裏門。
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露伴旧居跡のすぐ先の赤い塀のある所、北原白秋が大正15年から1年ほど住んでいた所です。白秋40過ぎのころ。
白秋は誰もが怖がる墓地をことのほか好んだようで、「朝夕の墓地の逍遥は、わたくしをして却って明るい楽しいものに心身を悦ばせた。」と書いています。
この時代「からたちの花」が作られている。 -
日暮里駅に続く御殿坂に出てきました。下った先が駅です。
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反対方向は谷中銀座方面。
右の塀は本行寺。 -
御殿坂の由来。
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本行寺。
大田道灌の子孫の開基といいます。
扁額はこの寺に眠る市河米庵。 -
上野台の東端の崖の上に立ち景勝の地であったことから別名月見寺とも呼ばれました。
またここは大正時代大ブームとなった「岡田式静座法」の道場の中心となった所です。岡田虎二郎という人が創始した健康療法で、座禅にちかいものでした。 -
今はこの通り。
静座会の会員には、閑院宮、徳川慶喜などの皇族・華族、安田善次郎・渋沢栄一・星島二郎など政財界人、坪内逍遥・島村抱月・中里介山などの文士など錚々たる人物がいた。
ところが、岡田虎二郎は49歳で病で亡くなってしまいます。創始者がその歳で死んでしまったので当てにならないと静座会は急速に下火になってしまったが、今でも続いているそうです。 -
境内からの眺め。京浜東北線、山手線、京成・・・。
これも現代の景勝と言えるかもしれません。 -
市河寛斎の墓があります。
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伊勢丹社員の墓。
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ペットの墓です。殆どは犬です。
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ナナ、ポコ太、クンクン、ハチ、龍、カイザー。
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荻家の墓。
映画評論家荻昌弘(1925~1988年)がここに眠っています。 -
市河寛斎、市河米庵、市河三喜の墓。
寛斎は江戸中期の儒学者。1749~1820年。
米庵は書家。寛斎の子。幕末の三筆といわれた。1779~1858年。
三喜は英語学者で、市河三喜の英和辞典、といえばお世話になった人も多いでしょう。1886~1970年。 -
谷中銀座の方に向かいます。
有名なお店のようで次々とお客が買っていきます。私もせんべいを数枚買う。一応土産のつもり。 -
せんべい屋の向かいに経王寺。
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山門。上野戦争の時彰義隊がここに逃げ込んで、追う官軍の打ち込んだ弾の弾痕が残っています。
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弾痕跡。
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経王寺。
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谷中銀座方面。
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賑わっています。
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谷中ぎんざ。
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御殿坂から谷中銀座に降りる所に石の階段があります。
名前は「夕焼けだんだん」。夕焼けの絶景スポットだったところから谷根千に詳しい森まゆみ氏が命名したそうです。
今は真正面の高層マンションが邪魔で見えるかどうか。 -
下から。
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谷中銀座。
下町情緒あふれる商店街です。といっても人が多すぎますね。 -
珍しそうに店を覗きながら歩く外国人の観光客が目立ちます。
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肉屋、魚屋、惣菜や、お菓子屋、小間物、衣料品店、食堂、ここに来れば日常に必要なものは何でも手に入ります。でもどうなんでしょう、住民の台所よりもだんだん観光客目当てになっていくのでは。
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メンチカツ。人気があるのか行列が出来ていました。歩きながら食べています。
食べ歩きも一つのファッションになりました。しかしこの現象、あちこちの観光地で問題視されつつあります。
旅に出ると気持ちが開放的になる。わたしも外国に行くと、日本ではとても出来ないソフトクリームの食べ歩きをしました。 -
大変な混雑。
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うろうろ歩いていると右足が攣ってきました。少し前から兆候があったのです。丁度谷中ビールの暖簾が目に入ったので転げ込みました。畳に座ろうと靴を脱ぎかけると今度は左のふくらはぎがこむら返りです。
かといってビールを飲むのは忘れません。中グラスで900円、美味しかったです。しばらく休ませてもらいました。 -
今日は谷根千全部回るつもりでしたが、根津、千駄木は諦めました。何とか谷中だけは済まそうと思います。
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だいぶ治まったので歩きはじめました。
谷中銀座から南に入ると六阿弥陀通り。
宗林寺です。 -
別名萩寺。はぎと蛍の名所です。
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萩が塀に絡まっています。
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宗林寺の梵鐘。
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ここら辺りは旧谷中初音町。
昔の町名には、そこにどんな人が住みどんな商いが行われ、またはどんな由来のある土地であるかが推察できるものが多かった。
昭和37年の住居表示法の実施で、そういった由緒ある町名は実用一点張りの無味乾燥なものに変ってしまいました。 -
岡倉天心記念公園に来ました。昭和41年開設。
岡倉天心。1863~1913/大正2年。横浜生まれ。
美術史家、美術評論家、哲学者。近代日本の美術界の振興と革新に多大な功績を果たす。
東大在学中アメリカ人フェノロサに哲学、日本美術を学ぶ。東京芸大の前身東京美術学校の設立に貢献、初代校長を務める。明治31年校長を排斥され辞職、日本美術院設立。
明治39年茨城県の五浦に移すまで日本美術院はここにあった。 -
岡倉天心先生舊宅趾、日本美術院発祥の地。明治31年。
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明治31年、東京美術学校を飛び出した天心はここに居宅をつくり日本美術院を創立した。橋本雅邦、横山大観、下村観山、菱田春草など錚々たる画家たちが行動を共にする。
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岡倉天心史跡記念六角堂。
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中には平櫛田中作の天心坐像があります。弟子の作なので似ているのでしょう。
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近くの初音の森公園では谷中まつりの準備中。
地域の防災広場になっています。 -
三崎坂に出ました。
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団子坂下方面。
三崎坂は三遊亭円朝の人情噺「怪談牡丹灯籠」の舞台です。
この坂をお米、お露の二人の幽霊が、カランコロンと下駄の音をさせ牡丹灯籠をかかげて恋人新三郎のもとにやってくるのです。新三郎は幽霊とも知らずに、お露と枕を交わすのです。 -
明治時代の下宿屋を思わせる建物です。
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全生庵。
山岡鉄舟が明治維新に殉じた人々の菩提を弔うため建立。
山岡鉄舟、三遊亭円朝、弘田龍太郎の墓があります。 -
本殿。
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三遊亭円朝翁碑。1839~1900(明治33)。
明治39年、円朝七回忌に建立。字は元老井上馨侯。
落語家の父に幼少時から落語を教え込まれ天賦の才を顕し18歳で真打となる。
高座で噺すだけでなく、落語、講談の創作、書画、歌、俳諧の方面にも造詣深く、井上馨、山岡鉄舟ほか知名の政治家、文士、画家、名優の知遇を得、落語家の地位向上に功績があった。 -
江戸落語を集大成し近代落語の発展への道を開いた不世出の落語家。
人情噺、怪談噺、新作落語を得意とした。新作落語には「真景累ケ淵」、「怪談牡丹燈篭」、「塩原多助一代記」など。その語り口は二葉亭四迷、山田美妙などの言文一致文に影響を与えた。
幽霊画の蒐集も多く、全生庵に収められている。 -
三遊亭円朝墓。
「三遊亭円朝無舌居士」の字は山岡鉄舟。山岡鉄舟は書の達人でもあった。
円朝の父は武門の出ながら落語家になった橘屋円太郎で、高座で当時乗合馬車の御者が吹いていたブリキのラッパをプープー吹き鳴らして人気を博した。それで乗合馬車の事を円太郎馬車と呼ぶようになった、とのことです。
同時代に並び立った落語家に談州楼燕枝(だんしゅうろうえんし)がいます。
落語の技は円朝が上だったが、座談では燕枝が名人だったそうです。 -
弘田龍太郎。明治25~昭和27年。高知県出身。
作曲家。
東京音楽学校(現東京芸大)卒。ドイツで作曲、ピアノを勉強。
鈴木三重吉、北原白秋らと共に童謡に多くの名作を残す。 -
弘田家の墓。
代表作:鯉のぼり、浜千鳥、叱られて、雀の学校、春よ来い、千曲川旅情の歌等。 -
叱られての楽譜。
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山岡鉄舟墓。
山岡鉄舟(鉄太郎)。1836~1888/明治21年。江戸生まれ。
旧幕臣。維新時勝海舟のもとで江戸無血開城の実現に奔走、単身小田原城に乗りこみ西郷隆盛に面会し西郷・勝の会談のお膳立てをした。維新後は明治政府に重用される。明治天皇の侍従となり、天皇と相撲を取ったという。
千葉周作門下北辰一刀流の達人。
勝海舟、高橋泥舟とともに幕末三舟と言われる。 -
戒名「全生庵殿鉄舟高歩大居士」。
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キンキラキンの谷中大観音/観世音菩薩。
高さ6.6m。
仏像にも位があって、調べてみると偉い方から「如来」「菩薩」「明王」「天部」があるそうです。 -
遠くから見るとそうミスマッチでもありません。
如来:大日、阿弥陀、薬師、釈迦如来。盧舎那仏など。
菩薩:弥勒、文殊、観世音、普賢、日光・月光菩薩。千手観音など。
明王:不動、愛染、馬頭明王など。
天部:毘沙門、弁財、大黒、帝釈、多聞天など。
東大寺大仏は盧舎那仏、鎌倉大仏は阿弥陀如来、鎌ヶ谷大仏は釈迦如来です。勉強になりました。 -
三崎坂の谷中小学校。
前身は明治35年開校という古い学校。 -
学校前の時計塔。
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谷中小学校の向かい、三崎坂を挟んで大圓寺があります。
菊まつりの準備中でした。 -
ここにも笠森お仙にちなむ記念碑があります。
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ここは寺と稲荷が同居しています。
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もっともここの稲荷は笠森ではなく瘡守(かさもり)です。皮膚病、できものにご利益がある稲荷様です。
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明日から菊まつりのようです。
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おせん菊人形。
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お仙。
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右に瘡守稲荷。
ここの稲荷は朱色ではありませんでした。 -
左に大圓寺。
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錦絵開祖鈴木春信。
選文は笹川臨風。 -
江戸中期の浮世絵師、錦絵の創始者。美人風俗画を得意とした。1725~1770年。
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鈴木晴信
「中納言朝臣(文読み)」 -
三崎坂の坂下寄りにはユニークなお店があります。
喫茶店「乱歩」。オーナーが江戸川乱歩フアンなんですか。 -
江戸千代紙の「いせ辰」。
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その看板。
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草履や。
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銭湯がありました。朝日湯。
円朝の「怪談牡丹灯篭」の、お米、お露の墓のあった新幡随院があった所です。 -
蕎麦の大島屋。
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この道路の下には北から南に向かって藍染川が暗渠となって流れています。暗渠になる前は地上を川が流れ枇杷橋または藍染橋が架かっていました。そして不忍池に注いでいました。川は清流で夏は蛍の名所だったなんて想像もつきません。暗渠の上の道路は台東区と文京区の境界になっています。
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藍染川は漱石の「三四郎」に出てきます。
広田先生たちとの団子坂の菊人形見物の途中、三四郎と気分の悪くなった美禰子は抜け出して小川の畔に来る。これすなはち藍染川と思います。石橋のそばと言うのは枇杷橋でしょう。
三「どうです、具合は」。美「有難う、だいぶ良くなりました」。三「少し歩いて休みましょう」。美「ええ」。(しばらくして)、三「皆が探してるでしょう、帰りましょうか」。この時美禰子の口から運命的な言葉が吐かれる。美「迷子」。「迷子の英訳を知っていらしって」。「教えてあげましょうか」。三「ええ」。美「ストレイシープ、迷える羊。解って?」。
三四郎の心を惑わす美禰子は魔性の女です。 -
菊見せんべい。創業明治8年という。
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団子坂下、左右に不忍通り、向こうに団子坂。
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団子坂下。
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今日の散策は終わりにします。足を痛めて千駄木、根津は他日とします。
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