2014/10/08 - 2014/10/09
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frau.himmelさん
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昨年秋のドイツ旅行記、前回からかなり間が空いてしまいました。
同じ日付の旅行記を3ヵ月半もあけて投稿するのも私らしい・・・(笑)。
来月から次のドイツ旅行を控えていますので、大急ぎで昨年分の続きをアップします。
前回の旅行記は下記です。
http://4travel.jp/travelogue/10981061
2014年秋、ベルリンは壁崩壊25年で街中いたるところで展示会などが開催されており、興味がある私にとっては喜ばしいことです。
前回は文化醸造所博物館で「旧東ドイツ時代の普通の生活展」を見て、その後に行ったユダヤ人墓地は一足違いで入ることが出来ず・・・。
さて、次に向かったところは。
(2015.10.02 加筆修正しました。)
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(3ヶ月半ぶりに・笑)私がやってきたところはベルリン中心地ポツダム広場。
目の前をベルリン市内観光の2階建てバスが走っています。
各国語のイヤホンガイドを聞きながらバスでベルリンの街中を観光します。
ちゃんと日本語もあるようです。 -
私にとってのポツダム広場の象徴は、このヨーロッパで始めての信号機。
ベルリンが隆盛を極めた黄金の1920年代、ポツダム広場はヨーロッパ交通の要衝でした。
ヨーロッパで始めての信号機が据えられました。 -
そしてここは今でもベルリンの要衝、相変わらずの人・人・人です。
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"また見つけました、ベルリンの壁崩壊25周年の展示を。
この写真は有名ですね。
ベルリンの壁建設直後の1961年8月15日、有刺鉄線を飛び越えて西側に亡命した国境警察官です。 -
ポツダム広場の近くにあるショッピングセンターの「アルカデン」で展示が開催されているそうです。
ここはやっぱり見ておかなければね。 -
アルカデン。
ベルリンの高級ショッピングセンターらしいです。
入り口にはイーストサイドギャラリーでお馴染みのベルリンの壁のアート。 -
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いつもはお洒落なショッピングセンターなのですが、あちらこちらに壁崩壊の展示がなされています。
実物大(?)の監視塔が設置され、数多くのパネル写真の展示が。 -
ベルリンの壁崩壊25周年の記念イベントの一つです。
順不同ですが興味深く見てまわりました。 -
1945年から1989年にわたって東西ドイツに分断されていました。
ポツダムで戦勝国首脳が集まって戦後処理の会談がもたれました。
この会議で東西冷戦の種は生まれました。
敗戦国のドイツは、資本主義の米・英・仏、社会主義のソ連の4カ国に分断されました。
首都ベルリンも同じように分割され、米・英・仏の資本主義が占有する西ベルリンは、周囲を東ベルリンに囲まれた「島」になりました。" -
1989年11月9日ベルリンの壁が崩壊して興奮している人々。
2014年はあれから25年経つのです。 -
壁によじ登って喜ぶ東西ベルリン市民の眼下には、東ドイツ国境警備兵の連隊。
これからの行く末を案じるかのように呆然と立ちつくしていました。 -
封鎖されていた壁を取り外したり、ハンマーなどで壁を削り取っている市民。
ベルリンの壁崩壊の記念に欠片が土産物としても売られていましたので、お持ちの方もいらっしゃるのでは。 -
翌年1990年10月3日東西ドイツ統一。
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東西ドイツ再統一に沸くドイツ国会議事堂
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東西壁の歴史を少しだけ。
初期の頃は東西ドイツに分かれてはいたものの、検問所でのチェックを受ければ、両ベルリンへの行き来は比較的自由でした。
しかし東ドイツから西ベルリンへの労働力の大量流出が相次いだため、危機感を抱いたソ連と東ドイツ政府は1961年8月13日突然、西ベルリンの周囲を封鎖してしまいました。
周囲に壁を張りめぐらせたのです。 -
1961年、住宅街の真ん中に壁が出来たベルナウアー通り。
ある日突然、壁が築かれ、肉親や友人とも西と東に引き裂かれた市民。
西側に面する窓は煉瓦やコンクリートで塞がれました。 -
肉親や友人と強制的に引き裂かれたベルナウアー通りの人々、この小さな子は誰と別れなければならなかったのでしょうか?
不安そうな表情が悲しみを誘います。
その上では東ベルリンの友人を壁の向こうに見つけて手を振っている老婦人。
このベルナウアー通りは、いくつもの悲劇の舞台となりました。 -
1962年、壁によって封鎖されたブランデンブルク門を監視している国境警備兵。
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ペーターフェヒター事件、
1962年8月17日、18歳のペーター・フェヒターは西側に住んでいた姉妹のところに行きたいと、チェックポイント・チャーリー付近の壁をよじ登り逃亡を企てました。
しかし警備兵の銃弾を受け、有刺鉄線に絡まって動けなくなってしまった。
助けを求めて叫ぶフェヒター。
この事態に気づいた群衆が東ベルリン側と西ベルリン側の両方から現場付近に集まってきたが、人々は何もできずにフェヒターが弱ってゆくのを見守るしかなかった。
フェヒターは約1時間後に出血多量で死亡した。
銃撃後1時間以上経ってから、東ドイツの警備兵はフェヒターの遺体を収容した。 -
ますます警備が厳重になっていく壁。
壁と壁との間に緩衝地帯を設け、有刺鉄線を張り巡らせたり獰猛な犬を放ったり、また銃を持った人民警察が厳重に見回っていた。 -
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東ドイツと西ドイツの捕虜交換に使われたグリーニッケ橋。
バンゼー湖上の国境線を見張っている監視船。 -
分断当時のグリニッケ橋と現在の様子。資料より。
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世界冷戦の真っ只中、1963年6月26日
ケネディー大統領が西ベルリンを訪問してシェーネベルク市庁舎のバルコニーで演説をしました。
「Ich bin ein Berliner:私はベルリン市民だ」。
この言葉に感激した140万人の西ベルリン市民から拍手喝采を浴びました。 -
それをソ連に対する挑発行為と捉えたフルシチョフは、2日後の6月28日、東ベルリンを訪れ、ケネディーの「東ドイツ版」をやりました。
東ベルリンの赤の市庁舎で演説をしました。
東側メディアは50万人が集まったと伝えましたが、西側メディアの発表ではわずか数千人だったと伝えられました。
フルシチョフと共に手を振っているのは東ドイツの書記長ヴァルター・ウルブリヒトです。 -
東ベルリンの人々の生活。
テレビ塔前の広場を闊歩する若者。
スターリン大通りのカフェの賑わい。 -
西ベルリンの人々の変化。
西ドイツ学生運動の転機となったベンノ・オーネゾルクの死。
家屋不法占拠。
Rainer Langhans。
ポツダム広場を西側の壁の外から見学している人々。 -
そのころの近隣諸国はどうなっていたのでしょう。
ポーランド、ワレサ議長、
オーストリア・汎ピクニック計画 -
1989年10月9日、ライプティヒの7万人のデモが、ベルリンの壁崩壊のきっかけでした。
ライプティヒの無暴力デモに触発されて、東ドイツ各地で大勢の市民が参加する抗議デモが起きました。 -
ニコライ教会で毎週月曜日に行われていた「平和の祈り」の平和行進から壁は崩壊しました。
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いろんな制服を身に着けた等身大の人形が飾られていました。
これは西側のもの。
西ベルリンのSchutzpolizei(保安警察)の制服です。
そのほか西側には、連邦国境警備隊(Bundesgrenzschutz, BGS)がありました。 -
東ドイツの企業民兵
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DDRのスタンプが押されたパスポート
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東ドイツ軍用車両
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検問所にある看板。
「あなたはアメリカ区域から出る」と警告が。 -
英語、フランス語、ロシア語、そして一番下はドイツ語
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その看板の下には鉄条網。
物々しさが伝わってきました。 -
10月9日、今日はユダヤ博物館とオリンピックスタジアムへ行く予定を立てています。
いつもSバーンばかりでは能がないので、中央駅前のバス停からバスで隣駅のフリードリヒシュトラーセ駅に向かいます。
行き先電光掲示板に「Schumannstrasse」の名前が。
あのシューマン? -
ベルリンでもシューマンは活躍したのかしら?
立派な家つきの像が見えました。
バスの中から急いでシャッターを押します。 -
ちょっとあのシューマンさんとはお顔が違うみたい。
帰国して調べたら、ベルリン出身の高名な眼科医、アルブレヒト・フォン・グレーフェでした。
町の片隅で見つけたこういう像なども見逃せません。
何げなく撮った写真が歴史的ないわれのある像だったりすると嬉しくなります。 -
フリードリヒシュトラーセ駅前でバスを降りました。
何度も見た古い駅舎。
今でこそ人々が自由に行き交っていますが、東西分断時代はここに国境検問所がありました。 -
古い駅舎にお似合いのオート三輪車。
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古い駅舎とは裏腹に、近くには、若者に人気のありそうなキラキラしたショップが出来ています。
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と、突如目の前に見えたのは、涙の宮殿ではありませんか。
今日の予定にはありませんが、ここを素通りするわけには行きません。 -
「Alltag der deutschen Teilung Erfahrungen Grenz: 東西分断時代の日常、国境体験」と書かれた入り口。
ここを訪れるのは何度目だろう。 -
今日も大勢の中学生らしき子供たちが先生に引率されて来ています。
社会科授業の一環なんですね。 -
引率者の説明を熱心に聞いている子供たち。
展示されている資料はいろんなところで何度か見たものばかりなので、説明は省きます。 -
またここでも、ペーターフェヒター事件。
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西側の市民が東側の家族や親戚を訪ねることは一応できましたが、西ドイツに戻る際、この検問所の前で、涙・涙のお別れをしなければなりませんでした。
そこでこの検問所は「涙の宮殿」と呼ばれるようになりました。
展示の旅行かばんの中に、分断時代の東ベルリン市民の生活がいっぱい詰め込んでありました。 -
『AUSREISE』:出国
西側の市民が東側の家族や親戚を訪ねたあと、西ドイツに帰るためにはここを通らなければなりません。
かつての検問所に関するいろんな書類などの展示されていました。 -
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検問所
ここで一人ひとり係官の前に立って、パスポートやビザのチェックを受けました。
あちこちに隠しカメラも仕掛けてあったそうです。 -
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審査が済むとやっと西ドイツへ出国です。
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インターショップでお土産を買って・・。
西側の通貨やドルでしか購入できません。外貨不足に悩んでいたDDRが外貨獲得のために講じた策。 -
要所要所には国境警備官が目を光らせています。
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当時のフリードリヒシュトラーセ駅の見取り図。
駅構内はまるで迷路のようになっていました。
西ドイツ国民が列車で駅について、出るまでの経路が点線で表示してあります。
構内では何度も尋問を受けて、やっと東側に入ることが出来たようです。
反対に東から西に出る場合はまた別な経路があり、あの狭い構内がこんなにも複雑な構造になっているのかと驚きます。
見にくい図面ですがよく見ると、電車を降りて、駅構内をぐるぐる回って、真ん中下の出口までの経路が点線で示してあります。 -
難関を突破してやっと外に出ることができます。
乗換案内 -
私も出国審査を無事通過して、やっとフリードリヒシュトラーセ駅に出てきました。
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この旅行記へのコメント (2)
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- norisaさん 2015/05/26 05:52:06
- あれから26年!
- frau.himmelさん
おはようございます。
お久しぶりです。
え、壁の崩壊から今年で26年ですか!?
短いような長いようなーーー。
しかしたった四半世紀前、人類も愚かしいことをしていたものです。
この壁のおかげで多くの同国人が殺されたのですね。
(それにしても東ドイツの兵士や国境警備官の制服、怖いですね!)
いや、今現在でも38度線やシリア/イラク、中国に侵略された少数民族国家、あるいはアフリカの多くの国で壁ではないけれどもっと残酷な愚行が繰り返されています。
学習効果の最も低い動物、それこそが人間!?という見本ですね。
norisa
- frau.himmelさん からの返信 2015/05/26 20:58:41
- RE: あれから26年!
- norisaさん、こんばんは。
本当にご無沙汰して申し訳ございません。
(なんて、何度同じことを申しましたことやら・・・)
ここのところ4トラ自体もご無沙汰で、今回は久しぶりの投稿でした。
にも関わらず、忘れないで訪れてくださり、やさしいコメントまでいただき、ウルウルでございます。
ベルリンの壁が崩壊して25年(いえ今年は26年です)ですが、それよりは短いからお許しください(笑)。
いつもいつもの変わり映えのしない内容ですが、結局いつも同じようなところばかり行ってしまいます。
でもnorisaさんがおっしゃるように、地球上では同じような愚行が反省もせずに繰り返されているのですね。
人間は学習しない野蛮な動物・・・、とはよくぞ仰ってくださいました。
ありがとうございました。
のちほどお邪魔させてください。
himmel
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