2014/10/08 - 2014/10/08
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frau.himmelさん
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東西冷戦の象徴「ベルリンの壁」が崩壊してこの11月9日でちょうど25年、
全世界の人々の目を釘付けにしたあの衝撃の映像の日から四半世紀経ったのですね。
5年前の10月、ベルリンが東西ベルリンの壁崩壊20年の年にも私はベルリンを訪れています。
ベルリン市内では壁崩壊に関するいろいろな行事や展示を大々的に開催していました。私はその時、ドイツの、いえ世界の歴史の1ページに立ち会ったような強い感動を覚えました。
あれから5年、その後ベルリンには何度も訪れております。4ヶ月前にも訪れたばかりですが、めったにない壁崩壊25周年の節目のチャンスにもう一度立ち会いたい。
やはりベルリンは壁崩壊25周年関係で賑わっていました。
私の旅行記もいきおい東西の壁関係が多くなり、拙い研究発表になってしまうと思います。
申し訳ありませんが、お付き合いくだされば嬉しいです。
ところで、25年前に壁が崩壊して東西冷戦が氷解したかに見えた世界情勢でしたが、新たなる不安が見え隠れしています。
先日NHKのクローズアップ現代で「ベルリンの壁崩壊から25年」の特別番組をやっていました。それによると、今の世界は、再び冷戦時代に逆戻りするような緊迫した状態に陥っていると警鐘を鳴らしていました。
新たな「冷戦」、ヨーロッパとロシアの問題だけでなく、アジアでもイスラム圏でもきな臭い火種がくすぶっています。
本当にこれから世界はどのような方向に向かっていくのでしょうか。
ベルリンの壁25周年の現場を見てきた私、深く考えさせらました。
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ベルリン中央駅。
これからSバーンでベルリンの壁記録センターに向かいます。
Sバーン乗り場は最上階にあります。 -
中央駅から一つ目、フリードリヒシュトラーセ駅で乗り換えです。
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駅のホームにはいろんな歴史の展示がありました。
フリードリヒシュトラーセ駅は歴史の変遷を見続けてきた駅です。
18世紀終わりごろ、ベルリンは市域の急速な発展により、地下鉄や近郊線の建設が必要となりました。
フリードリヒシュトラーセ駅は1882年に開業しました。(1905年ごろ) -
1910年ごろの賑わいを見せる駅前。
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1918年、第一次世界大戦で敗戦し、ワイマール共和国が制定されたころ。
駅の周辺には警官の姿が見られ物々しさを感じます。 -
フリードリヒシュトラーセ駅から2駅目、ノルトバーンホフに着きました。
ここにも、駅の壁に興味深い写真の展示がいろいろありました。
ノルトバーンホフは東ベルリンに位置し、東西ベルリン分断時代は「幽霊駅」といわれたところ。
幽霊駅とは、駅は存在するけれど電車は停まることなく通過した駅のことです。 -
壁が分断されても、起点と終点が西ベルリン側にあり、中間の一部区間が東ベルリンを通過する一部の地下路線は運行を認められていました。しかし東ベルリン側の駅に停車することはありませんでした。
薄暗闇に浮かび上がる、封鎖された不気味な通過駅を見た西ベルリン市民は、いつしかそれらの駅を「幽霊駅」と呼ぶようになりました。 -
ここに当時のそれらの幽霊駅を示した地図があります。
グレイの部分が東ベルリン、黒部分が西ベルリン。
西から東に入ってまた西に出る3本の路線があるのが確認できます。
東側に存在する●の駅がすべて幽霊駅だったところです。
(−)が境界駅。西ベルリンから入った電車は境界駅で「西ベルリン最後の駅です」と車内放送があり、●の駅を通過していきます。 -
1989年壁分断当時と、2009年壁が崩壊した後の写真の比較があります。
駅の入り口です。
分断前は多くの人が通行したであろう入り口がコンクリートで塞がれているのが判ります。 -
階段も塞がれています。
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幽霊駅とはいうものの「無人駅」ではなく、駅には東ドイツの国境警備隊が配置され、常に駅と列車を監視していました。
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幽霊駅には東ベルリンの国境警備隊が配置され、通過する列車を厳重に監視していました。
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それでも駅の地下トンネルを通って脱走に成功した2家族がありました。
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水路のトンネルを通って逃亡した?
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ノルトバーンホフのベルナウアーシュトラーセに向かう長い通路の壁にも写真展示がありました。
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ブランデンブルク門、東ベルリン側。
Sバーンのウンター・デン・リンデン駅も閉鎖され、ゴーストタウンと化しています。 -
1961年8月13日、東ドイツ政府によって西ベルリンを囲む壁が建設されました。
ベルリンミッテのフリードリッヒ通りの当日の緊迫した状況。 -
きれいになったけど、人通りが少ない長い通路を通って
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ノルトバーンホフの出入口
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大勢の人、25年記念の年だからか団体で来ている人が多い。
グループがいくつか固まっている。 -
早速入り口でベルリンの壁の犠牲者の碑を見つけました。
エルンスト・ムントが1962年9月4日、西ベルリンにいる母親も元に行くため脱出しようとして、この場所で射殺されました。
当時40歳でした。 -
壁の道路を隔てた西ベルリンだったほうに目をやると、紅葉した蔦が絡まった瀟洒な建物が見えました。
この蔦は25年前も同じように建物を覆っていたのでしょうか。 -
ベルリンの壁跡には鉄のポールのモニュメントが・・。
ここベルナウアー通りに沿って壁は建設されました。
こっちの通りは西ベルリン、壁に沿って建っていた建物は東ベルリンに属していました。
そのため、壁建設当時は、建物の窓から飛び降りて多くの人が脱出に成功した場所でした。 -
しかし東ドイツ政府は、住民を立ち退かせ建物を破壊して、その場所に壁を作りました。
その当時の壁が今も残っています。
結構薄い壁、だけどこの手前には緩衝地帯が広がっており、有刺鉄線や凶暴な犬を放ったり、また銃を持った国境警備兵が見回っていました。 -
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今では薄くなって穴が開いているいるところも。
この壁を飛び越えて西側に逃亡しようとした人たちが何人犠牲になったことか・・。 -
なんとまあー、こんなところにも愛の錠前。
もう西と東に引き裂かれる社会は、絶対阻止しなければなりませんね。 -
ベルリンの壁で亡くなった人々の慰霊の十字架
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人が大勢集まっているところ、私もこれを探していました。
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ベルリンの壁で犠牲になった人々の写真が飾ってあるのです。
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ギュンター・リトフィン。
1961年8月24日、シュプレー川を越えて西側に逃げようとして国境警備隊に射殺されましたた。
当時24歳。壁の最初の犠牲者でした。 -
私が今回滞在しているホテルに程近い、シュプレー川の袂に彼の慰霊碑が立っているそうです。
今回はそこも訪れる予定です。 -
ここにも名前に見覚えのある若者が・・。
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ペーター・フェヒター。
彼のことについては2013年の旅行記でレポートしています。 -
(2013年の旅行記より)
1962年8月17日、18歳のペーター・フェヒターは西側に住んでいた姉妹のところに行きたいと、チェックポイント・チャーリー付近の壁をよじ登り逃亡を企てました。
しかし警備兵の銃弾を受け、有刺鉄線に絡まって動けなくなってしまいました。
助けを求めて叫ぶフェヒター。
この事態に気づいた群衆が東ベルリン側と西ベルリン側の両方から現場付近に集まってきたが、東ベルリン側から来た群衆は警備兵によって退去させられた。
西ベルリン側から集まった、チェックポイント・チャーリーで勤務していたアメリカ合衆国の兵士やジャーナリストを含む大勢の群衆は「何とかしてやれ!」と口々に叫んだが、何もできずにフェヒターが弱ってゆくのを見守るしかなかった。
フェヒターは約1時間後に出血多量で死亡した。
西ベルリン側でこの顛末を見ていた多くの群衆は、「人殺し!」と東ドイツの警備兵を罵った。
銃撃後1時間以上経ってから、東ドイツの警備兵はフェヒターの遺体を収容した。(wikiより参照) -
パネルに熱心に見入っている人々
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壁を乗り越えて逃亡する人が跡を絶たないので、壁の上部をかまぼこ型に膨らませて乗り越えにくく改良されたベルリンの壁。
スポーツ選手上がりの東ベルリン国境警備隊が逃亡のテストをしているところ。 -
古い壁を取り壊して新しい頑丈の壁を建設している建設現場。
すぐ傍のバス停でバスを待っている人々でしょうか、諦めきった平然とした表情をしています。 -
テレビのレポーターが取材に来ていました。
崩壊25周年が近づいていますのでいろいろ特集を組んでいるのでしょう。 -
壁建設のために壊された住居の跡。
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音声や画像でも記録を見ることができます。
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ここにも亡くなった人のメモリアル標識。
1962年11月27日、18歳のオットフリート・レック。
この先のガルテン通りの壁を飛び越えて逃亡しようとして射殺されました。
1944年生まれというから生きていれば今年70歳。 -
ガルテン通りとベルナウアー通りの交差点。
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その先にはベルリンの壁記録センターがあります。
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ここにはベルリンの壁に関する資料や映像が保存されており、当時の様子を知ることが出来ます。
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私が行ったときは、2階の映像室では「トンネル」のドキュメンタリー番組をやっていました。
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東ベルリンから西ベルリンに亡命するために地下に何本かのトンネルが掘られました。
東ベルリン側の工場敷地の地下を西側に掘り進めるのですが、国境警備隊に見つからないように音には細心の注意を払い、地下水や配水管に突き当たったり、最後まで掘りきる前にスパイにより人民警察に密告されたりと、スリル満点の記録映画でした。 -
ベルrナウアー通りで掘られた有名な脱走のトンネルに「トンネル27」があります。
これはアメリカのテレビ局がスポンサーとなり27人の東ベルリン市民を西側に逃亡させたもの。
その模様はアメリカのテレビ番組で放映され、大きな反響をよびました。
不思議なことに東独の秘密警察は、最後までこのトンネルの存在を察知していなかったようです。 -
また「トンネル57」は、1964年10月、東から西ベルリンに亡命した学生によって掘られた140メートルの地下トンネル。
国境警備兵に発見されるまで僅か3日間で57人の東ベルリン市民が西側に脱出しました。
これが最も多くの人を脱出させた例だそうです。 -
映画が終わって、窓から外を眺めます。
25年前までは、この付近はまったく違う風景だったのですね。 -
売店でベルリンの壁の小冊子を求めました。
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ベルリンの壁があった場所。
当然ですが、西ベルリンはぐるりと包囲されていたのですね。 -
境界線に描かれた『鉄条網』がリアル過ぎて恐怖を覚えます。
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そして数々の悲劇をもたらしたベルナウアー通りはこちら。(青線)。
道路にそって壁が立ちふさがっています。 -
ベルリンの壁にそって走る市電M10。
これに乗って移動します。 -
エーベルスヴァルター通り駅で下車します。
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カリーヴルストの人気店「コノプケ」の前には今日も長い列が出来ています。
私はここには寄らないで次の目的地へ急ぎます。
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この旅行記へのコメント (7)
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- jijidarumaさん 2015/02/08 14:11:34
- ベルリンの壁
- himmelさん
こんにちは。精力的な旅、詳細なレポートを写真と共に拝見しました。
“陸の孤島”と称されたベルリンですが、東が壁を作るという実に後ろ向きの対抗策、作った時点で東西ドイツの優劣がどちらにあるかを逆に明確にしたと当時思っていました。
それにしても営々と壁を作る行為、壁の崩壊後はこれまた営々として、壁の一部を残し、様々な記念館を作り、5年ごと?!に記念式典を行うドイツ人はある意味で感心してしまいます。日本人だと東日本大震災の被害ですら、すぐに過去としてきれいにしてしまいそうですから。
さて、デュッセルドルフに駐在した1970、80年代はドイツが東西に分裂していた為、旧東独地域への旅行は難しかった。
その頃、“陸の孤島”であったベルリン(西・東のベルリンに分離統治されていた)に2度旅行しただけでした。1度は出張で、2度目は感謝祭休日を利用して、家族旅行(1983年4月1日〜4日)をした時です。
家族旅行のオースターライゼはDuesseldorf−>Dortmund−>Hannover−>Braunschweig−>Helmstedt(当時、ここに東西ドイツの国境検問所がありました。380kmの距離)−>Berlinと、往復1247kmの旅でした。
Mercedes 2300ccの中古に乗って走ったのですが、国境のHelmstedtヘルムシュテットではトランクから車の下まで検査されて、緊張しました。
(2014年の旅でヘルムシュテットの町を通過した。アウトバーンA2を走ると、記憶にある検問所跡が見える。西から東に入る際の最も厳しい東独側の検問所があった。今は当時の検問所跡があり、博物館や監視塔、検査設備などを見ることが出来る。人口は22千人で、16~7世紀の400以上の木組みの家がある。かつてハンザ同盟都市でもあった。2014年11月9日には1989年の東西の壁崩壊25周年記念祭が行われる。)
1時間ほど掛って、東へ。東の道路は西とは違った貧弱なアウトバーンに思えました。80kmを超えると何処からともなく、東のパトカーが出てきて、高い罰金を取られると聞いていたので、安全・慎重運転をしたものです。実際、一台の車が高速を降りて行くと、どこに隠れて見ていたのか、一台のパトカーが現れ、尋問するのが見えました。
朝6時にスタートし、600kmを走り、午後0時には西ベルリンのホテルAlsterhofに到着しました。
東ベルリンにも観光バスに乗って入りましたが、東西の豊かさの差ははっきりしたもので、東の暗さが顕著でした。
1990年、予想もしなかった東西ドイツの統一がなされてから、至極、当然のように旧首都ベルリンは現首都になり、まるで“第4帝国”への歩みかのように、政治的権力の集中が行われています。
ベルリンはドイツの各都市から見ると、首都機能が肥大化し、また国際都市の色合いが強くなってしまい、私にはドイツ的なものから、かけ離れたように思えます。
またベルリンを好ましい町と思った事がないのですが、ベルリンがどう変っていくのかを見る・・・興味だけはあるのです。
jijidaruma
- frau.himmelさん からの返信 2015/02/10 21:43:59
- RE: ベルリンの壁
- jijidarumaさん、こんばんは。
壁で分断されていた当時のベルリンにいらっしゃったなんて、大変貴重な経験をなさっているのですね。
デュッセルドルフからベルリンまで車でいらっしゃったんですか。
ICやICEではどれくらいかかるだろうと調べてみました。
まずブラウンシュヴァイクやマクデブルク経由の直通がなくて、ブラウンシュヴァイクから国境の駅Helnstedtを経てのベルリン入りだと7時間以上かかります。
よく車でいらっしゃいましたね。
国境検問所では厳重にチェックされて、ちょっとでもスピード違反をしたら罰金、つまり外貨稼ぎ・・(笑)。
やはり東と西とでは生活水準もかなり違っていたようですね。
ヘルムシュテットは初めて聞く名前なので地図で調べてみました。
あー、なるほどあの辺りから東と西に分断されていたのですね。
最後に書いていらっしゃった
>またベルリンを好ましい町と思った事がないのですが、ベルリンがどう変っていくのかを見る・・・興味だけはあるのです。
ベルリンという街は、年々どころか刻一刻変貌している街だと思います。
jijidarumaさんのように、車でドイツの隅々まで旅をして、古城ホテルに泊まって、愛情を持ってそのお城の由来とか、その町の歴史とかを深く突き詰めた研究をしていらっしゃいますと、突然巨大化した都市はあんまりご興味がお湧きにならないのでしょうか。
私も最初はヨーロッパの歴史や芸術が、風景が好きでいろんな国に行きました。そのうちドイツに魅せられて、ドイツ語を勉強してドイツを中心に旅行するようになったのはここ十数年のことです。
ただ、ドイツは奥が深くて難しいですねー。
そんな中、壁崩壊20周年の年にライプティヒとベルリンを旅して、町の賑わいに、歴史の現場に立ったんだーって感動を覚えました。
そうだ、ドイツの現代史から入っていけば手っ取り早くドイツのことを知ることができる。
そう思ったのが私がベルリンによく行くきっかけになったのです。
本当に老人の手習い、jijidarumaさんからご覧になったら子供のお遊びのようなものですが・・(笑)。
現代史から近代史、ワイマール共和国、プロイセン・・などなど、ドイツを旅をして歴史を遡って調べるのも楽しいですね。
jijidarumaさんがお書きになるいろんな分野の歴史話や童話などにも大変興味があります。
今後ともいろいろ教えてください。
himmel
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- ペコリーノさん 2015/02/06 22:41:00
- つづき
- ごめんなさい。途中なのに手が滑ってコメントを投稿してしまいました。
さて、私はやっと「ブラウハウス・レムケ」に行くことが出来ました。himmelさんの旅行記のお陰です。ありがとうございました。
私の旅行記はそろそろ終盤です。終わってしまうのも寂しいですね。
frau.himmelさんの旅行記を楽しみにしています。
ペコリーノ
-
- ペコリーノさん 2015/02/06 22:35:48
- お体、お大事に
- frau.himmelさん、今晩は
しばらく体調が悪かったのでしょうか?お体大切になさってくださいね。健康でいないと旅行に行けませんものね。
しかし、不調とは言うものの、ノルトバンホフの素晴らしい解説文、ありがとうございます。いやぁ、私のさらっとした旅行記とはわけが違いますね!勉強になりました。
さて、私はやっと「ブラウハウス・レムケ」
- frau.himmelさん からの返信 2015/02/07 21:30:30
- RE: お体、お大事に
- ペコリーノさん、こんばんは。
体調が悪いなんて、そんなそんな。
体調は良かったのですが、頭が働いてくれなくて、旅行記の文章がちっとも浮かばなかったのです。
昨日やっとアップできました。
だけどこんな調子では先が長ーーい!
ペコリーノさん、もう終盤ですか?
羨ましいーー。
ここのところ、最後まで旅行記が出来ないうちに次の旅行に出発、のパターンが続いていますので、たぶん今回もそうなるかも。
ペコリーノさんの旅行記、まだ拝見できていないのもありますので、また見せていただきます。
himmel
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- norisaさん 2015/02/06 07:19:56
- 鉄のポールのモニュメント
- frau.himmelさん
おはようございます。
やはりベルリンにおいででしたね。
それにしてもドイツという国。
ワイマール共和国以前は小国の集合。
その後も激動の19−20世紀でしたね。
東西統一後でやっと落ち着いた大国になった感じです。
この鉄のポールのモニュメント。
何とも皮肉な展示ではありますが、過去を反省するためには必要ですね。
冷戦時代並以上に不安定な昨今。
日本の平和を持続させるためにも日本に多数ある戦争のモニュメントを保存したいものですーー。
norisa
- frau.himmelさん からの返信 2015/02/06 21:08:05
- RE: 鉄のポールのモニュメント
- norisaさん、こんばんは。
お久しぶりです。
ここのところ大スランプでじっと身を潜めておりました。(笑)
そんな中やっとアップできたのが今回の旅行記です。
norisaさんのようにスラスラと文才がある方が羨ましい。
さて、ドイツは本当に激動の歴史の中を生きてきた国ですね。
だからこそ、こんな私でも興味が持てるのかもしれません。
> この鉄のポールのモニュメント。
> 何とも皮肉な展示ではありますが、過去を反省するためには必要ですね。
やはり皮肉って感じがしますよね。
最初あれを見たとき、工事中の鉄骨がむき出しになっているのかと思いました。
その後、そうかあれは鉄格子なのだと・・。冷戦時代、渦中にあったドイツが、全世界に発信している過去への戒めなのですね。
またその頃に逆戻りしそうな最近の世界情勢ですが、もうあんな壁はいらない!とドイツの人々は思っているでしょうね。
しばらくnorisaさんのお部屋を訪問しておりませんので、のちほどうかがいますね。
himmel
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