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吉田城(旧今橋城)は現在の豊川市を支配する一色城主である牧野成時(まきの・しげとき、生誕不詳~1506)が永正2年(1505)に豊川に面する丘陵に築城し、また駿河・遠江の太守である今川氏親(いまがわ・うじちか、1471~1526)が松平氏の拠点とする西三河への攻勢をかける拠点として攻勢をかけます。<br /><br />牧野氏をはじめとする東三河の大半の国人(地方領主)たちは今川氏に属していましたが、西三河の松平清康(まつだいら・きよやす、1511~1535、徳川家康の祖父)の頃次第に勢いを広げるなか、今橋進出を悲願として渥美半島を支配する戸田氏を巻込んだ吉田城攻防の舞台として松平氏・牧野氏・戸田氏との間で争奪戦が行われます。<br /><br />天文15年(1546)氏親突然の死去後家督相続を巡る今川氏内訌に勝利した義元(よしもと、1519~1560)は再び三河進出を固める為吉田城を占拠入城しここに城代を配置、前後して西三河の雄松平氏は広忠(ひろただ、1526~1549、家康の父)殺害を機に衰退すると尾張国織田氏との間に緊張が発生します。<br /><br />自力で三河を守れない状況下で後嗣の竹千代(たけちよ、家康の幼名)は不本意ながら義元に保護を求めざるをえず駿府に人質扱いで義元臣下となり、三河国は今川氏の支配下に入ります。<br /><br />永禄元年(1558)に家督を嫡男氏真(うじざね、1538~1615)に譲り隠居した義元(よしもと、1519~1560)は専ら不安定な三河国の鎮圧と経営に集中、翌々年5月に2万の軍を率い尾張国に進攻、途中の桶狭間で織田信長の急襲を受け家中に討たれ今川氏は支配力低下、これを機に家康は今川氏から離反自立し三河国統一すべく、永禄8年(1565)吉田城を攻略、三河における今川氏の最後の砦とも言うべき吉田城を城代小原鎮実(おはら・しげざね、生誕不詳~1568)は開城退去し駿府へ退去しここに今川氏の三河国経営は終結を迎えます。<br /><br /><br />吉田城パンフレットによれば次の説明がなされています。<br /><br />「今橋城と戦国時代<br /><br />今橋城築城以前には、土着の渡辺平内治の屋敷や浄業院という寺があったとされており、今橋城築城に際して移転したとされている。<br /><br />吉田城の歴史は、永正2年(1505)、豊川の一色城主・牧野古白により今橋城が築かれたことに始まる。この時の対抗勢力は田原の戸田氏で、今橋城より東にある二連木城の城主であった。大永2年(1522)、今橋は吉田と改名され、吉田城は戦国時代の騒乱の中で、今川、武田、松平(徳川)ら戦国武将により激しい争奪戦が繰り広げられた。現在の金柑丸が今橋城の本丸であったという言い伝えがあり、豊川を望む台地の縁辺部に沿って郭が連なる形であったと考えられている。<br /><br /><br />酒井忠次と池田照政(輝政)<br /><br />吉田城は牧野古白の今橋築城以来、幾度となく争奪戦が行われたが、永禄7年(1564)に松平家康(徳川家康)が今川方の吉田城代小原鎮実を攻め、吉田城を攻略し、酒井忠次を吉田城主に置いた。酒井忠次は吉田城を改築し、新たに堀を造った事が発掘調査で明らかになっている。また、当寺の大手は飽海口であったとされており、東側が正面になる構造であった。<br /><br />羽柴秀吉の配下である池田照政は、15万2千石という石高で吉田城の城主となり、吉田城をこの石高に見合う大城郭に改造した。照政時代の遺構には鉄櫓下の石垣があり、当時としては最新の技術で積まれた石垣は織豊系城郭の象徴的な存在である。照政は家康の娘・督姫を娶り、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後に52万石で姫路に転封となり、輝政と改名し、現在、世界遺産となっている姫路城を築いた。<br /><br />吉田城の発掘調査<br /><br />吉田城址は、東西1,400m、南北600m、総面積84m2にも及ぶ、市内最大の遺跡である。これまでに38回(平成21年度まで)もの発掘調査が行われた。しかし、その面積は遺跡全体の3%程度である。<br /><br />吉田城(今橋城)築城以前は、縄文時代から中世にかけての遺構や遺物が発見されている。特に古墳時代前期の古墳、古代の渥美郡衛(郡役所)や、中世の古田宿の依存が推定されている。豊川と朝倉川の合流点で最も標高の高い所に位置し、古来からの交通の要衛である。<br /><br />近世吉田城は本丸と二の丸に御殿が造られ、三の丸には御城米蔵、馬場等の施設が造られた。三の丸の外側を家臣団の屋敷が取り囲み、さらにその外側を総堀が大きく取り囲んでいる。<br /><br />発掘調査ではこれまで文献記録には残ってなかった戦国時代の様子が明らかになりつつある。戦国時代の堀や屋敷地を区画する溝が見つかっており、溝の周りに溝で区切られた家臣団の屋敷地が廻る構造であった。これに対し近世の吉田城は、池田照政による大規模な改修を受けたことや、発掘調査によって明らかになった家臣団の屋敷が江戸時代の吉田城絵図とも合致することが確認されている。」

三河豊橋 東三河を歩く 今川・武田・徳川ら戦国武将により激しい争奪戦が繰り広げられた東三河の戦略拠点『吉田城』訪問

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2015/03/31 - 2015/03/31

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滝山氏照

滝山氏照さん

吉田城(旧今橋城)は現在の豊川市を支配する一色城主である牧野成時(まきの・しげとき、生誕不詳~1506)が永正2年(1505)に豊川に面する丘陵に築城し、また駿河・遠江の太守である今川氏親(いまがわ・うじちか、1471~1526)が松平氏の拠点とする西三河への攻勢をかける拠点として攻勢をかけます。

牧野氏をはじめとする東三河の大半の国人(地方領主)たちは今川氏に属していましたが、西三河の松平清康(まつだいら・きよやす、1511~1535、徳川家康の祖父)の頃次第に勢いを広げるなか、今橋進出を悲願として渥美半島を支配する戸田氏を巻込んだ吉田城攻防の舞台として松平氏・牧野氏・戸田氏との間で争奪戦が行われます。

天文15年(1546)氏親突然の死去後家督相続を巡る今川氏内訌に勝利した義元(よしもと、1519~1560)は再び三河進出を固める為吉田城を占拠入城しここに城代を配置、前後して西三河の雄松平氏は広忠(ひろただ、1526~1549、家康の父)殺害を機に衰退すると尾張国織田氏との間に緊張が発生します。

自力で三河を守れない状況下で後嗣の竹千代(たけちよ、家康の幼名)は不本意ながら義元に保護を求めざるをえず駿府に人質扱いで義元臣下となり、三河国は今川氏の支配下に入ります。

永禄元年(1558)に家督を嫡男氏真(うじざね、1538~1615)に譲り隠居した義元(よしもと、1519~1560)は専ら不安定な三河国の鎮圧と経営に集中、翌々年5月に2万の軍を率い尾張国に進攻、途中の桶狭間で織田信長の急襲を受け家中に討たれ今川氏は支配力低下、これを機に家康は今川氏から離反自立し三河国統一すべく、永禄8年(1565)吉田城を攻略、三河における今川氏の最後の砦とも言うべき吉田城を城代小原鎮実(おはら・しげざね、生誕不詳~1568)は開城退去し駿府へ退去しここに今川氏の三河国経営は終結を迎えます。


吉田城パンフレットによれば次の説明がなされています。

「今橋城と戦国時代

今橋城築城以前には、土着の渡辺平内治の屋敷や浄業院という寺があったとされており、今橋城築城に際して移転したとされている。

吉田城の歴史は、永正2年(1505)、豊川の一色城主・牧野古白により今橋城が築かれたことに始まる。この時の対抗勢力は田原の戸田氏で、今橋城より東にある二連木城の城主であった。大永2年(1522)、今橋は吉田と改名され、吉田城は戦国時代の騒乱の中で、今川、武田、松平(徳川)ら戦国武将により激しい争奪戦が繰り広げられた。現在の金柑丸が今橋城の本丸であったという言い伝えがあり、豊川を望む台地の縁辺部に沿って郭が連なる形であったと考えられている。


酒井忠次と池田照政(輝政)

吉田城は牧野古白の今橋築城以来、幾度となく争奪戦が行われたが、永禄7年(1564)に松平家康(徳川家康)が今川方の吉田城代小原鎮実を攻め、吉田城を攻略し、酒井忠次を吉田城主に置いた。酒井忠次は吉田城を改築し、新たに堀を造った事が発掘調査で明らかになっている。また、当寺の大手は飽海口であったとされており、東側が正面になる構造であった。

羽柴秀吉の配下である池田照政は、15万2千石という石高で吉田城の城主となり、吉田城をこの石高に見合う大城郭に改造した。照政時代の遺構には鉄櫓下の石垣があり、当時としては最新の技術で積まれた石垣は織豊系城郭の象徴的な存在である。照政は家康の娘・督姫を娶り、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後に52万石で姫路に転封となり、輝政と改名し、現在、世界遺産となっている姫路城を築いた。

吉田城の発掘調査

吉田城址は、東西1,400m、南北600m、総面積84m2にも及ぶ、市内最大の遺跡である。これまでに38回(平成21年度まで)もの発掘調査が行われた。しかし、その面積は遺跡全体の3%程度である。

吉田城(今橋城)築城以前は、縄文時代から中世にかけての遺構や遺物が発見されている。特に古墳時代前期の古墳、古代の渥美郡衛(郡役所)や、中世の古田宿の依存が推定されている。豊川と朝倉川の合流点で最も標高の高い所に位置し、古来からの交通の要衛である。

近世吉田城は本丸と二の丸に御殿が造られ、三の丸には御城米蔵、馬場等の施設が造られた。三の丸の外側を家臣団の屋敷が取り囲み、さらにその外側を総堀が大きく取り囲んでいる。

発掘調査ではこれまで文献記録には残ってなかった戦国時代の様子が明らかになりつつある。戦国時代の堀や屋敷地を区画する溝が見つかっており、溝の周りに溝で区切られた家臣団の屋敷地が廻る構造であった。これに対し近世の吉田城は、池田照政による大規模な改修を受けたことや、発掘調査によって明らかになった家臣団の屋敷が江戸時代の吉田城絵図とも合致することが確認されている。」

旅行の満足度
4.0
交通手段
JRローカル 私鉄
  • JR豊橋駅<br /><br />東海道と伊那街道が交差するJR豊橋駅は新幹線停車駅でもあり東三河中心の都市と言えます。

    JR豊橋駅

    東海道と伊那街道が交差するJR豊橋駅は新幹線停車駅でもあり東三河中心の都市と言えます。

  • 豊鉄・豊橋駅前<br /><br />吉田城へは当該市電(豊橋鉄道)に乗車して「豊橋市役所前」まで行きます。

    豊鉄・豊橋駅前

    吉田城へは当該市電(豊橋鉄道)に乗車して「豊橋市役所前」まで行きます。

  • 市役所前通り<br /><br />下車した通りが吉田城(旧今橋城)への大手道と思われます。

    市役所前通り

    下車した通りが吉田城(旧今橋城)への大手道と思われます。

  • 三の丸虎口<br /><br />虎口には土塁が大きく残っています。

    三の丸虎口

    虎口には土塁が大きく残っています。

  • 三の丸土塁<br /><br />今では公園化されその名も「豊橋公園」という銘板が付されています。三の丸堀はその後埋め立てられ道路と化しています。

    三の丸土塁

    今では公園化されその名も「豊橋公園」という銘板が付されています。三の丸堀はその後埋め立てられ道路と化しています。

  • 三の丸口門跡<br /><br />既に三の丸まで来ている事になり、城域の広さをつくづく感じます。明治維新後に当然ながら外堀など埋められた事でしょう。

    三の丸口門跡

    既に三の丸まで来ている事になり、城域の広さをつくづく感じます。明治維新後に当然ながら外堀など埋められた事でしょう。

  • 陸軍保衛所跡<br /><br />旧権力の象徴である城郭は破却が進められた後の活用については軍隊の駐屯地としての使用されることがあり吉田城はその一例ですね。

    陸軍保衛所跡

    旧権力の象徴である城郭は破却が進められた後の活用については軍隊の駐屯地としての使用されることがあり吉田城はその一例ですね。

  • 三の丸土塁<br /><br />公園内部から土塁を見ます。<br /><br />

    三の丸土塁

    公園内部から土塁を見ます。

  • 三の丸土塁<br /><br />内側から土塁を捉えます。同時に豊橋公園案内図が立っていますが野球場・陸上競技場・テニスコート等が作られており、めざす吉田城のエリアが豊川に面した場所となっているようです。

    三の丸土塁

    内側から土塁を捉えます。同時に豊橋公園案内図が立っていますが野球場・陸上競技場・テニスコート等が作られており、めざす吉田城のエリアが豊川に面した場所となっているようです。

  • 吉田城案内図

    吉田城案内図

  • 吉田城縄張り拡大図<br /><br />豊川を臨む高台に築城された半円郭式の平城になっています。

    吉田城縄張り拡大図

    豊川を臨む高台に築城された半円郭式の平城になっています。

  • 歩兵十八聯隊説明板<br /><br />ついでながら過去に軍隊の駐屯地としていた時期があります。

    歩兵十八聯隊説明板

    ついでながら過去に軍隊の駐屯地としていた時期があります。

  • 三の丸風景<br /><br />桜の花が満開の見頃で家族や会社勤めの見物者が多く集まっています。

    三の丸風景

    桜の花が満開の見頃で家族や会社勤めの見物者が多く集まっています。

  • 本丸方向<br />

    本丸方向

  • 本丸土塁<br /><br />本丸に入る橋の手前には土塁が断片的に見えます。

    本丸土塁

    本丸に入る橋の手前には土塁が断片的に見えます。

  • 冠木門跡<br /><br />

    冠木門跡

  • 本丸渡橋

    本丸渡橋

  • 本丸石垣<br /><br />本丸渡橋から見る右側は本丸石垣と堀が見えます。<br />

    本丸石垣

    本丸渡橋から見る右側は本丸石垣と堀が見えます。

  • 本丸石垣<br /><br />本丸渡橋から左側を捉えます。

    本丸石垣

    本丸渡橋から左側を捉えます。

  • 本丸石垣<br /><br />左側を見ると二段構えの石垣となっているのが判ります。

    本丸石垣

    左側を見ると二段構えの石垣となっているのが判ります。

  • 吉田城説明板

    吉田城説明板

  • 吉田城説明板一部<br /><br />石垣の一部には8種類の印が刻されているそうです。

    吉田城説明板一部

    石垣の一部には8種類の印が刻されているそうです。

  • 吉田城二の丸略絵図

    吉田城二の丸略絵図

  • 本丸虎口石垣

    本丸虎口石垣

  • 南御多聞跡石標

    南御多聞跡石標

  • 本丸虎口石垣(左側)

    本丸虎口石垣(左側)

  • 本丸虎口石垣(右側)

    本丸虎口石垣(右側)

  • 本丸跡広場

    本丸跡広場

  • 本丸右側石垣

    本丸右側石垣

  • 本丸左側石垣

    本丸左側石垣

  • 本丸跡広場西側

    本丸跡広場西側

  • 本丸跡広場中央<br /><br />江戸時代には本丸に御殿が建てられ、本丸の中心を占めていたそうです。<br />

    本丸跡広場中央

    江戸時代には本丸に御殿が建てられ、本丸の中心を占めていたそうです。

  • 本丸跡広場東側<br /><br />東側には裏御門跡を含め土塁が取り囲んでいます。

    本丸跡広場東側

    東側には裏御門跡を含め土塁が取り囲んでいます。

  • 千貫櫓跡<br /><br />本丸の四隅の一つである千貫櫓(せんがんやぐら)跡に立ちます。

    千貫櫓跡

    本丸の四隅の一つである千貫櫓(せんがんやぐら)跡に立ちます。

  • 千貫櫓跡石標<br /><br />この辺りに「千貫櫓」と称する隅櫓が建っていたそうです。

    千貫櫓跡石標

    この辺りに「千貫櫓」と称する隅櫓が建っていたそうです。

  • 本丸土塁<br /><br />本丸を四辺で囲む土塁のうち西側土塁の上を歩いてみます。

    本丸土塁

    本丸を四辺で囲む土塁のうち西側土塁の上を歩いてみます。

  • 堀<br /><br />本丸西側土塁を南から北へ進む途中で足を止めて外側を眺めると、樹間の向こうには豊川の流れが見えます。



    本丸西側土塁を南から北へ進む途中で足を止めて外側を眺めると、樹間の向こうには豊川の流れが見えます。

  • 鉄櫓<br /><br />本丸四隅の櫓のうち復興櫓として鉄櫓(くろがねやぐら)が現れます。

    鉄櫓

    本丸四隅の櫓のうち復興櫓として鉄櫓(くろがねやぐら)が現れます。

  • 豊川<br /><br />吉田城の傍らを流れる豊川が見えます。<br /><br />

    豊川

    吉田城の傍らを流れる豊川が見えます。

  • 本丸堀<br /><br />鉄櫓付近から本丸堀を一望します。現在の堀の深さをみて往時の規模の大きさを想像してしまいます。

    本丸堀

    鉄櫓付近から本丸堀を一望します。現在の堀の深さをみて往時の規模の大きさを想像してしまいます。

  • 鉄櫓

    鉄櫓

  • 本丸跡広場中央<br /><br />鉄櫓から本丸跡広場を一望します。この広場の中央に御殿があったそうです。

    本丸跡広場中央

    鉄櫓から本丸跡広場を一望します。この広場の中央に御殿があったそうです。

  • 鉄櫓<br /><br />

    鉄櫓

  • 鉄櫓入口<br /><br />

    鉄櫓入口

  • 鉄櫓全景<br /><br />本丸西北隅に位置する三層の鉄櫓は他の隅櫓と違い大事の時は天守の代用となるべき櫓であったそうです。

    イチオシ

    鉄櫓全景

    本丸西北隅に位置する三層の鉄櫓は他の隅櫓と違い大事の時は天守の代用となるべき櫓であったそうです。

  • 武具所跡<br /><br />鉄櫓のすぐ隣のスぺ−スは武具等を収容する所があったようで、今では豊川を見下ろす展望台となって入ます。

    武具所跡

    鉄櫓のすぐ隣のスぺ−スは武具等を収容する所があったようで、今では豊川を見下ろす展望台となって入ます。

  • 川手櫓<br /><br />展望台からは眼下に豊川の流れを楽しめます。すぐ下の桜の木付近は豊川からの攻撃に備える川手櫓跡にあたります。

    イチオシ

    川手櫓

    展望台からは眼下に豊川の流れを楽しめます。すぐ下の桜の木付近は豊川からの攻撃に備える川手櫓跡にあたります。

  • 豊川上流<br /><br />展望台から見るとややV字型に流れてくる豊川が迫って来るようです。

    豊川上流

    展望台から見るとややV字型に流れてくる豊川が迫って来るようです。

  • 鉄櫓全景<br /><br />展望台から鉄櫓の全貌を捉えます。

    イチオシ

    鉄櫓全景

    展望台から鉄櫓の全貌を捉えます。

  • 北御多聞跡<br /><br />豊川に面した本丸北側の入口として重要な役割をしています。

    北御多聞跡

    豊川に面した本丸北側の入口として重要な役割をしています。

  • 腰曲輪<br /><br />本丸から腰曲輪に繋がる下り石段を見下ろします。

    腰曲輪

    本丸から腰曲輪に繋がる下り石段を見下ろします。

  • 本丸土塁東側<br /><br />西側と同様に高い土塁によって本丸が守られています。<br />

    本丸土塁東側

    西側と同様に高い土塁によって本丸が守られています。

  • 本丸井戸跡

    本丸井戸跡

  • 本丸東側<br /><br />東側の土塁に沿って北から南の方向に進むと左手に虎口らしきものが見えます。

    本丸東側

    東側の土塁に沿って北から南の方向に進むと左手に虎口らしきものが見えます。

  • 裏御門跡石柱<br /><br />いわゆる大手門に対する搦手門跡が示されています。

    裏御門跡石柱

    いわゆる大手門に対する搦手門跡が示されています。

  • 裏御門跡<br /><br />よく見られる枡形の虎口を形成しています。

    裏御門跡

    よく見られる枡形の虎口を形成しています。

  • 土橋<br /><br />搦手門(からめてもん)と金柑丸(きんかんまる)とは堀切が施され本丸への進入を防いでいるので土橋を渡って本丸を離れます。

    土橋

    搦手門(からめてもん)と金柑丸(きんかんまる)とは堀切が施され本丸への進入を防いでいるので土橋を渡って本丸を離れます。

  • 本丸石垣と堀<br /><br />土橋から右手の本丸石垣と堀を捉えます。

    本丸石垣と堀

    土橋から右手の本丸石垣と堀を捉えます。

  • 本丸石垣と堀<br /><br />同様に土橋から左手の本丸石垣(実際は手前の樹木で塞がれている)と堀を臨みます。

    本丸石垣と堀

    同様に土橋から左手の本丸石垣(実際は手前の樹木で塞がれている)と堀を臨みます。

  • 吉田城説明文

    吉田城説明文

  • 吉田城縄張り<br /><br />現在地がプロットされて現在の位置を確認できます。

    吉田城縄張り

    現在地がプロットされて現在の位置を確認できます。

  • 金柑丸

    金柑丸

  • 金柑丸

    金柑丸

  • 二の丸方向<br /><br />土塁と土塁の間の通路を更に進みます。

    二の丸方向

    土塁と土塁の間の通路を更に進みます。

  • 二の丸御殿跡

    二の丸御殿跡

  • 本丸堀<br /><br />

    本丸堀

  • 二の丸跡

    二の丸跡

  • 二の丸跡<br /><br />天気に恵まれて桜の花が咲き揃った状況です。

    二の丸跡

    天気に恵まれて桜の花が咲き揃った状況です。

  • 二の丸桜並木

    二の丸桜並木

  • 到着櫓跡<br /><br />二の丸に土盛された上の櫓で城内に集まった兵士を観察・点検するための櫓となっています。

    到着櫓跡

    二の丸に土盛された上の櫓で城内に集まった兵士を観察・点検するための櫓となっています。

  • 三の丸<br /><br />三の丸方向には茶色の大きな建物が見えます。<br />

    三の丸

    三の丸方向には茶色の大きな建物が見えます。

  • 土塁の一部

    土塁の一部

  • 岡崎市美術博物館

    岡崎市美術博物館

  • 二の丸土塁<br /><br />二の丸御殿を東から取り囲む土塁が断片的に見られます。

    二の丸土塁

    二の丸御殿を東から取り囲む土塁が断片的に見られます。

  • 二の丸土塁

    二の丸土塁

  • 二の丸土塁

    二の丸土塁

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