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JR飯田線豊川駅から東進して徒歩約20分、国道151号を過ぎた農業用ビニールハウスが並ぶ畑の一角に牧野城跡(まきのじょうせき、愛知県豊川市牧野町)があります。<br /><br />出自が四国讃岐と伝えられる牧野氏はこの地に移り住み築城、それまでの田口氏から地名を取って牧野氏に改め、当城を発展の起点とし、一時は波多野氏(はたのし)に臣従するも後に後裔の牧野成時(まきの・しげとき、生誕不詳~1506)はかつての主家である一色氏(いっしきし)の仇を討ち南方の牛久保に支配を広げ、更には今川氏に属して永正2年(1505)交通の要地である渥美郡吉田に今橋城を築城し同城を新たな本拠とすると牧野城は廃城となります。<br /><br />さて現状の牧野城ですが、もともと城郭は単郭だけで、南端の南西角から東方向に走る土塁が残存しているのみで、その背景には当該地域は土地改良区指定により農地整備がなされ城跡地が切り取られた経緯があり往時の面影は殆ど留めていないのが実情です。<br /><br /><br />残存土塁から下った城郭跡地に牧野城跡と題する説明板があり次のように紹介されています。<br /><br /><br />「牧 野 城 跡<br /><br />牧野城は、戦国時代に東三河地方に勢力をふるった牧野氏が築城した城として名高い。築城は応永年間(1394~1428)に遡り、足利将軍義持の命により新補地頭となった田口(田内)伝蔵左衛門成富が、四国の讃岐からここ三河国中条郷牧野に来住し、城を構えたといわれる。<br /><br />成富の子成時(古白)はこの地方で勢力を拡大していき、明応2年(1493)に一色城(豊川市牛久保町)の城主波多野全慶を討ち、同年瀬木城を築き、名も地名をとって牧野と称するようになったとされる。その後成は、永正2年(1505)に今橋城(後の吉田城)を築いてこの城に居を移し、同年牧野城は廃城となったと伝えられる。<br /><br />当時の牧野城は豊川の旧河道に面した自然堤防上に立地しており、発掘調査の結果、城の規模は南北約102メートル、東西が北堀で72メートル、南堀で約84メートルであったことが確認された。城の形態はいわゆる掻揚城であり、今でも南側の土塁が良好に保存され、高いところで約3メートル、幅は最大約13メートルをはかる。このように、立地条件や規模からして牧野城は防御を意識した造りをなしており、当時の動乱の時代を表している。<br /><br />                      豊川市教育委員会 」<br />

三河豊川 東三河を歩く 今川氏と徳川氏との争奪戦に翻弄されながらも巧みに生き抜いた牧野氏が吉田城に新城を構えるまでの本拠『牧野城』訪問

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2015/03/31 - 2015/03/31

182位(同エリア333件中)

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滝山氏照

滝山氏照さん

JR飯田線豊川駅から東進して徒歩約20分、国道151号を過ぎた農業用ビニールハウスが並ぶ畑の一角に牧野城跡(まきのじょうせき、愛知県豊川市牧野町)があります。

出自が四国讃岐と伝えられる牧野氏はこの地に移り住み築城、それまでの田口氏から地名を取って牧野氏に改め、当城を発展の起点とし、一時は波多野氏(はたのし)に臣従するも後に後裔の牧野成時(まきの・しげとき、生誕不詳~1506)はかつての主家である一色氏(いっしきし)の仇を討ち南方の牛久保に支配を広げ、更には今川氏に属して永正2年(1505)交通の要地である渥美郡吉田に今橋城を築城し同城を新たな本拠とすると牧野城は廃城となります。

さて現状の牧野城ですが、もともと城郭は単郭だけで、南端の南西角から東方向に走る土塁が残存しているのみで、その背景には当該地域は土地改良区指定により農地整備がなされ城跡地が切り取られた経緯があり往時の面影は殆ど留めていないのが実情です。


残存土塁から下った城郭跡地に牧野城跡と題する説明板があり次のように紹介されています。


「牧 野 城 跡

牧野城は、戦国時代に東三河地方に勢力をふるった牧野氏が築城した城として名高い。築城は応永年間(1394~1428)に遡り、足利将軍義持の命により新補地頭となった田口(田内)伝蔵左衛門成富が、四国の讃岐からここ三河国中条郷牧野に来住し、城を構えたといわれる。

成富の子成時(古白)はこの地方で勢力を拡大していき、明応2年(1493)に一色城(豊川市牛久保町)の城主波多野全慶を討ち、同年瀬木城を築き、名も地名をとって牧野と称するようになったとされる。その後成は、永正2年(1505)に今橋城(後の吉田城)を築いてこの城に居を移し、同年牧野城は廃城となったと伝えられる。

当時の牧野城は豊川の旧河道に面した自然堤防上に立地しており、発掘調査の結果、城の規模は南北約102メートル、東西が北堀で72メートル、南堀で約84メートルであったことが確認された。城の形態はいわゆる掻揚城であり、今でも南側の土塁が良好に保存され、高いところで約3メートル、幅は最大約13メートルをはかる。このように、立地条件や規模からして牧野城は防御を意識した造りをなしており、当時の動乱の時代を表している。

                      豊川市教育委員会 」

旅行の満足度
4.0
交通手段
JRローカル
  • 牧野城跡案内板<br /><br />県道31号線を左折して暫く歩くと右手に小高い土盛が視野に入ります。

    牧野城跡案内板

    県道31号線を左折して暫く歩くと右手に小高い土盛が視野に入ります。

  • 牧野城跡土塁<br /><br />かつての城跡の中で土塁の部分だけが一部残されているだけで、土塁の一部には「牧野城跡」説明板が立っているだけです。

    牧野城跡土塁

    かつての城跡の中で土塁の部分だけが一部残されているだけで、土塁の一部には「牧野城跡」説明板が立っているだけです。

  • 牧野城跡説明板

    牧野城跡説明板

  • 牧野城城郭見取図(説明板より抜粋)<br /><br />平成5年(1993)の豊川市教育委員会が行った城域の発掘調査によれば、南北が約102m、東西が約72~84mの規模の単郭式の掻揚城(かきあげのしろ、堀を掘った際その土を盛り上げて土塁を築いただけの城)であった由です。

    牧野城城郭見取図(説明板より抜粋)

    平成5年(1993)の豊川市教育委員会が行った城域の発掘調査によれば、南北が約102m、東西が約72~84mの規模の単郭式の掻揚城(かきあげのしろ、堀を掘った際その土を盛り上げて土塁を築いただけの城)であった由です。

  • 残存土塁<br /><br />残された中で一番高い南西角に在る土塁は3m以上もあり簡単に登る事ができないくらいです。従って往時は4~5mの高さを有していた可能性があります。

    残存土塁

    残された中で一番高い南西角に在る土塁は3m以上もあり簡単に登る事ができないくらいです。従って往時は4~5mの高さを有していた可能性があります。

  • 残存土塁<br /><br />南西角から東方向に流れる土塁を捉えます。

    残存土塁

    南西角から東方向に流れる土塁を捉えます。

  • 残存土塁<br /><br />南西角から東方向に約13~15mの土塁が走り次第に低くなりそして雑木林の前で消滅しているのが現況です。

    残存土塁

    南西角から東方向に約13~15mの土塁が走り次第に低くなりそして雑木林の前で消滅しているのが現況です。

  • 城郭跡<br /><br />

    城郭跡

  • 残存土塁<br /><br />道路側から北西角部の土塁を捉えますが、当時の土塁の重厚さが偲ばれます。

    イチオシ

    残存土塁

    道路側から北西角部の土塁を捉えますが、当時の土塁の重厚さが偲ばれます。

  • 残存土塁<br /><br />次に道路の北西部から南西部にかけて土塁の流れを見ます。<br /><br />

    残存土塁

    次に道路の北西部から南西部にかけて土塁の流れを見ます。

  • 城郭跡<br /><br />東西を寸断された道路の北側は農地(ビニールハウス)となって既に城跡の遺構はありません。

    城郭跡

    東西を寸断された道路の北側は農地(ビニールハウス)となって既に城跡の遺構はありません。

  • 石柱と祠堂<br /><br />残存土塁の南西角のやや広いスぺースには石柱と祠堂が残されています。

    石柱と祠堂

    残存土塁の南西角のやや広いスぺースには石柱と祠堂が残されています。

  • 牧野城址石柱<br /><br />

    イチオシ

    牧野城址石柱

  • 祠堂と石燈籠

    祠堂と石燈籠

  • 残存土塁の西側<br /><br />土塁上部に配置された石柱と祠堂近くから道路を見下ろします。

    残存土塁の西側

    土塁上部に配置された石柱と祠堂近くから道路を見下ろします。

  • 残存土塁上部<br /><br />土塁の南西角部から東方向を捉えます。

    残存土塁上部

    土塁の南西角部から東方向を捉えます。

  • 残存土塁上部<br /><br />更に東方向を進みます。

    残存土塁上部

    更に東方向を進みます。

  • 残存土塁上部<br /><br />土塁はだんだん高さが低くなって雑木林の手前で途切れ消滅しています。

    残存土塁上部

    土塁はだんだん高さが低くなって雑木林の手前で途切れ消滅しています。

  • 城郭跡<br /><br />現有の城跡跡の東端から西方向を捉えます。

    城郭跡

    現有の城跡跡の東端から西方向を捉えます。

  • 城郭跡(北東角)<br /><br />説明板に記載の見取図北東角から南方向を一望します。

    城郭跡(北東角)

    説明板に記載の見取図北東角から南方向を一望します。

  • 残存土塁(東端)<br /><br />城郭跡の東端にも残存土塁が認められています。<br />

    残存土塁(東端)

    城郭跡の東端にも残存土塁が認められています。

  • 残存土塁(東端)

    残存土塁(東端)

  • 残存土塁(東端)<br /><br />東端に造られた溝を伝って南方向に進むと丸みを帯びた土塁が続きます。

    残存土塁(東端)

    東端に造られた溝を伝って南方向に進むと丸みを帯びた土塁が続きます。

  • 城郭跡(北東角)<br /><br />次に北東角から西方向を眺めます。

    城郭跡(北東角)

    次に北東角から西方向を眺めます。

  • 石柱と祠堂<br /><br />城郭跡西側道路から南西角の樹間に建つ牧野城址石柱と祠堂の位置を確認します。

    石柱と祠堂

    城郭跡西側道路から南西角の樹間に建つ牧野城址石柱と祠堂の位置を確認します。

  • 城郭跡外南側<br /><br />住宅が迫っている南側に足を踏み入れると早速左側には「改良碑」建立が見られます。即ちこの土地整備改良によって城郭がかなり切り取られ現状の姿に化したと思われます。<br />

    城郭跡外南側

    住宅が迫っている南側に足を踏み入れると早速左側には「改良碑」建立が見られます。即ちこの土地整備改良によって城郭がかなり切り取られ現状の姿に化したと思われます。

  • 残存土塁<br /><br />城郭の北西角から東方向に走る土塁があり、これを南側から捉えます。

    残存土塁

    城郭の北西角から東方向に走る土塁があり、これを南側から捉えます。

  • 井戸跡<br /><br />城郭外の南側には微かに円形の窪地が確認されます。<br /><br /><br /><br />

    井戸跡

    城郭外の南側には微かに円形の窪地が確認されます。



  • 城郭跡外南側<br /><br />

    城郭跡外南側

  • 土塁跡<br /><br />

    土塁跡

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