2015/03/31 - 2015/03/31
74位(同エリア206件中)
滝山氏照さん
三河国の最西端に位置する刈谷城(かりやじょう、愛知県刈谷市城町)は天文2年(1533)水野忠政(みずの・ただまさ、1493~1543)の築城で別名「亀城」とも称され、徳川家康の生母である於大の方(おだいのかた、1528~1602)が育った城郭でもあります。
生母於大の方は父忠政が駿河・遠江の今川氏と誼を通じた事で今川氏の保護下にあった岡崎城の松平広忠(まつだいら・ひろただ、1526~1549)に嫁ぎ天文11年(1542)竹千代(たけちよ、後の家康)を出産しますが、父忠政の死去で家督を継いだ兄の信元(のぶもと)は松平今川氏から離反し織田氏に従った為広忠より離縁され刈谷城に送り返されます。
永禄3年(1560)桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれ、これを機に今川氏の勢力が後退、臣従していた松平元信(まつだいら・もとのぶ・後の徳川家康)は今川氏から自立し三河国統一をめざします。
こうして駿河の今川氏と敵対関係となった家康は隣国尾張織田氏との連携を模索し、他方信長も美濃の斎藤道三と交戦状況となっている事から家康との接近を考慮しており、家康の母方の伯父である信元に仲介役を命じ家康との同盟の道を探らせます。
結果永禄5年(1562)にそれまでの信元の説得が実現、家康と信長との同盟が成立し、家康が信長居城の清洲城を訪ね双方の会見がもたれて清洲同盟が締結されます。
清洲同盟後は信元は家康と共に信長の姉川の戦に参戦、或は武田信玄との三方ケ原の戦にに援軍として家康を支えます。
ところが天正3年(1576)信元は信長重臣佐久間信盛(さくま・のぶもり)の讒言によって武田勝頼との内通を疑われ、家康によって三河大樹寺にて殺害されます。
本丸高台の本丸跡を示す石柱の傍らにある説明板には次の記載があります。
「 刈 谷 城 址
天文2年(1533)に水野氏が金ケ小路のほとりに築城した。水野氏を最初に、以後水野(分家)、松平(深溝)、松平(久松)、稲垣、阿部、本多、三浦、土井の譜代大名が城主となる。明治4年の廃藩置県後、刈谷城は政府の所有となり、城郭の建造物は取り払われた。大正2年大野介蔵に売却され、旧城郭を永久に保存することになった。昭和11年町から旧城跡を公園にしたいとの意見書が出され、刈谷町に売り渡され、翌年には亀城公園となった。
刈谷市教育委員会 」
- 旅行の満足度
- 4.0
- 交通手段
- JRローカル 私鉄 徒歩
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亀城公園
桜満開に誘われて公園には多数の人が訪れています。刈谷城は公園となって本丸と堀だけが残されている現状です。 -
亀城公園
公園を取り囲む広い堀と桜並木が見事です。 -
渡橋
堀の周りに植えられた桜並木の花が見頃です。 -
刈谷城本丸石柱
堀を渡り暫く上って行くとやがて高台には本丸を示す石柱と説明板が配されているだけです。 -
刈谷城説明板
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刈谷城本丸跡とその周辺地図
本丸と堀が残され亀城公園となしてその周辺はすべて堀などは埋め立てられすっかり市街化されてしまっています。 -
本丸跡広場
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残存土塁
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残存土塁
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二の丸跡
本丸土塁から二の丸跡方向を窺います。 -
十朋邸
旧本丸の櫓跡に造られた十朋邸は士族会の会合場所として大野介蔵が建てたものだそうです。 -
十朋邸説明板
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残存土塁
本丸に僅かに残された土塁の一部を捉えます。 -
残存土塁
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桜並木
本丸から堀を越えて桜並木を一望します。 -
桜並木
今度は反対側から桜の樹木を捉えます。
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この旅行記へのコメント (1)
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- YOSHITOさん 2016/09/02 22:50:57
- 昔の話
- 懐かしい写真の数々。
小生は亀城小学校の卒業ゆえ。
故郷は遠きにありて想うもの。刈谷城縁の大野氏は昔は城址
近くに邸宅がありましたね。私の記憶にある一造氏はトヨタの
役員をしていましたか。
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