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続日本百名城の吉田城の紹介の締め括りです。今橋城は、激しい攻防が繰り返され、名称も吉田城と改められました。永禄7年(1564年)に松平(徳川)家康が吉田城を攻略し、城主に酒井忠次を置きました。 その後、池田輝政が入城し、城地の拡張や城下町の整備を行いました。

2017初夏、続日本百名城の吉田城(3/3):堀、豊城神社、豊橋美術博物館、欅、三の丸会館

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2017/06/17 - 2017/06/17

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旅人のくまさん

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続日本百名城の吉田城の紹介の締め括りです。今橋城は、激しい攻防が繰り返され、名称も吉田城と改められました。永禄7年(1564年)に松平(徳川)家康が吉田城を攻略し、城主に酒井忠次を置きました。 その後、池田輝政が入城し、城地の拡張や城下町の整備を行いました。

交通手段
私鉄

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  •  秀吉時代の天正18年(1590年)、家康は関東移封となり、吉田城には池田輝政が15万2千石で入城し、城地の拡張や城下町の整備を行いました。しかし、慶長5年(1600)関ヶ原合戦のの戦功により翌年に姫路に所替えになりました。10年余りかかっても、池田輝政による吉田城の改築は完成しませんでした。 石垣が本丸付近だけに限られ、その後も大きな改築はされず明治維新を迎えました。

    秀吉時代の天正18年(1590年)、家康は関東移封となり、吉田城には池田輝政が15万2千石で入城し、城地の拡張や城下町の整備を行いました。しかし、慶長5年(1600)関ヶ原合戦のの戦功により翌年に姫路に所替えになりました。10年余りかかっても、池田輝政による吉田城の改築は完成しませんでした。 石垣が本丸付近だけに限られ、その後も大きな改築はされず明治維新を迎えました。

  • 池田輝政公は大大名でしたが、その後の藩主は、3万~8万石の大名でしたから、吉田城を改築するほどの資力がなかったのかも知れません。吉田城主を務めた譜代大名のその後のポストは、老中、側用人、大阪城代、京都所司代、寺社奉行、奏者番などと華やかです。このため、吉田城は『出世城』とも呼ばれました。

    池田輝政公は大大名でしたが、その後の藩主は、3万~8万石の大名でしたから、吉田城を改築するほどの資力がなかったのかも知れません。吉田城主を務めた譜代大名のその後のポストは、老中、側用人、大阪城代、京都所司代、寺社奉行、奏者番などと華やかです。このため、吉田城は『出世城』とも呼ばれました。

  • 今は空堀となってしまった、本丸堀の光景です。江戸幕府成立後、明治維新までの間に9家22代の譜代大名が支配しました。前期は転封が激しく、中期以降は松平(大河内)氏が城主となりました。明治維新の時の藩主は『大河内信古(おおこうち・ のぶひさ:1829~1888年)』、松平伊豆守系大河内松平家11代で、三河吉田藩の第7代でした。はじめ松平信古と名乗りました。

    今は空堀となってしまった、本丸堀の光景です。江戸幕府成立後、明治維新までの間に9家22代の譜代大名が支配しました。前期は転封が激しく、中期以降は松平(大河内)氏が城主となりました。明治維新の時の藩主は『大河内信古(おおこうち・ のぶひさ:1829~1888年)』、松平伊豆守系大河内松平家11代で、三河吉田藩の第7代でした。はじめ松平信古と名乗りました。

  • 同じく、今は空堀となってしまった、本丸堀の光景です。幕末の吉田藩は、佐幕派と勤王派に分かれていましたが、信古は新政府軍に加わり、家名も『松平』から『大河内』に復姓しました。明治4年(1871年)7月に吉田藩は廃藩となり、東京谷中へ移住し、1884年(明治17年)7月に子爵を授与されました。

    同じく、今は空堀となってしまった、本丸堀の光景です。幕末の吉田藩は、佐幕派と勤王派に分かれていましたが、信古は新政府軍に加わり、家名も『松平』から『大河内』に復姓しました。明治4年(1871年)7月に吉田藩は廃藩となり、東京谷中へ移住し、1884年(明治17年)7月に子爵を授与されました。

  • 『吉田城』のタイトルがあった、まだ新しい説明看板の光景です。かつての縄張り図が大きく記されていました。中央上部から下に伸び、西(左側)に流れるのが豊川、吉田城の北で東から合流する川が、朝倉川です。豊川を背にして、吉田城は四重の堀で囲まれていました。『後ろ堅固の城』とも呼ばれました。

    『吉田城』のタイトルがあった、まだ新しい説明看板の光景です。かつての縄張り図が大きく記されていました。中央上部から下に伸び、西(左側)に流れるのが豊川、吉田城の北で東から合流する川が、朝倉川です。豊川を背にして、吉田城は四重の堀で囲まれていました。『後ろ堅固の城』とも呼ばれました。

  • 柵が見えている場所は、『本丸堀址』がある場所です。その周りには鬱蒼とした木々が連なっていました。堀を渡る橋の袂には、『健康の道』と記された白い木標がありました。橋を渡った先が『本丸』だったようです。

    柵が見えている場所は、『本丸堀址』がある場所です。その周りには鬱蒼とした木々が連なっていました。堀を渡る橋の袂には、『健康の道』と記された白い木標がありました。橋を渡った先が『本丸』だったようです。

  • 豊城神社の石の鳥居の光景です。『金柑丸』とも呼ばれる、 本丸の東側に位置する『本丸裏御門』を通るとすぐの曲輪です。昔のお城時代は、ここが本丸になっていたとされる場所です。

    豊城神社の石の鳥居の光景です。『金柑丸』とも呼ばれる、 本丸の東側に位置する『本丸裏御門』を通るとすぐの曲輪です。昔のお城時代は、ここが本丸になっていたとされる場所です。

  • 『舊藩祖・豊城神社』の文字が刻まれた石標の光景です。豊橋市指定有形文化財の『吉田藩日記』などは、この神社で保管されているようです。

    『舊藩祖・豊城神社』の文字が刻まれた石標の光景です。豊橋市指定有形文化財の『吉田藩日記』などは、この神社で保管されているようです。

  • こちらの橋は、『二の丸跡』と『三の丸跡』の間にある堀に架かる橋のようでしたが、振り返って眺めた、本丸堀に架かる橋の方だったかもしれません。右手に見える看板が、『吉田城』のタイトルがあった、まだ新しい説明看板のようです。

    こちらの橋は、『二の丸跡』と『三の丸跡』の間にある堀に架かる橋のようでしたが、振り返って眺めた、本丸堀に架かる橋の方だったかもしれません。右手に見える看板が、『吉田城』のタイトルがあった、まだ新しい説明看板のようです。

  • 土塁の光景です。『二の丸』と『三の丸』の間にあった土塁のようです。お堀と土塁は、残土処理を兼ねて、セットで造られました。

    土塁の光景です。『二の丸』と『三の丸』の間にあった土塁のようです。お堀と土塁は、残土処理を兼ねて、セットで造られました。

  • 同じく、土塁の光景です。こちらも『二の丸』と『三の丸』の間にあった『かきあげ土塁』のようです。

    同じく、土塁の光景です。こちらも『二の丸』と『三の丸』の間にあった『かきあげ土塁』のようです。

  • 跡で地図を参照しましたら、この建物は『三の丸会館』のようでした。表札をズームアップして、この写真でも確認できました。ネット情報によれば、昭和61年(1986年)、豊橋公園内の旧吉田城三の丸跡に開設された施設です。地域の伝統文化、芸能活動(茶道・舞踊・詩吟・短歌・俳句など)や市民文化(囲碁・将棋など)の多目的文化施設と紹介されていました。

    跡で地図を参照しましたら、この建物は『三の丸会館』のようでした。表札をズームアップして、この写真でも確認できました。ネット情報によれば、昭和61年(1986年)、豊橋公園内の旧吉田城三の丸跡に開設された施設です。地域の伝統文化、芸能活動(茶道・舞踊・詩吟・短歌・俳句など)や市民文化(囲碁・将棋など)の多目的文化施設と紹介されていました。

  • 三の丸会館の茶席の案内看板の光景です。この辺りも三の丸の一部になるようです。『二の丸』を取り囲む形で設けられた『三の丸』ですから、かなり広い範囲となります。

    三の丸会館の茶席の案内看板の光景です。この辺りも三の丸の一部になるようです。『二の丸』を取り囲む形で設けられた『三の丸』ですから、かなり広い範囲となります。

  • 周りを新緑に縁取りされた、クラシックな門の光景です。表札はありませんでしたが、本瓦葺きの屋根、格子造りの門と、その両側の竹で編んだ塀は風情がありました。

    周りを新緑に縁取りされた、クラシックな門の光景です。表札はありませんでしたが、本瓦葺きの屋根、格子造りの門と、その両側の竹で編んだ塀は風情がありました。

  • 前方に見えてきた建物は、豊橋美術博物館のようでした。吉田城址の『二の丸跡』に建つ建物です。その北側か、西側だったようです。

    前方に見えてきた建物は、豊橋美術博物館のようでした。吉田城址の『二の丸跡』に建つ建物です。その北側か、西側だったようです。

  • 豊橋の銘木を紹介した看板の光景です。『豊橋公園のケヤキ2』の表示がありました。幹回り5メートル、推定年齢は300年です。ざっと1700年頃、1701年(元禄14年)には、松の廊下での刃傷沙汰があり、1702年(元禄15年)には赤穂浪士の討入がありました。また。1716年(享保元年)には、紀伊藩主の徳川吉宗が将軍となりました。

    豊橋の銘木を紹介した看板の光景です。『豊橋公園のケヤキ2』の表示がありました。幹回り5メートル、推定年齢は300年です。ざっと1700年頃、1701年(元禄14年)には、松の廊下での刃傷沙汰があり、1702年(元禄15年)には赤穂浪士の討入がありました。また。1716年(享保元年)には、紀伊藩主の徳川吉宗が将軍となりました。

  • 『豊橋公園のケヤキ2』の樹木光景です。主幹が途中から細くなっているのは、落雷による被害を受けたためと紹介されていました。電気設備の雷被害対策の研究や実務には長く携わりましたが、雷現象は避けることのできない自然現象、私自身の基本スタンスは、正面衝突を避け、いかにうまく折り合って被害を少なくするかの工夫と、予め故障モードを各種の実験などで把握しておき、早期復旧に役立てることなどでした。この話は尽きることがありませんから、ここで打ち止めにしておきます。

    イチオシ

    『豊橋公園のケヤキ2』の樹木光景です。主幹が途中から細くなっているのは、落雷による被害を受けたためと紹介されていました。電気設備の雷被害対策の研究や実務には長く携わりましたが、雷現象は避けることのできない自然現象、私自身の基本スタンスは、正面衝突を避け、いかにうまく折り合って被害を少なくするかの工夫と、予め故障モードを各種の実験などで把握しておき、早期復旧に役立てることなどでした。この話は尽きることがありませんから、ここで打ち止めにしておきます。

  • 左に見える建物は、豊橋美術博物館です。西側面辺りになるようです。その建物に枝垂れるような姿の高木の光景です。マツ科の植物らしい針葉樹でした。

    左に見える建物は、豊橋美術博物館です。西側面辺りになるようです。その建物に枝垂れるような姿の高木の光景です。マツ科の植物らしい針葉樹でした。

  • 豊橋美術博物館の建物の光景が続きます。競技設計をベースに実施設計が行われ、開館したのは、昭和54年(1979年)6月のことでした。鉄筋コンクリート造、一部鉄骨造2階建です。建築面積は2,867平方メートル、1、2階を合わせた延床面積は3,781平方メートルの規模でした。

    豊橋美術博物館の建物の光景が続きます。競技設計をベースに実施設計が行われ、開館したのは、昭和54年(1979年)6月のことでした。鉄筋コンクリート造、一部鉄骨造2階建です。建築面積は2,867平方メートル、1、2階を合わせた延床面積は3,781平方メートルの規模でした。

  • 平成28年(2916年)3月には、増築部分が刊行しました。鉄筋コンクリート造、鉄骨鉄筋コンクリート造一部鉄骨造2階建で、その規模は新設工事の5割弱でした。増築面積は1,127平方メートル、1、2階と地階を合わせた延床面積は1,535平方メートルの規模でした。

    平成28年(2916年)3月には、増築部分が刊行しました。鉄筋コンクリート造、鉄骨鉄筋コンクリート造一部鉄骨造2階建で、その規模は新設工事の5割弱でした。増築面積は1,127平方メートル、1、2階と地階を合わせた延床面積は1,535平方メートルの規模でした。

  • 豊橋美術博物館の近くに残る土塁の光景です。豊橋美術博物館が建つ場所は、『二の丸跡』と『三の丸跡』が接する『三の丸跡』ですから、その区域境の土塁のようです。かつての土塁は、堀とセットで築かれました。

    豊橋美術博物館の近くに残る土塁の光景です。豊橋美術博物館が建つ場所は、『二の丸跡』と『三の丸跡』が接する『三の丸跡』ですから、その区域境の土塁のようです。かつての土塁は、堀とセットで築かれました。

  • 同じく、二の丸跡』と『三の丸跡』との間にある土塁の光景です。土塁が一部壊れ、自然の通り道のようになっていました。

    同じく、二の丸跡』と『三の丸跡』との間にある土塁の光景です。土塁が一部壊れ、自然の通り道のようになっていました。

  • 前方に見えてきた、花時計の光景です。豊橋公園の施設のようです。ピンクの花や白色の花が咲き競った花時計でした。

    前方に見えてきた、花時計の光景です。豊橋公園の施設のようです。ピンクの花や白色の花が咲き競った花時計でした。

  • 豊橋美術博物館前の彫刻作品でしょうか、水が流れた痕がないようですから、噴水ではないように見えました。しかし、下部には噴水施設に必要な集水用の溝がありますし、モニュメントにしては整い過ぎた形状でした。

    豊橋美術博物館前の彫刻作品でしょうか、水が流れた痕がないようですから、噴水ではないように見えました。しかし、下部には噴水施設に必要な集水用の溝がありますし、モニュメントにしては整い過ぎた形状でした。

  • 豊橋公園内のブロンズ像の光景です。中々作品名と作者が分かりませんでしたが、『佐藤助雄作・2つの友情』でした。『佐藤助雄(1919~1987年)』は、山形県生まれの彫刻家です。初め木彫り彫刻を志し、後にブロンズ像に転向しました。おおらかで詩的な人物像を得意としました。

    豊橋公園内のブロンズ像の光景です。中々作品名と作者が分かりませんでしたが、『佐藤助雄作・2つの友情』でした。『佐藤助雄(1919~1987年)』は、山形県生まれの彫刻家です。初め木彫り彫刻を志し、後にブロンズ像に転向しました。おおらかで詩的な人物像を得意としました。

  • 見学の最初の方でも紹介しましたが、吉田城址がある豊橋公園内にある豊橋美術博物館の建物光景です。『美術博物館』の名前で連想するのが、オーストリアの首都ウィーンにある美術史博物館です。こちらは、自然史博物館と一対でネーミングされたようです。美術史美術館とも呼ばれます。

    見学の最初の方でも紹介しましたが、吉田城址がある豊橋公園内にある豊橋美術博物館の建物光景です。『美術博物館』の名前で連想するのが、オーストリアの首都ウィーンにある美術史博物館です。こちらは、自然史博物館と一対でネーミングされたようです。美術史美術館とも呼ばれます。

  • 豊橋公園の設備の一部らしい、人工池の光景です。地図で検索してみましたが、名前が付くような池ではなかったようです。城壁をイメージさせる護岸の石組でした。

    豊橋公園の設備の一部らしい、人工池の光景です。地図で検索してみましたが、名前が付くような池ではなかったようです。城壁をイメージさせる護岸の石組でした。

  • 『川毛口門跡』の白い標識の光景です。土塁の横に設置されていました。擁壁の石垣は近代工法による造りでした。『三の丸土塁』の一部で、曲輪を隔てる土塁は、堀を掘った土で盛り上げた『かきあげ土塁』となっています。

    イチオシ

    『川毛口門跡』の白い標識の光景です。土塁の横に設置されていました。擁壁の石垣は近代工法による造りでした。『三の丸土塁』の一部で、曲輪を隔てる土塁は、堀を掘った土で盛り上げた『かきあげ土塁』となっています。

  • 吉田城址がある豊橋公園の市電の最寄り駅の『豊橋公園前駅』の光景です。吉田城址までは、ここから歩いて5分足らずの距離です。『市役所前駅』の方が若干吉田城址には近いかもしれません

    吉田城址がある豊橋公園の市電の最寄り駅の『豊橋公園前駅』の光景です。吉田城址までは、ここから歩いて5分足らずの距離です。『市役所前駅』の方が若干吉田城址には近いかもしれません

  • 豊橋市内を走る市電の光景です。豊橋駅から吉田城址がある豊橋公園までは、往きも帰りも、この市電を利用しました。日本全国で少なくなった市電ですから、こういった機会でないと乗るチャンスはないようです。愛知県では、豊橋市だけになりました。

    イチオシ

    豊橋市内を走る市電の光景です。豊橋駅から吉田城址がある豊橋公園までは、往きも帰りも、この市電を利用しました。日本全国で少なくなった市電ですから、こういった機会でないと乗るチャンスはないようです。愛知県では、豊橋市だけになりました。

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