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大野田城(おおのだじょう、愛知県新城市野田字幹徳)は野田城駅から豊川方向にJR飯田線に沿って歩き、途中で踏切を渡ると前方の竹林の反対側が城跡の目印となっています。<br /><br />大野田城の歴史は古く、建武年間(1334~1338)に当地を支配していた富永氏の支城として築かれ、その後応永年間(1394~1427)には城所古斎(きどころ・じょうさい)の砦として機能していたとされます。<br /><br />その後今川義元が桶狭間で討死後、野田城の菅沼定盈(すがぬま・さだみつ、1542~1604)も東三河の諸国人と同様に今川氏から離反し徳川家康に属したため、子息今川氏真(うじざね)は大軍で野田城を攻撃、定盈側も応じますが多勢に無勢により和議を結び野田城を明け渡します。<br /><br />翌年隙をついて定盈は野田城を奪い返すも荒廃甚だしく、大規模改修する必要に迫られ、それまで放置されていた城所古斎の砦を利用、そのさいに旧砦を本丸とし北に新たに二郭・三郭を設けて再整備し大野田城と称して居住した経緯があります。<br /><br /><br />中市場池(溜池)土手に掲載された説明板では下記の如く記載されています。<br /><br />「《史跡》大 野 田 城 跡<br /><br />大野田城は始め、建武の新政(1333年)の頃に富永氏の出城として築城され、応永年間(1394?1427)の頃は城所浄古斎の砦として利用された。<br /><br />永禄3年(1560)、今川義元が桶狭間で討死すると野田城の菅沼定盈は今川から離れて徳川家康についたため、義元の子、今川氏真は翌年、怒って菅沼定盈を攻めた。定盈は衆寡敵せず、一旦は和議を結んで野田城を明け渡したが、永禄5年再度野田城を奪い返した。<br /><br />この戦いで大破した野田城の修復のため、定盈は浄古斎の旧砦を利用して本丸とし、さらに二の丸・三の丸を北側に拡大して、その名を大野田城としたと伝えられる。元亀2年(1571)、武田信玄は足助城を陥れ、作手からこの地を攻め、定盈は城に火を放って豊川を渡り、西郷(豊橋市)へ退却し廃城となった。<br /><br />明治の終わり頃、本丸を切り崩して農業用のため池としてこの中市場池は造られたが、現在も本丸の土塁や堀跡の一部が残されている。<br /><br />                         新城教育委員会 」   <br /><br /><br />

三河新城 東三河を歩く 今川氏真の攻撃を受けた菅沼定盈が荒廃した野田城修復のため一時移転して拡充改修して居住した『大野田城』訪問

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2015/03/30 - 2015/03/30

111位(同エリア181件中)

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滝山氏照

滝山氏照さん

大野田城(おおのだじょう、愛知県新城市野田字幹徳)は野田城駅から豊川方向にJR飯田線に沿って歩き、途中で踏切を渡ると前方の竹林の反対側が城跡の目印となっています。

大野田城の歴史は古く、建武年間(1334~1338)に当地を支配していた富永氏の支城として築かれ、その後応永年間(1394~1427)には城所古斎(きどころ・じょうさい)の砦として機能していたとされます。

その後今川義元が桶狭間で討死後、野田城の菅沼定盈(すがぬま・さだみつ、1542~1604)も東三河の諸国人と同様に今川氏から離反し徳川家康に属したため、子息今川氏真(うじざね)は大軍で野田城を攻撃、定盈側も応じますが多勢に無勢により和議を結び野田城を明け渡します。

翌年隙をついて定盈は野田城を奪い返すも荒廃甚だしく、大規模改修する必要に迫られ、それまで放置されていた城所古斎の砦を利用、そのさいに旧砦を本丸とし北に新たに二郭・三郭を設けて再整備し大野田城と称して居住した経緯があります。


中市場池(溜池)土手に掲載された説明板では下記の如く記載されています。

「《史跡》大 野 田 城 跡

大野田城は始め、建武の新政(1333年)の頃に富永氏の出城として築城され、応永年間(1394?1427)の頃は城所浄古斎の砦として利用された。

永禄3年(1560)、今川義元が桶狭間で討死すると野田城の菅沼定盈は今川から離れて徳川家康についたため、義元の子、今川氏真は翌年、怒って菅沼定盈を攻めた。定盈は衆寡敵せず、一旦は和議を結んで野田城を明け渡したが、永禄5年再度野田城を奪い返した。

この戦いで大破した野田城の修復のため、定盈は浄古斎の旧砦を利用して本丸とし、さらに二の丸・三の丸を北側に拡大して、その名を大野田城としたと伝えられる。元亀2年(1571)、武田信玄は足助城を陥れ、作手からこの地を攻め、定盈は城に火を放って豊川を渡り、西郷(豊橋市)へ退却し廃城となった。

明治の終わり頃、本丸を切り崩して農業用のため池としてこの中市場池は造られたが、現在も本丸の土塁や堀跡の一部が残されている。

                         新城教育委員会 」   


旅行の満足度
4.0
交通手段
JRローカル
  • 本丸跡<br /><br />この付近の土手に立っている説明板によれば、この溜池は本丸跡にあたり明治の終わり頃に切り崩されそれ以降農業用の溜池として利用されている由です。<br /><br />

    本丸跡

    この付近の土手に立っている説明板によれば、この溜池は本丸跡にあたり明治の終わり頃に切り崩されそれ以降農業用の溜池として利用されている由です。

  • 本丸跡<br /><br />説明板によればこの溜池は「中市場池」と呼ばれています。それにしても本丸が全て溜池になったのは残念なことです。

    本丸跡

    説明板によればこの溜池は「中市場池」と呼ばれています。それにしても本丸が全て溜池になったのは残念なことです。

  • 大野田城跡説明板

    大野田城跡説明板

  • 本丸跡<br /><br />土手に沿って溜池の奥の右側まで進むと何か遺構が見えます。<br /><br />

    本丸跡

    土手に沿って溜池の奥の右側まで進むと何か遺構が見えます。

  • 土塁<br /><br />右側の民家の境目から入ってその先を見ると土塁が視野に入ります。

    土塁

    右側の民家の境目から入ってその先を見ると土塁が視野に入ります。

  • 土塁(近景)<br /><br />かなり大きく盛られた土塁が施されています。この土塁が本丸の土塁なのか二の丸の土塁なのかよくわかりません。

    土塁(近景)

    かなり大きく盛られた土塁が施されています。この土塁が本丸の土塁なのか二の丸の土塁なのかよくわかりません。

  • 土塁(近景)<br /><br />反対側から改めて盛り上がった土塁を眺めます。

    土塁(近景)

    反対側から改めて盛り上がった土塁を眺めます。

  • 土塁の内側<br /><br />土塁の内側はある程度切削されて平地となっているようです。

    土塁の内側

    土塁の内側はある程度切削されて平地となっているようです。

  • 土塁の奥方向<br /><br />やや上方向へ傾斜しており、時間の経過で土塁が内側に崩れたような状況かと思われます。<br /><br />

    土塁の奥方向

    やや上方向へ傾斜しており、時間の経過で土塁が内側に崩れたような状況かと思われます。

  • 溺れ谷<br /><br />

    溺れ谷

  • 本丸跡前<br /><br />道路で切断された向う側には城郭の一部と思われる段差が見えます。

    本丸跡前

    道路で切断された向う側には城郭の一部と思われる段差が見えます。

  • 本丸跡<br /><br />道路から高い段差がもしかして土塁だったのかと思われます。

    本丸跡

    道路から高い段差がもしかして土塁だったのかと思われます。

  • 本丸跡<br /><br />周辺に比較して高くなっているのがわかります。<br />

    本丸跡

    周辺に比較して高くなっているのがわかります。

  • 城郭跡内部<br /><br />本丸の奥には樹木に覆われた城郭跡が見られます。

    城郭跡内部

    本丸の奥には樹木に覆われた城郭跡が見られます。

  • 城郭跡の一部<br /><br />城郭西側に沿った細い農道から城郭一帯を捉えます。

    城郭跡の一部

    城郭西側に沿った細い農道から城郭一帯を捉えます。

  • 城郭跡内部<br /><br />段差の高い内部への入口が判らないまま入ってみると薮と草に覆われた地表が見えるだけです。通路が見当たらずこれから奥への進行は控える事にします。<br /><br />

    城郭跡内部

    段差の高い内部への入口が判らないまま入ってみると薮と草に覆われた地表が見えるだけです。通路が見当たらずこれから奥への進行は控える事にします。

  • 城郭跡内部<br /><br />農道からかなり段差が高くなって杉林が続きます。内部は城跡として整備は全くされていないのは残念です。

    城郭跡内部

    農道からかなり段差が高くなって杉林が続きます。内部は城跡として整備は全くされていないのは残念です。

  • 城跡跡<br /><br />農道から見える溝には小川が流れているようです。

    城跡跡

    農道から見える溝には小川が流れているようです。

  • 城郭跡(反対側)<br /><br />農道を登りきると城郭跡を覆う竹林から畑が広がりを見せます。

    城郭跡(反対側)

    農道を登りきると城郭跡を覆う竹林から畑が広がりを見せます。

  • お堂にある史跡<br /><br />野田城駅に向かう途中に道端に在する史跡を見つけます。

    お堂にある史跡

    野田城駅に向かう途中に道端に在する史跡を見つけます。

  • 観音堂

    観音堂

  • 庚申祠<br /><br />四体の石仏の内右から2番目が庚申本尊で、祭神は青面金剛童子で公家社会に広まった後武家社会で広まり、江戸時代には一般庶民にまで広がったとされます。

    庚申祠

    四体の石仏の内右から2番目が庚申本尊で、祭神は青面金剛童子で公家社会に広まった後武家社会で広まり、江戸時代には一般庶民にまで広がったとされます。

  • 史跡の説明板

    史跡の説明板

  • 地蔵堂

    地蔵堂

  • 秋葉山祠・行者像

    秋葉山祠・行者像

  • 野田城・大野田城案内板<br /><br />野田城駅近い所に掲げてあった野田城・大野田城案内板がありました。

    野田城・大野田城案内板

    野田城駅近い所に掲げてあった野田城・大野田城案内板がありました。

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