2015/03/30 - 2015/03/30
143位(同エリア181件中)
滝山氏照さん
武田軍と織田・徳川連合軍とが雌雄を決した長篠の戦いを前にして武田軍の名将で後代に武田四天王の一人に数えられた馬場信春(ばば・のぶはる、1515~1575)がこの大通寺山に配された武田信豊、小山田昌行ら諸将と敗戦を覚悟して達磨山・大通寺(だいつうじ、愛知県新城市長篠市場)の裏山にある湧水で別れの杯を酌み交わしたと伝えられる井戸があります。
山門傍らにある当該寺説明板に記載の「由緒」及び「史跡」については次の通り記されています。
「達磨山大通寺
由緒 応永18年(1411)の創立と伝えられるが、天正の兵乱で古記録、重宝を失った。のち琴室契音禅師が医王寺を漕洞宗に改宗し嗣法長徳首座を開基とした。故に草創開山は琴室契音大和尚である。由来歴住の大和尚は16代続き、現在は医王寺職仙城良哲和尚が兼務している。
史跡 長篠城の本丸、巴城郭、麓郭を眼下に見る丘にあって、天正3年(1575)の長篠合戦の時、武田軍の宿将馬場信春、武田信豊、小山田昌行等諸将の率いる2千人がこの大通寺山に配備されていた。医王寺山本陣で軍議が開かれ、設楽原に進撃と決った時、敗戦を覚悟して寺の裏山の湧水の湧出井戸で、馬柄酌で別れの杯を酌み交わした杯井戸の碑と句碑、歌碑が、本堂前には菅沼流山碑もある。」
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大通寺入口
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「盃井戸(さかずきいど)」説明板
正門につながる通路の入口には「盃井戸」の説明板が設置されています。
『大通寺の裏に水の絶えることのない泉があります。天正3年長篠の戦いの折、設楽原の決戦に赴く武田方の武将馬場信房・山県昌景・内藤昌豊・土屋正次らが、この泉の水を汲んで別れの水盃を交わしたことから、以後この泉は盃井戸と呼ばれるようになりました。 達磨山 大通寺』 -
「長篠の戦」歴史探訪コース案内
探訪コースに大通寺が盛り込まれています。 -
大通寺正門
高台にある本堂に向けて石段を上ります。 -
大通寺杯井案内板
本堂の裏手にその井戸跡が在るようです・ -
本堂
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大通寺説明板
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境内
高台の本堂から振返って前方を望みます。 -
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杯井歌碑
当所を訪れた名古屋鎮台の山川大佐が詠んだ歌が石碑として刻されています。 -
杯井戸全景
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杯井戸
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「大通禅寺杯井」説明板
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「大通寺と杯井戸」説明板
『 大通寺と盃井戸
達磨山大通寺は応永18年(1411)の創立したと伝えられるが、天正時代の兵乱で焼失し、後に琴室契音大和尚(長篠山医王寺二世)が曹洞宗に改宗し、地蔵大菩薩を本尊として草創開山した。
天正3年(1575)長篠の戦の時には、武田軍の武将馬場信房、武田信豊、小山田昌行らの陣地となり、設楽が原に出撃して織田・徳川の連合軍と決戦することになった時、諸将がこの寺の井戸に集り、その水をかわし合って決別の盃として出陣した行った。その後このことから盃井戸と呼ばれている。』 -
大通寺杯井戸石碑
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杯井戸
杯井戸石碑から杯井戸を見下ろします。 -
城薮稲荷(しろやぶいなり)
かつては長篠城本丸土塁上に祀られていた「城薮稲荷」が当該寺に移されています。 -
城薮稲荷鳥居
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「城薮稲荷」説明板
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桜の樹木
大通寺の境内に咲いた桜並木を道路の反対側から捉えます。 -
馬場信春墓所案内板
長篠の戦いで戦死した武田方武将である馬場信春の墓所に向かいます。 -
馬場信春墓所
信春は武田氏最強の武士団である武川衆出身で信玄に従って信濃・駿府の支配に貢献、長篠の戦いでは織田・徳川連合軍との決戦を避けて甲斐に帰陣するよう諫言しますが勝頼に聞き入れられず、武田家の運命を感じて山県や内藤などの老臣と水杯を交わした話はつとに有名です。 -
馬場信春廟
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馬場信春墓石
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「さかさ桑」
長篠城駅舎脇にさかさ桑の説明板があります。伝承としては設楽原戦いで敗走する勝頼らはこの地でこの部落の軒先で桑の枝を箸にして食事した後その桑の枝を畑に差し甲府に向けて落ち延びます。その後勝頼らが差した桑の枝は逆さに芽を出して成長、これが勝頼の恨みかそれとも再起を示す現れかと住人の話題となった由です。 -
「さかさ桑」説明
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