2015/03/30 - 2015/03/30
100位(同エリア182件中)
滝山氏照さん
JR飯田線起点豊橋駅から1時間ほどの長篠城駅から線路に沿って鳥居駅方向へ約10分ほど戻ると自然地形を巧みに利用した戦国時代の典型的な城跡の一つである長篠城跡に入ります。
永正5年(1508)駿河の太守今川氏の属将である菅沼元成(すがぬま・もとなり)によって築城された長篠城は、豊川本流(寒狭川)と宇蓮川の合流点の断崖上に位置し、本丸の他帯郭、野牛郭、巴域郭、瓢郭、弾正郭などで構成され総面積約10ヘクタールに及ぶ規模を有します。
現在は本丸と本丸を取り囲む土塁と深い空堀、帯郭の一部を残すだけでそれ以外は遺構の代わりに石標だけが空しく立っており約500年経過した歴史を強く意識せざるをえません。
帯郭跡の一角に立脚した「要害の長篠城」と題した説明板には次の通り記載されています。
「 要 害 の 長 篠 城
・要衝(ようしょう)
長篠の地は豊川をさかのぼって約2.5Km、長野県、静岡県北部に通じる道中に在り、このあたりから平地は、山に移っていく。江戸時代の豊川舟運も長篠城を越えるところで終点になる。戦国時代、武田軍と徳川軍がこの城を奪い合ったいわゆる境目の城であった。
・要害(ようがい)
長篠城の南面は宇連川、西は豊川、ともに50mの断崖である。平地への面を水堀と土居、そして外郭は柵又は塀で囲んだ。平地へうつってもできるだけ天険を利用した戦国末期の典型的な築城である。
・土居と堀(どいとほり)
この正面に見えるのは、本丸の土居と堀で、天正3年の姿を残している。右手に門徒土橋があり、続いて土居と堀が伸びていたが、江戸時代に崩されて今は無い。堀の土はかき上がられて土居にした。堀には水を引き入れた。土居と堀は直線的に進まず直線に近い出入りがある。この形はやがて近世の城郭へ移り変わる姿を見せている。」
更に勝頼軍に包囲され猛攻を受けた長篠城後詰のため信長・家康軍が駆けつけ陣を張り、これに応ずる勝頼軍が攻撃をかけた設楽原の戦場がありますが資料保存館の建物にその状況が張りだされています。
「 長 篠 の 戦 い
天正3年(1575)5月、武田勝頼軍1万5千が徳川家康の将奥平貞昌以下5百の守るこの長篠城を包囲して攻防約10日、織田信長3万、家康8千の援軍は5月18日西方約4Kmの設楽原に到着して陣を築く。武田勝頼軍は20日長篠城の囲みを解いて設楽原へ進出、21日は夜明けとともに田、徳川軍の陣地に突入し壮絶に戦うが、数千挺の銃撃にさらされ歴戦武勇の将士の多くを失った。勝頼は数騎に守られて敗走した。」
戦後貞昌は長篠城攻防に功を挙げたとして信長から賞賛され、信長の偏諱である「信」が与えられ信昌と改名、家康からは領地の加増を受けると共に戦場と化して修復困難な長篠城と周辺の山岳では発展性見込めないとする家康の命により南方で広がりを持つ地域に築城を命ぜられ、天正4年(1576)入船の地に築城(新城城)に伴い当城は廃城となります。」
- 旅行の満足度
- 4.5
- 交通手段
- JRローカル
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長篠城駅
城郭の形をした無人駅は豊川駅(豊橋より)から単線のため運行本数が1時間に1本と減っており不自由な線となっています。当駅の開設は大正13年(1924)で当時は大海~三河川を運営していた鳳来寺鉄道という私鉄で駅名は「長篠古城址」で昭和18年(1943)8月に国有化され国鉄飯田線の駅となり同時に「長篠城駅」と改称されます。 -
長篠城址付近地図
駅前に立脚している地図では長篠城址と周辺の施設が点在しています。駅舎前の道路から鳥居駅に戻る形で線路に沿って7~8分程進みます。 -
搦手(からめて)門跡
駅から長篠城跡に向かう途中に搦手門(大手門に対する裏門)跡の石柱が見られます。尚大手門跡について資料館で入手の見取図を参考に探しますが確認できませんでした。(資料館館員の説明では石標が立っているとの事でしたが・・・) -
糧庫阯石柱
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二の丸跡
二の丸跡は現在は駐車場となっており、さくらの花に誘われて各地から見物に訪れています。 -
長篠城址史跡保存館
同様に二の丸跡には二階建ての史跡保存館が開館されています。入場料210円、決して広くはありませんが現地に残された武具・出土品または古文書等が展示されています。(月曜日開館は珍しく、館員に尋ねると新城市は火曜日に休む所が多いのでそれに対応しているとの事でした) -
長篠城・長篠の戦い大型説明板
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説明板拡大
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長篠戦攻防地図
当地から4~5Km南西方向にある設楽原において武田勝頼軍と織田・徳川連合軍とが壮烈な争いが繰り広げられ、勝頼軍は大敗を喫すると共に主たる武将を多数失います。 -
長篠の戦い史跡巡りコース地図
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イチオシ
本丸跡
土塁と空堀のコントラストが見事な本丸跡が線路方向に広がりを見せています。 -
長篠城説明
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イチオシ
大規模空堀
本丸土塁を取り囲む深い空堀は実に見事です。 -
史跡資料館
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長篠城縄張・歴代城主
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長篠城縄張図
両川の断崖上に造られた要害の城であることが確認できますが、地図を良く見ると突端の左部分は川の右岸の内側まで飯田線敷設によって切除されています。 -
歴代城主一覧
当地はかつては駿河今川氏の支配下にあったことが判ります。義元の討死以降は影響力の低下と家康自立により東三河への拡大、そして信玄の信濃併呑から南進によって当地域は両勢力の境目の位置づけとなり、当地国人たちは機を見ながら帰属を変えて自家の存続を守っていた事になります。 -
本丸跡入口
けやきの巨木が入口の左右に聳えています。 -
長篠城趾石柱
本丸入口の右脇には長篠城趾石柱が立っています。 -
イチオシ
土塁と深い空堀
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本丸土塁(内側)
本丸を取り囲む土塁の中で二の丸に臨む土塁は特に高い防御性を意識して造作されている形状となっています。 -
本丸土塁
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本丸跡
本丸跡は施設等は取り払われ広場となっています。尚広場のはるか前方には工事中の高架道路が見えます。 -
堅木植樹の碑
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神社鳥居
本丸には神社が配され、中央部寄りに鳥居が設置され神社が土塁頂上部に祀られていました。 -
本丸跡と飯田線
鉄道敷設の為本丸跡の一部が削除されていた経緯があります。 -
鳶ケ巣山
線路に面した辺状部分は安全確保の為フェンスが施され、フェンスの傍には鳶ケ巣山(とびがすやま)の説明があり、それによれば向側の山並みには武田軍の陣地があった由です。 -
武田軍の五砦
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蔦ケ巣方面の戦い説明
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本丸跡広場
飯田線線路側から本丸跡広場を眺めると見事な桜並木の中に「長篠城本丸跡」の標柱が見えます。 -
三輪川方向
同様に飯田線線路を進むと「三輪川」の案内があり、かつては長篠城を防御する外堀的な役割をしていました。 -
「対岸武田軍五つの砦」説明
武田信実(信玄弟)率いる軍が長篠城抑えの為当地に陣を張っていたが、徳川家康重臣酒井氏の急襲を受け多数の損害を被ります。 -
度合(どあい)
このフェンスの先に左手を流れる宇連川と右手を流れる寒狭川(かんさがわ)とが合流する地点で長篠城の最南端にあたります。 -
本丸跡広場
「度合」地点から本丸広場を一望します。 -
記念植樹説明
天正4年(1576)新城城築城の際城下の繁栄を願って市の神を祀り榎を植えた由来に従ってライオンズクラブが創立30周年記念植樹をしています。 -
「鳥居強右衛門磔死」案内板
真下に流れる寒狭川の対岸には鳥居強右衛門の磔死の碑及び磔刑の地があるそうです。 -
鳥居強右衛門説明板
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寒狭川(現豊川)案内板
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本丸跡広場
寒狭川案内板から本丸跡広場を一望します。 -
矢沢川案内板
寒狭川に流れる矢沢川の案内があります。 -
長篠城本丸跡柱標
崩れてややなだらかになった土塁の上に「長篠城本丸跡」の柱標が改めて見えます。 -
矢沢川
本丸西端の土塁から矢沢川を見下ろします。 -
土塁
再び本丸虎口に戻り改めて本丸を取り囲む土塁が確認されます。 -
土塁
本丸の最も急峻な土塁に上がり、その上を歩入てみます。 -
深い空堀
土塁上部から外側を一望すると深い空堀が今でも大きく遺っており、往時の土塁と相まって空堀の深さと幅のスケールの大きさを感じてしまします。 -
城薮稲荷跡地
かつて当所に配置されていた城薮稲荷は近隣の大通寺に移転されているそうです。 -
飯田線
土塁の上の城薮から隣接する飯田線を改めて捉えます。 -
深い空堀
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鳥居強右衛門磔刑レリーフ
本丸跡周辺を終えて長篠城址史跡保存館に入りますが、保存館入口には鳥居強右衛門のレり?フが展示されています。 -
長篠の合戦絵図
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イチオシ
本丸土塁
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鳥居強右衛門呼掛けの場所
本丸跡見学を終えて他の城跡跡を歩くと、案内板には籠城している奥平氏の部下である鳥居強右衛門が武田側に捕えられ、助命を顧みずに信長軍支援を呼び懸けた場所として案内板が掲げられています。 -
家老屋敷趾柱標
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弾正邸趾柱標
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