2015/03/12 - 2015/03/16
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ふくうめちゃんさん
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私と5歳年下の妹、2人で台北を訪れるのは今回が2回目。前回は妹が怪我をするアクシデントに見舞われほとんど何もできず帰国。その後私達の父が幼少時(終戦の2年後まで)台北で暮らしたことがわかり‥リベンジ旅を決行!「台北・台北近郊に現存している日本統治時代の建物めぐり」をメインに、ついでに季節のイベントも見学。
2日目、城中(博愛地区)に残る日本統治時代の建築物をみて歩きます。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- その他
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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コスモスホテルで朝ごはん、6:30〜。点心、担好麺、魯肉飯、豆奬など台湾らしいメニューが沢山ありました。妹は試しに色々食べてました、お粥派の私は冒険せず‥。オムレツはその場で焼いてくれてトロトロで美味しい〜お料理は塩分控えめ。
コスモス ホテル 台北 ホテル
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天気が回復し晴れてきました。予想最高気温22℃、ヒートテックなしの長そでTシャツ1枚で過ごせる暖かい1日でした。
新北市の水金九エリア訪問前に、中正区に残る日本統治時代の建物を訪ねます。
清代の台北は台北府城の城壁に囲まれた街でした。コスモスホテル前の忠孝西路は、かつて北城壁があったところ。日本統治時代に城壁は撤去されその姿形は残っていません。
ホテルをでて、忠孝西路を西へ。北城壁のあった道なりに歩きます。西城壁があった中華路と交わる場所に赤い門が見えてきました。
「承恩門」はかつての台北府城「北門」。忠孝西路 散歩・街歩き
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実はこの門、日本との関わりが深いのです。
日清戦争に勝利し清から台湾を割譲された日本、
1895年5月29日基隆南の澳底に北白川宮能久親王率いる近衛師団が上陸。
各地で起こる激しい抵抗運動を鎮圧しながら台北府城に向かい進軍。
陥落前の城内は暴行や略奪などで大変治安が悪化したため、安全の確保を求めた台北の有力者・外国籍商人が日本軍を手引きし、この北門から6月11日無血入城を果たしました。
門の脇に日本統治時代の水準点が残っています。
ここを基準にして台北の町は造られていったのです。
台北府城(北門、東門、南門、小南門)は一級古跡。北門以外は再建されたもので、当時の姿を今もそのまま残しているのはこの北門だけ、貴重な歴史遺産。
西門はその名の通りかつて台北府城の西門があった場所ですが、この門だけは再建されず碑があります。台北府城で最も美しい城門だったそうです。北門 (承恩門) 史跡・遺跡
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北門の北西側、延平北路に面したところにあるのが、かつての「台湾総督府交通局鉄道部」の建物。1887年建築、三級古跡。修復工事が続いていて見ることはできません。
北門 (承恩門) 史跡・遺跡
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北門南にそびえる建物は「台北郵局」、日本統治時代1930年に「台北郵便局」として建てられました。三級古跡、現在も現役の郵便局です。
北門 (承恩門) 史跡・遺跡
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無血入場を果たした日本軍が進んだ延平南路を南下します。
並行する博愛路はカメラ屋街で、通りに整然と並ぶ看板が印象的。 -
延平南路の右側に、周囲のビルとは明らかに容姿の違う洋館。
市定古跡「台北撫台街洋楼」は日本統治時代の店舗兼住宅として建てられた民家で1910年頃の建築といわれています。
かつては1階が石造りのアーケード、2階が木造の洋楼が沢山あったようです。
次々と姿を消し現存しているのはこの建物だけになってしまったそうです。
2階部分は改修で木造→石造りに変わりましたが、当時の姿を今も伝えています。北門 (承恩門) 史跡・遺跡
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台北撫台街洋館のアーケード部分。「亭子脚」といい、雨をよけ日差しを遮るためのもので、台湾の気候に合わせた台湾独特の建築様式です。
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延平南路をそのまま進むと広場にでました。広場の手前に石碑、清代はこの場所に「布政使司衛門行署弁公所」という役所がありました。
日本統治の初め・台湾総督府ができるまで総督の事務所として使われたそうですが、台北公会堂建設のため1930年撤去されました。植物園内に移された建物の一部「台北布政使司衛門」は二級古跡。中山堂(旧台北公会堂) 劇場・ホール・ショー
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広場に大きな建物、「中山堂」です。1936年、昭和天皇即位を記念して建てられた「台北公会堂」の建物、二級古跡。
台湾最大の公共施設として終戦まで様々な娯楽を提供してきました。
1945年10月25日、降伏式がここで行われ日本統治は終了、中華民国・国民党政府に台湾は移譲されました。公会堂は「中山堂」と名称を改め(中山=孫文の意、前庭にあるのは孫文像)、総統就任式や海外客賓の接待など国の重要行事で使われる施設となりました。再び公会堂として使われるようになったのは近年だそうです。
空襲の際標的にならないよう目立たない工夫をしたため、少し地味な印象の建物です。中山堂(旧台北公会堂) 劇場・ホール・ショー
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中山堂の広場をそのまま突き抜けると、衡陽路にでます。ここを左折し東に向かうと‘桃源街ワンタン通り’のところに合作金庫銀行の茶色い建物があります。
市定古跡「旧台北信用組合」は1927年の建築。
窓の上にフクロウの彫刻、「夜もあなたの大事な財産を守っていますよ」という意味があるそうです。洒落てますね〜。趙記菜肉餛飩大王 地元の料理
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衡陽路、高いビルとビルの間に、ちょっと古そうな個性的な建物がありました。
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衡陽路から重慶南路へ、総統府方面に進むと右側に台湾銀行本店。
1938年建築の市定古跡「台湾銀行」。昔も今も金融の中枢を担っています。台湾銀行 (旧 台湾銀行本店) 建造物
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総統府近くから見た台湾銀行。整然とならぶ柱と白い壁、朝日を浴びて輝いてます。
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総統府の北側、博愛路と寶慶路の角に立つタイル張りの建物、
市定古跡「帝国生命会社旧厦」は1930年頃の建築だそうです。
周囲の木々で建物自体は良く見えません。博愛路 散歩・街歩き
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博愛路に面した総統府の裏側。銃をもった衛兵があちこちに立っていて、物々しい雰囲気‥写真撮影する勇気でず‥。(写真は2015年1/1に撮影したもの)
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総統府裏、博愛路と長沙街の交差点にある「国史館台北館」の建物は、
市定古跡「旧台湾総督府交通局逓信部(交通部)」1925年頃の建築。
木々の緑で建物の全貌よくわからず。この横にまわるとわかるのですがまだまだたくさん歩くので面倒になり‥パス。
長沙街を西に進むと市定古跡「婦連総会」「台湾電力株式会社社長宿舎」があります。今回は時間の関係もあって行きませんでした。国史館 (総統副総統文物館) 文化・芸術・歴史
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交通局の南側、博愛路と貴陽街の角にあるのが
1937年建築の市定古跡「台湾総督府電話交換局」。
今は電信電話会社の建物として使われています。博愛路 散歩・街歩き
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貴陽街を東に進み、重慶南路へ。総督府の南側にあるのが国定古跡「司法大厦」。
「旧台湾総督府台北高等法院」1934年建築。
日本統治時代も現在も司法の最高峰として存在。
国防を意識した目立たない緑色のタイルが張られ、茶色いチェック模様が中東的な雰囲気で個性的です。司法院 建造物
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「台湾総統府」1919年「台湾総督府」として建設された建物で、私達の祖父は台湾総督府営繕課という建物の建築や修復・管理に関わる部署で働いていたそうです。
空襲で被害にあい修復再現されたものが現在の建物。国定古跡。
赤煉瓦に白い花崗岩が配された美しい建物で、中央に搭がそびえる威風堂々たる風格はまさしく‘政治の中枢’。
以前は近くから建物の撮影をしようとすると警備員に阻まれましたが、今は正面近く重慶南路を挟んだ場所に「撮影平台」ができ写真撮影もOKです。ただ、ここから撮影すると建物全部は入らず、信号機がちょっと邪魔かも。
内部見学は総統府HPから事前予約すればできます。
月1回「総統府一般参観日」は予約なしで内部見学・写真撮影ができます。中華民国総統府 建造物
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総督府からまっすぐ伸びる「ケタガラン大道」に面した場所、ニニ八和平紀念公園の隣に国定古跡「台北賓館」があります。台湾外交部所管の「迎賓館」です。
日本統治時代は「台湾総督官邸」、2006年に解放されるまで一般人は目にすることのできない閉ざされた場所でした。現在も周囲の高い壁に阻まれ、その全貌を見れるのは月1回の一般開放日だけ。 -
写真は1/1の開放日に台北賓館に行った際のものです。
1901年完成した木造の総督府官邸はシロアリ被害が激しく使えなくなり、1911年から2年の歳月をかけ石造りの建物に建て替えられました。これが現在の台北賓館の建物です。
民政長官官邸はこの台北賓館と二二八和平紀念公園を挟んだ反対側(総督府側)にあったようですが、空襲で焼失しています(今は駐車スペースのような空き地)。台北賓館 現代・近代建築
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二二八和平紀念公園の南側にある「二二八紀念館」。
市定古跡「台湾広播電台放送亭」、1934年に建てられ日本統治時代は「NHK台北支局」でした。
二二八事件の際、ここを占拠した民衆が軍艦マーチを流し日本語で台湾全土に蜂起を呼びかけたそうです。台湾の歴史を知るのに是非訪れて欲しい博物館です。二二八紀念館 (旧NHK台北支局) 博物館・美術館・ギャラリー
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台北府城のあった場所に日本統治時代に造られた「台北新公園」が「二二八和平紀念公園」の前身。緑と花がいっぱいの都会のオアシス的存在。台湾リスも沢山いてのんびりできます。
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二二八和平紀念公園の北側、台湾博物館脇にガラスケースに入った2台の蒸気機関車が展示されています。1台は台湾第一号の蒸気機関車、もう1台は東京-横浜間を運行後台湾総督府鉄道局に委譲された蒸気機関車です。
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「国立台湾博物館」1915年建設の国定古跡。
1908年、第4代台湾総督・児玉源太郎氏と民政長官・後藤新平氏の台湾における功績をたたえ造られた「児玉総督 後藤民政長官記念館」が1909年に台湾総督府博物館に改称 され、その後現在の建物が建てられました。2階に児玉源太郎氏・後藤新平氏に関する展示があり、そこだけは展示パネルに日本語があります。国立台湾博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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国立台湾博物館の向かい「国立台湾博物館 土銀展示館」、
1933年建築の三級古跡「勧業銀行旧社屋」。
旧・日本勧業銀行台北支店、終戦後は台湾土地銀行本店として使われた建物です。
この建物は国立台湾博物館・土地銀行が共同で修復し、台湾金融の歴史を展示する博物館「土銀展示館」になりました。国立台湾博物館 土銀展示館 博物館・美術館・ギャラリー
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台湾博物館土銀展示館と館前路を挟み並んでいるのが、
1930年建築の市定古跡「三井物産株式会社旧厦」。
新光三越ビルのあったところには日本統治時代の台湾最高級ホテル「鐡道ホテル」がありましたが、空襲で焼失しました。 -
二二八和平記念公園の東にある「台大医院旧館」1916年建築の市定古跡。
現在も病院として現役です。
台大医院旧館の東にある中山南路が、かつての台北府城の東城壁。仁愛路・信義路との交差点(ロータリー)中央にある中華風の門が「東門」です。 -
MRT台大医院→中正記念堂へ移動。愛国西路は台北府城の南の城壁があった場所。
日本統治時代に造られた三線道路(二つの緑地帯で道路が3つに分けられている道路。中央が自動車専用、左右は人・自転車・人力車)の名残が残っていました。
一級古跡「麗正門」は台北府城の「南門」。福建式→東方様式に改修されたもの。南門 (麗正門) 建造物
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南門と対峙するように南側に建っているのが
国定古跡「専売局(タバコ酒公売局)」1913年建築。
専売事業の統括を行う役所で、日本統治時代はタバコ・酒・アヘン・食塩・樟脳・マッチ・石油・度量衡器の8種類が専売品だったそうです。
2002年1月1日より専売制度が廃止され民営化、台湾ビールの製造販売をしている会社の建物になりました。一般企業なので内部は非公開です。専売局 史跡・遺跡
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専売局から愛国西路を西に進むと廃墟と化した建物。
市定古跡「大同之家」。日本統治時代、台湾銀行の上級職員宿舎として使われた建物みたいです。小南門駅 駅
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MRT小南門→西門(乗換)→台北車站。中正区の日本統治時代の建物をまわってホテルに戻ってきました。
チェックアウトし1泊分の荷物だけ持って新北市「水金九」エリアに向かいます。コスモス ホテル 台北 ホテル
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