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皆川城跡から南西方向に在る慈眼山・金剛寺(こんごうじ、栃木県栃木市皆川城内町)は城主である皆川氏の菩提寺で、墓地には皆川城廃城以降転封した歴代皆川氏の廟があります。<br /><br />皆川氏は藤原秀郷を祖とする北関東の名族である小山氏一族長沼氏の支族にあたりますが、小山政光の二男である宗政(むねまさ)は長沼荘(現在の栃木県真岡市)に渡り長沼氏と称します。<br /><br />宗政から続く当主が秀宗・氏秀親子の頃に古河公方足利利氏の所領であった皆川荘が白河氏に下賜されるも遠隔地に所在するため支配困難の間隙を突いて同親子が支配下に収めたようです。<br /><br />秀宗(ひでむね)を皆川氏の祖とすれば、祖父成勝(しげかつ)・父俊宗(としむね)・兄広勝(ひろかつ)を経て家督を継いだ広照(ひろてる、1548~1628)は乱世を生きぬいた智将で、敵対する宇都宮氏と宇都宮氏を支援する常陸国佐竹氏の攻勢を防ぐため小田原北条氏に誼を通じるなか四代当主氏政(うじまさ)養女を室に迎える事で北条方に属することを明確にします。<br /><br />一方で広照は天正9年(1581)10月、尾張から台頭して室町幕府13代将軍義輝の弟義昭を奉じて入京を果たした織田信長に対し誼を通じ馬3疋を献上、著名な茶器・良馬・刀剣・鷹狩を愛好する信長からは「馬形、乘り以下比類なし」と手放しで絶賛した礼状と共に返礼品多数が下賜され、武田氏滅亡後上野国厩橋に入城した滝川一益(たきがわ・かずます)との協調関係が確立されます。<br /><br />天正18年(1590)豊臣秀吉のいわゆる小田原攻めに際し、広照は壬生義雄(みぶ・よしたけ)らとともに北条方として小田原城に籠城するも、4月8日夜の暗闇にまぎれ家臣約100名を引連れ小田原城を脱出し秀吉陣営に駆け込みます。広照は秀吉から助命を認められ一時徳川家康に身柄を預けられます。<br /><br />小田原城開城北条氏没落後は関東における旧北条領は家康に与えられ、下野については天正18年の時点で広照が皆川領1万3千石を安堵され、次の宇都宮氏、那須氏、佐野氏はいわゆる「宇都宮仕置き」後に所領安堵され秀吉の大名として存続が認められますが、広照の場合は徳川家康の家臣として引き続き1万3千石の領有を認められることになります。<br /><br /><br />廟所脇に立っている説明板では次のように紹介されています。<br /><br />「皆川家歴代祖廟<br /><br />皆川家歴代祖廟は皆川城(別名法螺貝城)を中心として勢力を誇っていた歴代城主の墓地であります。<br /><br />下野国の名族藤原秀郷を祖とする皆川氏は長沼五代・奥州長沼五代を経、長沼五郎秀宗の時にこの地に移りその子氏秀に至り皆川姓を名乗り、永享元年(1429)観音山に皆川城を築きました。その後、たび重なる合戦を経た後、皆川広照の代、豊臣秀吉の小田原城攻めに際し徳川家康のもとに降伏し、江戸時代には旗本として幕府に仕えました。<br /><br />しかし、戦国時代より遺骸は必ず菩提寺である金剛寺に葬られ一代も欠けることなく現在に至り、立ち並ぶ墓碑の形式をみることによって時代差を知ることができるなど価値の高いものであります。<br /><br />なお、本寺には皆川広照が寄進したと伝えられる皆川広照着用具足(南蛮鎧)や広照の長子、陸庸が宝永17年(1640)に先祖の菩提寺のために寄進した薬師如来像が安置され、いずれも市指定文化財に指定されています。     栃木市教育委員会 」

下野栃木 南北朝期の乱世を生き抜いた藤原秀郷を遠祖とする小山氏の庶流長沼氏一族から自立し戦国期活躍の智将皆川広照ら歴代を祀った『金剛寺』散歩

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2015/02/07 - 2015/02/07

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滝山氏照

滝山氏照さん

皆川城跡から南西方向に在る慈眼山・金剛寺(こんごうじ、栃木県栃木市皆川城内町)は城主である皆川氏の菩提寺で、墓地には皆川城廃城以降転封した歴代皆川氏の廟があります。

皆川氏は藤原秀郷を祖とする北関東の名族である小山氏一族長沼氏の支族にあたりますが、小山政光の二男である宗政(むねまさ)は長沼荘(現在の栃木県真岡市)に渡り長沼氏と称します。

宗政から続く当主が秀宗・氏秀親子の頃に古河公方足利利氏の所領であった皆川荘が白河氏に下賜されるも遠隔地に所在するため支配困難の間隙を突いて同親子が支配下に収めたようです。

秀宗(ひでむね)を皆川氏の祖とすれば、祖父成勝(しげかつ)・父俊宗(としむね)・兄広勝(ひろかつ)を経て家督を継いだ広照(ひろてる、1548~1628)は乱世を生きぬいた智将で、敵対する宇都宮氏と宇都宮氏を支援する常陸国佐竹氏の攻勢を防ぐため小田原北条氏に誼を通じるなか四代当主氏政(うじまさ)養女を室に迎える事で北条方に属することを明確にします。

一方で広照は天正9年(1581)10月、尾張から台頭して室町幕府13代将軍義輝の弟義昭を奉じて入京を果たした織田信長に対し誼を通じ馬3疋を献上、著名な茶器・良馬・刀剣・鷹狩を愛好する信長からは「馬形、乘り以下比類なし」と手放しで絶賛した礼状と共に返礼品多数が下賜され、武田氏滅亡後上野国厩橋に入城した滝川一益(たきがわ・かずます)との協調関係が確立されます。

天正18年(1590)豊臣秀吉のいわゆる小田原攻めに際し、広照は壬生義雄(みぶ・よしたけ)らとともに北条方として小田原城に籠城するも、4月8日夜の暗闇にまぎれ家臣約100名を引連れ小田原城を脱出し秀吉陣営に駆け込みます。広照は秀吉から助命を認められ一時徳川家康に身柄を預けられます。

小田原城開城北条氏没落後は関東における旧北条領は家康に与えられ、下野については天正18年の時点で広照が皆川領1万3千石を安堵され、次の宇都宮氏、那須氏、佐野氏はいわゆる「宇都宮仕置き」後に所領安堵され秀吉の大名として存続が認められますが、広照の場合は徳川家康の家臣として引き続き1万3千石の領有を認められることになります。


廟所脇に立っている説明板では次のように紹介されています。

「皆川家歴代祖廟

皆川家歴代祖廟は皆川城(別名法螺貝城)を中心として勢力を誇っていた歴代城主の墓地であります。

下野国の名族藤原秀郷を祖とする皆川氏は長沼五代・奥州長沼五代を経、長沼五郎秀宗の時にこの地に移りその子氏秀に至り皆川姓を名乗り、永享元年(1429)観音山に皆川城を築きました。その後、たび重なる合戦を経た後、皆川広照の代、豊臣秀吉の小田原城攻めに際し徳川家康のもとに降伏し、江戸時代には旗本として幕府に仕えました。

しかし、戦国時代より遺骸は必ず菩提寺である金剛寺に葬られ一代も欠けることなく現在に至り、立ち並ぶ墓碑の形式をみることによって時代差を知ることができるなど価値の高いものであります。

なお、本寺には皆川広照が寄進したと伝えられる皆川広照着用具足(南蛮鎧)や広照の長子、陸庸が宝永17年(1640)に先祖の菩提寺のために寄進した薬師如来像が安置され、いずれも市指定文化財に指定されています。     栃木市教育委員会 」

旅行の満足度
4.0
交通手段
JRローカル 徒歩
  • 金剛寺寺門<br /><br />周辺は田んぼに囲まれ開放的な寺院となっています。

    金剛寺寺門

    周辺は田んぼに囲まれ開放的な寺院となっています。

  • 金剛寺石門<br /><br />右側石柱には「漕洞宗」と刻されています。

    金剛寺石門

    右側石柱には「漕洞宗」と刻されています。

  • 金剛寺石門<br /><br />左側石柱には寺号である「金剛寺」が刻されています。

    金剛寺石門

    左側石柱には寺号である「金剛寺」が刻されています。

  • 参道<br /><br />参道の途中には左右の立派な石灯籠が左右に配されています。

    参道

    参道の途中には左右の立派な石灯籠が左右に配されています。

  • 本堂全景<br /><br />参道を進むと素朴な佇まいを見せる本堂が控えています。

    本堂全景

    参道を進むと素朴な佇まいを見せる本堂が控えています。

  • 本堂扁額<br /><br />上部に掲載されているのは山号の「慈眼山」が掲示されています。

    本堂扁額

    上部に掲載されているのは山号の「慈眼山」が掲示されています。

  • 境内<br /><br />本堂から石門方向を振り返ります。

    境内

    本堂から石門方向を振り返ります。

  • 一般墓地<br /><br /><br /><br />

    一般墓地



  • 皆川家累代祖廟

    皆川家累代祖廟

  • 皆川家累代祖廟説明板

    皆川家累代祖廟説明板

  • 廟内風景

    廟内風景

  • 歴代当主の墓石<br /><br />廟の中央には10代から13代に亘る当主の墓石が連なります。<br /><br />

    歴代当主の墓石

    廟の中央には10代から13代に亘る当主の墓石が連なります。

  • 歴代当主の墓石<br /><br />そして一番奥には初祖となる長沼秀宗を始め歴代の当主らの墓石が並びます。

    歴代当主の墓石

    そして一番奥には初祖となる長沼秀宗を始め歴代の当主らの墓石が並びます。

  • 初祖 長沼秀宗 墓石<br /><br />墓石傍らに立つ表札によれば、永享10年(1438)8月1日に33歳で鎌倉の腰越にて討死とあります。永享の乱では秀宗は鎌倉公方足利持氏(あしかが・もちうじ)に従っているなか、対立する関東管領上杉憲実を後押しする室町幕府将軍足利義教に追い込まれ持氏は自刃、秀宗もこの争いに巻込まれたと思われます。

    初祖 長沼秀宗 墓石

    墓石傍らに立つ表札によれば、永享10年(1438)8月1日に33歳で鎌倉の腰越にて討死とあります。永享の乱では秀宗は鎌倉公方足利持氏(あしかが・もちうじ)に従っているなか、対立する関東管領上杉憲実を後押しする室町幕府将軍足利義教に追い込まれ持氏は自刃、秀宗もこの争いに巻込まれたと思われます。

  • 初代 皆川氏秀 墓石

    初代 皆川氏秀 墓石

  • 二代 皆川宗成 墓石

    二代 皆川宗成 墓石

  • 十四代皆川庸郡・十五代皆川庸明 墓石

    十四代皆川庸郡・十五代皆川庸明 墓石

  • 十代・十一代・十二代の墓石

    十代・十一代・十二代の墓石

  • 三代皆川成勝・四代皆川俊宗 墓石

    三代皆川成勝・四代皆川俊宗 墓石

  • 十六代皆川庸穂・十八代皆川又太郎 墓石

    十六代皆川庸穂・十八代皆川又太郎 墓石

  • 歴代藩主家族等 墓石

    歴代藩主家族等 墓石

  • 皆川城遠景<br /><br />金剛寺石門を出て左側を望むと皆川城跡の全景が視野に入ります。

    皆川城遠景

    金剛寺石門を出て左側を望むと皆川城跡の全景が視野に入ります。

  • 皆川城遠景

    皆川城遠景

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