2015/01/04 - 2015/01/04
1236位(同エリア2325件中)
滝山氏照さん
羽柴秀吉の中国平定に秀吉の軍師として活躍した黒田孝高(くろだ・よしたか、1546~1604)の実父である黒田職隆(くろだ・もとたか、1524~1585)は播磨御着城主小寺政職(こでら・まさもと、1529~1584)に仕えるなか戦功を挙げたことで家老となり、支城の姫路城の城代となり併せて小寺姓を許されます。
そして織田信長の中国平定に当たって職隆は息子孝高と共に信長を支持、主家の政職にも信長への帰属を進言するも、後に毛利方につき結果織田方先鋒として姫路に進攻してきた羽柴秀吉の攻撃を受けて没落、以降親子共々従前の「黒田」姓に復姓し秀吉が官兵衛と共に中国各地を転戦している間、姫路城代として持ち前の温厚な性格をもって重責を勤め上げます。そして天正13年(1585)8月に64歳で隠居していた国府山城にて生涯を終えます。
姫路市ホームページによれば次のように説明がなされています。
「黒 田 職 隆 墓
黒田職隆は、安土桃山時代の武将黒田孝高(官兵衛、如水)の父である。孫の長政は、初代筑前福岡藩主。
廟所は南北約15m、東西約12mの規模で、中央に正面1間、側面1間、宝形造、銅板葺の廟屋があり、中に大型の五輪塔1基(五輪塔1.78m)を置き、外周にも低い石垣を巡らせる。
五輪塔は角礫質凝灰岩製で、地輪の正面に右から「天 十三 /梵字の「ア」満誉 /八がつ 」と少なくとも三行の銘文が、左側面には深々と「黒田」が刻銘されている。空風輪、火輪、水輪、地輪、台座各々の接合部には、目地状の漆喰が塗られている。
江戸時代の古文書「播磨古事」等によれば、天明3年(1783)10月、姫路城下心光寺住職入誉(にゅうよ)が墓所発見を福岡藩に報告。福岡藩役人が調査の上、翌4年10月に廟屋をかけ墓所整備を行ったとされている。
現在の廟億は昭和52年に地元自治会が修復したものである。
墓所の北約800mには、職隆が晩年に在城したとされる国府山城(功山城)がある。」
- 旅行の満足度
- 3.5
- 交通手段
- JRローカル
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女鹿駅に建つ周辺地図
山陽電鉄姫路駅から各停に乗り市川を渡った女鹿(めが)駅に到着、駅前の地図で史跡の所在を確認します。 -
市川河岸風景 -
官兵衛の幟
女鹿駅から数分、近くまで来ると見慣れた「官兵衛の幟」がはためき、「黒田職隆公墓所」の看板が迎えてくれます。 -
黒田職隆墓所
住宅街に入るとすぐ職隆の廟が視野に入ります。 -
黒田職隆廟
住宅に囲まれた墓所には幟が立っているなかひっそりと佇んでいます。 -
職隆石標
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石標裏側
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イチオシ
黒田職隆廟
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イチオシ
黒田職隆石塔
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姫路市指定書
廟の中には市指定史跡名勝天然記念物(昭和26年1月16日付)指定書が掲示されています。 -
「黒田職隆廟」説明
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元宮八幡神社
職隆墓所から徒歩3分ほどで元宮八幡に到着します。 -
拝殿
石門を過ぎると正面に拝殿が控えています。 -
本殿
小規模ながらしっかりした本殿が見えます。 -
境内風景
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改築記念石碑
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境内風景
ここに黒田二十四騎の一人である母里太兵衛(もり・たへえ、1556~1615)生誕地の碑が建っています。 -
母里太兵衛石標
「母里太兵衛生誕の地」と刻された石標が説明板と共に在ります。 -
「母里太兵衛友信」説明
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官兵衛の幟
姫路城を中心に所々に立っている官兵衛に関する幟が当所にもあります。
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