2014/10/10 - 2014/10/10
77位(同エリア226件中)
滝山氏照さん
【城のごとき島】大友時代の臼杵城 1556年~1587年
『義鎮はなぜ臼杵に宣教師が見た臼杵城』
キリシタン大名として知られている大友義鎮(おおとも・よししげ)(宗麟(そうりん))は、弘治2年(1556)大友氏代々の本拠地であった府内(大分市)を離れます。
イエズス会修道士ルイス・デ・アルメイダはその事情を「よりいっそうの安全をはまるために新しい城に引き籠りました。」と記録しています。その「新しい城」とは臼杵城のことで臼杵湾に浮かぶ丹生島の岩上に建つ北・東・南の三方が海に囲まれた天然要害でした。
このころ豊後を訪れていた司祭ガスパル・ビレラは、謀反を起こした家臣たちから逃れ、安全にその対策を行うために「城のごとき島」へ移ったと記録しています。
府内に比して極めて高い防御性をもつ臼杵城は、義鎮の入城から天正15年(1588)の大火で焼失するまでの間、大友家の居城として機能していました。
臼杵城は府内における大友館と詰めの城であった高崎城の機能を併せ持つものであったようです。
『固い防御と都ぶりの居館施設』
居館と防御のふたつの機能を持つこの城には、義鎮やその嫡子義統(よしむね)といった大友当主が政治を行う「御殿、その家族が住む「屋敷」や「蔵」があったこと、宣教師たちが記録しています。
最近の発掘調査によって、「御殿」や「屋敷」は現在の臼杵護国神社周辺に建てられていたこと、桧皮葺の屋根に漆喰壁といった、京都の高級住宅の様式を取り入れていることがわかりました。
当時は、本丸が島内の西側に築かれており、高級陶磁器類をはじめ、儀式で使用される京都系土師器(きょうとけいはじき)が大量に出土しています。
なお、大友宗麟は弘治2年以来、ずっと府内の館には戻らないままでしたが、臼杵城跡出土の遺物と大友居館跡(府内)出土遺物を比較すると、臼杵城からは義鎮時代のものしか確認できません。
義鎮以前の高級磁器が出土する大友館跡(府内)は、やはり大友氏の本拠地として意識されていたようです。
【石垣と天守】?豊臣系大名の臼杵城 1594年~1600年
『小さな大坂城ー戦国時代城郭からリニューアル』
大友氏滅亡(文禄2年・1593)後の文禄3年、臼杵城へは福原直高(在城期間 1593~97年)が城主として入城しました。
直高は戦国時代の影響強かった大友時代の臼杵城を、織田信長の安土城、豊臣秀吉の大坂城のような、石垣と瓦ぶきの櫓を数多く造る、ニューモードの城郭へ改修します。
福原氏は在城わずか3年ほどで府内城主に異動しますが、その後太田一吉(在城期間1597~1600年)はこの改修工事を受け継ぎ、丹生島西側の砂州を埋め立てて三の丸を整備しました。
太田氏の整備により、臼杵城には31基の櫓と、7基の櫓門が設けられ、この時代の流行に合った城郭に変貌したのです。
福原?太田氏の改修の際、はじめて天守櫓が建造されます。
現在もなお天守台の一部が残されていますが、石垣隅の角石の積み方からみると福原氏の時代にこの天守台が築かれたようです。
現存する天守台石垣では、佐賀県の肥前名護屋城に続き、古いものです。
『大逆転!入れ替わった本丸と二の丸』
最近の発掘調査で、福原氏時代に本丸が丹生島の東半部に築かれました。
つまり大友時代にお城郭と副郭(二の丸)がそっくり入れ替わってしまったわけです。
大友時代の主郭は、丹生島の最高所に造られていましたが、福原氏以降の本丸は、西半分よりも約3m低い位置に設けられることになりました。
この高低差は、本丸の天守台や外郭石垣を高くすることで解消していますが、江戸時代になっても地表レベルは二の丸より低いままという、全国でも稀な構造となっています。
『福原・大田時代の雰囲気を伝える2基の櫓』
現存する畳櫓・卯寅口櫓は19世紀の再建建物で、「重箱造り」という1階と2階の床面積が同じ構造です。
全国でもわずかしか残っていないめずらしい櫓で、これは安土桃山時代に流行するものです。
1610年代以降は1階と2階の床面積を変化さる「層搭型」の櫓が主流となりますが、臼杵城では近世になってもこのような古式の構造を持つ櫓を建て続けています。
この背景に「中箱造り」は「層搭型」にくらべて構造が簡便で、建築費用も安く抑えられることにあったかもしれません。
臼杵城内には安土桃山時代の建築物は残っていませんが、現存する2基の櫓が、その当時の雰囲気を今に伝えています。
【乱世から泰平へ】?近世稲葉氏の臼杵城(1)1600年~1750年代
『守る城から住む城へ?平和な時代に即した城郭へ』
稲葉氏の臼杵入封は慶長5年(1600)のことでした。
当時の臼杵城は福原・太田氏の大改修によって近世的な城郭となっていたようですが、稲葉氏はさらに大手門の大改修と今橋口の新設、城内道路の大幅な変更を行いました。
これによって旧来の道路が本丸に一旦近づいてから二の丸に上がる渦郭式縄張から、二の丸を完全に陥落させないと本丸に近づけない連郭式縄張となりました。
稲葉氏の改修は丹生島だけに終わらず、1600~1640年代にかけて外堀にあたる堀川の開削、三の丸の惣石垣化(そういしがきか)、大手門枡形の南にあたる菊屋町の強制移転により水濠を拡幅、さらには城下町南側の原山大地を掘り削り、城下自体を堀で囲むという「惣構(そうがまえ)」計画に着手しました。
しかし17世紀後半には惣構計画も中断されてしまいます。
このころには世の中も落ち着き、城下が外敵に攻められる心配もなくなったのでしょうし、過剰な城郭整備が幕府の目に障ることを恐れたのかもしれません。
『城主の姿が遠くなる!?延長45mの大広間』
5代城主稲葉景通(いなば・かげみち)は本丸居館が老朽化した上に手狭であることから、幕府に二の丸へ居館を移すことを申し出、許可されました。
延宝3年に完成した二の丸居館は、本丸居館に比べ城主の私的空間(奥)より、家臣との謁見や、外客との面談をする公的空間(表)がやや広く取られていました。
ことにお目見え以上の家臣と謁見する大広間は全長45mの大きな空間で、お目見えが叶う家臣であっても、その多くは殿様がどのような顔をしているのか、ほとんどわからなかったのではないかと思われます。
【見せる城の終焉】近世稲葉氏の臼杵城(2)1760年代~1860年代
『平和な時代の「見せる城」』
宝暦13年(1763)、臼杵城内と城下の740軒の家屋が焼失するという大火事(宝暦大火)がおきました。
二の丸はほとんど全ての櫓と、城主居館が焼失してしまったのです。
その2年後から二の丸建物の復旧が始まりますが、当寺の臼杵藩は城の復興をまず、見える場所から行っていったようです。
守りの城から、権威を見せる城へ?この傾向は17世紀より18世紀以降のほうがよく現れているようです。
城下の正面に向く二の丸鐙坂周辺の崖は17世紀後半になってもそのままでしたが、18世紀前半には石垣化されています。
近年この石垣の修理の際に、タイル状の薄い石を崖面に張り付けて石垣
のように見せる部分が発見されました。
町からよく見える部分から櫓を再建し、見せかけの石垣を造るという18世紀以降の「見せる城」整備は、一方で今橋登城路の中ノ門・上ノ門を廃止するなど防御機能を低下させるものでした。
”武士の価値”が武力から見せかけの権威へと変わっていることを示しているようです。
『荒城から近代的公園へ』
明治6年(1873)明治新政府は、全国の城郭を残すものと残さないものとに分けました(城郭存廃決定)。
軍の施設にならなかった臼杵城は廃城と決定され、本丸・二の丸は当寺新政府が進めていた公園制度による「公園地」に指定され、三の丸は宅地となりました。
とはいうものの「公園」の何たるかがまだ理解されてなかった臼杵にあって、臼杵城跡は荒れ放題となっていたようです。
明治10年(1877)、二の丸居館跡に招魂社が建立されると、境内と参道整備のためにやっと美観が整えられるようになりますが、これが公園整備の始まりでしょう。
明治20年代には参道となった今橋周辺に桜が植えられ、これが桜の名所となるきっかけになりました。
本丸の公園化はやや遅く、明治末から大正の初めのころのようです。
見事な高石垣であった本丸天守閣周辺の石垣は上部4mほどが壊され、残った部分は公園のモニュメントとして整備されてしまうなど、城郭遺構を公園化に活かすという発想はなかったようです。
臼杵出身で三菱財閥の重役となった荘田平五郎はこれを嘆き、時代の流れではあるが、武士の最後の砦としての城郭景観を保全すべくと訴えています。
『最初に壊された?天守櫓』
平成20年度の発掘調査で、天守は他の櫓よりも念入りに丁寧に壊されていることがわかりました。
慎重に壁や瓦をはがしていることから、おそらく柱などの木部材を他に転用する目的があったと考えられます。
他の櫓跡の発掘調査ではこうした痕跡がありません。
おそらく天守は最初の段階で壊され、他の櫓は自然に崩壊するものが多かったのでしょう。 (臼杵市教育委員会文化文化財課資料)
- 旅行の満足度
- 4.5
- 交通手段
- JRローカル
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JR臼杵駅舎
日豊線運行本数少ないので早朝6:18中津発臼杵行に乗車、約1時間後の7:11に到着、駅前の観光案内所は当然ながら開いていません。 -
臼杵市街地図
やむなく駅前に建てられた周辺地図にて情報収集をします。 -
臼杵石仏
国宝に指定されている臼杵石仏のモニュメントが駅前広場に鎮座しています。
平安時代後期から鎌倉時代にかけて彫られたといわれています。 -
臼杵観光マップ
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臼杵城
弘治2年(1556)に小原鑑元(おばら・あきもと)の反乱により宗麟がこの丹生島(にゅうじま)に避難していることから、従前より砦とか何らかの軍事施設があったとも考えられています。 -
臼杵歴史地図
延保4年~元禄2年(1676~1689)時代の臼杵城は難攻不落の島でありました。 -
臼杵歴史地図(拡大)
慶長5年(1600)美濃国郡上八幡から転封してきた稲葉氏は大友宗麟によって築かれた城を土台に改修拡大を施します。臼杵城は別名丹生島城と呼ばれ、干潮の時に1ケ所だけ砂州ができて陸地につながる、全国でも珍しい海城で、明治になって周囲が埋め立てられるまで、城は海に浮かんでいました。 -
臼井城跡
大手門から鐙(あぶみ)坂と称される登城路を捉えます。 -
臼井城跡
大友氏時代における丹生島の露出した岩肌について後に入封した稲葉氏は大改修して石垣を施し近代城郭に変身させています。 -
古橋口と鐙坂(あぶみざか)
大友時代から登城路として使われて道で、外敵を防ぐため岩を掘り切って造った狭い道となっています。鐙坂というのは馬の鐙に似ていることから「鐙」と呼ばれています。 -
臼杵城跡石標
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臼杵城跡
大友時代のむき出しになったままの岩壁が難攻不落である様子を現しています。 -
時計台と洗面所
当時の雰囲気に合わせた建物にしており違和感を感じさせません。 -
臼杵城変遷・説明板
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臼杵公園
公園化された臼杵城跡はすっかり整地され、春は城内に植えられた桜並木のもと桜まつりが開催されます。 -
臼杵市街観光史跡
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護国神社鳥居
古橋口から見える鳥居は二の丸跡に建立された護国神社の鳥居として建っています。 -
臼杵城城域の変遷・説明板
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臼杵城二の丸
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狭い登城路
外敵の進入を防御するため岩をくり抜いて狭い道としています。 -
鐙坂(あぶみざか)
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二の丸石垣
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中門櫓跡
畳櫓手前には中門櫓があったようです。 -
二の丸石垣
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畳櫓(たたみやぐら)
天保年間に再築された櫓で、一階と二階の床面積が同一の「重箱造り」という古式の構造をしています。 -
イチオシ
大門櫓
大門の両脇の石垣は18世紀後半とみられる「亀甲積み」といわれます。 -
臼杵城帯郭・説明板
大友氏・太田氏時代の登城口は鐙坂を通って北側の道を回っていましたが稲葉氏時代には防衛上の理由から三之丸側の奥に今橋口という登城口を新設、これに合わせ今橋口から中之門、上之門と枡形を造る事で防御性を高め、旧来の道は中之門から二つに分断させた為畳櫓から上之門に至る空間は帯状となっている事から帯曲輪と呼ばれます。 -
臼杵城帯曲輪地図(拡大)
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二の丸案内標
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イチオシ
大門櫓
17世紀初頭に城内通行の利便性を高めるために造られてと思われる櫓門で、17世紀後半に二之丸居館ができると玄関口のような存在となります。尚門の両脇の石垣は18世紀後半とみられる「亀甲積み」といわれます。 -
二の丸跡風景
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護国神社由緒略記・説明板
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護国神社由緒略記(拡大)
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二の丸と二の丸御殿・説明板
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大友宗麟碑と大砲
天正4年(1576)南蛮貿易のポルトガルより入手した大砲(フランキ砲)が宗麟レリーフと並んで陳列されています。 -
大友宗麟碑(拡大)
種子島銃を持って椅子に座る宗麟のレリーフを見ると南蛮文化への関心が高いことを示しています。 -
西南の役・説明板
藤丸宗造が西南の役で、息子の宗造(父子同一名)が日露戦争でそれぞれ戦死、二柱ともこの護国神社に祀られている由です。 -
西の丸(二の丸)居館庭園跡
護国神社境内は、延宝3年(1675)に城主居館(御殿)が本丸から移された場所で、現在は遺構はありませんが僅かにその庭園の一部が残されています。 -
「不老不死の霊薬天台烏薬」説明板
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村瀬庄兵衛政績碑
天保2年(1831)藩財政改革を成功させた庄兵衛の功績を讃えています。 -
村瀬庄兵衛政績・説明板
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臼杵市街展望
臼杵駅方向を一望します。 -
臼杵市街展望
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「廃墟の像」とその説明
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二の丸跡
二の丸と本丸とは高低差があり、本丸のほうが低くなっている中、稲葉氏入封後はそれまで城郭西側に配置された本丸が城郭の東側に移転し天守台石垣を高く普請して現在に至ります。 -
野上弥生子文学碑
二の丸跡地の一隅に石碑があります。野上弥生子は明治18年(1885)臼杵市に生まれで小説家として活躍、日本芸術院会員(1948)、文化功労者(1965)、文化勲章(1971)を受賞歴があり、昭和60年(1985)99歳の長寿を全うしています。 -
野上弥生子略歴と主たる著作
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野上弥生子作品「迷路」の一部
第9回読売文学賞受賞(1957)の作品にあたります。 -
本丸虎口・堀切
本丸と二の丸を隔てる「堀切」の構造となっています・ -
本丸虎口・土橋
本丸への通行は狭い「土橋」のみで左右は空堀となって本丸への進入を困難にさせています。 -
空堀南側
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空堀北側
稲葉氏入城までは大手門から本丸への登城路として使用されていました。 -
鉄門枡形石垣
鉄門枡形は本丸への入口で長径1.5mに及ぶ大きな築石を用いる重厚な石積みとなっています。 -
鉄門枡形石垣
「土橋」から写真右上に見える鉄門枡形石垣を確認します。 -
本丸御殿・説明板
江戸時代には本丸に御殿が造られ、政務を執行する「表」(政庁)と「奥」(藩主・家族生活空間)の機能を有する本丸御殿が中心的な役割を果たします。
然しながら本丸御殿は三の丸や城下町から離れており不便だったので延宝4年(1676)主たる機能を二の丸(西の丸)へ移転します。 -
本丸御殿・説明板(拡大)
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本丸石標
石標のトップには大友宗麟の紹介があります。 -
本丸・二の丸堀切
本丸北側より本丸と二の丸を隔てる空堀を捉えます。 -
堀切と天守台石垣
本丸北側より空堀の北端を一望します。稲葉氏入城までは大手門から海鹿櫓を経て当空堀を登城門としていました。
更に出張っている石垣は天守台石垣で、当城跡に残る唯一の16世紀の石垣で大振りな築石で積み方も不規則な角石など豊臣時代の面影を示しています。 -
天守櫓・説明板
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天守台跡
三層四重の天守櫓があったと言われています。 -
天守台跡(拡大)
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本丸風景
手前の芝生には天守の礎石と思われる石が見られます。 -
市街風景
天守台跡北側から市街風景を捉えます。 -
二の丸空堀
天守台から本丸と二の丸を隔てる空堀を一望します。 -
本丸・二の丸空堀
天守台跡から空堀を一望します。 -
本丸跡風景
本丸跡には一巡できる散歩道が造られています。 -
本丸跡風景
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本丸下風景
視界は急崖となっています。 -
本丸跡風景
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本丸跡風景
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臼杵城東端
かつて四海が海に囲まれていた時代には眼下に広がる臼杵湾の眺望が楽しめたことでしょう。 -
亀首(かめのくび)櫓跡
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市街展望
かつては海で在りましたが今では埋め立てられ港や造船所が窺え、その先に海洋が見えます。 -
本丸跡風景
本丸北東部から南東部を見渡します。付近には洗面所が設置され、担当職員が清掃作業に取り掛かっています。 -
本丸跡風景
本丸跡南東部から北西部を捉えます。 -
卯寅口(うとのぐち)門脇櫓
本丸跡から降りる方向で出入口門付近に櫓が見え、方向が卯寅口(東北東)であることから「卯寅口門脇櫓」と呼ばれる所以です。実際的には大手門に対する「搦手門」に当たり緊急時にはここから船で脱出することが考えられています。 -
市街風景
卯寅口門脇櫓に向かう途中の階段から港・造船所方向を眺めます。 -
卯寅稲荷神社(遠景)
本丸跡南端から卯寅稲荷神社が、そして眼下には井戸と思われる設備が見えます。 -
井戸丸
寛永年間に掘られた井戸で約10m以上もあり、昭和25年頃までは大きな木製の滑車を使って水を汲んでいたそうです。この井戸は海に近いにも拘わらず真水が出ていました。 -
井戸丸説明
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卯寅口門脇櫓
嘉永年間に再築された櫓で、鉄砲薬櫓とも呼ばれ、半地下構造の火薬庫としても使用されていたようです。鐙坂にある畳櫓と同様に、一階と二階の床面積が同じ「重箱造り」という古式の構造で半地下となっています。 -
本丸跡南端涯上
卯寅口門脇櫓から涯上の本丸跡を一望します。涯上の建物は偽装された洗面所です。 -
市街風景
卯寅口門脇櫓から東方を見ます。 -
「卯寅口」と「卯寅口脇櫓」説明板
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「卯寅口」と「卯寅口脇櫓」絵図
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方向板(埋め込み式)
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奉納鳥居
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卯寅稲荷神社(全景)
奉納鳥居を潜り抜けて登りきると稲荷神社境内に辿り着きます。 -
卯寅稲荷神社社殿
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「卯寅稲荷神社由来」説明板
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武具櫓跡広場
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武具櫓跡石垣
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市街一望
武具櫓跡付近から市街を捉えます。 -
本丸南空堀
本丸と二の丸を隔てる「堀切」が造られ南側が空堀となっています。 -
二の丸跡
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二の丸石標
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二の丸土塁
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埋門前櫓跡柱標
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登城路
稲葉氏入城後に変更された登城路を今橋口に向かって進みます。 -
今橋口方向
上の門跡付近から今橋口方向を捉えます。途中を右折すると今橋口に、まっすぐ行くと時鐘櫓跡を経て古橋口に至ります。 -
今橋口・本丸・二の丸分岐点
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二の丸
登城路から二の丸跡を見上げます。 -
時鐘櫓跡
稲葉氏入城後に造られた時報施設で、元禄14年(1701)に時鐘楼が仁王座に移されるまで時計が置かれ、臼杵城下に鐘で時を報せていました。 -
時鐘櫓跡(近景)
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「時鐘櫓跡」跡標
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時鐘石碑
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古橋口展望
時鐘櫓跡から古橋口方向を捉えます。 -
二の丸石垣
「打ち込み接」と言われる石垣が堂々と積まれています。 -
帯曲輪と今橋口
稲葉氏入城後登城の利便を考慮し、新たな登城路として今橋口が造られ、それまでの古橋口からの登城路は帯曲輪の位置づけとなります。 -
今橋口登城路
登城路である今橋口に向かって下る途中を振り返り、改めて二の丸石垣を見上げます。 -
今橋口
「今橋口」入口を示す案内板が確認できます。
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