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佐伯城(さいきじょう、大分県佐伯市鶴谷城山)は番匠川河口北岸にそびえる標高144mの八幡山に築かれ、山頂部(天守・本丸・二の丸・北の丸・西の丸)の山城部分と後に三の丸に移った御殿がある山腹とで構成された城郭となっています。<br /><br />そもそも鎌倉時代から豊後国は守護大名から戦国大名に転じた大友氏の支配下にあり、その中で佐伯荘の地頭の佐伯氏は大友氏に従属するようになり、大友氏他紋衆(たもんしゅう)筆頭の重臣として信任され佐伯を任されていました。<br /><br />戦国時代では日向国南部における島津氏との覇権争いで敗れた縁戚伊東氏の支援要請を受け、21代大友義鎮/宗麟(おおとも・よししげ/そうりん、1530~1587)父子は天正6年(1578)大軍を擁して日向に攻め込みますが、耳川の戦いにて薩摩島津義久(しまず・よしひさ)軍勢に壊滅的な大敗を喫し多数の有力武将を失い、参陣の佐伯惟教(さいき・これのり、生誕不詳~1578)父子は戦死します。<br /><br />キリスト教に盲信し日向国にキリスト教国を建設するとして重臣の反対を押し切っての日向出陣が大敗を喫し一挙に求心力を失った大友氏内部では一族重臣の内訌が激化、対外的には肥前龍造寺氏や薩摩大隅の島津氏の進攻を受けてかつての大友勢力は分裂衰退の一途をたどる事になります。<br /><br />自らの立場を失った宗麟は畿内を統一したばかりの豊臣秀吉を訪ね支援を求めこれを受諾した秀吉は天正15年(1587)、実弟秀長共々島津征伐を始め、義久は迫りくる秀吉大軍の攻撃に対抗できず義久は剃髪し秀吉の前に出て恭順の意を表し降伏します。<br /><br />九州平定後豊後国は宗麟・義統父子の知行安堵、その後朝鮮出兵に際し在九州に知行を有する大名は先鋒として名護屋から出陣、父宗麟を失った義統(よしむね、1558~1610)も例外なく家臣と共に軍隊を引連れ渡海します。<br /><br />然しながら文禄2年(1593)5月、義統の敵前逃亡を秀吉に咎められまさかの改易、従軍していた佐伯惟定も主家の改易により知行を失い400年以上に亘る佐伯支配から離れることになります。<br /><br />島津平定後の九州には当然のことながら島津を始めとする勢力を意識し、秀吉は配下の家臣を大名・代官として各地に派遣、豊後に於いても同様に子飼いの家臣を封じます。<br /><br />翌文禄3年(1594)秀吉は譜代の毛利高政(もうり・たかまさ、1559~1628)に豊後国玖珠郡及び日田郡(合わせて2万石)を与え、更に慶長元年(1596)高政は日田郡と玖珠郡に在する8万石並びに佐伯領2万石の秀吉直轄領の代官職兼務し日隈城を居城とします。<br /><br />慶長5年(1600)関ヶ原戦いで始めは西軍に属し細川藤孝/幽斎(ほそかわ・ふじたか/ゆうさい、1534~1610)居城の丹後田辺城攻撃に参加するも途中で東軍に寝返り、戦後外様ながらも徳川家康信任の厚い藤堂高虎(とうどう・たかとら、1556~1630)の取り成しを得て改易を免れます。<br /><br />慶長6年(1601)高政は豊後海部(あまべ)郡(現在の佐伯市)に2万石で転封、この地の支配拠点である栂牟礼(とがむれ)城に入城しますが、戦国時代築城の山城のため不便であるとして番匠川を望む4kmほど北方の八幡山の山頂に約5年の歳月を掛け新たに城郭を築き、麓に城下町を開きます。<br /><br />こうして佐伯藩は高政を藩祖として幕末まで途中お家騒動を潜り抜け、歴代12代を重ねて明治維新を迎えるまで存続しますが、特筆すべきは秀吉子飼いの武将ながら徳川家康の下で大名になりえた中で幕末に至るまで家名を継続させたのは他ならぬ佐伯藩毛利家だけでした。<br /><br /><br />2023年8月7日追記<br /><br />現地で建てられた「豊後佐伯城址」と題した説明板があり、内容は下記の通りです。<br /><br /><br />『 史跡 豊 後 佐 伯 城 址<br /><br />城山山頂の城址は海抜140メートル、遠く近く南豊の山々をめぐらし、番匠川はまがりくねって佐伯湾にそそぎ、はるかに豊後水道をへだてて四国の島山が霞んで見える。眼下には、県南の政治・経済・産業・文教の中心都市、人口5万の佐伯市街がひろがり、展望絶佳、歩いて15分で登れる景勝の地である。<br /><br />慶長6年(1601)4月、日田より入封の初代毛利高政はこの地を相して佐伯荘2万石の本拠地と定め、まず山頂に築城の工を起こし城下町の建設にかかった。<br /><br />三層の天守閣をもつ本丸を中心に二の丸・西の丸を西南にのばし北の丸を東北にひろげあたかも舞鶴の翼を張った姿に目と鶴屋城と名付けられ、また鶴城と呼ばれた。城は4年後の慶長11年に完成したが程なく失火にあい本丸・二の丸を失い、その復興をあえて行なわず、寛永14年(1657)山麓に三の丸を開き、大いに殿館を営んで以来二百数十年、佐伯藩政は専らここで執られた。それは山城の不便さを避けてのことである。そして明治初年の版籍奉還、廃藩置県によって廃城となった。今は城郭の遺構としては僅かに三の丸櫓門を残すだけであるが、なお城跡を示す石垣は殆ど完全に残り、城址公園として移民に親しまれている。<br /><br />慶長06年(1601) 毛利高政日田より佐伯荘に入封する<br /><br />慶長07年(1602) 近江の人市田祐定に命じて築城を始める<br /><br />慶長11年(1606) 築城完工 鶴屋城と呼ぶ<br /><br />元和元年 (1615) 高政大坂夏の陣に参加する<br /><br />元和03年(1617) 鶴屋城二の丸より出火、本丸・天守閣焼失する<br /><br />寛永14年(1637) 山ろくに三の丸をつくり藩政を執る<br /><br />宝永04年(1707) 地震津波のため486戸倒壊する<br /><br />享保14年(1729) 鶴屋城修復する 但し天守閣設けず<br /><br />安永06年(1777) 八代藩主高標藩校「四教堂」をつくる<br /><br />天明元年 (1781) 高標城中に佐伯文庫(蔵書八万巻)をつくる<br /><br />文化09年(1812) 直川ほか七ヶ村の農民が一気を起こす<br /><br />明治02年(1869) 十二代藩主高謙版籍を奉還する<br /><br />明治04年(1871) 廃藩置県7月佐伯県のち大分県となる<br /><br />              佐伯市教育委員会 』

豊後佐伯 秀吉子飼いなるも関ヶ原合戦で東軍に寝返り藤堂高虎のとりなしを得て改易を免れ明治維新まで永らえた毛利高政を藩祖とする『佐伯城』訪問

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2014/10/10 - 2014/10/10

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57

滝山氏照

滝山氏照さん

佐伯城(さいきじょう、大分県佐伯市鶴谷城山)は番匠川河口北岸にそびえる標高144mの八幡山に築かれ、山頂部(天守・本丸・二の丸・北の丸・西の丸)の山城部分と後に三の丸に移った御殿がある山腹とで構成された城郭となっています。

そもそも鎌倉時代から豊後国は守護大名から戦国大名に転じた大友氏の支配下にあり、その中で佐伯荘の地頭の佐伯氏は大友氏に従属するようになり、大友氏他紋衆(たもんしゅう)筆頭の重臣として信任され佐伯を任されていました。

戦国時代では日向国南部における島津氏との覇権争いで敗れた縁戚伊東氏の支援要請を受け、21代大友義鎮/宗麟(おおとも・よししげ/そうりん、1530~1587)父子は天正6年(1578)大軍を擁して日向に攻め込みますが、耳川の戦いにて薩摩島津義久(しまず・よしひさ)軍勢に壊滅的な大敗を喫し多数の有力武将を失い、参陣の佐伯惟教(さいき・これのり、生誕不詳~1578)父子は戦死します。

キリスト教に盲信し日向国にキリスト教国を建設するとして重臣の反対を押し切っての日向出陣が大敗を喫し一挙に求心力を失った大友氏内部では一族重臣の内訌が激化、対外的には肥前龍造寺氏や薩摩大隅の島津氏の進攻を受けてかつての大友勢力は分裂衰退の一途をたどる事になります。

自らの立場を失った宗麟は畿内を統一したばかりの豊臣秀吉を訪ね支援を求めこれを受諾した秀吉は天正15年(1587)、実弟秀長共々島津征伐を始め、義久は迫りくる秀吉大軍の攻撃に対抗できず義久は剃髪し秀吉の前に出て恭順の意を表し降伏します。

九州平定後豊後国は宗麟・義統父子の知行安堵、その後朝鮮出兵に際し在九州に知行を有する大名は先鋒として名護屋から出陣、父宗麟を失った義統(よしむね、1558~1610)も例外なく家臣と共に軍隊を引連れ渡海します。

然しながら文禄2年(1593)5月、義統の敵前逃亡を秀吉に咎められまさかの改易、従軍していた佐伯惟定も主家の改易により知行を失い400年以上に亘る佐伯支配から離れることになります。

島津平定後の九州には当然のことながら島津を始めとする勢力を意識し、秀吉は配下の家臣を大名・代官として各地に派遣、豊後に於いても同様に子飼いの家臣を封じます。

翌文禄3年(1594)秀吉は譜代の毛利高政(もうり・たかまさ、1559~1628)に豊後国玖珠郡及び日田郡(合わせて2万石)を与え、更に慶長元年(1596)高政は日田郡と玖珠郡に在する8万石並びに佐伯領2万石の秀吉直轄領の代官職兼務し日隈城を居城とします。

慶長5年(1600)関ヶ原戦いで始めは西軍に属し細川藤孝/幽斎(ほそかわ・ふじたか/ゆうさい、1534~1610)居城の丹後田辺城攻撃に参加するも途中で東軍に寝返り、戦後外様ながらも徳川家康信任の厚い藤堂高虎(とうどう・たかとら、1556~1630)の取り成しを得て改易を免れます。

慶長6年(1601)高政は豊後海部(あまべ)郡(現在の佐伯市)に2万石で転封、この地の支配拠点である栂牟礼(とがむれ)城に入城しますが、戦国時代築城の山城のため不便であるとして番匠川を望む4kmほど北方の八幡山の山頂に約5年の歳月を掛け新たに城郭を築き、麓に城下町を開きます。

こうして佐伯藩は高政を藩祖として幕末まで途中お家騒動を潜り抜け、歴代12代を重ねて明治維新を迎えるまで存続しますが、特筆すべきは秀吉子飼いの武将ながら徳川家康の下で大名になりえた中で幕末に至るまで家名を継続させたのは他ならぬ佐伯藩毛利家だけでした。


2023年8月7日追記

現地で建てられた「豊後佐伯城址」と題した説明板があり、内容は下記の通りです。


『 史跡 豊 後 佐 伯 城 址

城山山頂の城址は海抜140メートル、遠く近く南豊の山々をめぐらし、番匠川はまがりくねって佐伯湾にそそぎ、はるかに豊後水道をへだてて四国の島山が霞んで見える。眼下には、県南の政治・経済・産業・文教の中心都市、人口5万の佐伯市街がひろがり、展望絶佳、歩いて15分で登れる景勝の地である。

慶長6年(1601)4月、日田より入封の初代毛利高政はこの地を相して佐伯荘2万石の本拠地と定め、まず山頂に築城の工を起こし城下町の建設にかかった。

三層の天守閣をもつ本丸を中心に二の丸・西の丸を西南にのばし北の丸を東北にひろげあたかも舞鶴の翼を張った姿に目と鶴屋城と名付けられ、また鶴城と呼ばれた。城は4年後の慶長11年に完成したが程なく失火にあい本丸・二の丸を失い、その復興をあえて行なわず、寛永14年(1657)山麓に三の丸を開き、大いに殿館を営んで以来二百数十年、佐伯藩政は専らここで執られた。それは山城の不便さを避けてのことである。そして明治初年の版籍奉還、廃藩置県によって廃城となった。今は城郭の遺構としては僅かに三の丸櫓門を残すだけであるが、なお城跡を示す石垣は殆ど完全に残り、城址公園として移民に親しまれている。

慶長06年(1601) 毛利高政日田より佐伯荘に入封する

慶長07年(1602) 近江の人市田祐定に命じて築城を始める

慶長11年(1606) 築城完工 鶴屋城と呼ぶ

元和元年 (1615) 高政大坂夏の陣に参加する

元和03年(1617) 鶴屋城二の丸より出火、本丸・天守閣焼失する

寛永14年(1637) 山ろくに三の丸をつくり藩政を執る

宝永04年(1707) 地震津波のため486戸倒壊する

享保14年(1729) 鶴屋城修復する 但し天守閣設けず

安永06年(1777) 八代藩主高標藩校「四教堂」をつくる

天明元年 (1781) 高標城中に佐伯文庫(蔵書八万巻)をつくる

文化09年(1812) 直川ほか七ヶ村の農民が一気を起こす

明治02年(1869) 十二代藩主高謙版籍を奉還する

明治04年(1871) 廃藩置県7月佐伯県のち大分県となる

              佐伯市教育委員会 』

旅行の満足度
4.5
交通手段
高速・路線バス JRローカル 徒歩
  • JR佐伯駅舎<br /><br />JR日豊本線・大分駅から延岡方面はほぼ特急主体の運行ダイヤにつき移動は早朝の出発となります。(大分駅発6:18 ー 佐伯駅着7:11)

    JR佐伯駅舎

    JR日豊本線・大分駅から延岡方面はほぼ特急主体の運行ダイヤにつき移動は早朝の出発となります。(大分駅発6:18 ー 佐伯駅着7:11)

  • 佐伯市観光マップ<br /><br />駅前には佐伯市観光を示す地図が描かれています。時間的な制約(日豊線は延岡方面は特に本数少ない)があり、駅前観光案内書男性のアドバイスを受け、バスに乗車し大手前バスターミナル下車、歴史と文学の道(内馬場通り)を直進し、佐伯文化会館(三の丸跡)をめざします。

    佐伯市観光マップ

    駅前には佐伯市観光を示す地図が描かれています。時間的な制約(日豊線は延岡方面は特に本数少ない)があり、駅前観光案内書男性のアドバイスを受け、バスに乗車し大手前バスターミナル下車、歴史と文学の道(内馬場通り)を直進し、佐伯文化会館(三の丸跡)をめざします。

  • 藩校「四教堂」跡<br /><br />歴史と文学の道(内馬場通り)に入ろうとする一角に八代藩主毛利高標(もうり・たかすえ)は藩の文教を推進するため安永6年(1777)城内に大学舎を新設し「四教堂(しこうどう)」と名付けます。

    藩校「四教堂」跡

    歴史と文学の道(内馬場通り)に入ろうとする一角に八代藩主毛利高標(もうり・たかすえ)は藩の文教を推進するため安永6年(1777)城内に大学舎を新設し「四教堂(しこうどう)」と名付けます。

  • 「歴史と文学のみち」石標<br /><br />佐伯市が指定している歴史・文学を訪ねる道として、佐伯城と武家屋敷が主たる対象となっています。<br /><br />

    「歴史と文学のみち」石標

    佐伯市が指定している歴史・文学を訪ねる道として、佐伯城と武家屋敷が主たる対象となっています。

  • 歴史と文学の道<br /><br />中央分離帯が設置され、「歴史と文学の道」にふさわしい雰囲気が作られています。

    歴史と文学の道

    中央分離帯が設置され、「歴史と文学の道」にふさわしい雰囲気が作られています。

  • 佐伯小学校正門<br /><br />「四教堂」と揮毫された扁額を有する往時の四教堂正門が移設されています。<br />

    佐伯小学校正門

    「四教堂」と揮毫された扁額を有する往時の四教堂正門が移設されています。

  • 佐伯市観光マップ

    佐伯市観光マップ

  • 三の丸櫓門<br /><br />この櫓門は「黒門」とも呼ばれていますが、三代藩主毛利高尚の時に藩主の居館を山頂から三の丸に移した寛永14年(1637)に藩庁の正門として創建されています。<br />佐伯城の城郭建築物として唯一現存する遺構として城下町の姿を伝えています。<br />

    イチオシ

    三の丸櫓門

    この櫓門は「黒門」とも呼ばれていますが、三代藩主毛利高尚の時に藩主の居館を山頂から三の丸に移した寛永14年(1637)に藩庁の正門として創建されています。
    佐伯城の城郭建築物として唯一現存する遺構として城下町の姿を伝えています。

  • 三の丸跡柱標

    三の丸跡柱標

  • 文化会館<br /><br />かつては三の丸でしたが、三代藩主高尚の頃から居館を山頂から当地に移し、以降藩主の御殿としています。<br /><br />

    文化会館

    かつては三の丸でしたが、三代藩主高尚の頃から居館を山頂から当地に移し、以降藩主の御殿としています。

  • 佐伯城全絵図<br /><br />山頂への登り口には佐伯城頂上を含む全絵図が描かれています。<br />

    佐伯城全絵図

    山頂への登り口には佐伯城頂上を含む全絵図が描かれています。

  • 城山周辺案内図<br /><br />登リ口は登城の道、独歩の道そして翠明の道の三通りありますが、自分はもっとも険しい登城の道を歩きます。

    城山周辺案内図

    登リ口は登城の道、独歩の道そして翠明の道の三通りありますが、自分はもっとも険しい登城の道を歩きます。

  • 佐伯城鳥瞰図<br /><br />山頂本丸には三層天守と二層櫓が配置され、西には二の丸更に西の丸が、反対側には北の丸が控えています。

    佐伯城鳥瞰図

    山頂本丸には三層天守と二層櫓が配置され、西には二の丸更に西の丸が、反対側には北の丸が控えています。

  • 鳥居<br /><br />

    鳥居

  • 佐伯城跡説明板

    佐伯城跡説明板

  • 「登城の道登リ口」<br /><br />石段を登りきると狭いながらも踊り場があり、直進道は「登城口」(険しい道)、右折は「独歩碑の道」(緩やかな道)そして左折は「翠明の道」(更に緩やかな道)の3通りですが自分は登城口を進みます。<br /><br />

    「登城の道登リ口」

    石段を登りきると狭いながらも踊り場があり、直進道は「登城口」(険しい道)、右折は「独歩碑の道」(緩やかな道)そして左折は「翠明の道」(更に緩やかな道)の3通りですが自分は登城口を進みます。

  • 「登城の道登口」石標

    「登城の道登口」石標

  • 登城口道<br /><br />「登城口」石標の先からは細い道に変わり勾配も急に険しくなってきます。

    登城口道

    「登城口」石標の先からは細い道に変わり勾配も急に険しくなってきます。

  • 登城口道

    登城口道

  • 登城口道途中<br /><br />登城口道を進む途中に振り返るとすっかり四方が木立に囲まれた情景に変化しています。

    登城口道途中

    登城口道を進む途中に振り返るとすっかり四方が木立に囲まれた情景に変化しています。

  • 登城口道情景<br /><br />所々には木立が倒れている様子が見られます。

    登城口道情景

    所々には木立が倒れている様子が見られます。

  • 登城口道

    登城口道

  • 二の丸石垣<br /><br />登山口道を更に進むと左手に高い石垣(二の丸)が迫ってきます。

    二の丸石垣

    登山口道を更に進むと左手に高い石垣(二の丸)が迫ってきます。

  • 本丸石垣

    本丸石垣

  • 堀切<br /><br />二の丸跡と本丸跡とは廊下橋で繋がり、通路も狭く外敵進入が制限されています。

    堀切

    二の丸跡と本丸跡とは廊下橋で繋がり、通路も狭く外敵進入が制限されています。

  • 二の丸跡

    二の丸跡

  • 二の丸跡柱標

    二の丸跡柱標

  • 市街展望<br /><br />二の丸から番匠川流域を一望、そして番匠川両岸を稲垣橋が連絡しています。

    市街展望

    二の丸から番匠川流域を一望、そして番匠川両岸を稲垣橋が連絡しています。

  • 本丸跡方向<br /><br />二の丸跡から本丸跡を捉えます。

    本丸跡方向

    二の丸跡から本丸跡を捉えます。

  • 廊下橋<br /><br />二の丸跡と本丸跡とは堀切となって廊下橋で連絡されています。

    廊下橋

    二の丸跡と本丸跡とは堀切となって廊下橋で連絡されています。

  • 本丸石垣

    本丸石垣

  • 本丸跡・天守台石垣<br /><br />二の丸跡から本丸跡に渡って石段を数段登ると本丸跡に入り、本丸のすぐ奥に見える石垣は天守台石垣になります。

    本丸跡・天守台石垣

    二の丸跡から本丸跡に渡って石段を数段登ると本丸跡に入り、本丸のすぐ奥に見える石垣は天守台石垣になります。

  • 天守台石垣

    天守台石垣

  • 天守台石垣

    天守台石垣

  • 天守台石垣

    天守台石垣

  • 本丸跡・天守台石垣

    本丸跡・天守台石垣

  • 本丸跡・天守台石垣<br /><br />築城時には三層の天守が建立され、更に二重櫓が数基が要所に配されていたと思われます。<br /><br />

    本丸跡・天守台石垣

    築城時には三層の天守が建立され、更に二重櫓が数基が要所に配されていたと思われます。

  • 天守台に配された祠堂<br /><br />

    天守台に配された祠堂

  • 天守台に配された祠堂(拡大)

    天守台に配された祠堂(拡大)

  • 天守台に配された別の祠堂

    天守台に配された別の祠堂

  • 二の丸跡<br /><br />天守台跡から二の丸跡方向を捉えます。

    二の丸跡

    天守台跡から二の丸跡方向を捉えます。

  • 外曲輪<br /><br />本丸から石段を降りて外曲輪に向かいます。

    外曲輪

    本丸から石段を降りて外曲輪に向かいます。

  • 外曲輪石段<br /><br />石段を降りて本丸方向を眺めます。現地案内の鳥瞰図には当該石段は描かれていないことから廃城後に設置されたものと思われます。

    外曲輪石段

    石段を降りて本丸方向を眺めます。現地案内の鳥瞰図には当該石段は描かれていないことから廃城後に設置されたものと思われます。

  • 本丸石垣

    本丸石垣

  • 「獨歩」碑<br /><br />国木田独歩の石碑が建立されています。独歩は明治時代の小説家で、明治26年<br />から27年にかけて佐伯で過ごしています。

    「獨歩」碑

    国木田独歩の石碑が建立されています。独歩は明治時代の小説家で、明治26年
    から27年にかけて佐伯で過ごしています。

  • 本丸を囲む外曲輪

    本丸を囲む外曲輪

  • 櫓台石垣跡

    櫓台石垣跡

  • 市街展望・番匠川<br /><br />本丸下から左に曲がりながら河口に向かう番匠川を一望します。

    市街展望・番匠川

    本丸下から左に曲がりながら河口に向かう番匠川を一望します。

  • 市街展望・佐伯湾<br /><br />同様に佐伯湾に流れ込む番匠川河口を捉えます。

    市街展望・佐伯湾

    同様に佐伯湾に流れ込む番匠川河口を捉えます。

  • 市街展望・佐伯港<br /><br />同様に遥か彼方に四国・宿毛と連絡するフェリ-が停泊する佐伯港方向を一望します。

    市街展望・佐伯港

    同様に遥か彼方に四国・宿毛と連絡するフェリ-が停泊する佐伯港方向を一望します。

  • 北の丸方向

    北の丸方向

  • 本丸外曲輪櫓<br /><br />北の丸方向の石垣で積まれた四方形は櫓跡となります。

    本丸外曲輪櫓

    北の丸方向の石垣で積まれた四方形は櫓跡となります。

  • 北の丸<br /><br />ここは北野方向へ突き出た細長い曲輪で、出丸的な要素を含んでいます。

    北の丸

    ここは北野方向へ突き出た細長い曲輪で、出丸的な要素を含んでいます。

  • 北の丸跡柱標

    北の丸跡柱標

  • 本丸石垣方向<br /><br />北の丸から手前の外曲輪櫓跡を経て本丸石垣を振り返ります。

    本丸石垣方向

    北の丸から手前の外曲輪櫓跡を経て本丸石垣を振り返ります。

  • 本丸石垣

    本丸石垣

  • 廊下橋<br /><br />帰路は北の丸側から本丸石垣と二の丸石垣を結ぶ橋の下を通りますが、堀切ではありませんが結果として堀切の役割をしています。

    廊下橋

    帰路は北の丸側から本丸石垣と二の丸石垣を結ぶ橋の下を通りますが、堀切ではありませんが結果として堀切の役割をしています。

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