2014/10/08 - 2014/10/08
3034位(同エリア6100件中)
滝山氏照さん
臨済宗大徳寺派で横山岳山・崇福寺(そうふくじ、福岡県福岡市博多区千代田)は関ヶ原戦いで東軍に属して戦功挙げ、豊前国中津18万石から大幅加増の52万石で筑前国に入封した官兵衛を始祖とする黒田氏の菩提寺です。
当寺の歴史は古く、仁治9年(1240)、湛慧和尚が大宰府の横岳に創建し、翌年中国の宋から帰朝した聖一国師が招かれ開堂説法となります。
文永9年(1272)大応国師が入寺して開山となり、その門派から大徳寺開山の峰妙超、妙心寺開山の山慧玄などの高僧が輩出しています。
天正14年(1586)、九州統一をめざす猛将島津忠長(しまず・ただなが、1551~1610)率いる5万の軍勢が大友方の勇将高橋紹雲(たかはし・じょううん、1548~1586)が8百弱で籠る岩屋城を囲み降伏勧告するも紹雲これを拒否し徹底抗戦をした岩屋城合戦により堂宇がことごとく焼失してしまいます。
慶長5年(1600)関ヶ原の合戦後、筑前国に入封した黒田長政(くろだ・ながまさ、1568~1623)は参詣に不便であるなどの理由から、大宰府に在った当寺を現在地に移転させます。
そして京都大徳寺の江月和尚を講じて伽藍を再建し、黒田家の菩提寺とし、慶長9年(1604)、父の如水が伏見で亡くなると、長政は京都から分骨してこの崇福寺に埋葬します。
崇福寺墓地の一角に「藤水門」を入口とする黒田氏墓所があってそこには如水(じょすい)・長政(ながまさ)・綱政(つなまさ)・継高(つぐたか)など歴代藩主とその室の墓が並んでいます。
またこの寺院には福岡城本丸に在った表御門を移築した山門、あるいは名島城から移設したしたとされる唐門などの建造物などが多数あり黒田家と深いつながりを示しています。
2023年8月6日追記
黒田家歴代藩主を祀る墓所には如水と二代目長政についてそれぞれ略歴が記述されています。
『 黒田官兵衛(如水)
黒田官兵衛(1546~1604)は法名の如水の呼び名で知られています。播磨国姫路に生まれ、後に織田信長の武将として播磨に侵攻した豊臣秀吉の旗下に加わり、秀吉の天下統一を名軍師として支えていくことになります。秀吉の九州平定後には、豊前中津城主として九州で重きをなし、秀吉没後の関ヶ原の戦いに際しては、九州各地を制圧し、混乱に乗じて天下の覇権も狙っていたといわれています。また、シメオンという洗礼名をもつキリシタン大名としても知られており、さまざまな側面をあわせもつ、乱世の英雄としてその名を残しています。
墓石には戦国末期の外交僧として知られている聖福寺第109世景轍玄蘇の撰文が刻まれており、官兵衛の波乱に富んだ生涯をうかがうことができます。官兵衛の墓石には長政以降の累代の墓石として主に使用されている花崗岩とは異なる安山岩質凝灰岩を使用しており、墓石前の慶長の年号が刻まれた灯篭も同様の石材を用いています。また墓石全体が赤みを帯びていますが、これは撰文の文字彫り込み部分に、朱漆の上に金箔を貼った名残ではないかと考えられます。』
『 福岡藩初代藩主 黒田長政
黒田長政(1568~1623)は官兵衛の嫡子として播磨国姫路で生まれます。幼名を松寿丸と言い、少年期には織田信長の人質として秀吉にあづけられます。武勇に秀でた武将として知られ、父・官兵衛とともに秀吉の天下統一に尽くします。また、関ヶ原の戦では東軍の勝利に大きく貢献し、家康から軍功第一とたたえられました。その功績により筑前国を与えられ、権力が豊臣氏から徳川氏に移り変わる大変革期にあたって、江戸幕府の信頼を勝ち取り、有力大名としての黒田家繁栄の礎を築きました。
馬上に描かれた長政像は、もと福島正則所用であった一の谷形兜を身に着けています。文禄・慶長の役で仲違いした両者がお互いの兜を交換したもので、長政は大水牛の兜を送ったと伝えられています。また、父・官兵衛と同じく築城の名手であり、現在も秀麗な石垣が残る福岡城は全国屈指の名城として知られています。
墓所は昭和25年に大規模な改葬工事が行われ、この時に墓石は現在の位置に移されていますが、かつては現在より広大な墓所であったことが知られています。なお長政の墓石は改葬の際に新たに作られたもので、墓所南端に当初の笠の部分が残されています。 』
- 旅行の満足度
- 4.0
- 交通手段
- 私鉄
-
福岡市内地下鉄網
博多湾に沿って空港線と箱崎線が、内陸方向に七隈線がそれぞれ運行されています。今回は空路福岡着、そして福岡空港から博多駅を経て大濠公園まで来ましたが、これから箱崎線の千代県庁口まで行き黒田氏菩提寺である崇福寺にまいります。 -
福岡市内地図
官兵衛ゆかりの地について地図上にマークが入っています。 -
官兵衛ゆかりの地
見学先が写真掲載され丁寧に紹介されています。 -
黒田官兵衛墓所(崇福寺)案内
地下鉄箱崎線「千代県庁口」下車するとすぐ案内板が眼に入ります。 -
崇福寺山門
山門二階部に「西都法窟」と刻した扁額が見えます。これは寛元元年(1243)に官寺に列せられ後嵯峨天皇より下賜された勅額です。 -
イチオシ
山門
境内から二層の山門を捉えます。この山門はかつての福岡城の本丸表御門を当寺に移築したものです。 -
崇福寺境内
-
心宗庵
-
心宗庵説明
-
心宗庵建物
内部に入りますと「心宗」と書かれた建物が控えています。 -
黒田氏墓所案内
墓地の方向を歩きますとやがて「黒田家墓所」と書かれた案内板が見えてきます。 -
墓地の土塀(博多塀)
黒田氏の墓所は墓地の一番奥にあるので土塀をつたって進むことになります。 -
黒田氏墓所入口
入口には「藤水門」と書かれた門が設置されています。 -
黒田氏墓所説明
当初には如水、初代長政、4代綱政、6代綱高、7代治之、そして9代済隆を中心に祀っています。尚文中に記載の直方藩については初代長政の四男である高政が4万石の分地を以て立藩後延宝3年(1675)地名変更により直方藩と改称され、享保5年(1720)藩主が没し嗣子無き為廃藩、所領は福岡藩に返還されるに至ります。 -
藤水門(とうすいもん)の由来
参詣者のための通用門が平成11年3月に落慶、15代黒田長久氏により「藤水門」と命名されています。かつては特別な場合以外は閉ざされていましたが藤水門完成以降は9時〜17寺は開門され自由に入場できます。 -
墓所風景
横長の敷地の道路側壁に若干の壇を造り、如水や長政を中心に一族の石塔が12基並んでいます。昭和25年に改葬工事が行われ、20数基あった墓は如水・長政などの一部を除き廃されているそうです。 -
黒田官兵衛(如水)ゆかりの地
この墓所にも地図・写真を載せた案内板が設置されています。更に東長寺には2代忠之、3代光之そして8代治高の墓があります。 -
藩祖黒田如水説明
-
初代黒田長政説明
-
黒田氏墓配置図
配置図には5代宣政と10代済清の供養塔もあります。また11代から15代については東京青山墓所にあります。 -
黒田如水石塔(全景)
-
黒田如水石塔(近景)
石塔には博多聖福寺の住職でその後対馬に渡り外交僧として活躍した景轍玄蘇(けいてつげんそ、1537~1611)の撰が刻されています。 -
黒田長政石塔(全景)
-
黒田長政墓(近景)
-
黒田如水室墓
-
如水二男熊之助墓
-
黒田氏墓
如水の墓(手前)から入口方向の墓を捉えます。 -
黒田氏墓の石燈籠
-
黒田氏墓
入口から再び黒田氏墓を一望します。 -
イチオシ
唐門
小早川秀秋居城の名島城にあった唐門が移築されたと伝えられており、市内に残る唐門としては最古と言われています。 -
経蔵(きょうぞう)
-
本堂
当寺院は臨済宗大徳寺派、山号は横岳山(おうがくさん)の禅宗寺院です。閉門された状況につき入場できません。 -
社務所・接待所
「衆香国」と揮毫された扁額を掲載している社務所・接待所があります。 -
鐘楼
-
境内風景
参道を経て山門方向を一望します。 -
千手観音
-
地蔵堂
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
滝山氏照さんの関連旅行記
博多(福岡) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
37