2014/10/07 - 2014/10/07
1179位(同エリア1573件中)
ドクターキムルさん
- ドクターキムルさんTOP
- 旅行記7517冊
- クチコミ134件
- Q&A回答247件
- 6,210,431アクセス
- フォロワー38人
神奈川県藤沢市本町4にある関野家は藤沢宿の問屋場跡に位置している。藤沢宿の大店(おおだな)には3棟とか5棟の蔵が建っていた。関野家は関次商店を営んでおり、ここにも3棟の土蔵が残っている。家の前の旧東海道沿いに1棟、裏に2棟の土蔵があるが、裏の2棟の土蔵の中を見せてもらった。2棟続きの土蔵で明治16年(1883年)に建てられた。向かって左に漆喰の土蔵があり、右に鎌倉石の石造りの土蔵である。いずれも入口には庇があり、裏にも石造りの庇が付けられている。
漆喰の土蔵は名工の名が高かった宮大工が建てたのだといい、妻側はいずれも3間の梁柱が1間(約1.8m)づつに分割されて凸型に配置されている。土蔵の中のように3間梁柱の1本柱にした方が強度も取れ、造作も簡単である。おそらくは、外から見ても漆喰が塗られてこの梁の造作は見えないはずだ。しかし、こうした見えないところの造作に工夫を凝らしているのが宮大工の粋なのだろう。
石蔵は柱の外側に鎌倉石を積んだ造りになっている。柱の間に石を積んだのであれば、富岡製糸場の建物のようになるのだろう。入口の石に「肥料庫」と刻まれている。関東北部に多い大谷石ではなく、現在では採掘が禁止されている鎌倉石であることから、貴重な石蔵であるように思われる。
しかし、跡継ぎがサラリーマンになってしまい、家業を継ぐ者がいないので、80歳になったご主人はこれらの土蔵の解体を考えている。鉄道が開通して100年余り経ち、東海道五十三次の宿場町・藤沢でも多く残っていた土蔵や古民家も取り壊され続けてきた。辛うじて残っているこうした立派な土蔵もこの藤沢の宿場町では50棟を割っているようにも見受けられる。
藤沢市では何本か立っていた藤沢宿の史跡標柱を史跡看板に置き換え、史跡標柱がなかった場所にも史跡看板を増設する工事中である。道路沿い歩道端のトランスボックスにも絵や写真で飾り、街並みの景観に配慮もしている。しかし、市ではこうした土蔵や古民家も無くなってしまったなら、藤沢宿の面影など微塵もなくなってしまうことは考えにないようだ。史跡看板でしか昔を辿れない宿場町なら空襲を受けて灰塵に化した隣の平塚宿があろう。何ともお寒い藤沢市の文化財行政だ。
(表紙写真は問屋場跡関野家石蔵)
PR
-
問屋場跡関野家街道脇の土蔵。
-
関野家土蔵。
-
関野家街道脇の土蔵。
-
2棟の土蔵の庇。
-
漆喰土蔵。周囲の漆喰壁の上にトタンが掛けられている。また、瓦屋根もトタン屋根に葺き替えられている。
-
土蔵内部(妻部)。
-
土蔵奥側面の土壁。
-
土蔵内部(妻部)。
-
土蔵奥側面には庇があり、隣の石蔵の庇と繋がっている。
-
土蔵妻部の凸部の梁の造作。東海大・建築の先生が何度か調査に訪れているというが、報告書にこうした造作は記載されているのだろうか?
-
梁の凸部に掛かる棟札。
-
土蔵妻部の凸部の梁の造作。
-
石蔵入口の庇。
-
関野家石蔵入口上の石に「肥料庫」とある。
-
問屋場跡関野家石蔵。石蔵には漆喰土蔵のような梁の凸部の造作は施されてはいない。
-
関野家石蔵。
-
関野家石蔵。
-
関野家石蔵。柱と梁との木枠の外に石積している。
-
関野家前のトランスボックスの古写真。
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
ドクターキムルさんの関連旅行記
藤沢・江ノ島(神奈川) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
19