2012/10/25 - 2012/10/25
1016位(同エリア1601件中)
滝山氏照さん
JR・小田急藤沢駅北口から東進しますと市街を一望に見渡す丘陵部に村岡城(神奈川県藤沢市村岡東)があり、現在では「村岡城址公園」となっています。
築城者は桓武平氏一族の流れを汲む平良文(たいらの・よしふみ、生没不詳)で平安時代中期ごろと伝えられています。良文は平将門の乱制圧のため父兄弟と前後して下向、藤原秀郷らとともに鎮圧に従事、その後関東各地を移転し武蔵国熊谷郷や相模国鎌倉郡及び下総国結城郡などの自領に「村岡城」を築城、続いて鎮守府将軍として奥州での反乱鎮圧に従事するなど天皇・宮廷の高い評価を得ている武将でした。
鎌倉幕府開府以降当地は京都と鎌倉を往来する交通の要地でもあったこともあり重要拠点のひとつで、新田義貞の鎌倉攻撃の際は戦場となった経緯があります。
戦国時代では三浦半島を本拠とする三浦氏が相模西部にも勢力を拡大、これに対する小田原北条氏が相模国支配をめざすなか、三浦氏との覇権争いに発展します。
三浦氏の総帥である三浦義同(みうら・よしあつ、1451~1516)が籠る岡崎城(現平塚市)を攻め落とした小田原北条氏2代当主氏綱(うじつな)の頃、武蔵国と三浦半島の双方にらみを利かす玉縄城(神奈川県大船市)を活用し江戸城から支援する扇谷上杉軍勢の後詰の進路を遮断し、ついに三浦氏を新井城に追い込み滅亡に至らしめます。その際玉縄城の支城としてで当該城は有効な役割を果たしたと思われます。
2023年8月2日追記
現地にて「村岡の歴史と文化財」と題する、説明板が下記のごとく記載されています。
「 村岡の歴史と文化財
村岡が歴史上注目されるようになるのは、坂東八平氏の祖として知られる桓武平氏の一族に生まれた平良文(村岡五郎)がこの辺りに荘園を開いたとされる平安時代の中頃(10世紀前半)からです。
鎌倉幕府成立以後の村岡は鎌倉への交通の要所となり、元弘3年(1333)新田義貞による鎌倉攻めの際に激戦地になったこのをはじめ、室町・戦国時代を通して村岡周辺は幾度も戦場になりました。
やがて戦乱の世が鎮まり、徳川将軍による治世が確立すると、村岡地区の七ヶ村(柄沢、渡内、高谷、弥勒寺、小塚、宮前、川名)は藤沢宿の助郷と定められ、街道を往来する大名や武士などの荷物を運ぶための人や馬を提供することを義務づけられました。明治時代になって助郷制度が廃止されるまで、それは村岡の農民にとって大変重い負担となっていたようです。
現在の村岡地区は、武士が権勢を誇っていた頃の村岡とは地形もかなり変わってるようですが、それでもこの地区を歩くと、平良文の居住跡といわれる村岡城址をはじめとして、二伝寺境内に伝わる良文の墓、良文が将門の乱鎮定にあたって勧請したと伝えられる御霊神社、渡内村の名主であった福原家の長屋門など、村岡の地に生きたひとびとが遺した多くの歴史的遺産に接することができるはずです。」
- 交通手段
- 高速・路線バス JRローカル 徒歩
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村岡城跡・案内板
「村岡歴史の道」として村岡城址案内板があります。 -
村岡城址公園案内板
既に城跡は整備され公園化されています。 -
城郭跡
フラットな城郭跡が眼前に展開されています。 -
文化財ハイキングコース案内板
村岡の歴史と文化財について紹介と北部ハイキングコースを記した案内板が城郭の中に立っています。 -
村岡の歴史と文化財紹介
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村岡城跡石碑
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記念石碑
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「石は語らず」
石碑の裏面には村岡城跡を詠った詩が刻印されています。 -
顕彰碑
当地が村であった時の村長であった石井政治郎氏の貢献を讃える碑が建立されています。 -
公園内石碑
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村岡城跡
公園化された城郭跡が広がっています。 -
村岡城跡
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市街地展望
城跡広場からの展望はきれいに刈られた芝生を越えて見事です。 -
市街地展望
藤沢駅周辺の高層ビルがよく視野に入ります。
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