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JR・小田急藤沢駅からバスで約30分「大庭小学校」下車、平安時代後期には肥沃な湘南一帯に勢力を有した相模の雄大庭氏の居城大庭城(おおばじょう、神奈川県藤沢市大庭)を訪問しました。<br /><br />平安時代末期に大庭景宗(おおば・かげむね、生没不詳)が築城したと伝えられ、出自としては桓武平氏の庶流で保元・平治の乱では他の相模武士と同じく源氏に従軍、その後源氏の凋落に対し平氏の勢力増大さが坂東にも及び平氏の影響力が強大となり、瞬く間に平氏追随の行動を求められます。<br /><br />治承4年(1180)伊豆に配流の源頼朝が平氏打倒のため挙兵すると、大庭氏は分裂、兄の景能(かげよし、1128?~1210)はいち早く頼朝側を表明しますが、弟の景親(かげちか、不詳~1180)は平氏恩顧意識高く、頼朝討伐軍の中心となり石橋山合戦で頼朝を今一歩の所まで追い詰めます。<br /><br />その後形勢逆転、安房に渡った頼朝は上総・下総・武蔵など東国武士団の支持を受けて勢力を盛り返し、鎌倉に入った後頼朝より主要御家人の本領がそれぞれ安堵されます。<br /><br />その中で景能も本領の安堵を受けたばかりか平氏に加担した豪族の所領も加えられ陽の目を見ますが逆に景親は頼朝の軍勢の圧倒さに逃げ切れず、遂に頼朝に降りますが頼朝は平氏の首謀者との理由で斬首されます。<br /><br />陽の目を浴びた景能は頼朝の側近として重要な働きをして更なる信頼を得ます。例えば鶴岡八幡宮の移転の際の奉行を勤めたり、頼朝の御所建築工事の責任者などの役割を果たします。更には頼朝により再建された東大寺の供養に臨む為2度目の上洛の際には牛車に乗った頼朝の直前を位置を占めるという御家人として栄誉ある立場を得ます。<br /><br />然しながら承元4年(1210)景能が亡くなり、跡を継いだ景兼の代に起こった和田義盛の乱では和田側に与し、戦いの中景兼が戦死し大庭氏は没落を迎える事になります。<br /><br />室町時代には当地域は武蔵南部に勢力を有する山内氏庶流になる扇谷(おうぎがやつ)上杉定正(うえすぎ・さだまさ、1443~1494)の支配下に置かれ、執事の太田道灌(おおた・どうかん、1432~1486)による改修が行われたと言われています。<br /><br />戦国時代には小田原北条氏の進出により大庭城は攻め込まれやがて北条氏のネットワークに組み込まれて支城としての位置付けとなります。天正16年(1590)の豊臣秀吉による小田原征伐により北条氏滅亡に合わせて当城も廃城となったと思われます。<br /><br />地勢的には引地川と小糸川の合流点の北部に突き出た台地に大庭城が位置しており、現在では既に公園として整備とともに周辺は住宅地として開発される環境でありながら、広大な郭と共に土塁や空堀が見事に残っており見ごたえがあります。逆に環境・利便の良さが災いして城址の遺構が少ないのは寂しい限りです。<br /><br /><br />2022年3月19日追記<br /><br />城跡広場設置の説明板には下記のごとく記載されています。<br /><br />「 大 庭 城 址<br /><br />大庭城址は、平安時代の末期(12世紀末)、大庭荘園を本領としておこった桓武平氏の末裔、大庭氏の拠点であったといわれていますが、明らかな記録はなく、室町時代中頃(15世紀後半)になって扇谷上杉定正の執事太田道灌が本格的な改修を行ったとされています。<br /><br />その後、上杉朝良のとき、北条早雲によって攻略され、以後小田原北条氏の支配下におかれました。そして天正15年(1587)小田原北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされ、大庭城は廃城となったようです。<br /><br />現在残されている土塁・空堀などの城址の構えには、小田原北条氏時代の修復があったものと考えられますが、雄大かつ緻密に設計されていたことは、築山、裏門、二番構・駒寄などの地名からしのばれます。」

相模藤沢 肥沃な湘南中央部を支配し伊豆配流の頼朝旗揚げ時には兄と立場を異にして平氏軍主導し敗戦後は斬首された大庭景親本拠『大庭城』訪問

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2011/11/25 - 2011/11/25

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滝山氏照

滝山氏照さん

JR・小田急藤沢駅からバスで約30分「大庭小学校」下車、平安時代後期には肥沃な湘南一帯に勢力を有した相模の雄大庭氏の居城大庭城(おおばじょう、神奈川県藤沢市大庭)を訪問しました。

平安時代末期に大庭景宗(おおば・かげむね、生没不詳)が築城したと伝えられ、出自としては桓武平氏の庶流で保元・平治の乱では他の相模武士と同じく源氏に従軍、その後源氏の凋落に対し平氏の勢力増大さが坂東にも及び平氏の影響力が強大となり、瞬く間に平氏追随の行動を求められます。

治承4年(1180)伊豆に配流の源頼朝が平氏打倒のため挙兵すると、大庭氏は分裂、兄の景能(かげよし、1128?~1210)はいち早く頼朝側を表明しますが、弟の景親(かげちか、不詳~1180)は平氏恩顧意識高く、頼朝討伐軍の中心となり石橋山合戦で頼朝を今一歩の所まで追い詰めます。

その後形勢逆転、安房に渡った頼朝は上総・下総・武蔵など東国武士団の支持を受けて勢力を盛り返し、鎌倉に入った後頼朝より主要御家人の本領がそれぞれ安堵されます。

その中で景能も本領の安堵を受けたばかりか平氏に加担した豪族の所領も加えられ陽の目を見ますが逆に景親は頼朝の軍勢の圧倒さに逃げ切れず、遂に頼朝に降りますが頼朝は平氏の首謀者との理由で斬首されます。

陽の目を浴びた景能は頼朝の側近として重要な働きをして更なる信頼を得ます。例えば鶴岡八幡宮の移転の際の奉行を勤めたり、頼朝の御所建築工事の責任者などの役割を果たします。更には頼朝により再建された東大寺の供養に臨む為2度目の上洛の際には牛車に乗った頼朝の直前を位置を占めるという御家人として栄誉ある立場を得ます。

然しながら承元4年(1210)景能が亡くなり、跡を継いだ景兼の代に起こった和田義盛の乱では和田側に与し、戦いの中景兼が戦死し大庭氏は没落を迎える事になります。

室町時代には当地域は武蔵南部に勢力を有する山内氏庶流になる扇谷(おうぎがやつ)上杉定正(うえすぎ・さだまさ、1443~1494)の支配下に置かれ、執事の太田道灌(おおた・どうかん、1432~1486)による改修が行われたと言われています。

戦国時代には小田原北条氏の進出により大庭城は攻め込まれやがて北条氏のネットワークに組み込まれて支城としての位置付けとなります。天正16年(1590)の豊臣秀吉による小田原征伐により北条氏滅亡に合わせて当城も廃城となったと思われます。

地勢的には引地川と小糸川の合流点の北部に突き出た台地に大庭城が位置しており、現在では既に公園として整備とともに周辺は住宅地として開発される環境でありながら、広大な郭と共に土塁や空堀が見事に残っており見ごたえがあります。逆に環境・利便の良さが災いして城址の遺構が少ないのは寂しい限りです。


2022年3月19日追記

城跡広場設置の説明板には下記のごとく記載されています。

「 大 庭 城 址

大庭城址は、平安時代の末期(12世紀末)、大庭荘園を本領としておこった桓武平氏の末裔、大庭氏の拠点であったといわれていますが、明らかな記録はなく、室町時代中頃(15世紀後半)になって扇谷上杉定正の執事太田道灌が本格的な改修を行ったとされています。

その後、上杉朝良のとき、北条早雲によって攻略され、以後小田原北条氏の支配下におかれました。そして天正15年(1587)小田原北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされ、大庭城は廃城となったようです。

現在残されている土塁・空堀などの城址の構えには、小田原北条氏時代の修復があったものと考えられますが、雄大かつ緻密に設計されていたことは、築山、裏門、二番構・駒寄などの地名からしのばれます。」

交通手段
高速・路線バス JRローカル 徒歩
  • 市民センター案内板<br /><br />バスを降りると近隣の市民センターがあり、建物横にマンガチックな案内地図板が建てられています。引地川と小糸川が合流する地点に大庭城址公園が示されています。

    市民センター案内板

    バスを降りると近隣の市民センターがあり、建物横にマンガチックな案内地図板が建てられています。引地川と小糸川が合流する地点に大庭城址公園が示されています。

  • 大庭城址公園・入口

    大庭城址公園・入口

  • 公園内部へのアプローチ<br /><br />立派に整備されています。突き当りの建物が管理事務所になります。

    公園内部へのアプローチ

    立派に整備されています。突き当りの建物が管理事務所になります。

  • 公園登り坂<br /><br />登っている途中で振返ってのワンショットです。<br /><br />

    公園登り坂

    登っている途中で振返ってのワンショットです。

  • ハイキングコース案内地図<br /><br />熊野神社(旧大庭神社跡)の他も城址に関係する社寺でしょうか。

    ハイキングコース案内地図

    熊野神社(旧大庭神社跡)の他も城址に関係する社寺でしょうか。

  • 館跡広場・案内板<br /><br />

    館跡広場・案内板

  • 大庭城址公園・地図<br /><br />南端に大庭城址となっています。

    大庭城址公園・地図

    南端に大庭城址となっています。

  • 大芝生広場<br /><br />広大な敷地です。

    大芝生広場

    広大な敷地です。

  • 大庭城址石碑

    イチオシ

    大庭城址石碑

  • 大庭城跡説明板

    大庭城跡説明板

  • 大芝生・広場

    大芝生・広場

  • 土塁<br /><br />広場は土塁で囲まれています。

    土塁

    広場は土塁で囲まれています。

  • 空堀<br /><br />土塁の外側は深い空堀となって敵の進入を防御します。

    空堀

    土塁の外側は深い空堀となって敵の進入を防御します。

  • 土塁と空堀<br /><br />大庭氏が造った土塁・空堀もその後北条氏の改修があった訳で今見ているのは北条氏のものと考えていいと思います。<br />

    土塁と空堀

    大庭氏が造った土塁・空堀もその後北条氏の改修があった訳で今見ているのは北条氏のものと考えていいと思います。

  • 芝生広場

    芝生広場

  • 芝生広場

    芝生広場

  • 城跡から展望<br /><br />周辺はすっかり住宅地区となっています。<br /><br />

    城跡から展望

    周辺はすっかり住宅地区となっています。

  • 原始・古代の集落説明板

    原始・古代の集落説明板

  • 大樹木<br /><br />大芝生の中央部に大樹木が大きく広がっています。

    大樹木

    大芝生の中央部に大樹木が大きく広がっています。

  • 空堀<br /><br />崩れてはいますが空堀です。かつては大規模な形状を有していたと思われます。

    空堀

    崩れてはいますが空堀です。かつては大規模な形状を有していたと思われます。

  • 反対側の空堀<br /><br />手前は左右の空堀を従える土橋と思われます。

    反対側の空堀

    手前は左右の空堀を従える土橋と思われます。

  • 掘立柱建物址

    掘立柱建物址

  • 掘立柱建物址説明板

    掘立柱建物址説明板

  • 相模の城跡マップ<br /><br />管理事務所には大庭城に関する資料が展示されています。その中で相模の城跡が地図にマークされています。支城のネットワーク化を戦略の方針としている小田原北条氏としては、大庭城はどのような位置付けだったんでしょうか。近隣の城を考慮すれば、玉縄城との連携があったのかも知れません。

    相模の城跡マップ

    管理事務所には大庭城に関する資料が展示されています。その中で相模の城跡が地図にマークされています。支城のネットワーク化を戦略の方針としている小田原北条氏としては、大庭城はどのような位置付けだったんでしょうか。近隣の城を考慮すれば、玉縄城との連携があったのかも知れません。

  • 大庭城のレイアウト<br /><br />左右の河川が合流する地点の北部に大庭城が逆三角形のレイアウトになって存在していました。

    大庭城のレイアウト

    左右の河川が合流する地点の北部に大庭城が逆三角形のレイアウトになって存在していました。

  • 大庭城跡遠景<br /><br />大庭城跡の西側からのスナップです。<br /><br />尚、帰路は辻堂駅行のバスを利用しました。本数も多数ですし所要時間も15分位で到着できます。<br />

    大庭城跡遠景

    大庭城跡の西側からのスナップです。

    尚、帰路は辻堂駅行のバスを利用しました。本数も多数ですし所要時間も15分位で到着できます。

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