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朝食もとらず、まだ薄暗いうちにホテルを出ました。<br /><br />この日は熊本から延岡まで、九州を横断しなければなりません。<br /><br />しかもただ横断するだけではなく、途中途中で何ヶ所も寄りたい所があるのです。<br /><br />天気予報は、確実に大雨が降ると伝えています。<br /><br />明るくなるはずの時間帯なのに、空が暗いままなのは、厚い雲が垂れ込めているからでしょう。<br /><br />まずは熊本の中心部から少し外れた場所にある徳富記念園を訪問。<br /><br />しかし開館時間前なので中へ入れるわけもなく、特に写真に収めるような風景もないので早々に立ち去りました。<br /><br />次の目的地へ向けて先を急ぐも、朝の通勤時間にぶつかってしまい、車はなかなか進みません。<br /><br />かなり早く出発したのですが、目的地の菊池神社に到着した時、時計はちょうど9時を表示していました。

南九州へ(二) 阿蘇・高千穂・宮崎

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2014/09/24 - 2014/09/25

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倫清堂

倫清堂さん

朝食もとらず、まだ薄暗いうちにホテルを出ました。

この日は熊本から延岡まで、九州を横断しなければなりません。

しかもただ横断するだけではなく、途中途中で何ヶ所も寄りたい所があるのです。

天気予報は、確実に大雨が降ると伝えています。

明るくなるはずの時間帯なのに、空が暗いままなのは、厚い雲が垂れ込めているからでしょう。

まずは熊本の中心部から少し外れた場所にある徳富記念園を訪問。

しかし開館時間前なので中へ入れるわけもなく、特に写真に収めるような風景もないので早々に立ち去りました。

次の目的地へ向けて先を急ぐも、朝の通勤時間にぶつかってしまい、車はなかなか進みません。

かなり早く出発したのですが、目的地の菊池神社に到着した時、時計はちょうど9時を表示していました。

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  • この日、最初の目的地の菊池神社は、熊本県菊池市に鎮座しています。<br /><br />御祭神は、贈従一位菊池武時公・贈従三位菊池武重公・贈従三位菊池武光公。<br /><br />言わずと知れた南朝の忠臣です。<br /><br />武時公は菊池氏第12代。<br /><br />後醍醐天皇に従って少弐氏・大友氏とともに九州探題の北条英時を攻めますが、両氏が離反したことによって窮地に立たされ、探題へ攻め入ったものの討死してしまいました。<br /><br />武重公は菊池氏第13代。<br /><br />足利尊氏が反旗を翻した箱根の戦いにおいて武功を上げました。

    この日、最初の目的地の菊池神社は、熊本県菊池市に鎮座しています。

    御祭神は、贈従一位菊池武時公・贈従三位菊池武重公・贈従三位菊池武光公。

    言わずと知れた南朝の忠臣です。

    武時公は菊池氏第12代。

    後醍醐天皇に従って少弐氏・大友氏とともに九州探題の北条英時を攻めますが、両氏が離反したことによって窮地に立たされ、探題へ攻め入ったものの討死してしまいました。

    武重公は菊池氏第13代。

    足利尊氏が反旗を翻した箱根の戦いにおいて武功を上げました。

    菊池神社 寺・神社・教会

  • 武光公は菊池氏第15代。<br /><br />懐良親王を奉じて征西府を支援し、一色氏や少弐氏を下して九州を統一して南朝の支配下に置くことに成功しましたが、上洛のための戦に敗れて勢いを失い、高良山に拠って戦うも幕府軍によって壊滅に追い込まれてしまいました。<br /><br />裏切り者の大友氏・少弐氏と戦った際、敵方の勢力は味方の10倍状にも及んでいました。<br /><br />しかし武光公は奮戦し、所持する日本刀を川の水で洗った際には、川は血の色に染まったと言われています。<br /><br />菊池氏の勤王は明治時代に入ってから認められ、明治11年に官幣社に列しました。

    武光公は菊池氏第15代。

    懐良親王を奉じて征西府を支援し、一色氏や少弐氏を下して九州を統一して南朝の支配下に置くことに成功しましたが、上洛のための戦に敗れて勢いを失い、高良山に拠って戦うも幕府軍によって壊滅に追い込まれてしまいました。

    裏切り者の大友氏・少弐氏と戦った際、敵方の勢力は味方の10倍状にも及んでいました。

    しかし武光公は奮戦し、所持する日本刀を川の水で洗った際には、川は血の色に染まったと言われています。

    菊池氏の勤王は明治時代に入ってから認められ、明治11年に官幣社に列しました。

  • 次の目的地、肥後国一之宮の阿蘇神社に向かって走ると、次第に景色が大きく変化して来ました。<br /><br />阿蘇は大規模な噴火によって地形が大きく変わってしまい、今もその名残を多く残しています。<br /><br />あとで知ったことですが、大規模噴火のまたの名は破局噴火といって、数千度の火砕流が九州全体を一瞬で飲み込む規模なのだそうです。<br /><br />これが起きれば日本だけではなく地球の北半球は、しばらく人が住めない土地になります。<br /><br />そのようなことがないよう、火山の神を鎮めるのが阿蘇神社なのです。

    次の目的地、肥後国一之宮の阿蘇神社に向かって走ると、次第に景色が大きく変化して来ました。

    阿蘇は大規模な噴火によって地形が大きく変わってしまい、今もその名残を多く残しています。

    あとで知ったことですが、大規模噴火のまたの名は破局噴火といって、数千度の火砕流が九州全体を一瞬で飲み込む規模なのだそうです。

    これが起きれば日本だけではなく地球の北半球は、しばらく人が住めない土地になります。

    そのようなことがないよう、火山の神を鎮めるのが阿蘇神社なのです。

    阿蘇神社 寺・神社・教会

  • 阿蘇神社宮司を務める阿蘇氏は、出雲国造・紀伊国造とともに古代から続く国造家の一つです。<br /><br />南北朝時代には南朝に属しますが、九州で再起した足利軍との戦いに敗れたのを機に南北に分裂してしまいました。<br /><br />戦国時代には再び統一されますが、豊太閤の時に12歳の当主惟光が一揆に加担したために自害に追い込まれ、阿蘇氏は一時途絶えました。<br /><br />しかし関ヶ原の戦いの後に肥後を治めた加藤清正公によって再興を果たしました。<br /><br />現在の宮司は初代国造から数えて92代目に当たります。

    阿蘇神社宮司を務める阿蘇氏は、出雲国造・紀伊国造とともに古代から続く国造家の一つです。

    南北朝時代には南朝に属しますが、九州で再起した足利軍との戦いに敗れたのを機に南北に分裂してしまいました。

    戦国時代には再び統一されますが、豊太閤の時に12歳の当主惟光が一揆に加担したために自害に追い込まれ、阿蘇氏は一時途絶えました。

    しかし関ヶ原の戦いの後に肥後を治めた加藤清正公によって再興を果たしました。

    現在の宮司は初代国造から数えて92代目に当たります。

  • 楼門から入ると正面に拝殿があり、その奥に三棟の神殿が横に並んでいます。<br /><br />向かって左の第一殿には健磐龍命、向かって右の第二殿には阿蘇都媛命、中央の第三殿には国造速瓶玉命が祀られています。<br /><br />第三殿だけが少し後方に位置します。<br /><br />現在の社殿は天保6年から約20年かけて整備されました。<br /><br />たいていの神社は社殿が南向きに建てられていますが、阿蘇神社は東を向いています。<br /><br />その理由は、御神体である阿蘇山火口と祖先神を祀る国造神社の中間に鎮座し、楼門手前を横に伸びる参道が両者をつなぐ線であるため、参道をふさぐ配置ではなく沿うように造営されたことだとされています。<br /><br />東を向くのは、都を守る意味があるのだそうです。

    楼門から入ると正面に拝殿があり、その奥に三棟の神殿が横に並んでいます。

    向かって左の第一殿には健磐龍命、向かって右の第二殿には阿蘇都媛命、中央の第三殿には国造速瓶玉命が祀られています。

    第三殿だけが少し後方に位置します。

    現在の社殿は天保6年から約20年かけて整備されました。

    たいていの神社は社殿が南向きに建てられていますが、阿蘇神社は東を向いています。

    その理由は、御神体である阿蘇山火口と祖先神を祀る国造神社の中間に鎮座し、楼門手前を横に伸びる参道が両者をつなぐ線であるため、参道をふさぐ配置ではなく沿うように造営されたことだとされています。

    東を向くのは、都を守る意味があるのだそうです。

  • 駐車場近くに一の神陵と二の神陵があります。<br /><br />北側の一の神陵には健磐龍命が眠ります。<br /><br />健磐龍命は神武天皇の孫神で、かつて谷であったこの地を干拓して農業を興したと伝えられています。

    駐車場近くに一の神陵と二の神陵があります。

    北側の一の神陵には健磐龍命が眠ります。

    健磐龍命は神武天皇の孫神で、かつて谷であったこの地を干拓して農業を興したと伝えられています。

  • 南側の二の神陵には阿蘇都姫命が眠ります。<br /><br />健磐龍命の妃神です。<br /><br />三の神殿は見当たりませんが、第三殿に祀られる国造速瓶玉命は二神の御子神で、阿蘇国造の祖に当たります。

    南側の二の神陵には阿蘇都姫命が眠ります。

    健磐龍命の妃神です。

    三の神殿は見当たりませんが、第三殿に祀られる国造速瓶玉命は二神の御子神で、阿蘇国造の祖に当たります。

  • 次に霜神社を参拝しました。<br /><br />神職不在で社殿は小さいですが、阿蘇神社の末社として長い歴史を誇ります。<br /><br />御祭神は霜凝日子神とされますが、地元では鬼八が祀られていると信じられています。<br /><br />鬼八はもともと阿蘇大明神に仕え、大明神が射た矢を回収する役割を与えられていました。<br /><br />しかし仕事を繰り返すうちに倦んでしまい、足の指に挟んで矢を返したところ、大明神の怒りに触れて追いかけられてしまいました。<br /><br />その際、鬼八は霜を降らせて逃げ回り、最後は高千穂に逃げ延びたとされます。<br /><br />一方、体を切り刻まれて数ヶ所に葬られたという言い伝えもあります。<br /><br />阿蘇大明神が的にした「的石」は霜神社の西に10キロほどの場所にあり、磐座として信仰されています。

    次に霜神社を参拝しました。

    神職不在で社殿は小さいですが、阿蘇神社の末社として長い歴史を誇ります。

    御祭神は霜凝日子神とされますが、地元では鬼八が祀られていると信じられています。

    鬼八はもともと阿蘇大明神に仕え、大明神が射た矢を回収する役割を与えられていました。

    しかし仕事を繰り返すうちに倦んでしまい、足の指に挟んで矢を返したところ、大明神の怒りに触れて追いかけられてしまいました。

    その際、鬼八は霜を降らせて逃げ回り、最後は高千穂に逃げ延びたとされます。

    一方、体を切り刻まれて数ヶ所に葬られたという言い伝えもあります。

    阿蘇大明神が的にした「的石」は霜神社の西に10キロほどの場所にあり、磐座として信仰されています。

  • 次に阿蘇国造の祖である国造速瓶玉命を祀る国造神社を参拝しました。<br /><br />境内入口には一対の古墳があり、国造速瓶玉命と妃神雨宮姫命のものと思われます。<br /><br />

    次に阿蘇国造の祖である国造速瓶玉命を祀る国造神社を参拝しました。

    境内入口には一対の古墳があり、国造速瓶玉命と妃神雨宮姫命のものと思われます。

    国造神社 寺・神社・教会

  • 境内には、びっくりするようなモニュメントが置かれていました。<br /><br />それは巨大な木の幹で、防腐加工が施された杉です。<br /><br />樹齢2000年以上と推定されていましたが、平成3年の台風で惜しくも倒れてしまったのでした。<br /><br />どのくらい巨大化というと、幹の内部をくり抜いて小部屋にできそうなほどです。<br /><br />残念なことに防腐加工によって変色し、天然物に見えません。<br /><br />自分が当事者であったら、別な利用の仕方を考えたと思います。

    境内には、びっくりするようなモニュメントが置かれていました。

    それは巨大な木の幹で、防腐加工が施された杉です。

    樹齢2000年以上と推定されていましたが、平成3年の台風で惜しくも倒れてしまったのでした。

    どのくらい巨大化というと、幹の内部をくり抜いて小部屋にできそうなほどです。

    残念なことに防腐加工によって変色し、天然物に見えません。

    自分が当事者であったら、別な利用の仕方を考えたと思います。

  • いよいよ宮崎県に向かいますが、少しだけ道を外れて草部吉見神社を参拝しました。<br /><br />ここの参道は珍しい「下り宮」で、鳥居から社殿までは下りの階段が伸びています。<br /><br />神武天皇の第三御子神に当たる彦八井耳命の子、国龍命を祀ります。<br /><br />日向から阿蘇に移った国龍命は、新しい住居を建てるために適した土地を探していると、清らかな池を見付けました。<br /><br />池が気に入ったため眺めていたところ、そこから恐ろしい大蛇が現れ、国龍命を襲ったのでした。<br /><br />国龍命は剣を取って戦い、大蛇の頭を斬ってこれを退治し、杉の枝を逆さに地に挿して自分が住むに相応しい土地かどうかを占ったところ、枝は見事に根を張って生長したのでした。

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    いよいよ宮崎県に向かいますが、少しだけ道を外れて草部吉見神社を参拝しました。

    ここの参道は珍しい「下り宮」で、鳥居から社殿までは下りの階段が伸びています。

    神武天皇の第三御子神に当たる彦八井耳命の子、国龍命を祀ります。

    日向から阿蘇に移った国龍命は、新しい住居を建てるために適した土地を探していると、清らかな池を見付けました。

    池が気に入ったため眺めていたところ、そこから恐ろしい大蛇が現れ、国龍命を襲ったのでした。

    国龍命は剣を取って戦い、大蛇の頭を斬ってこれを退治し、杉の枝を逆さに地に挿して自分が住むに相応しい土地かどうかを占ったところ、枝は見事に根を張って生長したのでした。

    草部吉見神社 寺・神社・教会

  • ちなみにその後の国龍命は、日向から二つの玉を持ってきたとされます。<br /><br />一つは火を呼ぶ「干珠」、もう一つは水を呼ぶ「満珠」という玉でした。<br /><br />国龍命はこの二つの玉を使い、この地に農耕を広めたのでした。<br /><br />国龍命は阿蘇都姫命の父ともされ、健磐龍命とともに阿蘇神社の第一殿にも祀られています。

    ちなみにその後の国龍命は、日向から二つの玉を持ってきたとされます。

    一つは火を呼ぶ「干珠」、もう一つは水を呼ぶ「満珠」という玉でした。

    国龍命はこの二つの玉を使い、この地に農耕を広めたのでした。

    国龍命は阿蘇都姫命の父ともされ、健磐龍命とともに阿蘇神社の第一殿にも祀られています。

  • 宮崎県に入っても雨は降り続いていました。<br /><br />高千穂神社の駐車場に入ろうとすると、道路の反対側に天鈿女命の像があるのが見えました。<br /><br />ここ高千穂は天孫降臨神話の舞台であり、それは同時に天つ神の神話を培った土地であることを意味します。

    宮崎県に入っても雨は降り続いていました。

    高千穂神社の駐車場に入ろうとすると、道路の反対側に天鈿女命の像があるのが見えました。

    ここ高千穂は天孫降臨神話の舞台であり、それは同時に天つ神の神話を培った土地であることを意味します。

  • 平日しかも雨にもかかわらず、境内に人の往来が途絶えることはありません。<br /><br />割合としては女性の方が多いようです。<br /><br />やはりパワースポットブームの影響なのでしょう。<br /><br />しかしそのような軽薄な流行が始まるよりずっと昔から、高千穂という地名は聖地として日本人の間で知られていました。<br /><br />高千穂という地は、高天原に住む天照大御神が地上を治めるために天孫ニニギ命を遣わした場所であることから、天孫降臨の聖地として崇められてきたのです。

    平日しかも雨にもかかわらず、境内に人の往来が途絶えることはありません。

    割合としては女性の方が多いようです。

    やはりパワースポットブームの影響なのでしょう。

    しかしそのような軽薄な流行が始まるよりずっと昔から、高千穂という地名は聖地として日本人の間で知られていました。

    高千穂という地は、高天原に住む天照大御神が地上を治めるために天孫ニニギ命を遣わした場所であることから、天孫降臨の聖地として崇められてきたのです。

    高千穂神社 寺・神社・教会

  • 朝からずっと、運転する以外は雨に濡れながら歩いたため、靴の中にはすっかり水が入り込んでいました。<br /><br />一歩一歩進むたびに足の不快感が募り、雨が降ってしまったことを恨みたくなりそうですが、不思議とそのような気持ちは起こりませんでした。<br /><br />ここ高千穂神社は、晴れの天気よりも雨の天気の方が似合うように思えたからです。<br /><br />神社の御創建は第11代垂仁天皇の御代と伝えられます。<br /><br />しかしそれは祭祀が行われた時代であって、それ以前にここに何があったかと言えば、ニニギ命から三代の子孫が住む宮居が置かれていたと言われています。<br /><br />ニニギ命自身とその子・孫のことを「日向三代」と呼び、その次に生まれた人物が初代天皇となる神倭伊波礼琵古命なのです。

    朝からずっと、運転する以外は雨に濡れながら歩いたため、靴の中にはすっかり水が入り込んでいました。

    一歩一歩進むたびに足の不快感が募り、雨が降ってしまったことを恨みたくなりそうですが、不思議とそのような気持ちは起こりませんでした。

    ここ高千穂神社は、晴れの天気よりも雨の天気の方が似合うように思えたからです。

    神社の御創建は第11代垂仁天皇の御代と伝えられます。

    しかしそれは祭祀が行われた時代であって、それ以前にここに何があったかと言えば、ニニギ命から三代の子孫が住む宮居が置かれていたと言われています。

    ニニギ命自身とその子・孫のことを「日向三代」と呼び、その次に生まれた人物が初代天皇となる神倭伊波礼琵古命なのです。

  • 日向とは律令制における国名で、今の宮崎県に当たります。<br /><br />日向国には日向三代や神倭伊波礼琵古命を祀る神社が鎮座しているので、今回の旅ではそれらを全て巡ることが一つの目的なのです。<br /><br />御祭神は高千穂皇神と十社大明神です。<br /><br />高千穂皇神とは、天津彦彦火瓊々杵尊(ニニギ命)・彦火火出見尊(山幸彦)・彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエズ命)と、それぞれの妃神である木花開耶姫・豊玉姫命・玉依姫命の六柱の神を表します。<br /><br />また十社大明神とは三毛入野命とその御子太郎命・二郎命・三郎命・畝見命、そしてそれぞれの妃神である鵜目姫命・照野命・大戸命・霊社命・浅良部命の十柱の神を表します。

    日向とは律令制における国名で、今の宮崎県に当たります。

    日向国には日向三代や神倭伊波礼琵古命を祀る神社が鎮座しているので、今回の旅ではそれらを全て巡ることが一つの目的なのです。

    御祭神は高千穂皇神と十社大明神です。

    高千穂皇神とは、天津彦彦火瓊々杵尊(ニニギ命)・彦火火出見尊(山幸彦)・彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエズ命)と、それぞれの妃神である木花開耶姫・豊玉姫命・玉依姫命の六柱の神を表します。

    また十社大明神とは三毛入野命とその御子太郎命・二郎命・三郎命・畝見命、そしてそれぞれの妃神である鵜目姫命・照野命・大戸命・霊社命・浅良部命の十柱の神を表します。

  • 三毛入野命とは神武天皇の兄に当たる人物です。<br /><br />古文書によって名前や順番に違いがありますが、神武天皇は四人兄弟であったと考えられます。<br /><br />神武天皇は大和を平定するために日向から海へ出ましたが、長兄の五瀬命は紀伊国で敵の矢に当たって戦死し、その地に葬られました。<br /><br />また次兄の稲飯命も東征の途中、熊野灘で海に入って命を落としたとされます。<br /><br />三毛入野命も東征に参加し、稲飯命とともに海に落ちたとされますが、ここ高千穂神社に伝わる伝承では、神武天皇と別れて高千穂に帰還したことになっています。<br /><br />そしてこの地に日向三代を祀る祭祀場を設け、それが後の高千穂神社になったとされます。<br /><br />また、阿蘇神社から逃げてきた鬼八が棲み付いて乱暴狼藉に及んだため、これを退治したとされます。<br /><br />本殿の向かって右側には、三毛入野命が鬼八を退治する様子を表した彫刻が施されています。<br /><br />伝承はそうなっていますが、三毛入野命は出征後の日向に不穏な動きがあることを知り、東征を神武天皇に任せて自身はあえて引き返したのではないかと、私は思います。

    三毛入野命とは神武天皇の兄に当たる人物です。

    古文書によって名前や順番に違いがありますが、神武天皇は四人兄弟であったと考えられます。

    神武天皇は大和を平定するために日向から海へ出ましたが、長兄の五瀬命は紀伊国で敵の矢に当たって戦死し、その地に葬られました。

    また次兄の稲飯命も東征の途中、熊野灘で海に入って命を落としたとされます。

    三毛入野命も東征に参加し、稲飯命とともに海に落ちたとされますが、ここ高千穂神社に伝わる伝承では、神武天皇と別れて高千穂に帰還したことになっています。

    そしてこの地に日向三代を祀る祭祀場を設け、それが後の高千穂神社になったとされます。

    また、阿蘇神社から逃げてきた鬼八が棲み付いて乱暴狼藉に及んだため、これを退治したとされます。

    本殿の向かって右側には、三毛入野命が鬼八を退治する様子を表した彫刻が施されています。

    伝承はそうなっていますが、三毛入野命は出征後の日向に不穏な動きがあることを知り、東征を神武天皇に任せて自身はあえて引き返したのではないかと、私は思います。

  • 近くに道の駅があるとのことなので、そこで昼食をとることにしました。<br /><br />レストランに入り、この地方ならではの料理がないか探してみると、見付けました。<br /><br />高千穂牛や高千穂豆腐が入った「肉豆腐定食」<br /><br />鍋はしっかり煮込まれており、豆腐に牛肉のうまみがしっかり滲み込んでいました。

    近くに道の駅があるとのことなので、そこで昼食をとることにしました。

    レストランに入り、この地方ならではの料理がないか探してみると、見付けました。

    高千穂牛や高千穂豆腐が入った「肉豆腐定食」

    鍋はしっかり煮込まれており、豆腐に牛肉のうまみがしっかり滲み込んでいました。

    道の駅 高千穂 道の駅

  • 高千穂峡の絶景を眺めたいとも思いましたが、この天気では足元が悪いと思って断念しました。<br /><br />そこで、次に天岩戸神社を訪れました。<br /><br />高千穂神社から近いところに鎮座しているイメージでしたが、実際は車で20分ほどの距離がありました。<br /><br />駐車場には乗用車やら観光バスやらがたくさん停まっており、高千穂神社以上に賑わっている様子です。<br /><br />雨が次第に小降りになり、幸運なことにやんでしまいました。<br /><br />神社の名前にもなっている「天岩戸」とは、日本神話において太陽の神である天照大御神が隠れてしまった場所です。

    高千穂峡の絶景を眺めたいとも思いましたが、この天気では足元が悪いと思って断念しました。

    そこで、次に天岩戸神社を訪れました。

    高千穂神社から近いところに鎮座しているイメージでしたが、実際は車で20分ほどの距離がありました。

    駐車場には乗用車やら観光バスやらがたくさん停まっており、高千穂神社以上に賑わっている様子です。

    雨が次第に小降りになり、幸運なことにやんでしまいました。

    神社の名前にもなっている「天岩戸」とは、日本神話において太陽の神である天照大御神が隠れてしまった場所です。

    天岩戸神社 寺・神社・教会

  • 鳥居の脇には、岩戸を持ち上げる天手力男神の像が置かれています。<br /><br />日本神話には、弟神である須佐之男命が高天原を訪れて悪さをしたため、天照大御神は怒って岩屋に隠れてしまったと書かれています。<br /><br />すると世界は闇に包まれ、悪霊が跋扈するようになってしまったのでした。<br /><br />そこで高天原の神々は相談し、天鈿女命に官能的な舞いを行わせ、天照大御神が興味を持って岩戸を開いた瞬間、最も腕力のある天手力男神に岩戸を押し広げさせたのでした。<br /><br />この時に投げた岩戸とされる地形は、戸隠山や、柳生の里に鎮座する天石立神社の巨石など、日本のあちこちに伝えられています。

    鳥居の脇には、岩戸を持ち上げる天手力男神の像が置かれています。

    日本神話には、弟神である須佐之男命が高天原を訪れて悪さをしたため、天照大御神は怒って岩屋に隠れてしまったと書かれています。

    すると世界は闇に包まれ、悪霊が跋扈するようになってしまったのでした。

    そこで高天原の神々は相談し、天鈿女命に官能的な舞いを行わせ、天照大御神が興味を持って岩戸を開いた瞬間、最も腕力のある天手力男神に岩戸を押し広げさせたのでした。

    この時に投げた岩戸とされる地形は、戸隠山や、柳生の里に鎮座する天石立神社の巨石など、日本のあちこちに伝えられています。

  • 天岩戸神社は西と東に二社あり、こちらは西本宮であるとのことです。<br /><br />西本宮の御祭神は大日孁尊。<br /><br />天照大御神の別称です。<br /><br />西本宮には本殿がなく、拝殿から岩戸川を隔てた先の崖にある天岩戸を御神体とします。<br /><br />拝殿の前からは見ることができませんが、神職が10分おきに案内してくれるので、申し込みをして次の回まで待つことにしました。<br /><br />前の回が終わったらしく、神職と数名の参拝客が戻ると、次の担当の神職が集合を呼びかけました。<br /><br />境内を一通り案内すると、ついに拝殿の脇にある扉から先へ通してくれました。<br /><br />御神体であるため、天岩戸は写真撮影が禁止されています。<br /><br />かつては完全な洞窟でしたが、現在は風雨によって浸食され、隠れられるような岩屋の形状はしていないとのことでした。

    天岩戸神社は西と東に二社あり、こちらは西本宮であるとのことです。

    西本宮の御祭神は大日孁尊。

    天照大御神の別称です。

    西本宮には本殿がなく、拝殿から岩戸川を隔てた先の崖にある天岩戸を御神体とします。

    拝殿の前からは見ることができませんが、神職が10分おきに案内してくれるので、申し込みをして次の回まで待つことにしました。

    前の回が終わったらしく、神職と数名の参拝客が戻ると、次の担当の神職が集合を呼びかけました。

    境内を一通り案内すると、ついに拝殿の脇にある扉から先へ通してくれました。

    御神体であるため、天岩戸は写真撮影が禁止されています。

    かつては完全な洞窟でしたが、現在は風雨によって浸食され、隠れられるような岩屋の形状はしていないとのことでした。

  • 境内にある招霊(おがたま)の木は、天鈿女命が舞った際に持ったとされる木で、現在の神楽で巫女さんが持つ神楽鈴の起源であると言われています。<br /><br />なぜなら秋になると鈴の形をした実が成るからです。

    境内にある招霊(おがたま)の木は、天鈿女命が舞った際に持ったとされる木で、現在の神楽で巫女さんが持つ神楽鈴の起源であると言われています。

    なぜなら秋になると鈴の形をした実が成るからです。

  • 西本宮から岩戸川に沿って遊歩道を歩くと、神々が天照大御神に岩屋を出てもらうために作戦会議を行ったとされる天安河原へと辿り着きます。<br /><br />遊歩道の最奥には「仰慕窟」という洞窟が口を開けています。<br /><br />ここを参拝すると願いが叶ったり、中風にかからないなどと信じられており、全国から参拝客が訪れて小石を詰んで行くのだそうです。

    西本宮から岩戸川に沿って遊歩道を歩くと、神々が天照大御神に岩屋を出てもらうために作戦会議を行ったとされる天安河原へと辿り着きます。

    遊歩道の最奥には「仰慕窟」という洞窟が口を開けています。

    ここを参拝すると願いが叶ったり、中風にかからないなどと信じられており、全国から参拝客が訪れて小石を詰んで行くのだそうです。

    天安河原 自然・景勝地

  • 仰慕窟の前方、浅瀬になっている所が天安河原です。<br /><br />清らかな水と澄み渡った空気は、神話の時代から現在まで全く変わっていないのでしょう。<br /><br />この神々しさを表現する適切な言葉は見つかりません。

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    仰慕窟の前方、浅瀬になっている所が天安河原です。

    清らかな水と澄み渡った空気は、神話の時代から現在まで全く変わっていないのでしょう。

    この神々しさを表現する適切な言葉は見つかりません。

  • せっかく来たのだから、東本宮まで参拝することにしました。<br /><br />東本宮の御祭神は天照皇大神で、西本宮と名前は違いますが同一の神様です。<br /><br />西本宮は天岩戸を御神体としますが、東本宮は天照皇大神が窟屋を出た後、知恵の神である思兼神とともに遷った場所だと言われています。

    せっかく来たのだから、東本宮まで参拝することにしました。

    東本宮の御祭神は天照皇大神で、西本宮と名前は違いますが同一の神様です。

    西本宮は天岩戸を御神体としますが、東本宮は天照皇大神が窟屋を出た後、知恵の神である思兼神とともに遷った場所だと言われています。

  • この日は延岡に一泊しました。<br /><br />ここに着いてから知ったのですが、延岡はチキン南蛮の発祥の地です。<br /><br />いろいろな店で食べることができますが、チキン南蛮を考案した「直ちゃん」という店で食べることにしました。<br /><br />チキン南蛮にはタルタルソースがかかっているのが普通だと思っていましたが、元祖チキン南蛮にはかかっていません。<br /><br />衣も他の揚げ物とは異なる食感で、初めて経験するものでした。<br /><br />決して脂っぽくはなく、チキンのうまみを閉じ込めています。<br /><br />この店にして正解でした。

    この日は延岡に一泊しました。

    ここに着いてから知ったのですが、延岡はチキン南蛮の発祥の地です。

    いろいろな店で食べることができますが、チキン南蛮を考案した「直ちゃん」という店で食べることにしました。

    チキン南蛮にはタルタルソースがかかっているのが普通だと思っていましたが、元祖チキン南蛮にはかかっていません。

    衣も他の揚げ物とは異なる食感で、初めて経験するものでした。

    決して脂っぽくはなく、チキンのうまみを閉じ込めています。

    この店にして正解でした。

    直ちゃん グルメ・レストラン

  • 次の日は、前日の大雨がうそのように快晴になりました。<br /><br />かなり長い距離を移動することになるので、朝食もとらずに出発です。<br /><br />一番に訪れたのは「日向のお伊勢さま」と呼ばれる大御(おおみ)神社です。<br /><br />社殿によると、ニニギ命が皇祖天照大御神を祀るために創建したのが始まりだそうです。<br /><br />東側に海があるという点は共通していますが、伊勢と日向は気候が大きく異なり、日向の天照大御神は恵みの存在というよりも恐れの対象に近い印象を抱きました。

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    次の日は、前日の大雨がうそのように快晴になりました。

    かなり長い距離を移動することになるので、朝食もとらずに出発です。

    一番に訪れたのは「日向のお伊勢さま」と呼ばれる大御(おおみ)神社です。

    社殿によると、ニニギ命が皇祖天照大御神を祀るために創建したのが始まりだそうです。

    東側に海があるという点は共通していますが、伊勢と日向は気候が大きく異なり、日向の天照大御神は恵みの存在というよりも恐れの対象に近い印象を抱きました。

    大御神社 寺・神社・教会

  • 大御神社から歩いて3分ほどの海岸に、境内社の鵜戸神社が鎮座する岩窟があります。<br /><br />この岩窟は縄文時代中期に龍神信仰が行われていた祭祀場で、岩を渦状に刻んで龍を表し、その下に丸く形を整えた龍玉を置いて水を注ぎ、龍神に守護を祈っていたと考えられます。<br /><br />岩窟まで続く道は危険ですが、天気に恵まれればゆっくり下りることが可能です。<br /><br />物陰からカニが現れるので、びっくりしないように。<br /><br />海の上には、100万年前に起きた海底火山の噴火によって堆積した柱状節理による三匹の岩亀があります。<br /><br />親・子・孫すべて見つかるでしょうか。

    大御神社から歩いて3分ほどの海岸に、境内社の鵜戸神社が鎮座する岩窟があります。

    この岩窟は縄文時代中期に龍神信仰が行われていた祭祀場で、岩を渦状に刻んで龍を表し、その下に丸く形を整えた龍玉を置いて水を注ぎ、龍神に守護を祈っていたと考えられます。

    岩窟まで続く道は危険ですが、天気に恵まれればゆっくり下りることが可能です。

    物陰からカニが現れるので、びっくりしないように。

    海の上には、100万年前に起きた海底火山の噴火によって堆積した柱状節理による三匹の岩亀があります。

    親・子・孫すべて見つかるでしょうか。

  • 次に、神武天皇が船出したと伝えられる美々津浜を訪れました。<br /><br />ここには昭和17年に建てられた「日本海軍発祥之地」の碑があります。<br /><br />敗戦後に進駐軍によって碑文が破壊されましたが、昭和44年に復元されて現在に至ります。<br /><br />戦争に勝ったからと言って石碑を破壊するのも姑息だと思いますが、神武天皇の東遷が海軍の始まりであるというのも都合のよい解釈です。<br /><br />私は、神武天皇が即位する前の日本にはすでに海軍があったと思います。<br /><br />出雲神話を読めば、出雲族と天孫族との間に開戦が行われたことが明らかだからです。<br /><br />この碑も「神武天皇出航之地」とするのがよかったのではないかと今は思います。

    次に、神武天皇が船出したと伝えられる美々津浜を訪れました。

    ここには昭和17年に建てられた「日本海軍発祥之地」の碑があります。

    敗戦後に進駐軍によって碑文が破壊されましたが、昭和44年に復元されて現在に至ります。

    戦争に勝ったからと言って石碑を破壊するのも姑息だと思いますが、神武天皇の東遷が海軍の始まりであるというのも都合のよい解釈です。

    私は、神武天皇が即位する前の日本にはすでに海軍があったと思います。

    出雲神話を読めば、出雲族と天孫族との間に開戦が行われたことが明らかだからです。

    この碑も「神武天皇出航之地」とするのがよかったのではないかと今は思います。

    日本海軍発祥の地の碑 名所・史跡

  • 石碑のそばに鎮座する立磐神社は、神武天皇が出航に際して海上安全を祈願した住吉三神と神武天皇をお祀りしています。<br /><br />天正6年に起きた耳川の戦いで宝物や古文書が失われてしまったことは非常に残念です。<br /><br />戦国時代に戦の舞台となったのですから、神代においても要衝であったのは間違いありません。<br /><br />ただ、なぜ立磐神社と名付けられたかは疑問です。<br /><br />古くから立磐権現や立磐大明神と呼ばれて信仰されていたのが理由ですが、立磐と聞いてまず思い付くのは、阿蘇神社の御祭神である健磐龍命です。<br /><br />神武天皇の孫とされる健磐龍命と関係があるのでしょうか。

    石碑のそばに鎮座する立磐神社は、神武天皇が出航に際して海上安全を祈願した住吉三神と神武天皇をお祀りしています。

    天正6年に起きた耳川の戦いで宝物や古文書が失われてしまったことは非常に残念です。

    戦国時代に戦の舞台となったのですから、神代においても要衝であったのは間違いありません。

    ただ、なぜ立磐神社と名付けられたかは疑問です。

    古くから立磐権現や立磐大明神と呼ばれて信仰されていたのが理由ですが、立磐と聞いてまず思い付くのは、阿蘇神社の御祭神である健磐龍命です。

    神武天皇の孫とされる健磐龍命と関係があるのでしょうか。

    立磐神社 寺・神社・教会

  • 境内には、神武天皇御腰掛之磐があります。<br /><br />立磐とは、岩が立っている状態を表しただけの名前なのでしょうか。

    境内には、神武天皇御腰掛之磐があります。

    立磐とは、岩が立っている状態を表しただけの名前なのでしょうか。

  • 次に日向国一之宮の都農神社を参拝しました。<br /><br />日向国宮崎県には有名な神社がおおく鎮座しますが、一之宮はほとんど名前を聞かない都農神社です。<br /><br />御祭神の大己貴命(大国主命)は天孫降臨神話に登場しません。<br /><br />なぜそのような神社が一之宮に選ばれたのかは明らかではありませんが、美々津浜を出航した神武天皇がこの地に寄って国土平安などを祈願したのが始まりとされます。<br /><br />おそらく神武天皇自身は大国主命を信仰していたというわけではなく、後の時代に御祭神が変わったのではないでしょうか。

    次に日向国一之宮の都農神社を参拝しました。

    日向国宮崎県には有名な神社がおおく鎮座しますが、一之宮はほとんど名前を聞かない都農神社です。

    御祭神の大己貴命(大国主命)は天孫降臨神話に登場しません。

    なぜそのような神社が一之宮に選ばれたのかは明らかではありませんが、美々津浜を出航した神武天皇がこの地に寄って国土平安などを祈願したのが始まりとされます。

    おそらく神武天皇自身は大国主命を信仰していたというわけではなく、後の時代に御祭神が変わったのではないでしょうか。

    日向国一之宮都農神社 寺・神社・教会

  • 都農神社の神域には6社の摂社末社が鎮座し、そのうち3社は素盞嗚神社・手摩乳足摩乳神社・熊野神社と出雲系です。<br /><br />都農神社も立磐神社と同様に大友・島津による抗争で焼けてしまい、古文書の多くが失われてしまったため、歴史は不明な部分が多いのです。

    都農神社の神域には6社の摂社末社が鎮座し、そのうち3社は素盞嗚神社・手摩乳足摩乳神社・熊野神社と出雲系です。

    都農神社も立磐神社と同様に大友・島津による抗争で焼けてしまい、古文書の多くが失われてしまったため、歴史は不明な部分が多いのです。

  • さらに南に進みます。<br /><br />風景はすっかり南国のものとなりました。<br /><br />空には雲ひとつなく、太陽の光は肌を焼くように照り付けます。<br /><br />今回はお忍びの旅なので、日焼けしては帰ってはまずいと思いながらも、どうすることもできません。<br /><br />次の目的地である青島神社までもうすぐというところで、大きく目立つ駐車場の看板が見えました。<br /><br />そこの管理者に尋ねたところ、神社専用の駐車場はなく、民間で経営する駐車場の中では神社から最も近い位置にあるとのことです。<br /><br />しかも買い物をすると駐車料金は取らないというので、利用することにしました。<br /><br />車を停めると否応なく店の中に案内され、そこで名物について話を聞かされます。<br /><br />これは、別な店で土産物を買われないようにするための知恵なのでしょう。<br /><br />商人根性丸出しだとは思いましたが、天孫降臨神話や日向三代について正しく説明してくれたので、合格点をつけることにします。<br /><br />青島神社へ続く参道は、本当に店からすぐの所でした。

    さらに南に進みます。

    風景はすっかり南国のものとなりました。

    空には雲ひとつなく、太陽の光は肌を焼くように照り付けます。

    今回はお忍びの旅なので、日焼けしては帰ってはまずいと思いながらも、どうすることもできません。

    次の目的地である青島神社までもうすぐというところで、大きく目立つ駐車場の看板が見えました。

    そこの管理者に尋ねたところ、神社専用の駐車場はなく、民間で経営する駐車場の中では神社から最も近い位置にあるとのことです。

    しかも買い物をすると駐車料金は取らないというので、利用することにしました。

    車を停めると否応なく店の中に案内され、そこで名物について話を聞かされます。

    これは、別な店で土産物を買われないようにするための知恵なのでしょう。

    商人根性丸出しだとは思いましたが、天孫降臨神話や日向三代について正しく説明してくれたので、合格点をつけることにします。

    青島神社へ続く参道は、本当に店からすぐの所でした。

  • 白い砂浜、青い海、緑の木々、そして赤い鳥居。<br /><br />風景は完全に南国のものです。<br /><br />参拝客の数も多く、どこを見ても人だらけです。<br /><br />青島神社が鎮座する青島は神が住む島であるだけでなく、亜熱帯性植物の群落があることから国の特別天然記念物に指定されています。

    白い砂浜、青い海、緑の木々、そして赤い鳥居。

    風景は完全に南国のものです。

    参拝客の数も多く、どこを見ても人だらけです。

    青島神社が鎮座する青島は神が住む島であるだけでなく、亜熱帯性植物の群落があることから国の特別天然記念物に指定されています。

  • 社務所は、神話を題材にした蝋人形の展示が行われている日向神話館と一体になっています。<br /><br />あまり時間に余裕がないので、参拝に向かいました。<br /><br />青島神社の御祭神は彦火火出見命、豊玉姫命、塩筒大神の三柱です。<br /><br />彦火火出見命は火遠理命や山幸彦という名前でも知られる神で、神武天皇の祖父に当たります。<br /><br />神話によると、山幸彦には海幸彦という兄がいました。<br /><br />山幸彦は山で狩猟を行い、海幸彦は海で漁撈を行っていましたが、ある日二人は狩りの道具を交換することにしました。<br /><br />山幸彦が兄から借りた釣針で漁を行いますが、その釣針がなくなってしまい、困っていたところに現れたのが塩椎神(塩筒大神)でした。<br /><br />釣針を探すために海に案内された山幸彦は、海底の宮殿で海の神と出会い、その娘である豊玉姫を授けられます。<br /><br />時が過ぎ、山幸彦は地上へ戻らなければならなくなりました。<br /><br />山幸彦は探し出された釣針と「潮盈珠」「潮乾珠」を豊玉姫から受け取り、地上へ戻ったのでした。<br /><br />釣針がなくなったと知って兄の海幸彦は山幸彦を虐げようとしましたが、山幸彦は二つの珠を使って兄を懲らしめ、忠誠を誓わせたのでした。

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    社務所は、神話を題材にした蝋人形の展示が行われている日向神話館と一体になっています。

    あまり時間に余裕がないので、参拝に向かいました。

    青島神社の御祭神は彦火火出見命、豊玉姫命、塩筒大神の三柱です。

    彦火火出見命は火遠理命や山幸彦という名前でも知られる神で、神武天皇の祖父に当たります。

    神話によると、山幸彦には海幸彦という兄がいました。

    山幸彦は山で狩猟を行い、海幸彦は海で漁撈を行っていましたが、ある日二人は狩りの道具を交換することにしました。

    山幸彦が兄から借りた釣針で漁を行いますが、その釣針がなくなってしまい、困っていたところに現れたのが塩椎神(塩筒大神)でした。

    釣針を探すために海に案内された山幸彦は、海底の宮殿で海の神と出会い、その娘である豊玉姫を授けられます。

    時が過ぎ、山幸彦は地上へ戻らなければならなくなりました。

    山幸彦は探し出された釣針と「潮盈珠」「潮乾珠」を豊玉姫から受け取り、地上へ戻ったのでした。

    釣針がなくなったと知って兄の海幸彦は山幸彦を虐げようとしましたが、山幸彦は二つの珠を使って兄を懲らしめ、忠誠を誓わせたのでした。

    青島神社 寺・神社・教会

  • 青島神社は、海の宮殿から帰還した山幸彦が営んだ宮があった場所に創建されたと伝えられ、江戸時代までは島全体が禁足地とされていました。<br /><br />神聖な島なので、自然物は石一つといえど持ち帰ってはいけません。

    青島神社は、海の宮殿から帰還した山幸彦が営んだ宮があった場所に創建されたと伝えられ、江戸時代までは島全体が禁足地とされていました。

    神聖な島なので、自然物は石一つといえど持ち帰ってはいけません。

  • 社殿の右手には、元宮へと続く「御成道」があります。<br /><br />明治44年に青島を訪問された皇太子(後の大正天皇)がお通りになるために整備された道です。<br /><br />また昭和天皇は植物の研究に熱心で、昭和24年には青島に2時間半も滞在し研究に当たられました。<br /><br />元宮を囲むように霊木ビロウが茂っています。<br /><br />かつて宮廷で使用された蒲葵庇車という牛車に使うため、青島で捕れたビロウの葉が献上されたという記録が残っています。

    社殿の右手には、元宮へと続く「御成道」があります。

    明治44年に青島を訪問された皇太子(後の大正天皇)がお通りになるために整備された道です。

    また昭和天皇は植物の研究に熱心で、昭和24年には青島に2時間半も滞在し研究に当たられました。

    元宮を囲むように霊木ビロウが茂っています。

    かつて宮廷で使用された蒲葵庇車という牛車に使うため、青島で捕れたビロウの葉が献上されたという記録が残っています。

  • 青島の周囲は「鬼の洗濯板」と呼ばれる奇岩が形成されています。<br /><br />洗濯板とは、かつて洗濯機がなかった時代、水中で洗濯物をこすって汚れを落とした板状の道具のことです。<br /><br />洗濯板の表面にあるギザギザの部分が似ているために、そう名付けられました。<br /><br />参拝を終えて駐車場に戻り、料金がただになる3000円分の土産物を買いました。<br /><br />駐車場は野良猫たちがひなたぼっこをしていました。<br /><br />あまりに気持ちよさそうなので車が動いても気付かないのではないかと心配しましたが、エンジンをかけたらこちらに気付き、道をあけてくれました。

    青島の周囲は「鬼の洗濯板」と呼ばれる奇岩が形成されています。

    洗濯板とは、かつて洗濯機がなかった時代、水中で洗濯物をこすって汚れを落とした板状の道具のことです。

    洗濯板の表面にあるギザギザの部分が似ているために、そう名付けられました。

    参拝を終えて駐車場に戻り、料金がただになる3000円分の土産物を買いました。

    駐車場は野良猫たちがひなたぼっこをしていました。

    あまりに気持ちよさそうなので車が動いても気付かないのではないかと心配しましたが、エンジンをかけたらこちらに気付き、道をあけてくれました。

  • 南北に長い日向国をほぼ縦断し、鵜戸神宮に到着しました。<br /><br />参道に頭をもたげているのは犬の頭のように見える「神犬石」です。<br /><br />天然の狛犬で、本参道の「八丁坂」から登れば境内を守護しているかに見えます。

    南北に長い日向国をほぼ縦断し、鵜戸神宮に到着しました。

    参道に頭をもたげているのは犬の頭のように見える「神犬石」です。

    天然の狛犬で、本参道の「八丁坂」から登れば境内を守護しているかに見えます。

  • 前日の高千穂神社は雨が似合う神社でしたが、鵜戸神宮や青島神社は快晴が似合う神社であることは間違いありません。<br /><br />海が見える神社というのは、特に晴天と相性がよいのだと思います。<br /><br />日本は四方が海に面していますが、海が見える神社はさほど数が多いわけではなく、山に鎮座する神社の方が圧倒的に数が多いと言えます。<br /><br />しかし日向国には、その数少ない海の神殿が集中しているように思います。<br /><br />楼門は、さながら海の宮殿への入り口のように参拝客を迎え入れます。

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    前日の高千穂神社は雨が似合う神社でしたが、鵜戸神宮や青島神社は快晴が似合う神社であることは間違いありません。

    海が見える神社というのは、特に晴天と相性がよいのだと思います。

    日本は四方が海に面していますが、海が見える神社はさほど数が多いわけではなく、山に鎮座する神社の方が圧倒的に数が多いと言えます。

    しかし日向国には、その数少ない海の神殿が集中しているように思います。

    楼門は、さながら海の宮殿への入り口のように参拝客を迎え入れます。

    鵜戸神宮 寺・神社・教会

  • 楼門から先は、海へと下って行く「下り宮」の参道が続きます。<br /><br />もし暴風雨の日に参拝すれば、この参道は荒波が打ち付ける修行の道と化します。<br /><br />参道の途中にかかる「玉橋」は、かつて金剛界三十七尊の名前が記された37枚の板によって作られていたため、参拝者は履物を脱いで渡ったのだそうです。<br /><br />ここにも神仏習合という日本独自の信仰が根付いていました。

    楼門から先は、海へと下って行く「下り宮」の参道が続きます。

    もし暴風雨の日に参拝すれば、この参道は荒波が打ち付ける修行の道と化します。

    参道の途中にかかる「玉橋」は、かつて金剛界三十七尊の名前が記された37枚の板によって作られていたため、参拝者は履物を脱いで渡ったのだそうです。

    ここにも神仏習合という日本独自の信仰が根付いていました。

  • 参道の最も奥まで下って行くと、今にも上から押しつぶされそうな低い天井の窟屋の中に、本殿が鎮座しています。<br /><br />こちらに御祭神の日子波瀲武鸕?草葺不合尊(ウガヤフキアエズ命)が鎮まっています。<br /><br />ウガヤフキアエズ命は神武天皇の父神でありながら、その生涯の多くは謎に包まれています。<br /><br />ただし出生譚だけは詳しく伝えられています。<br /><br />父山幸彦が海神の宮殿で結婚した豊玉姫は、やがて御子を身ごもりました。<br /><br />いよいよ出産が近くなった時、山幸彦は鵜の羽を葺いて産屋を建てようとしましたが、あまりに出産が早まったため、葺いている途中で産屋に入ってしまい、出産している姿を決して見ないよう山幸彦に念を押したのでした。<br /><br />しかし母子の無事を心配する山幸彦が産屋の中を除くと、そこには大きな鰐がのたうっている姿があったのでした。<br /><br />豊玉姫は自分の本当の姿を見られたことを恥じ、生まれた御子(ウガヤフキアエズ命)を残して海の国へ帰ってしまったのでした。<br /><br />鵜戸神宮の本殿が鎮座する窟は、豊玉姫の産屋があった場所であると伝えられています。<br /><br />また、窟の奥には霊水がしたたり落ちる「お乳岩」があり、御子のために残された豊玉姫の乳であると信じられています。

    参道の最も奥まで下って行くと、今にも上から押しつぶされそうな低い天井の窟屋の中に、本殿が鎮座しています。

    こちらに御祭神の日子波瀲武鸕?草葺不合尊(ウガヤフキアエズ命)が鎮まっています。

    ウガヤフキアエズ命は神武天皇の父神でありながら、その生涯の多くは謎に包まれています。

    ただし出生譚だけは詳しく伝えられています。

    父山幸彦が海神の宮殿で結婚した豊玉姫は、やがて御子を身ごもりました。

    いよいよ出産が近くなった時、山幸彦は鵜の羽を葺いて産屋を建てようとしましたが、あまりに出産が早まったため、葺いている途中で産屋に入ってしまい、出産している姿を決して見ないよう山幸彦に念を押したのでした。

    しかし母子の無事を心配する山幸彦が産屋の中を除くと、そこには大きな鰐がのたうっている姿があったのでした。

    豊玉姫は自分の本当の姿を見られたことを恥じ、生まれた御子(ウガヤフキアエズ命)を残して海の国へ帰ってしまったのでした。

    鵜戸神宮の本殿が鎮座する窟は、豊玉姫の産屋があった場所であると伝えられています。

    また、窟の奥には霊水がしたたり落ちる「お乳岩」があり、御子のために残された豊玉姫の乳であると信じられています。

  • 海には「御舟岩」「二柱岩」「扇岩」「雀岩」「夫婦岩」という珍しい形をした岩が浮かんでいます。<br /><br />また、「亀石」には5個の「運玉」を投げて願掛けすることができます。

    海には「御舟岩」「二柱岩」「扇岩」「雀岩」「夫婦岩」という珍しい形をした岩が浮かんでいます。

    また、「亀石」には5個の「運玉」を投げて願掛けすることができます。

  • 参拝を終えて戻る途中に、「神武天皇御降誕伝説地」の碑を見付けました。<br /><br />さらにその奥には、ウガヤフキアエズ命の陵墓と伝えられる吾平山御陵へ続く参道があります。

    参拝を終えて戻る途中に、「神武天皇御降誕伝説地」の碑を見付けました。

    さらにその奥には、ウガヤフキアエズ命の陵墓と伝えられる吾平山御陵へ続く参道があります。

  • 沿岸地域の主な神社は参拝したので、午後からは内陸に入ることにしました。<br /><br />目指したのは飫肥城跡です。<br /><br />飫肥城が築かれたのは南北朝時代で、築城したのは宇佐八幡宮の神官の血を引く土持氏でした。<br /><br />その後、土持氏を裏切った伊東氏が所有するところとなりましたが、島津氏に攻められて何度も城主が変わることとなります。<br /><br />飫肥城を奪還することに執念を燃やす伊東氏は、豊太閤の九州征伐で軍功を挙げるという方法で、ついに飫肥城を手に入れ、幕末まで治めることとなったのでした。

    沿岸地域の主な神社は参拝したので、午後からは内陸に入ることにしました。

    目指したのは飫肥城跡です。

    飫肥城が築かれたのは南北朝時代で、築城したのは宇佐八幡宮の神官の血を引く土持氏でした。

    その後、土持氏を裏切った伊東氏が所有するところとなりましたが、島津氏に攻められて何度も城主が変わることとなります。

    飫肥城を奪還することに執念を燃やす伊東氏は、豊太閤の九州征伐で軍功を挙げるという方法で、ついに飫肥城を手に入れ、幕末まで治めることとなったのでした。

    飫肥城跡 名所・史跡

  • 大手門を含む多くの構造物は戦後の復元ですが、味わい深い空間となっています。<br /><br />石段を上ると飫肥城歴史資料館があります。<br /><br />天守閣は復元されていません。

    大手門を含む多くの構造物は戦後の復元ですが、味わい深い空間となっています。

    石段を上ると飫肥城歴史資料館があります。

    天守閣は復元されていません。

  • 飫肥で見たかったのは、どちらかというと城よりも藩校の方でした。<br /><br />飫肥藩の藩校は天保2年に設立された振徳堂です。<br /><br />分かりにくい場所ですが、飫肥城の大手門から徒歩7分ほどの場所に位置します。<br /><br />玄関長屋門は当時のまま現存しており、すぐ近くで見ることが可能です。<br /><br />振徳堂では安井息軒などが教鞭を振い、小村寿太郎や小倉処平などが学びました。<br /><br />小村寿太郎は明治を代表する外交官で、その生家は大正10年に振徳堂からすぐの所に移築されました。<br /><br />小村寿太郎といえば、明治44年の条約改正によって関税自主権を回復したという功績が挙げられます。<br /><br />しかし生前は、日露戦争で多くを犠牲にしたにもかかわらず、得るところの少ないポーツマス条約を結んだ大使として非難されました。<br /><br />またハリマンから提案された南満州鉄道の共同経営案に対し、反対を押し切ったことは、今にして思えばアメリカとの友好関係の崩壊の序章であったと言えます。<br /><br />小倉処平は西南戦争に参加した飫肥藩士で、「飫肥西郷」と呼ばれた人物です。<br /><br />イギリスへの留学経験があり、明治政府から文部官僚に抜擢されましたが、政府の急進的な西洋化政策に反感を強め、前原一誠や江藤新平らと親交を深めます。<br /><br />佐賀の乱に敗れた江藤新平を匿ったことで禁固刑に処せられた、この一事をもってしても小倉処平の義侠心に偽りのないことは明らかです。<br /><br />彼は西郷隆盛が挙兵したのを聞くと、三個小隊を率いて飫肥で旗揚げしました。<br /><br />そして西郷軍とは別に政府軍を挟み撃ちすることを提案しますが、聞き入れられず、飫肥隊は敗戦によって解散することとなります。<br /><br />小倉処平自身は傷を負いながらも西郷軍に加わって戦い続けますが、移動の途中で置き去りにされてしまい、その場で自刃したのでした。

    飫肥で見たかったのは、どちらかというと城よりも藩校の方でした。

    飫肥藩の藩校は天保2年に設立された振徳堂です。

    分かりにくい場所ですが、飫肥城の大手門から徒歩7分ほどの場所に位置します。

    玄関長屋門は当時のまま現存しており、すぐ近くで見ることが可能です。

    振徳堂では安井息軒などが教鞭を振い、小村寿太郎や小倉処平などが学びました。

    小村寿太郎は明治を代表する外交官で、その生家は大正10年に振徳堂からすぐの所に移築されました。

    小村寿太郎といえば、明治44年の条約改正によって関税自主権を回復したという功績が挙げられます。

    しかし生前は、日露戦争で多くを犠牲にしたにもかかわらず、得るところの少ないポーツマス条約を結んだ大使として非難されました。

    またハリマンから提案された南満州鉄道の共同経営案に対し、反対を押し切ったことは、今にして思えばアメリカとの友好関係の崩壊の序章であったと言えます。

    小倉処平は西南戦争に参加した飫肥藩士で、「飫肥西郷」と呼ばれた人物です。

    イギリスへの留学経験があり、明治政府から文部官僚に抜擢されましたが、政府の急進的な西洋化政策に反感を強め、前原一誠や江藤新平らと親交を深めます。

    佐賀の乱に敗れた江藤新平を匿ったことで禁固刑に処せられた、この一事をもってしても小倉処平の義侠心に偽りのないことは明らかです。

    彼は西郷隆盛が挙兵したのを聞くと、三個小隊を率いて飫肥で旗揚げしました。

    そして西郷軍とは別に政府軍を挟み撃ちすることを提案しますが、聞き入れられず、飫肥隊は敗戦によって解散することとなります。

    小倉処平自身は傷を負いながらも西郷軍に加わって戦い続けますが、移動の途中で置き去りにされてしまい、その場で自刃したのでした。

    振徳堂 名所・史跡

  • 宿泊地の宮崎市に戻る途中、潮獄神社に参拝しました。<br /><br />潮獄神社は海幸山幸神話の海幸彦(火闌降命・火照命)を主祭神に祀る神社です。<br /><br />神職が常駐している様子はなく、看板を見落とすと通り過ぎてしまいます。<br /><br />潮獄神社は海幸彦の宮居があった場所に当たり、神武天皇の時代に創建されたと伝えられています。<br /><br />弟の山幸彦に懲らしめられた後、海幸彦はどうなったのでしょうか。<br /><br />記録上では、南九州の原住民である隼人族の祖になったとされています。

    宿泊地の宮崎市に戻る途中、潮獄神社に参拝しました。

    潮獄神社は海幸山幸神話の海幸彦(火闌降命・火照命)を主祭神に祀る神社です。

    神職が常駐している様子はなく、看板を見落とすと通り過ぎてしまいます。

    潮獄神社は海幸彦の宮居があった場所に当たり、神武天皇の時代に創建されたと伝えられています。

    弟の山幸彦に懲らしめられた後、海幸彦はどうなったのでしょうか。

    記録上では、南九州の原住民である隼人族の祖になったとされています。

    潮獄神社 寺・神社・教会

  • 宮崎市中心部の手前、清武に安井息軒旧宅があります。<br /><br />安井息軒は幼い頃から貧しい家計を助けつつ学問に励み、大阪や江戸への遊学を経て、ここ清武に学問所「明教堂」を開設しました。<br /><br />その儒の教えが評価され、飫肥藩校振徳堂の助教授に任命されたため、飫肥城下に転居しました。<br /><br />その後、江戸へ移って谷干城や陸奥宗光などにも教えを授けたのでした。

    宮崎市中心部の手前、清武に安井息軒旧宅があります。

    安井息軒は幼い頃から貧しい家計を助けつつ学問に励み、大阪や江戸への遊学を経て、ここ清武に学問所「明教堂」を開設しました。

    その儒の教えが評価され、飫肥藩校振徳堂の助教授に任命されたため、飫肥城下に転居しました。

    その後、江戸へ移って谷干城や陸奥宗光などにも教えを授けたのでした。

    安井息軒旧宅 名所・史跡

  • 生家の隣り、明教堂のあった跡地にはきよたけ歴史館があり、肖像画や遺言状など安井息軒に関連する資料が展示されています。<br /><br /><br />

    生家の隣り、明教堂のあった跡地にはきよたけ歴史館があり、肖像画や遺言状など安井息軒に関連する資料が展示されています。


  • 午前中あれほど晴れ渡っていた空でしたが、だんだんと雲が増えてきました。<br /><br />雨が降り始める前に、この日の予定を終えなければなりません。<br /><br />次に訪れたのは宮崎市内に鎮座する宮崎神宮です。<br /><br />御祭神の神日本磐余彦天皇は神武天皇のことです。<br /><br />社殿によると、神武天皇の孫に当たる健磐龍命が九州の長官に就任した際に創建したのが始まりで、第10代崇神天皇、第12代景行天皇の時に熊襲征伐に際して社殿が造営されたとのことです。

    午前中あれほど晴れ渡っていた空でしたが、だんだんと雲が増えてきました。

    雨が降り始める前に、この日の予定を終えなければなりません。

    次に訪れたのは宮崎市内に鎮座する宮崎神宮です。

    御祭神の神日本磐余彦天皇は神武天皇のことです。

    社殿によると、神武天皇の孫に当たる健磐龍命が九州の長官に就任した際に創建したのが始まりで、第10代崇神天皇、第12代景行天皇の時に熊襲征伐に際して社殿が造営されたとのことです。

    宮崎神宮 寺・神社・教会

  • 神武天皇は日向国美々津浜から船出して、速吸門(豊後水道)を通り抜けて宇佐と筑紫に立ち寄られ、安芸国や吉備国で態勢を整えました。<br /><br />難波津における激戦で兄五瀬命が斃れたため、紀伊国の竈山に葬り、紀伊半島を廻り込むようにして熊野から上陸し、ナガスネヒコとの戦いに勝って、饒速日命を服従させたのでした。<br /><br />そして即位した場所が大和国の橿原で、現在は橿原神宮が鎮座しています。<br /><br />饒速日命の子孫は物部氏を名乗り、朝廷の軍事を司る豪族となります。<br /><br />ここで疑問になるのが、降伏する際に饒速日が述べた「私も天照大御神の血筋で、天孫降臨をした者だ」という言葉です。<br /><br />その言葉が真実であるのなら、神武天皇と饒速日命は親戚ということになります。<br /><br />饒速日命は天皇になり損ねた人物だったのでしょうか。

    神武天皇は日向国美々津浜から船出して、速吸門(豊後水道)を通り抜けて宇佐と筑紫に立ち寄られ、安芸国や吉備国で態勢を整えました。

    難波津における激戦で兄五瀬命が斃れたため、紀伊国の竈山に葬り、紀伊半島を廻り込むようにして熊野から上陸し、ナガスネヒコとの戦いに勝って、饒速日命を服従させたのでした。

    そして即位した場所が大和国の橿原で、現在は橿原神宮が鎮座しています。

    饒速日命の子孫は物部氏を名乗り、朝廷の軍事を司る豪族となります。

    ここで疑問になるのが、降伏する際に饒速日が述べた「私も天照大御神の血筋で、天孫降臨をした者だ」という言葉です。

    その言葉が真実であるのなら、神武天皇と饒速日命は親戚ということになります。

    饒速日命は天皇になり損ねた人物だったのでしょうか。

  • 宮崎神宮は広大な森に囲まれており、宮崎県護国神社もその森の中に鎮座しています。<br /><br />全国の護国神社はほとんどが明治維新の直後に創建されていますが、宮崎県は小藩が分立していたという事情があって、県内全域の御英霊を祀る社が一つに定まっていませんでした。<br /><br />護国神社が着工したのは、先の大戦が始まり、戦死者の数が急増した昭和18年のことです。<br /><br />しかし完成を見ずに敗戦となり、占領によって建設計画は中止となってしまいました。<br /><br />護国神社が創建したのは、占領軍が去ってからの昭和30年のことでした。<br /><br />現在、靖国神社が鎮座する東京を除き、47都道府県で護国神社がないのは神奈川県だけです。<br /><br />神奈川県では、一部の住民の間で護国神社創建を目指す呼びかけが行われているようですが、その創建が実現するまでの間は宮崎県護国神社が最も新しい護国神社でいられそうです。

    宮崎神宮は広大な森に囲まれており、宮崎県護国神社もその森の中に鎮座しています。

    全国の護国神社はほとんどが明治維新の直後に創建されていますが、宮崎県は小藩が分立していたという事情があって、県内全域の御英霊を祀る社が一つに定まっていませんでした。

    護国神社が着工したのは、先の大戦が始まり、戦死者の数が急増した昭和18年のことです。

    しかし完成を見ずに敗戦となり、占領によって建設計画は中止となってしまいました。

    護国神社が創建したのは、占領軍が去ってからの昭和30年のことでした。

    現在、靖国神社が鎮座する東京を除き、47都道府県で護国神社がないのは神奈川県だけです。

    神奈川県では、一部の住民の間で護国神社創建を目指す呼びかけが行われているようですが、その創建が実現するまでの間は宮崎県護国神社が最も新しい護国神社でいられそうです。

    宮崎県護国神社 寺・神社・教会

  • 護国神社の神職の方から道順を聞き、八紘一宇の塔を目指しました。<br /><br />八紘一宇とは、神武天皇が橿原宮で即位した際に「八紘を掩いて宇(いえ)と為さむ」と言ったことに由来する言葉で、人類が皆ひとつの屋根の下で手を取り合うという理想を表しています。<br /><br />この言葉は、先の大戦で日本が他国を勢力下に入れる際に、白人による人種差別への抵抗という意味も込めてしばしば使われました。<br /><br />日本にとっては、世界で最も由緒ある天皇が全世界の統治者になるという平和秩序を目指してのことだったのでしょうが、支配される側にとっては白人であろうが日本人であろうが迷惑なことに変わりありません。<br /><br />今でも八紘一宇を独りよがりで好都合な解釈で口にする者がおります。<br /><br />そういう人に限って自分は真の保守派だと思っているようですが、このような主張は決して日本のためにも人類のためにもならない妄想であることを肝に銘じてほしいと思います。<br /><br />神武天皇も幽界で嘆いておられるでしょう。<br /><br />八紘一宇の塔の正式名称は「八紘之基柱」で、皇紀2600年を記念して建立されました。<br /><br />四方には信楽焼による武人の「荒御魂」、商工人の「和御魂」、農耕人の「幸御魂」、漁人の「奇御魂」の四神像が配置されています。<br /><br />敗戦後に八紘一宇の文字と荒御魂像が撤去され、名称も「平和の塔」と改変されましたが、文字と荒御魂像は戦後に復元されました。<br /><br />塔に着いたとたん雨が降り出したのは、まるで決められていた演出のようでした。<br /><br />明治維新後、天皇を頂点とする世界秩序を目指した黒幕が、この塔には住んでいるのです。<br /><br />その思想は数百万の日本人を死に追いやり、その何倍もの日本人から財産を奪い、天皇に軍服を着せて絞首刑に送る寸前にまで至らしめたのでした。<br /><br />雨が強さを増し、雷も聞こえてきました。<br /><br />この黒幕との戦いは、ペンによって行われることになるでしょう。<br /><br />黒幕を倒した時、明治レジームからの脱却が始まります。

    イチオシ

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    護国神社の神職の方から道順を聞き、八紘一宇の塔を目指しました。

    八紘一宇とは、神武天皇が橿原宮で即位した際に「八紘を掩いて宇(いえ)と為さむ」と言ったことに由来する言葉で、人類が皆ひとつの屋根の下で手を取り合うという理想を表しています。

    この言葉は、先の大戦で日本が他国を勢力下に入れる際に、白人による人種差別への抵抗という意味も込めてしばしば使われました。

    日本にとっては、世界で最も由緒ある天皇が全世界の統治者になるという平和秩序を目指してのことだったのでしょうが、支配される側にとっては白人であろうが日本人であろうが迷惑なことに変わりありません。

    今でも八紘一宇を独りよがりで好都合な解釈で口にする者がおります。

    そういう人に限って自分は真の保守派だと思っているようですが、このような主張は決して日本のためにも人類のためにもならない妄想であることを肝に銘じてほしいと思います。

    神武天皇も幽界で嘆いておられるでしょう。

    八紘一宇の塔の正式名称は「八紘之基柱」で、皇紀2600年を記念して建立されました。

    四方には信楽焼による武人の「荒御魂」、商工人の「和御魂」、農耕人の「幸御魂」、漁人の「奇御魂」の四神像が配置されています。

    敗戦後に八紘一宇の文字と荒御魂像が撤去され、名称も「平和の塔」と改変されましたが、文字と荒御魂像は戦後に復元されました。

    塔に着いたとたん雨が降り出したのは、まるで決められていた演出のようでした。

    明治維新後、天皇を頂点とする世界秩序を目指した黒幕が、この塔には住んでいるのです。

    その思想は数百万の日本人を死に追いやり、その何倍もの日本人から財産を奪い、天皇に軍服を着せて絞首刑に送る寸前にまで至らしめたのでした。

    雨が強さを増し、雷も聞こえてきました。

    この黒幕との戦いは、ペンによって行われることになるでしょう。

    黒幕を倒した時、明治レジームからの脱却が始まります。

    平和台公園 公園・植物園

  • 本当は「皇軍発祥の地」の碑があるという皇宮神社を参拝したかったのですが、大雨によって外を歩くこともままならず、駐車できるスペースも見つからないことから、断念することにしました。<br /><br />ホテルにチェックインし、近くの居酒屋で夕食をとることにしました。<br /><br />昼食を食べることも忘れて、一日中動き回りました。<br /><br />宮崎の酒や焼酎を味わいながら、地鳥鶏の炭火焼を食べました。

    本当は「皇軍発祥の地」の碑があるという皇宮神社を参拝したかったのですが、大雨によって外を歩くこともままならず、駐車できるスペースも見つからないことから、断念することにしました。

    ホテルにチェックインし、近くの居酒屋で夕食をとることにしました。

    昼食を食べることも忘れて、一日中動き回りました。

    宮崎の酒や焼酎を味わいながら、地鳥鶏の炭火焼を食べました。

  • また、興味があったので冷や汁も注文しました。<br /><br />薄味のぬるい味噌汁をご飯にかけて食べます。<br /><br />宮崎の郷土料理で、忙しい農作業の合間に素早く食べられるものとして好まれたのだと言われています。

    また、興味があったので冷や汁も注文しました。

    薄味のぬるい味噌汁をご飯にかけて食べます。

    宮崎の郷土料理で、忙しい農作業の合間に素早く食べられるものとして好まれたのだと言われています。

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