2014/09/22 - 2014/09/23
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倫清堂さん
一週間の日程で九州南部の旅を実現しました。
出雲での滞在調査を終えて一ヶ月あまりしか経っておらず、調査結果のまとめも書き始めたばかり。
自分の中で消化し切れないのではと思いつつ、諸国一之宮巡礼の旅の終着点が近いことも意識の中にあって、九州の南半分を回りたいという衝動を止めることは出来ませんでした。
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仙台空港からスカイマーク便で福岡空港へ飛び、電車を乗り継いで久留米へと向かいます。
計画の段階で、博多駅から久留米駅までは特急ゆふいんの森に乗ることにしていました。
しかし博多駅で切符を買おうとすると、みどりの窓口でしか買えないことが判明。
発車時間まで間もないのですが、仕方なく行列の最後尾に並び、列が前に進むのを待ちます。
窓口上の電光掲示板を見ると、お目当てのゆふいんの森3号は空席なしの表示。
それでも何か乗車の手段があるのではと思って並び続け、ようやく自分の番が回って来たので訪ねてみると、久留米までなら空席があるとのことでした。
なるほど、ほとんどの人にとって目的地は湯布院なので、久留米より先からの切符を買っている人もいるのでしょう。
発車の約5分前に電車に乗り込むことが出来ました。博多駅 駅
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久留米駅からはバスに乗り、吉野ヶ里遺跡を目指します。
初めての土地でバスに乗るのは非常に不安で、久留米から佐賀方面へ向かう路線バスも便数はとても少なく、乗り遅れたら全ての予定が大きく狂ってしまうでしょう。
バスの運転手は新人らしく、丁寧な運転を心がけているのですが、かなり遅延して目的地に到着しました。
帰りのバス停と時刻表を確認し、吉野ヶ里歴史公園まで歩いて行きました。吉野ヶ里歴史公園 (吉野ヶ里遺跡) 名所・史跡
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吉野ヶ里遺跡での一番の目的は、特別企画展を見学することです。
よみがえる邪馬台国というテーマで、今回の特集は邪馬台国の外交拠点「伊都国」でした。
わざわざ出雲に住んで研究することになった対象の一つが、展示品としてここに来ていたのです。
出雲と伊都国との関係についての謎には、今回のテーマを研究し終えてから挑むことになります。 -
帰りのバスの時間まで多少余裕があるので、公園内を散策してみることにしました。
吉野ヶ里遺跡は、弥生時代から古墳時代初めにかけての集落跡や墓地跡などが発掘された遺跡で、国内に数多く分布する遺跡の中でも最も規模の大きい遺跡の一つに数えられます。
自分にとって最も興味があるのは、古代の祭祀場の姿です。
祭祀場と思われるのは「北内郭」という地区ですが、広大な敷地を持つ公園のずっと遠くに位置するため、そこまで歩くことは断念しました。 -
見学できたのは倉と市、また「南内郭」やムラ跡などです。
物見櫓も間近で見ることが出来ました。
吉野ヶ里遺跡では、小さな子供を対象に、古代住居での宿泊体験が行われていることを知りました。
こういう場所で寝たら、夢の中で古代にタイムスリップしそうです。
時間に間に合うようにバス停へ向かい、無事に予定のバスに乗ることが出来ました。 -
久留米まで戻らず、手前のバス停で途中下車しました。
目指す肥前国一之宮、千栗八幡宮は、バス停のすぐ目の前です。
ただ、お宮は丘の上に鎮座しているので、長い階段を登らなければなりません。
途中ですれ違った子供に、「こんにちは」と挨拶されました。
この地域では、知らない人に対しても挨拶を行えるような教育が行われているのでしょうか。
その疑問を解くカギは、この長い石段にあったのでした。
「栄光への石段」と名付けられるこの石段は、柔道の金メダリストである古賀稔彦選手が、何度も往復して身体を鍛えた場所だったのです。
しかし、それだけでは子供の挨拶とは結び付きません。
その深い理由を教えてくれたのは、神社の宮司さんでした。
古賀稔彦選手はほとんど毎日のようにこの千栗八幡宮を訪れ、石段を駆け上がり駆け下り、稽古を続けていました。
その際、神様に対しての礼をすることを欠かさなかったのでした。
最近、テレビに映る柔道選手は、試合において形だけの礼しかしません。
というよりも、教えられていないから出来ないのかも知れません。
礼とは、腰を折って一度停止する動作のことで、停止しないで頭を下ろすだけの仕草は礼とは言わないのです。 -
宮司さんとお話し出来たきっかけは、神社が所有する安土桃山時代の狛犬を拝見するために願い出たことでした。
社殿に昇らせて頂く際、靴の尻を神様に向けないように置いたところ、あなたは礼儀をしっかり学んでいるとお褒めの言葉を頂きました。
地元で神社参拝を行う際、師匠から教えて頂いた作法です。
宮司さんの話によると、狛犬は外国人の間で高値で取引されており、野外に置いておくと車を使って盗まれるそうです。
実際、兼務する神社は被害に遭ってしまったとのことでした。
運よくオークションで見付けても、買い戻すしか手はなく、売れてしまえば取り戻す手段はないそうです。
本当に困った時代になったものです。
千栗八幡宮は聖武天皇の御代、神亀元年の御創建で、宇佐神宮の別宮と称されて来ました。
戦国時代までに何度も焼けますが、龍造寺政家によって再興され、江戸時代には鍋島藩の保護を受け、篤く崇敬されていたとのことです。千栗八幡宮 寺・神社・教会
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千栗八幡宮から歩くこと30分。
筑後川を渡り、その川岸に鎮座する水天宮に到着しました。
東京に住んでいた頃、地下鉄半蔵門線の終着駅が水天宮前ということを知っていましたが、結局一度も参拝せずに故郷へ戻りました。
東京の水天宮より、本宮たる福岡の水天宮を先に参拝することになったのでした。
水天宮に祀られるのは、壇ノ浦の戦いで海底の都へと遷座された安徳天皇など4柱。
創祀は寿永4年、高倉平中宮に仕えていた按察使局の伊勢によります。
本殿を囲むように三十八種の椿が植えられていますが、この季節に花を見ることは出来ません。
安徳天皇は実は海に沈まず、匿われて戦場を逃れられたという伝説が残ります。
人目を避けて行在所とされた筑後河畔の千寿院には、美しい椿の花が咲いていたそうです。
ちなみに、生存説においても安徳天皇は27歳の若さで崩御されています。水天宮 寺・神社・教会
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明治維新の立役者であった真木和泉守は、水天宮の第22代代宮司を務めました。
国学や和歌を学び、吉田松陰の後継者と称されていた真木和泉守ですが、藩士として久留米藩に藩政改革を申し入れたものの失敗して蟄居を命じられ、水田天満宮の梔子窩(くちなしのや)を住まいとして、密かに後進の指導に当たったのでした。
11年間の幽閉を経て脱出した際には、
やがて世の春に匂はん梅の花
かた山里の一重なりとも
の歌を残しています。
梔子窩は水天宮の境内に移築されています。 -
その後の真木和泉守は、誰よりも早く薩長が手を結ぶ利を説き、長州の尊皇攘夷派とともに行動しました。
元治元年、京都守護を担当していた会津藩と対立し、禁門の変を戦いますが、会津と薩摩の連合軍の前に敗れ、同志16人とともに天王山に登り自害したのでした。
辞世の句は
大山の峰の岩根に埋にけり
わが年月の大和魂
です。
水天宮には、天王山においてともに自刃した16名と、それとは別に国難に殉じた門下生12名とともに真木和泉守を祀る、眞木神社が鎮座しています。
水天宮から徒歩で久留米駅まで移動し、荷物をロッカーから出して、バスで西鉄久留米駅まで移動。
宿泊場所へ到着しました。
夕食に、西鉄久留米駅のビルにある光華楼であんかけ焼きそばを食べました。
戦後の久留米の発展に寄与した中華料理店です。 -
西鉄久留米駅から大牟田線特急を利用し、大牟田駅でJR鹿児島線に乗り換え、約2時間かけて熊本駅に到着しました。
熊本市内の目的地は徒歩圏内に密集しているので、この日は一日足を使っての散策になります。
重い荷物は、駅近くに位置するホテルに預けることにしました。
身軽になって市電に乗り込み、熊本城最寄りの熊本城・市役所前駅で下車。
既に正午近くになっているので、観光客の姿も多く、お堀や石垣の写真を取る人の姿も多く見られます。
城内へ進む前に、赤い鳥居が見えたので、参拝することにしました。
なんとなく商業的な匂いを感じる神社でしたが、熊本城稲荷神社という400年の歴史を持つ神社です。
熊本城を築いた加藤清正公が、お国入りの際に勧請したのが始まりです。熊本城稲荷神社 寺・神社・教会
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須戸口門の受付に入場料を払い、城内の案内地図を頂きました。
門の両側に高い石垣が聳え、もしその上から矢を射かけられたら一巻の終わりだと想像したりしながら、先へと進みました。 -
熊本城の天守閣や櫓の多くは、西南戦争によって焼失してしまいましたが、奇蹟的に現存している建造物もあります。
東竹之丸にある平櫓は、そのうちの5棟で、現在は国の重要文化財に指定されています。
そのうちの一つ、田子櫓が内部公開されていました。
慶長年間に建造されたと考えられており、現在の櫓は慶應元年の再建です。
鉄砲隊の道具が収納されていたことが分かっています。 -
イチオシ
熊本城は全国のどの城よりも石垣に魅力があります。
だれが数えたのか分かりませんが、表に見えているだけでも15万個の石が確認できるとのことです。
広大な敷地の、石垣が見える数々の風景のうち、最も気に入ったのが本丸へ続く坂道の石垣です。 -
本丸へ進むと、そこには大きな公孫樹が植えられています。
豊太閤の命令で朝鮮征伐に赴いた清正公は、兵糧どころか水さえも不足する蔚山倭城で籠城戦を強いられ、水と食料の重要性をいやというほど実感させられました。
そこで日本に凱旋した後に築いた熊本城には、城内に食用に供せられる植物を植えただけでなく、建築物にも非常食になり得る素材を用いて、いざという時のために備えたのでした。
この公孫樹もそのような木のひとつで、築城の際に植えられ、西南戦争で焼けてしまいますが、奇蹟的に新たに芽を吹き出して、ここまで成長したのです。 -
城内における実質的な生活の場が、本丸御殿です。
熊本城の本丸御殿は、慶長15年頃に清正公によって築かれ、寛永10年から細川忠利公によって増築工事が進められ、53室に及ぶ大規模な屋敷が完成しましたが、西南戦争の直前に焼失してしまいました。
しかし戦後になって復元を望む声が高まり、平成20年に大広間や大台所などが完成、公開される運びとなりました。熊本城本丸御殿~秋夜の宴~ 祭り・イベント
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最も格式の高い「昭君の間」には、城主の清正公でさえ座ることはありませんでした。
清正公がここに迎えることを想定した人物とは、かつて君主と仰いだ豊臣秀吉公の嫡男、秀頼公だったと言われています。
清正公は若い頃から秀吉公の子飼いとして数々の武功を挙げた、家臣の中でも最も信頼の厚い一人でした。
しかし豊太閤の死後、文治派の石田三成と敵対し、関ヶ原の戦いでは福島正則らとともに東軍に属して、徳川の軍勢とともに戦ったのでした。
石田三成は処断され、大阪城と豊臣の血筋は残りましたが、清正公は肥後国を与えられたことにより、秀頼公から遠く離されてしまったのでした。
清正公は本心から徳川家康公を信用してはいなかったのでしょう。
もし徳川家が本気で豊臣家を滅ぼすことを画策するなら、ここ熊本城に秀頼公を迎え、一戦交える覚悟でいたのだと思われます。
しかし清正公は、二条城で家康公と秀頼公が会見した直後、急に体調を崩して亡くなってしまいました。
徳川家にとってあまりに都合の良い時期の死去とあって、毒殺説がささやかれたりもしました。
清正公亡きあと、彼が憂えたとおり、徳川幕府は大阪の陣によって豊臣家を滅ぼしてしまったのでした。 -
イチオシ
本丸御殿の見学を終え、いよいよ天守閣へ登ります。
加藤清正公が築いた天守閣は、明治10年に西南戦争によって焼失してしまい、現在の天守閣は昭和35年に再建されたものです。
天守閣がどのような経緯で焼けることになったのか、実はまだ結論が出ていません。
最も有力な説は、西郷郡を迎え撃つために立てこもった政府軍の谷干城・児玉源太郎が、兵の士気を高めるために天守閣を焼いたというものです。
これが真相なら、明治政府に連なる人々の異常性がますます明確になります。
日本の破壊は大東亜戦争の敗戦から始まったのではなく、薩長政権が徳川家から政権を簒奪したことから始まります。
彼らは、歴史の重みに後足で砂をかける真似をして、城をはじめとする建物を破壊し、一方で歴史を利用して、建武中興の忠臣を人の道の見本に祭り上げました。
天皇の名の下に有為の若者たちを戦場に送り、その大部分を餓死させたのも、明治維新の精神性の延長にあると言えるのかも知れません。熊本城 名所・史跡
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イチオシ
天守閣から比較的近い場所に位置する宇土櫓は、現存する建造物の中でも最も規模の大きな建物です。
奇蹟的に戦火を免れることがで出来ました。
大小天守に次ぐ「第三の天守」とも呼ばれています。
直線的な破風は天正期の特徴です。
宇土櫓も内部を見学可能で、復元された天守と違い、本物の城を感じることが出来ます。 -
宇土櫓の北に、加藤神社が鎮座しています。
加藤清正公は「せいしょこさん」と呼ばれ、今でも熊本の人々から敬われています。
彼が生まれたのは、豊臣秀吉公の生家とも近い尾張国愛知郡中村で、秀吉公が長浜城主になった頃から小姓として仕えていました。
信長公の後継者争いの様相となった賤ヶ岳の戦いでは、自慢の槍で敵将を討ち取るなど戦功を挙げ、「賤ヶ岳七本槍」の一人に数えられるようになりました。
秀吉公と不仲であった佐々成政が、肥後国で起きた一揆の責任を負わされて切腹させられ、代わって清正公が改易となったのでした。
朝鮮征伐においては、虎を退治したという伝説までが残りました。
豊太閤の死後は石田三成との関係が破綻し、家康公に近づいてその養女に当たる清浄院を側室に入れたのでした。
土木・治水を奨励し、熊本が発展する基礎を築いた人物ということもあり、藩主細川家11代韻邦公の弟、長岡護美公によって、その御霊を祀る加藤神社が創建されたのでした。加藤神社 寺・神社・教会
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せっかく共通券を買ったので、少し距離がありますが、旧細川刑部邸を訪れることにしました。
細川家は、加藤家が廃絶した後に熊本藩を治めた大名です。
清正公の死後、二代目加藤忠広公が加藤家を継ぎましたが、徳川家光公の弟、徳川忠長公による謀反の企てに連座した疑いを理由に、加藤家はお取り潰しとなったのでした。
代わって熊本城に入ったのが、細川忠興公の三男、忠利公でした。
その忠利公の弟、興孝公が、細川刑部家の祖とされます。
刑部家は細川一族でも特に重用され、家禄一万石を給せらました。
興孝公は延宝6年、熊本城かの子飼町にお茶屋を建造しました。
そのお茶屋が次第に増築され、大規模な邸宅として整備されたのが、細川刑部邸です。
熊本市で平成2年度から進められた特別事業により、現在地に移転・修復されたのでした。旧細川刑部邸 名所・史跡
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天守閣からかなり離れているためか、観光客のすがたはほとんどありません。
内部をゆっくり見学することができました。
広い邸内の中心部に位置する表御書院は、最も格式の高い部屋で、直臣しか入ることが許されませんでした。 -
11代興増公が建てた御茶室観川亭は、至るところがこだわりの造りとなっていますが、近くまで行くことが出来ませんでした。
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野球場の脇の道を通ると、熊本県護国神社の案内看板が見えました。
御創建は明治2年。
肥後藩主細川韶邦公と細川護久公が、池田屋事件で散った宮部鼎蔵など、維新動乱で命を落とした150余人を祀ったのが始まりです。
社務所には、明治天皇の史跡を巡るグループのメンバーによる寄せ書きの色紙が掲げてあり、その中に知人の名前を見付けました。
その時、大切なことを思い出しました。
熊本市では今年の建国記念日に、幻の名曲「海道東征」が演奏されたということを。
「海道東征」は「海ゆかば」と同じ信時潔の作曲による、神武天皇の東征を題材にした大規模な交声曲(カンタータ)で、北原白秋が上代の様式で歌詞を書いています。
社務所に詰めていた神職に尋ねてみると、宮司さんがその公演に関わっていたとのこと。
この時はちょうど奥の宮司室で「海道東征」の録音をCDに落としている最中でした。
宮司さんはわざわざお見えになって、公演に至る経緯や参画した人たちの働きをご教示くださり、更に音楽談義に花を咲かせて、あっという間に1時間が過ぎてしまいました。
まだまだ話したいことはたくさんありましたが、この後にも予定が詰まっているため、地元で「海道東征」の公演を企画する際は、改めて助言すると約束して下さいました。 -
天気予報が言っていたとおり、徐々に天気が悪くなって来ました。
旅の日程は1週間にもわたるため、どこかで雨に降られることは覚悟しています。
ただし熊本市内は徒歩移動のため、できれば今は降ってほしくありません。
城内を歩いていると、太田黒伴雄終焉の地の石碑を見付けました。
太田黒伴雄は明治初期に起きた士族反乱の一つ、熊本神風連の乱の指導者です。
ずっと「じんぷうれん」だと思っていましたが、護国神社の宮司は「しんぷうれん」と発音していました。
そちらの方が正しいのだと思います。
神風連の乱は政治的な意味合いよりも宗教的・思想的な意味合いの強い反乱で、直接の原因は政府によって廃刀令が布かれたでした。
乱を起こした敬神党は、熊本藩内で神道や国学を中心とする教育を求める一派で、西洋文明をことごとく拒否し、決起をするかしないかも神前での宇気比(占い)によって決めるほど、純粋な日本主義者たちのグループでした。
政府軍との戦いに近代兵器をいっさい用いず、刀と弓矢で戦い、その多くが自刃したのでした。
昭和の時代に三島由紀夫が豊饒の海第2部「奔馬」で神風連を扱い、私もおおいに影響を受けました。 -
熊本城の縄張りを一回りして、最初に降りた市電の駅前まで戻って来ました。
電車から降りた時には石垣にばかり気を取られて気付きませんでしたが、すぐ近くに加藤清正公の像が建っています。
清正公の像は名古屋城の三の丸でも見たことがありましたが、熊本の像はほぼ同じ姿をしており、もしかすると同一の作品なのかも知れません。
それにしても目立つのは天を突くほどの長い兜。
長烏帽子形兜と名付けられたこの兜は、朝鮮征伐の際にも着用され、蔚山の合戦では九鬼嘉隆が清正公の身替りとなるために借り受けたため、そのまま家宝になったと伝えられています。加藤清正公像 名所・史跡
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昼食を取ろうにも食事を出す店が見つからなかったため、最初に参拝した稲荷神社の喫茶店に入りました。
残念ながら食事は出していないと言われましたが、熊本のご当地キャラクター「くまもん」が書かれたノンアルコールビールとつまみを注文し、気休めにすることにしました。
カウンターの女性は天草出身の方で、九州南部を旅していることを伝えると、天草の良さも紹介してくれました。
残念ながら今回は天草を訪れる余裕がありませんが、女性のお話しを参考に、いずれ行ってみたいと思います。
くまもんのビールには、少量の果汁が含まれているらしく、おいしく頂くことが出来ました。 -
まだ空腹感が残っていましたが、次の目的地へ向けて出発しました。
向かう先は夏目漱石内坪井旧居。
歩いているうちに、少し雨が降って来ました。
日本の文豪として最も有名な一人に挙げられる夏目漱石は、千円札の肖像がでも知られます。
漱石が熊本で暮らし始めたのは明治29年。
第五高等学校の英語教授として任用されたのがきっかけです。
その年の6月には貴族院書記官の長女と結婚し、この内坪井に引っ越してから長女が生まれました。【一部公開】夏目漱石内坪井旧居 名所・史跡
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漱石は明治33年、熊本五高での任務を終えて英国へ留学しました。
彼自身、熊本にいた4年と少しの間に住んだ家の中で、この内坪井の家が最も過ごしやすかったと評価しています。
入館料を支払えば内部を見学することが出来ます。
漱石の等身大の人形がありましたが、こういう人形は急に動き出したりするので苦手です。 -
受付の女性に地図を見せて頂き、次の藤崎八旛宮を目指しました。
雨は降ったりやんだりしています。
熊本電鉄藤崎線の終着駅が最寄り駅の、熊本市内で最もにぎわう神社の一つです。
漱石旧居の前の通りをしばらく進むと、その行き止まりが神社でした。
ということは、この道は長い参道だということです。藤崎八旛宮 寺・神社・教会
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朱雀天皇の勅願によって承平5年に創建された神社で、応神天皇を一宮、住吉大神を二宮、神功皇后を三宮にお祀りしています。
社殿が古くなると勅命が下され、時の国主が古例に倣って造営したということです。
しかし西南戦争によって、壮麗な社殿は焼け落ちてしまいました。
多くの神社は八「幡」と書きますが、ここは八「旛」と書きます。
その理由は、後奈良天皇語宸筆の勅願が理由なのだそうです。 -
次の目的地、小泉八雲熊本旧居まで行く道の途中で、歩行者天国を通りました。
ラーメン屋などが並んでいるので、思わず入りそうになりましたが、夕食の時刻が近いのでぐっと堪えました。
しかし趣のある日本建築の、老舗の飴屋を見付けたので、土産を買うことにしました。
その飴の名は「朝鮮飴」
朝鮮半島由来のキムチ味の飴でないことを祈り、店内へ入りました。
感じのよい店員さんから試食を進められ、朝鮮飴の一片をいただくと、ゼリーのような不思議な食感と淡い上品な味です。
本来の名前は「長生飴」でしたが、清正公が朝鮮征伐に食料として携帯したため、それ以来「朝鮮飴」と呼ばれるようになったとのこと。
純国産と知って、安心して購入しました。老舗園田屋 グルメ・レストラン
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熊本市内で最後の訪問先は、小泉八雲の旧居です。
八雲はアメリカから日本に渡り、松江でお雇い外国人として働き、その後、より高い報酬の熊本五高へ転任して来たのでした。
出雲の楽器を研究する過程で、八雲がその楽器を直接耳にしたことを知り、彼の経歴を詳しく調べると、貧困に苦しんだ前半生であったことが分かりました。
彼は他に神戸や東京にも住んだことがあるとのことなので、機会があったら全て訪れてみたいです。小泉八雲熊本旧居 名所・史跡
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八雲が滞在した頃、松江は古きよき日本の面影を残していましたが、熊本は西南戦争の傷跡が癒えず、軍都としての印象が強くありました。
松江の教え子が人懐こい性格だったのに対し、熊本の教え子はなかなか馴染めなかったようです。
熊本では長男一雄が誕生し、遺産相続などを考慮して、妻の実家の小泉家に養子として入ることで日本に帰化したのでした。
日本名の「八雲」とは、妻セツの養祖父による命名で、「八雲立つ」の和歌に由来するのはもちろんですが、実はそれ以上に深い意味があります。
それは、「八雲立つ」の和歌を詠んだ須佐之男命と稲田姫命は、異国の人と現地の人という関係にあり、八雲とセツの関係と全く同じであるということです。 -
市電に乗って熊本駅近くのホテルに戻りました。
翌日は早朝から車で移動出来るよう、レンタカーを借りてホテルの駐車場に入れておきます。
夕食は、駅ビルの居酒屋で食べることにしました。
ここで熊本名物の「辛子蓮根」にありつくことが出来ました。
思ったより辛くもなく、サクサクとして口当たりも良いため、酒が進んでしまいました。大漁食堂 HERO海 熊本駅店 グルメ・レストラン
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