2014/09/26 - 2014/09/28
743位(同エリア2317件中)
倫清堂さん
無理を承知の日程で動いているため、時間があっという間に流れてしまう感覚の旅路です。
1日2食という食生活は当たり前になってしまいましたが、それでも時間は足りないくらいです。
いよいよ旅は終盤に差し掛かり、本州最南端の鹿児島県に入ることになります。
宮崎市で迎えた朝も、申し分のない天気でした。
朝食をとっている時間も惜しいので、早々にチェックアウトして、霧島を目指すことにしました。
所要時間は2時間弱です。
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山道に入ってからは、車の窓を開けて外の空気を入れるようにしました。
まだ太陽が低いので、エアコンよりも外の空気の方が快適に感じられます。
霧島神宮の駐車場は、工事のため車道が規制中でした。
詳しくは分かりませんが、土砂災害でもあったような荒れた状態でした。
車を停めて境内に進むと、やはり工事中の場所があります。
時間が早いため、境内にはほとんど人の姿が見えません。
当初の予定では高千穂河原が先でしたが、順番を逆にしたのは正解だったようです。
ただし授与所は閉まっていて、御朱印をいただくためにはもう一度こなければならないようです。霧島神宮 寺・神社・教会
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イチオシ
霧島神宮の御祭神は天饒石国饒石天津日高彦火瓊瓊杵尊。
長い名前ですが、天孫ニニギ命のことです。
ニニギ命とは天孫と呼ばれることから分かるように、天照大御神の孫に当たります。
出雲国の平定を果たした天照大御神は、地上を治めさせるために御子神の天忍穂耳尊を遣わそうとしました。
しかし天忍穂耳尊は下界が騒がしいことを理由に途中で引き返してしまい、ちょうど生まれたばかりのニニギを代わりに地上へ送るよう進言しました。
ニニギが降り立った場所は、日向の高千穂のクシフル岳であると伝えられています。
ここで言う日向とは、日向国というよりは九州と捉えるべきだというのが一般的な解釈です。
高千穂は、高千穂町と霧島連峰高千穂峰の二ヶ所に地名が残り、どちらか一方に断定することはできません。
霧島神宮の社殿はもともと高千穂河原にありましたが、霧島山に噴火によって被災し、今からおよそ500年前に現在地に遷座して今に到ります。
現在の社殿は鹿児島藩21代藩主島津吉貴公が正徳5年に寄進したものです。
数ある神社建築の中で霧島神宮こそが、正面からの見栄えが最も優れていると私は思います。 -
社殿からまっすぐ伸びる参道のさらに先には、鹿児島県を象徴する桜島が正面に見えます。
よく見ると、薄く噴煙を上げているのが分かります。
霧島神宮は坂本龍馬が新婚旅行に選んだ場所です。
きっと龍馬も桜島の眺めを楽しんだのではないでしょうか。 -
かつて社殿が置かれた高千穂河原までは、霧島神宮から山道を30分ほど登ることになります。
木々が茂る山道をしばらく進むと、高千穂河原ビジターセンターの建物が見えてきました。
ここの駐車場に車を停め、この先は徒歩での移動となります。
駐車場の脇には、待避所と書かれた壁が見えます。
霧島山は火山であるため、もし噴火した際は噴石や火砕流を避けるために待避所が必要なのです。
高千穂河原はビジターセンターから10分ほど登った所にありました。高千穂河原 名所・史跡
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かつて社殿が置かれた場所には石による台が置かれ、松が植えられています。
ここは「天孫降臨神籬斎場」と呼ばれ、社殿はなくとも祭祀が行われています。
ニニギが降臨した際に、先導を務めたのが猿田彦でした。
そのことから猿田彦は道案内の神として信仰され、古くから道祖神として全国で祀られています。
また、ニニギに従って一緒に降臨した5柱の神を五伴緒(いつとものお)と言います。
具体的には天児屋命・布刀玉命・天宇受売命・伊斯許理度売命・玉祖命という神々です。
天児屋命は中臣氏(藤原氏)の祖とされ、布刀玉命は忌部氏の祖とされます。
両氏はともに朝廷の祭祀を司る一族でしたが、藤原氏が栄えたのに対し忌部氏は没落し、歴史の表舞台から姿を消すことになります。
天宇受売命は天岩戸隠れの際に舞いを披露した女神で、猿田彦と結婚します。
伊斯許理度売命は鏡を作る一族で、紀州の日前・国懸神宮にはその作と伝わる鏡が納められています。
玉祖命は勾玉を作る一族で、山口県防府地方に本拠地があったと考えられます。 -
できることなら高千穂峰に登って「天の逆鉾」を実見したかったのですが、登山となれば最低でも半日はかかるので今回は諦めることにします。
御朱印を押していただくために改めて霧島神宮に入ると、1時間足らずの間に観光客が何台ものバスで押し寄せ、御朱印受付は大変な騒ぎになっていました。
並んで待っていると、団体客が順番に関係なくやって来て御朱印帳を置いて行きます。
このままでは何分待たされるかと不安になりましたが、神職の方の配慮で団体より先にいただくこととなりました。
鹿児島市に向けて車を走らせ、途中の姶良で鹿児島神宮に参拝しました。鹿児島神宮 寺・神社・教会
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鹿児島神宮は大隅国一之宮です。
御祭神は山幸彦の天津日高彦穂々出見尊と、その妃神の豊玉比売命です。
境内で写生している人の姿が見られました。
そして社殿へと進むと、ここにも大勢の参拝客が訪れているところでした。
彼らは拝殿内で昇殿参拝を終え、神職から社殿の装飾について説明を受けていました。
興味深い内容だったので、外から聞いてみることにしました。
本殿の入口には阿吽の龍が施されており、拝殿の天井には四季の花や植物が色彩豊かに描かれているとのことです。
龍は見えませんが、天井は外から出も少しだけ見えました。 -
青島神社は山幸彦が海神の宮殿から帰還した際の宮居であったとすれば、鹿児島神宮は通常の宮居があった場所なのでしょう。
創始は神武天皇の御代であると伝えられています。
山幸彦には海幸彦の他にもう一人の兄がおります。
三人が生まれた時のエピソードは以下のようなものです。
父のニニギは、妻の木花咲耶姫が早く身籠ったことを怪しみ、胎内の子は自分の子ではないと言い出しました。
そこで木花咲耶姫は潔白を証明するために、火をかけた産屋で子供を産むことにしたのでした。
火がさかんに燃えている時に生まれたのが火照命(海幸彦)、火が燃え続けている時に生まれたのが火須勢理命、火が消えかけた時に生まれたのが火遠理命(山幸彦)でした。
次男の火須勢理命だけは何も伝承が残っていません。
社殿の手前には、「竜宮の亀石」が置かれています。
山幸彦が海神の国から無事に帰った故事にあやかり、先の大戦では兵士たちが無事の期間を祈って、この石に触ってから出征して行きました。 -
駐車場のそばに、御神馬木馬が置かれていました。
旧暦1月18日に最も近い日曜日に行われる初午祭では、20余頭の神馬が「鈴かけ馬踊り」を奉納します。
太鼓や三味線に合わせて馬が踊る祭りは、町の文化財に指定されています。
一説には戦国時代から続いていると言われており、馬が主役の祭は地域が最も盛り上がる行事でもあります。 -
鹿児島湾に沿った国道10号線は1車線の区間が長く、混雑していました。
しかし海を隔てて桜島が見えるので、美しい景色は渋滞のいらだちを抑えてくれました。
入口がよく分からず通り過ぎてしまいましたが、引き返して尚古集成館に到着しました。
尚古集成館は幕末の時代、薩摩藩11代藩主島津斉彬公がアジアで最大の工場群を築き近代化を目指した「集成館事業」を現在に伝える資料館となっています。
斉彬公は曽祖父の8代藩主重豪公の影響を受けて蘭学を重んじ、幕府よりもかなり早くから日本の海防の重要性を認識していた大名です。
薩摩藩は、重豪公の度外れの西洋好きによって財政が傾き、藩内は洋学を歓迎する嫌悪する派閥とに二分されていました。
重豪公は藩校造士館を設立した他、天体観測や医療の進歩にも力を注ぎ、曾孫の斉彬公を伴ってシーボルトと会見したこともありました。
しかし祖父の蘭癖を好まなかったのが、斉彬公の父に当たる10代藩主斉興公でした。
藩主の座を退いたとはいえ、重豪公による「院政」は続いていたため、斉興公はほとんど実権を持たない当主でした。
このまま斉彬公が家督を継げば、西洋化政策によって藩の財政はますます悪化すると考えた斉興公は、側室お由羅との間に生まれた久光公に藩主を継がせようと画策したのでした。
その陰謀を影で支えたのは、家老の調所笑左衛門でした。
この時に起きたお家騒動が「お由羅騒動」と呼ばれ、斉彬派にいた大久保利世(利通の父)などが弾圧されました。
なお、弾圧された斉彬グループは、後に西郷隆盛を中心に精忠組を形成します。
ここで斉彬公に協力したのが老中阿部正弘公でした。
調所笑左衛門に琉球との密貿易の罪を着せて切腹させ、重豪公が藩主の座を斉彬公に譲るという結末を迎えたのでした。尚古集成館 美術館・博物館
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イチオシ
島津氏の歴史は江戸時代に始まったのではありません。
初代忠久公は鎌倉幕府の御家人で、平家追討の戦功によって薩摩・大隅・日向の3国を与えられたのが島津氏の始まりです。
鎌倉時代から続く大名は珍しくないですが、700年にわたって本拠地を動かなかった大名というのは他に例がありません。
島津氏の存続にとって最大の危機は、関ヶ原の戦いでした。
時の当主である島津義久公も石田三成に勝算があるとは考えていなかったはずですが、豊臣氏に対する態度で兄義久公と対立した義弘公が上方で独自に兵を挙げ、しかも徳川家臣の鳥居元忠公との間で行き違いがあったために東軍に加われず、成り行きで関ヶ原へと参陣してしまったのでした。
小早川秀秋の寝返りによって西軍は総崩れとなり、その部隊のほとんどが壊滅すると、義弘隊は東軍によって包囲される形となりました。
そこで義弘公は、残った兵士300人を率いて家康公の本体に突撃し、「捨て奸」という捨て身の戦法を用いて戦場を突破し、義弘公は薩摩への退却を遂げたのです。
何人もが義弘公の身代わりとなり、薩摩に還り着いた兵の数は80人余りに減っていました。
義弘公は休む間のなく東軍の九州侵攻に備えて防備を強化し、一方で徳川氏との間で和平の交渉を進めました。
島津氏にとって幸運だったのは、上方で挙兵したのは義弘隊という一部の部隊だけで、島津軍の多くは無傷のまま温存されていたことです。
徳川氏としても九州まで兵を進めることはリスクが高く、せっかく手に入れた天下がすぐに逃げてしまうことは避けたかったため、島津氏の存続を了承せざるを得なかったのでした。
尚古集成館の隣りには2代藩主光久公が整備した別邸、仙巖園があります。
その入口には、義弘公が所用した甲冑のレプリカが置かれています。 -
島津斉彬公がとった政策の中でも特に評価すべきは反射炉の建築です。
当時の日本の周辺に度々姿を表す外国船には、大型の大砲が積まれていました。
もし海上から砲撃を受けた際、当時の技術では外国船まで砲弾が飛ばず、日本は一方的に攻撃されるだけとなります。
そこで幕府はようやく重い腰を上げたのでした。
大型の大砲を製造するには、良質な鉄をつくるための精錬の技術が欠かせません。
その精錬を行う施設が反射炉なのです。
日本で最初の反射炉は、伊豆代官の江川英龍が嘉永2年に自宅に建てた小型のものでした。
次の年に佐賀藩が独自に大型の反射炉を完成させ、少し遅れて水戸と薩摩が完成させたのでした。
しかし反射炉を完成させた2年後、斉彬公は突然体調を崩して死去したのでした。 -
その頃、幕府は大老に就任した井伊直弼の主導によって、尊皇攘夷を主張する思想家の弾圧を進めていました。
安政の大獄と呼ばれるこの弾圧によって、吉田松陰や橋本佐内などの若者をはじめ多くの思想家が命を落とし、薩摩では西郷隆盛が僧月照とともに入水自殺を図ったのでした。
井伊直弼は皇室をないがしろにしたわけではなく、弾圧の真相は将軍継嗣問題にあったと言えます。
尊皇攘夷派が擁立を目指す一橋慶喜は、井伊大老と非常に関係の悪かった水戸斉昭公の実子に当たる人物でした。
西郷隆盛も慶喜公の擁立のために島津斉彬公とともに奔走したという経緯があります。
ここ仙巖園は斉彬公が好んだ別邸だったので、西郷隆盛との密談が行われたことがあったかも知れません。仙巌園(磯庭園) 公園・植物園
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仙巌園と尚古集成館の間には、島津家歴代当主とその家族を祀る鶴嶺神社が鎮座しています。
参拝に訪れた時、ちょうど4人の男性が背広姿で参拝しているところでした。
普通のサラリーマンのようにも見えますが、正面の門から柵を越えて社殿のすぐ前まで入って行ってしまいました。
それもごく自然な様子で、建築物に興味がある様子でもなく、ましていたずらをするわけでもなく、4人が揃って一心に手を合わせているのです。
もしかすると、島津家に連なる方たちなのかも知れません。鶴嶺神社 寺・神社・教会
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貰ったパンフレットには書かれていなかったので、仙巌園の受付の女性に西郷隆盛蘇生の家の場所を訪ねました。
歩いて行くと時間がかかるが、車を使えばすぐとのことでした。
10号線を少し引き返す方向に進むと、目印となる団子屋が見えてきました。
車を停め、団子を焼いている女性に場所を尋ねると、かなり丁寧に説明してくれました。
線路を通らなければならないので電車の往来があることと、民家に迷いこまないことの2点を注意されました。
それでも少し迷ってしまいましたが、ようやく茅葺のその家を見付けました。
安政5年、京都で尊皇攘夷の運動を進める西郷と月照は、幕府の追手から逃れるために船で薩摩を目指しますが、斉昭公亡き後の藩は幕府との摩擦を避けるため、月照の保護を拒否したのでした。
西郷は藩に対する怒りと月照に対する責任を感じ、月照とともに船から飛び降りて真冬の錦江湾に入り、死ぬことを選んだのでした。
しかし二人の入水に気付いた仲間によって引き上げられ、この茅葺の家へと運ばれたのでした。
月照は意識を取り戻さないまま亡くなりましたが、西郷だけは一命をとりとめたのでした。
西郷はこの後しばらく奄美へ身柄を移され、別人として生きることになるのです。
蘇生の家は全ての戸が閉じられていますが、管理する方が健在の間は内部が公開されていたとのことです。
団子を焼いている女性は、自分は西郷を助けた仲間の一人の子孫に当たるのだと教えてくれました。西郷隆盛甦生の家 名所・史跡
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鹿児島市中心部に入り、まずは平田靱負の像がある平田公園を目指しました。
この公園はかつて平田靱負の屋敷があった場所です。
徳川幕府にとって薩摩藩は、常に警戒を解くことのできない脅威の存在でした。
スキを見せれば取り潰したいし、取り潰しが無理でも弱体化させておきたい。
そこで幕府が思いついたのは、難しい公共事業に金を使わせることだったのでした。
宝暦4年、幕府は濃尾平野を流れる3つの川を整備する事業を薩摩藩に命じたのでした。
3つの川とは木曽川・長良川・揖斐川で、これらの川は大雨が降ると一つの大河となって家屋や農地を全て流してしまう困った存在でした。
そこで、それぞれの川の間を仕切って独立させることが求められていたのですが、3つの川には高低差があるなどの理由で工事が難しく、治水事業は進んでいなかったのでした。
薩摩藩7代藩主島津重年公は、家老の平田靱負を総奉行に任命し、藩士らを現地に送って工事に当たらせたのでした。
しかし幕府は無理難題を押し付け、藩士は次々に切腹して異議を申し立てるのですが、幕府に反抗したと見なされてお家断絶の口実にされてしまうことを恐れた平田は、自害ではなく事故として扱ったのでした。
自害した藩士は最終的に51名に上り、それとは別に33名の藩士が病死したのでした。
また藩の財政も限界まで悪化したことから、平田は自らの責任で大阪の商人から莫大な資金を借り、工事が終わって間もなく自害したのでした。
平田たち藩士の忍耐が、濃尾平野の住民の命と鹿児島藩の未来を救ったのでした。平田靭負屋敷跡 名所・史跡
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次に照国大明神、島津斉彬公が祀られる照国神社を参拝しました。
参道真ん中に植えられているのは、樹齢170年のイヌマキの木で、鶴が翼を広げているような姿をしていることから、斉彬公の斉の一文字と合わせて「斉鶴」と呼ばれています。照国神社 寺・神社・教会
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照国神社は、斉彬公の遺徳を慕う住民たちの願いによって文久3年に創建されました。
現在は鹿児島の総氏神として崇敬されています。 -
隣接する探勝園にある贈正一位島津斉彬公之像は大正6年に竣工しました。
井伊直弼が進める尊皇攘夷論者への弾圧はあまりに過酷であったため、薩摩藩としても黙って見過ごすわけには行かず、斉彬公は朝廷を守護するという名目で5000の藩兵とともに上洛することを決断します。
京都にいた西郷も、その知らせに歓喜しました。
しかし待てど暮らせど薩摩軍は現れません。
次に西郷が耳にした情報は、斉彬公の急死という驚くべきものでした。
この時から井伊大老の逆襲が始まり、西郷の入水へと事態は進んで行くことになるのです。
一方、薩摩藩では斉彬公の弟久光公が後見人となり、その子の忠義公が12代藩主に就任しましたが、実権は斉彬公の父である斉興公が握ることになりました。
斉彬公の子はみな早逝してしまい、後を継げる男子がいなかったのです。
斉彬公がもし上洛を果たしていれば、桜田門外の変も鳥羽伏見・戊辰の役も起きていなかったかも知れません。
即ち天皇に軍服を着せるという近代日本の過ちも回避された可能性が高く、西洋と協調することでアジア進出という野望が摘まれた可能性もあります。
一人の人物の死が後の歴史を大きく変える一例が、島津斉彬公なのです。 -
探勝園には他二体の銅像が建てられています。
従一位島津久光公之像は、藩主にはなれなかったものの斉彬公の意思を継いで公武合体を目指した久光公がモデルです。
お由羅の子であるにもかかわらず、斉彬公の路線を継承できたのは、西郷に代わって精忠組を率いた大久保利通の功績が大きいと言えるでしょう。
奄美で謹慎中の西郷を赦免したのも久光公でしたが、西郷との間は微妙な関係であったと言われています。
久光公が生きた時代は日本にとっても激動の時代で、薩摩藩が関連した事件だけ挙げても桜田門外の変、寺田屋騒動、生麦事件、薩英戦争、八月十八日の政変、そして薩長同盟の締結から明治維新まで、300年に及ぶ幕府の支配が崩壊する現場を彼は見たのでした。 -
もう一体は従一位島津忠義公之像で、こちらは軍服を着ています。
忠義公は12代藩主で、廃藩置県によって薩摩藩の最後の藩主となった人物です。
忠義公は斉彬公の養子となった人物で、歴史の表舞台に立つようなことはなく、時流にまかせて藩知事や貴族院議員までも務めました。
西郷隆盛の決起による西南戦争の時も、東京に留まって冷静に推移を見守る態度に徹したのでした。 -
西南戦争で戦死した薩摩軍2023名の兵士たちは、桜島を望む城山の南洲墓地に眠っています。
南洲とは西郷隆盛の号で、謹慎を命じられた南の島から名乗ったのではないかと考えられます。
南洲墓地の最も高い場所の中央に、西郷隆盛の墓所はありました。
西郷は戊辰戦争に勝利した後に鹿児島藩の大参事を務め、廃藩置県の後は陸軍の元帥、大将にまで昇りました。
その頃、朝鮮に国交を求める日本は、武力による征韓論と、大使を送って開国を求める主張とが対立していました。
朝鮮にはすでに日本人が居留地を作っていましたが、日本人を侮辱するなど排撃運動が高まっていた他、天皇からの親書を受け取らないという非礼まで重ねていました。
現在の韓国は当時から少しも進歩していません。
西郷は自ら大使として交渉に望み、朝鮮の地で暗殺されることで、日本が軍を送る大義名分を得ることを考えていました。
しかしこの案が実現することはなく、国内の強化を優先したい大久保利通の働きかけによって西郷の派遣に無期延期の決定が下されると、西郷は全ての職を辞して鹿児島に帰ったのでした。南洲墓地 名所・史跡
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南洲墓地に隣接して南洲神社が鎮座していますので、参拝しました。
帰郷した西郷は鹿児島に私学校を設立し、対朝鮮問題で賛同してくれた人物らの協力を得ながら、人材育成にすべてを捧げました。
鹿児島県令の大山綱良までもが協賛者となり、私学校は鹿児島県政を動かすほどの影響力を持つまでに成長したのでした。
西日本各地では熊本神風連の乱や秋月の乱、萩の乱など不平士族が中央政府に対して反旗を翻し、彼らは西郷と私学校の決起を期待しましたが、西郷が動くことはありませんでした。
しかしある日、酒に酔った私学校の生徒が海軍の火薬庫を襲ったために、西郷が政府から命を狙われているという噂が飛び交うと、反乱の勢いを止めることは不可能と悟った西郷はついに決起を決断したのでした。南洲神社 寺・神社・教会
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南洲墓地のある南洲公園には、西郷南洲顕彰館があります。
そこには西郷の生涯をテーマにしたジオラマや、愛用品などが展示されています。
西郷に率いられる薩摩軍は、まず熊本城に向けて進軍を開始しました。
熊本城を守る谷干城は薩摩軍の猛攻に耐え、援軍が到着するまでついに守り通したのでした。
この戦いで西郷の末弟小兵衛が戦死しました。
薩摩軍は田原坂の要害に立てこもり、官軍との間で激闘を繰り広げました。
一度は官軍を退けるも、一番大隊長の篠原国幹をはじめ多くの戦死者を出し、薩摩軍の敗北はほぼ決定的となったのでした。
西郷は熊本・宮崎・大分などから駆け付けた兵士を帰郷させ、薩摩兵のみで行動を開始しました。
宮崎や熊本など各地を転戦しますが、兵士は次々に斃れ、ついに鹿児島に追いつめられてしまいました。
立てこもった城山で敵の銃弾に当たった西郷は、「もうここでよかろ」と言って切腹し、別府晋介が介錯したのでした。西郷南洲顕彰館 美術館・博物館
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次に鹿児島県護国神社に参拝しました。
明治元年に戊辰戦争で戦死した官軍兵士を祀るために、島津忠義公によって靖献霊社が始まりです。
その後、西南戦争や日清・日露戦争の英霊も合祀されましたが、賊軍とされた西郷隆盛はついに合祀されないまま今に到ります。鹿児島県護国神社 寺・神社・教会
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鹿児島城の近辺には駐車場がなさそうなので、中央公園地下駐車場を利用することにしました。
駐車場の出口から地上に出ると、宝山ホールの前に小松帯刀像を見つけました。
小松帯刀は坂本龍馬とも親交があり、薩長同盟の成立に一役買った人物です。
しかし彼の生涯は短く、明治3年に36歳にして亡くなりました。
明治政府にいて、大久保と西郷の対立を和らげることができた人物は、おそらく小松帯刀ただ一人だけだったでしょう。
もし小松帯刀があと5年長く生きていたら、西南戦争は回避できたのかも知れません。小松帯刀像 名所・史跡
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信号を渡った先に、上野のものとは違う西郷隆盛の像があります。
こちらは昭和12年に建てられたもので、西郷さんは軍服を着ています。
上野の着流し姿の方が馴染みがありますが、彼は陸軍の頂点に立った人物ですから、軍服を着ている時間の方が長かったのかも知れません。西郷隆盛銅像 名所・史跡
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しばらく歩くと、鹿児島城の石垣が見えてきました。
鹿児島城の別名は鶴丸城といいます。
その名前の由来は、島津氏の屋形が羽を広げた鶴の姿に似ていたとか、家紋が「鶴丸の紋」であるからとか、いろいろ言われています。
江戸時代に島津氏が本拠とした城ですが、現在は堀と石垣を残すのみで、櫓などは一切残っておらず、本丸跡には鹿児島県歴史資料センター黎明館が場所を間違えたかのように建っています。鶴丸城跡 (鹿児島城跡) 名所・史跡
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本丸跡には他に天璋院篤姫の像があります。
篤姫は19歳で斉彬公の養女となり、22歳の時に13代将軍家定公と結婚しました。
しかし24歳の時、病弱であった家定公は病死し、その10日後には養父斉彬公が急死してしまいます。
後ろ盾を失った篤姫ですが、14代将軍家茂公の養女となり、討幕を決意した薩摩藩に対して徳川家の存続を働きかけたのでした。天璋院篤姫像 名所・史跡
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鶴丸城の北に、宝暦治水事件で命を落とした藩士たちを祀る薩摩義士碑があります。
ここからさらに歩けば、西郷隆盛の自刃の地まで行くことができます。
西南戦争や西郷隆盛についてもっと勉強してから、改めて訪れたいと思います。薩摩義士碑 名所・史跡
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宿泊するホテルから近い鹿児島中央駅には、観覧車があります。
昼食をとっていなかったので、だいぶ腹も減っていました。
夕方から空いている庶民向けの居酒屋を探したところ、少し歩いた所によい店を見付けました。
早い時間に入ったため他に客の姿はなく、カウンターで店員さんと話しているうちに意気投合し、サービスと言って次々に試飲用のお酒を出してくれました。
気をよくして全て飲み干し、料理もたくさん注文したのですが、会計の伝票を見ると予想した値段の半分ほどの金額でしかありませんでした。
腹が満ちても酒は恋しく、ホテルへの帰り道にコンビニで芋焼酎を買ってしまいました。
これを部屋で飲んでいるうちに眠ってしまい、真夜中に目が覚めてびっくりしたのでした。
九州での旅も終わりに近づき、気の緩みと心身の疲れが同時に襲ってきたようです。 -
朝に目覚めて荷物の整理をしていると、机の上に3分の1ほど残った芋焼酎を見付けました。
ほとんど酔いつぶれたような格好での就寝でしたが、幸いなことに身体にアルコールは残っていません。
この日はおそらく今回の九州の旅で最も移動距離の長い一日となります。
朝食も取らず、薩摩半島最南端の指宿を目指して出発しました。
国道10号線同様、指宿までの道は混んでいました。
途中で素晴らしい風景が見えたのですが、一刻も早く目的地に到着したいという思いが先走り、車を停めて景色を楽しむという行動に移ることができませんでした。
今になって思えば、この損失は大きなものでした。
目的地の薩摩国一之宮、枚聞神社に到着すると、団体の参拝客を迎えるために神職の方たちがあたふたと準備をしているところでした。
本州最南端にまでくる団体客があるということにも驚いたのでした。枚聞神社 寺・神社・教会
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イチオシ
枚聞神社は「薩摩富士」とも呼ばれる開聞岳の北の麓に鎮座する神社で、天照大御神と皇祖神8柱をあわせてお祀りしています。
枚聞と書いて「ひらきき」と読むのは、開聞岳を訓読みした呼び名に由来するのでしょう。
社殿では神代から祭祀が行われていたとされますが、おそらくかなり古い時代から、開聞岳を御神体とする山岳信仰の場であったのではないでしょうか。
参道から本殿を見ると、ちょうどその背後に開聞岳がくるという位置関係になっています。
したがって、社殿は北を向くという珍しい配置です。 -
気温と湿度が高いためか、境内に繁茂する樹木は生き生きしています。
樹齢1000年を超えるクスノキなどが茂っています。 -
次の目的地へ向かう道は、きた道とは違う道になってしまいました。
あの美しい風景は見ることができません。
開聞岳の全体が見える場所を見付けましたが、方向が悪いため少しいびつな姿に見えます。
先の大戦で知覧から飛び立った特攻兵士たちは、開聞岳と通して故郷の親族や友人に別れを告げたのだと言われています。 -
知覧特攻平和会館には、特攻によって祖国を救う道を選んだ兵士たちの遺影や遺品が展示されています。
自分のようないい加減な人間が、過去の出来事の一つとして特攻を見てしまうのではないか、自分に対する疑いを抱きながらそこへ向かったというのが、真実に近いと思います。
同じ日本人であるのに、たかだか数十年の差で生まれたタイミングが違っただけなのに、一方は全ての自我を捨てて神となり、一方は自我にとらわれたまま一人の消費者の立場に甘んじている。
どんなに同情しようとしても共感しようとしても、決して彼らと同じ心境になることはできません。
それが分かっているからこそ、冷静に展示を見てしまいそうで怖いのです。
入ってはならない場所に入って行くような感覚でした。
まず屋外に見えたのは、特攻兵士の宿舎であった「三角兵舎」の復元です。
出撃前夜にはここで壮行会が開かれ、兵士たちは遺書や手紙などをしたためたのでした。
次の日には確実にこの世には存在していないことを知りながら、兵士たちは最後の晩をどのような心境で過ごしたのでしょうか。知覧特攻平和会館 美術館・博物館
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特攻平和観音堂には、昭和27年に建立された観音像が安置されています。
観音像は法隆寺の秘仏「夢ちがい観音像」がモデルで、その体内には1036名の英霊の霊名簿が納められいます。
平和観音に手を合わせ、平和会館に入りました。
知覧から飛び立った特攻兵士のデータベースが置かれていたため、地元出身の方はいないものかと検束してみたところ、意外にも身近な所から出撃した方がいたのでした。
二度と戦争の悲劇を繰り返してはならない、そう願いつつも、人間は集団となった時に愚かな選択をすることもあるのだという前提で、平和を維持する努力も必要なのだと思います。 -
知覧は武家屋敷群が残るなど、特攻基地が置かれる以前からそこそこの規模の集落でした。
きっとそれに見合った神社があるだろうと思いながら走ったところ、歴史を感じる神社を発見しました。
車を停めて境内へ進むと、社号は豊玉姫神社であることが分かりました。
その名のとおり主祭神は豊玉姫命で、豊玉彦命(海の神)、彦火々出見命、玉依姫命をあわせて祀ります。
この神社で行われる「六月灯」という祭では、水車によって動くからくり人形が披露されるそうです。豊玉姫神社 寺・神社・教会
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イチオシ
薩摩川内市に入り、もう一社の薩摩国一之宮、新田神社を参拝しました。
社殿は神亀山という山の高い所に鎮座していますが、途中まで車で登ることができます。
一之宮は律令制によって定められた国に一社ずつという原則がありますが、時の流れを経るうちに伝承があいまいになり、何社もが一之宮を名乗る地域もあります。
今、あえて一之宮を一国一社に戻す必要はありませんが、やはり本来の一之宮はどこであったのかは、歴史好きにとって解いてみたい謎なのです。
車を停めて石段を登ると、社殿まであと少しの所に巨大な大樟が現れました。
この巨木は、地上から2メートルの高さの部分に大穴牟遅神(大国主神の別名)の木像が彫られているとのことです。
目を凝らして見てみましたが、私の目には見えませんでした。
この木像を彫ったとされる島津家臣の阿多長寿院盛淳は、関ヶ原の戦いで島津義弘公の影武者となって討死したと伝えられます。 -
新田神社の主祭神は天津日高彦火邇邇杵尊(ニニギ命)です。
降臨したニニギ命が川内川から水を引いて水田を開発したことから、新田という名前がつけられました。
川内という地名も、もとはニニギ命が建てた高殿、千台がもとになっています。新田神社 寺・神社・教会
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ニニギ命にゆかりの深い新田神社には、ニニギ命の陵墓があります。
高殿があった場所に陵が築かれたのか、それとも陵があった場所に神社が建てられたのか、そのあたりの経緯はかなり古い時代のことなので分かりません。
ニニギ命の陵は「可愛山陵(えのさんりょう)」と呼ばれ、宮内庁によって管理されています。 -
途中の山道にあるドライブインで、少し遅い昼食をとりました。
おすすめメニューの特製味噌で味付けしたホルモンうどんを注文しました。
見たところ少し重たいかなと心配になりましたが、味噌を使っているのでしつこい味ではなく、野菜が多いので飽きずに完食しました。十本松ドライブイン グルメ・レストラン
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南九州の旅で最後に訪れたのは、建武中興十二社のひとつ八代宮です。
御祭神の懐良親王は後醍醐天皇の皇子、良成親王は後村上天皇の皇子です。
後醍醐天皇は足利尊氏が擁立した北朝天皇を認めず、吉野に御所を設けた他、各地に軍事的な拠点を置きました。
その一つが九州八代の征西府です。
九州の北部は足利によって固められていたため、南部に置かざるをえなかったのでした。
征西大将軍に任命された懐良親王は、たった十数名の公家によって守られて薩摩国の谷山城に入られました。
一行が瀬戸内海の拠点である忽那に滞在していた時、後醍醐天皇は崩御しました。
後を継いだ後村上天皇は、九州のことはすべて懐良親王にまかせることにしたのでした。
九州で孤立無援の状態だった懐良親王を助けたのが、熊本の菊池武光公でした。
懐良親王は菊池武光公の武力に支えられながら九州全土で戦い、一度は北朝の拠点であった太宰府を攻略して征西府を樹立しました。
しかし足利家臣で九州探題の今川了俊によって太宰府を攻め取られ、征西府は各地を移ることとなったのでした。
八代は最後の征西府が置かれた土地です。八代城跡 名所・史跡
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八代宮が創建されたのは明治13年のことです。
地元の人々が征西府や吉野朝廷の悲願を偲び、政府に対して粘り強く要望し続けた成果でした。 -
八代は天下統一のために九州を訪れた豊太閤が訪れた土地でもあります。
彼が滞在した八代城は、2回その場所が移されました。
最初の八代城は後醍醐天皇の臣下、名和義高公が築いた城で、別名「古麓城」といいます。
次の八代城は小西行長が築いた城で、別名は「麦島城」です。
麦島城は元和5年に起きた大地震によって倒壊してしまったため、現在の八代宮の鎮座地に新たな八代城が築かれました。
ここは別名「松江城」といいます。 -
イチオシ
一週間ずっと我が足として働いてくれたレンタカーを返し、営業所の方に八代駅まで送ってもらいました。
最初の予定では八代に宿泊するつもりでしたが、次の日の時間を有効に使うため、なるべく福岡県の近くまで進んでおくことに決めました。
ホテルの予約状況を確認し、熊本駅前のホテルに空室があることを確認したので、電車で熊本に向かうことにしました。
ちょうどホームへ入ってきたのはSL人吉号でした。
ついていると思って乗り込むと、車内は子供をつれた客でほぼいっぱいです。
しかし運よく座席が空いていたのでそこへ座り、流れる車窓の風景を眺めていると、車掌が切符の確認にきました。
彼いわく、指定席券がなければ乗車できないとのこと。
そんなことを言われても、すでに発車してしまっているので、ここできっぷを買えないか訊いてみると、原則としてそれはできないが今回だけ特別と、非常にいやな顔で言ってきました。
内心では四の五の言わずにさっさと売ってほしいと思いましたが、笑顔をつくろって財布を開けると、タイミングが悪いことに1万円札と小銭しか入っていません。
その1万円札を渡すと、お釣りがないと言ってさらにいやな顔をして、車掌室へと去って行きました。
何も知らずに乗ってしまったのに、自分がものすごく悪いことをしているように思えてしまいました。
熊本駅の手前でアナウンスが入りました。
別な路線を走る「あそボーイ号」と並走するので、窓側の乗客は文字が書かれたカードを窓に掲げてほしいというのです。
自分の座席は反対側だったので、そのまま聞き流していましたが、いざ「あそボーイ号」が並走すると、そちらの車輛から容赦なくこちらを撮影してくるのです。
お忍びできているのに写真に撮られては一大事と、まるで逃走犯のように顔を隠す自分でした。 -
熊本市内を観光できるほどの体力は残っておらず、ホテルで休んでしまうと食事に出るのさえ億劫に感じるほどでした。
南九州を一気に回るという計画は、実はかなり前から密かに抱いていた構想でしたが、こうして実現できるとは夢のようです。
動きたくないと言っている身体をなんとか起こして、駅ビルの中にある中華料理屋でちゃんぽん麺を食べました。
そしてコンビニでくまもんのデザインが入ったワンカップを買い、部屋でちびりちびりと飲みながら、目まぐるしく過ごした一週間を振り返ってみたのでした。熊本駅 駅
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最終日の朝は久し振りにゆっくり朝食をとり、朝のラッシュが終わった頃に福岡行きの電車に乗りました。
目指すは福岡市埋蔵文化財センターです。
最寄りの駅は雑餉隈駅。
「ざっしょのくま」と読むこと知りました。
センターでは、出雲で調査した内容に関連する資料について知るために、職員の方から聞き取りを行い、調査報告書のコピーなどを手に入れました。
博多駅に到着してから、駅で立ち食いそばを食べました。
あまりに暑いので、暑さの盛りが過ぎるまでネットカフェで休みました。
2時過ぎ、地下鉄を利用して姪浜駅を目指しました。
駅からからは徒歩移動となります。
まずはまっすぐ北に進んで住吉神社を参拝しました。 -
次に目指す小戸公園までは、名柄川を渡らなければなりません。
車を使えば10分もかからない距離なのですが、西に向かって歩くため西日が顔面を容赦なく焼いてきます。
30分以上は歩いたでしょうか、ようやく小戸公園に到着しました。
公園は海岸にあるため、レジャー目的の家族連れで混雑しており、カメラを持って一人でうろうろする私はかなり不審な人物に見えたことでしょう。
目的は小戸公園の敷地内に鎮座する小戸大神宮です。
防風林の奥の小高い丘の上に鎮座していました。
小戸という地名は、黄泉の国から戻ったイザナギ命が心身の穢れを祓うために禊を行った場所「おどのあわぎはら」と同じです。
現在まで禊を行った場所は確定していませんが、福岡市に小戸という地名があると知り、現地へ行かなければと思っていたところでした。
イザナギ命が禊をすると、その持ち物や流れの中から多くの神々が生まれます。
そして最後に左目を洗うと天照大御神が生まれ、右眼を洗うと月読命が生まれ、鼻を洗うと須佐之男命が生まれたと伝えられています。小戸大神宮 寺・神社・教会
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目や鼻から人が生まれるはずがありませんが、このエピソードは実際にあった出来事を素材にして成り立ったものであると、私は考えます。
月読命のことはひとまず措いて、天照大御神と須佐之男命は実在した兄弟であったことが疑えます。
須佐之男命はその後いろいろな事件を起こしますが、最後は根の国を治めることになります。
一方、天照大御神は高天原を治めます。
兄弟だった二人は、日本を分割統治したのではないのでしょうか。
ここは古代九州の貿易の拠点があった伊都国からも近いですが、地域が発展して人工を抱えきれなくなったため、遷都したのではないかと疑っています。
詳しくはまだ書けませんが、近いうちに本にまとめて発表するつもりです。
小戸大神宮の社殿は小さいですが、ロマンがたくさん詰まった土地ですことは間違いありません。
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