2014/09/22 - 2014/09/22
128位(同エリア229件中)
滝山氏照さん
牛久沼を断崖に河童石碑が建つ一角を始めとする敷地はかつて江戸幕府において牛久藩の陣屋でした。
遡れば戦国時代の牛久は岡見氏の支配地でしたが、天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原北条氏征伐に合わせて秀吉に従った常陸国佐竹氏らの攻撃によって落城します。
岡見氏の後は由良国繁(ゆら・くにしげ、1550~1611)が上野国太田の金山城から5千4百石を以て牛久に入封、関ヶ原合戦では東軍に属し江戸城の守備を命じられ戦後下総相馬に1千6百石を与えられ7千石の知行得て大身旗本となります。
慶長16年(1611)国繁は61歳で死去、家督を継いだ貞繁(さだしげ、1574~1621)は大坂冬の陣で土井利勝に従い、冬の陣で鴫野口の戦いで負傷、元和7年(1621)47歳で死去します。
貞繁には実子なく養子を迎える事となりますが知行は2千石に減封され牛久を離れます。
由良氏が去った後は山口氏で長門・周防以下6ケ国の守護となった大内義弘の二男持盛を祖とし周防国山口に居住して山口氏を称していました。
山口重政(やまぐち・しげまさ、1564~1635)は織田信長及び信雄に仕えた後徳川家康の家臣となり、慶長4年(1600)関ヶ原合戦の戦功で上総5千石に常陸5千石を加増され1万石の大名に列せられ、更には下野に5千石を与えられ都合1万5千石となります。
ところが重政嫡男重信(しげのぶ、1590~1615)と大久保忠隣の養女との婚姻届けがなかったとして幕府に咎められ改易に繋がり武蔵国越尾に蟄居となります。
その後許されて寛永5年(1628)常陸・遠江に1万5千石を与えら所領の回復を果たし、二代弘隆(ひろたか、1603~1677)の時代に知行地が常陸・下総に統合され牛久の牛久沼東岸で戦国時代に小田氏の一族である岡見氏が築城した城郭の一角に陣屋を構え政庁とします。
弘隆は弟重恒(しげつね)に5千石を分地したので石高は1万石となり以降1万石を知行とし歴代藩主は12代弘達(ひろよし、1860~1932)に至るまで牛久藩を維持することになります。
- 旅行の満足度
- 3.5
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
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河童道入口
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河童道
牛久沼におよそ並行して橋道が造られています。 -
牛久沼
河童道から見える牛久沼がよく見えます。 -
河童道
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牛久沼
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雲魚亭(うんぎょてい)・河童石碑案内
河童道から一般道に戻り暫く西進しますと案内板が現れます。 -
雲魚亭・河童石碑入口
入口の右側には駐車場となっています。明確ではありませんが江戸時代の牛久藩の陣屋がこの一帯にあったと言われています。 -
牛久藩陣屋跡
駐車場を一部とする陣屋跡広々と展開しています。 -
イチオシ
牛久藩陣屋跡
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牛久沼案内
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河童石柱
雲魚亭・河童石碑入口を進むと河童石柱があります。 -
イチオシ
河童石碑
正面突き当りに河童石碑が待ち受けています。 -
河童石碑
河童レリーフの横には「誰識 古人画龍心」と刻された石碑が見えます。 -
河童レリーフ
石碑の下部には河童の石彫が見られます。 -
河童の碑説明
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河童石碑周辺
石碑周辺にはベンチが設置されここからは牛久沼景色を楽しめます。 -
雲魚亭への小路
今度は整備された小路を河童石碑から雲魚亭に向かいます。 -
雲魚亭案内
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雲魚亭石碑
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雲魚亭石碑
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カッパ松説明板
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雲魚亭
明治から大正にかけての牛久の画家である小川芋銭(おがわ・うせん、1868〜1938)が晩年に建てた住まいを兼ねたアトリエだったそうです。 -
雲魚亭表札
カッパを多く描いたことでカッパの絵描きとして親しまれており、現在は小川芋銭記念館として公開されています。(訪問時は休館でした) -
雲魚亭説明
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雲魚亭
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稲荷神社
地元に建つ稲荷神社が見えます。 -
稲荷神社拝殿
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鳥居奉納石碑
平成5年8月の奉納となっています。 -
珍しい道路標識
「トラクター優先」とする農村ならではの珍しい標識が見えます。 -
牛久沼風景
湖沼にまで田圃が広がっています。 -
牛久観光アヤメ園
三日月橋の傍らに造られた庭園が楽しめます。 -
牛久観光アヤメ園全景
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