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酷(国)道16号線の渋滞を避けようと、何気なく通った道路。<br />通り道に博物館等ないかな?<br />“利根町歴史民俗資料館”がありました。<br /><br />「利根町?利根って群馬県でないの?寄ってみるか!」<br />やはり展示物は写真撮影禁止!<br />ならば展示内容の場所に行って撮影する事にした。<br /><br />写真は民俗学者柳田國男が衝撃を受けた「間引き絵馬」(母親が、生んだばかりの我が子の命を奪っている姿を描いている)<br />母親の影は角(つの)がある鬼に…<br />徳満寺のパンフレットからのコピーです。<br /><br />本物は徳満寺本殿内部に掲げられている。<br />以下「利根町歴史民俗資料館」に展示されている内容を参考に町内を探索した内容です。<br />

「利根町歴史民俗資料館」見学と散策_茨城県北相馬郡利根町_No805

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2017/04/02 - 2017/04/02

162位(同エリア218件中)

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しんちゃん

しんちゃんさん

酷(国)道16号線の渋滞を避けようと、何気なく通った道路。
通り道に博物館等ないかな?
“利根町歴史民俗資料館”がありました。

「利根町?利根って群馬県でないの?寄ってみるか!」
やはり展示物は写真撮影禁止!
ならば展示内容の場所に行って撮影する事にした。

写真は民俗学者柳田國男が衝撃を受けた「間引き絵馬」(母親が、生んだばかりの我が子の命を奪っている姿を描いている)
母親の影は角(つの)がある鬼に…
徳満寺のパンフレットからのコピーです。

本物は徳満寺本殿内部に掲げられている。
以下「利根町歴史民俗資料館」に展示されている内容を参考に町内を探索した内容です。

旅行の満足度
5.0
同行者
一人旅
交通手段
自家用車

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  • 「利根町歴史民俗資料館」茨城県北相馬郡利根町中谷967<br /><br />まず「利根町」とは<br />群馬県利根郡は尾瀬の玄関口“片品村”等を知っていたが…<br />ここは茨城県北相馬郡利根町!<br /><br />北相馬郡?<br />相馬は福島県では?<br />なぞは深まるばかり。<br /><br />★“利根”とは…利根川の流域は皆“利根”の名前に関係がある!<br /><br />★“相馬”とは…福島県の相馬よりここの相馬のほうが古い。<br /><br />【鎌倉時代に下総国相馬郡(取手市・常総市・龍ケ崎市・守谷市・つくばみらい市・千葉県柏市・我孫子市の一部)で有力武士として成長した相馬氏は、その後地頭職を得ていた陸奥国宇多郡・行方郡(現南相馬市・相馬郡飯舘村)に移住し、子孫は相馬中村藩藩主(現在の福島県浜通り北部)となる。】Wikipediaより抄訳<br />

    「利根町歴史民俗資料館」茨城県北相馬郡利根町中谷967

    まず「利根町」とは
    群馬県利根郡は尾瀬の玄関口“片品村”等を知っていたが…
    ここは茨城県北相馬郡利根町!

    北相馬郡?
    相馬は福島県では?
    なぞは深まるばかり。

    ★“利根”とは…利根川の流域は皆“利根”の名前に関係がある!

    ★“相馬”とは…福島県の相馬よりここの相馬のほうが古い。

    【鎌倉時代に下総国相馬郡(取手市・常総市・龍ケ崎市・守谷市・つくばみらい市・千葉県柏市・我孫子市の一部)で有力武士として成長した相馬氏は、その後地頭職を得ていた陸奥国宇多郡・行方郡(現南相馬市・相馬郡飯舘村)に移住し、子孫は相馬中村藩藩主(現在の福島県浜通り北部)となる。】Wikipediaより抄訳

    利根町立歴史民俗資料館 美術館・博物館

  • 利根町歴史民俗資料館前の石棺<br /><br />利根町近辺は遺跡・貝塚が多いと思う。<br /><br />展示されていた石器時代の地図では、貝塚・遺跡が多かった。<br /><br />理由は低い場所は海であったためである。

    利根町歴史民俗資料館前の石棺

    利根町近辺は遺跡・貝塚が多いと思う。

    展示されていた石器時代の地図では、貝塚・遺跡が多かった。

    理由は低い場所は海であったためである。

    利根町立歴史民俗資料館 美術館・博物館

  • 利根町歴史民俗資料館玄関を入ると…<br />上_扁額…時価 100万円<br />下_立木貝塚 出土品

    利根町歴史民俗資料館玄関を入ると…
    上_扁額…時価 100万円
    下_立木貝塚 出土品

    利根町立歴史民俗資料館 美術館・博物館

  • 旧東文間(ひがしもんま)小学校にあった扁額、勝海舟へ揮毫を依頼したもの。<br />100万円の値がついた。当時の町長さんが出演。

    旧東文間(ひがしもんま)小学校にあった扁額、勝海舟へ揮毫を依頼したもの。
    100万円の値がついた。当時の町長さんが出演。

    利根町立歴史民俗資料館 美術館・博物館

  • 立木貝塚からの出土品<br /><br />真中にはお面のような土器が…<br /><br />他に展示室に“花輪台のビィーナス”があった。<br />

    立木貝塚からの出土品

    真中にはお面のような土器が…

    他に展示室に“花輪台のビィーナス”があった。

    利根町立歴史民俗資料館 美術館・博物館

  • ネットを検索したら<br />「花輪台のビィーナス」写真が見つかった。<br /><br />日本最古の「ヴィーナス型土偶」だそうです。<br /><br />【タヌポンの利根ぽんぽ行 早尾・龍ヶ崎北方の史跡など】の記事のコピーです。<br /><br />「http://tanuki-bayashi.com/tone-ponpokou/hayao_kitakata/」<br /><br />右側の写真は資料館の展示に似てるな~~

    ネットを検索したら
    「花輪台のビィーナス」写真が見つかった。

    日本最古の「ヴィーナス型土偶」だそうです。

    【タヌポンの利根ぽんぽ行 早尾・龍ヶ崎北方の史跡など】の記事のコピーです。

    http://tanuki-bayashi.com/tone-ponpokou/hayao_kitakata/

    右側の写真は資料館の展示に似てるな~~

    利根町立歴史民俗資料館 美術館・博物館

  • 資料館内部_内部は写真撮影禁止_ここまでは写真OK!<br /><br />内部に展示された場所へ実際に行って見ることにした。<br /><br />---二度と来れないかも知れないので---

    資料館内部_内部は写真撮影禁止_ここまでは写真OK!

    内部に展示された場所へ実際に行って見ることにした。

    ---二度と来れないかも知れないので---

    利根町立歴史民俗資料館 美術館・博物館

  • その1<br />扁額のあった小学校跡<br />「東文間(ひがしもんま)学校跡」<br /><br />まだまだ利用可能に思えた_少子化か!

    その1
    扁額のあった小学校跡
    「東文間(ひがしもんま)学校跡」

    まだまだ利用可能に思えた_少子化か!

  • 「東文間(ひがしもんま)学校跡」

    「東文間(ひがしもんま)学校跡」

  • その2<br /><br />「蛟網(こうもう)神社 奥の宮」<br /><br /><br />茨城県北相馬郡利根町立木882

    その2

    「蛟網(こうもう)神社 奥の宮」


    茨城県北相馬郡利根町立木882

    蛟もう神社 寺・神社・教会

  • その2<br />「蛟網(こうもう)神社 奥の宮」<br />

    その2
    「蛟網(こうもう)神社 奥の宮」

    蛟もう神社 寺・神社・教会

  • その2<br /><br />「蛟網(こうもう)神社 奥の宮」<br />

    その2

    「蛟網(こうもう)神社 奥の宮」

    蛟もう神社 寺・神社・教会

  • 蛟網(こうもう)神社<br /><br />鳥居の修理が終わったばかりでした。<br /><br />「笠木」は柱に乗っているだけです。<br /><br />

    蛟網(こうもう)神社

    鳥居の修理が終わったばかりでした。

    「笠木」は柱に乗っているだけです。

    蛟もう神社 寺・神社・教会

  • その2<br />「蛟網(こうもう)神社 奥の宮」<br /><br />古い鳥居が撤去され横倒し

    その2
    「蛟網(こうもう)神社 奥の宮」

    古い鳥居が撤去され横倒し

  • その2<br />「蛟網(こうもう)神社 奥の宮」<br /><br />新社殿が2015年に完成しました。

    その2
    「蛟網(こうもう)神社 奥の宮」

    新社殿が2015年に完成しました。

  • その2<br />「蛟網(こうもう)神社 奥の宮」<br /><br />要約すると【日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の際に文馬(かざりうま)を木につないだ。「たづなを木に繋ぐ→たづなぎ→立木」と“立木”の地名が生まれた。「文馬→文間」になったといわれ、先ほどの小学校の名前が“文馬”なのはここから来たようである。】

    その2
    「蛟網(こうもう)神社 奥の宮」

    要約すると【日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の際に文馬(かざりうま)を木につないだ。「たづなを木に繋ぐ→たづなぎ→立木」と“立木”の地名が生まれた。「文馬→文間」になったといわれ、先ほどの小学校の名前が“文馬”なのはここから来たようである。】

  • その3<br />「蛟網(こうもう)神社 門の宮」<br />利根町立木2184 <br /><br />

    その3
    「蛟網(こうもう)神社 門の宮」
    利根町立木2184 

    蛟もう神社 寺・神社・教会

  • 説明版抄訳です。【略…記録にあらわれた最初は、延喜5年(905年)に編集を開始した「延喜式」の神名帳で、「相馬郡一座蛟網(みつちの)神社」と書かれています。蛟網の名は、周囲が流れ海であったころの台地の姿が、水を分けて進む水蛇(みずち)に似ていたためといわれています。門の宮のある所は、縄文後期晩期貝塚(前2500~前300)で、そうした古代のありさまをしのばせます。…

    説明版抄訳です。【略…記録にあらわれた最初は、延喜5年(905年)に編集を開始した「延喜式」の神名帳で、「相馬郡一座蛟網(みつちの)神社」と書かれています。蛟網の名は、周囲が流れ海であったころの台地の姿が、水を分けて進む水蛇(みずち)に似ていたためといわれています。門の宮のある所は、縄文後期晩期貝塚(前2500~前300)で、そうした古代のありさまをしのばせます。…

  • …同時にこの貝塚は全国的にみても貴重な遺跡として大切にされています。門の宮の社殿は慶長3年(1598年)に布川(ふかわ)藩主松平信一(のぶかず)が再建したという記録と元禄11年(1698年)再造営の棟札が残されています。蛟網神社には大和武尊(やまとたけるのみこと)が参拝したという伝説があり、近くに弟橘姫(おとたちばなひめ)の櫛塚や舟形山(ふながたやま)があります。また周辺には史跡や伝説が数多く残されています。】

    …同時にこの貝塚は全国的にみても貴重な遺跡として大切にされています。門の宮の社殿は慶長3年(1598年)に布川(ふかわ)藩主松平信一(のぶかず)が再建したという記録と元禄11年(1698年)再造営の棟札が残されています。蛟網神社には大和武尊(やまとたけるのみこと)が参拝したという伝説があり、近くに弟橘姫(おとたちばなひめ)の櫛塚や舟形山(ふながたやま)があります。また周辺には史跡や伝説が数多く残されています。】

  • その3<br />「蛟網(こうもう)神社 門の宮」<br /><br />社殿

    その3
    「蛟網(こうもう)神社 門の宮」

    社殿

  • その3<br />「蛟網(こうもう)神社 門の宮」<br /><br />社殿

    その3
    「蛟網(こうもう)神社 門の宮」

    社殿

  • その3<br />「蛟網(こうもう)神社 門の宮」<br /><br />社殿内部

    その3
    「蛟網(こうもう)神社 門の宮」

    社殿内部

  • 社殿の周りには貝殻がちりばめられている!<br /><br />では無く_ここ全体が貝塚なのです!

    社殿の周りには貝殻がちりばめられている!

    では無く_ここ全体が貝塚なのです!

  • 貝塚のあとです。<br /><br />説明版からです。<br />【利根町指定史跡<br />立木貝塚<br />この周辺は、「立木貝塚」といわれる縄文時代後晩期の遺跡です。縄文時代には、集落の周りの斜面や窪地などにゴミが捨てられていました。特に海に囲まれていたこの辺りでは貝殻が多く捨てられ、馬の蹄(ひづめ)のような形をした「貝塚」としても今も残っています。…略…そして、この遺跡を全国的に有名にしたのは、土偶(どぐう)土製耳飾、貝輪、骨角器などの「珍品」といわれる遺物が豊富に出土することでした。特に土偶は、全国でも最多出土遺跡の一つとして知られるほどです。土偶は、祭礼が儀式に使われたという説がありますが、今でも、この遺跡の上に蛟網(こうもう)神社が建っているのは歴史の流れを感じさせます。】

    貝塚のあとです。

    説明版からです。
    【利根町指定史跡
    立木貝塚
    この周辺は、「立木貝塚」といわれる縄文時代後晩期の遺跡です。縄文時代には、集落の周りの斜面や窪地などにゴミが捨てられていました。特に海に囲まれていたこの辺りでは貝殻が多く捨てられ、馬の蹄(ひづめ)のような形をした「貝塚」としても今も残っています。…略…そして、この遺跡を全国的に有名にしたのは、土偶(どぐう)土製耳飾、貝輪、骨角器などの「珍品」といわれる遺物が豊富に出土することでした。特に土偶は、全国でも最多出土遺跡の一つとして知られるほどです。土偶は、祭礼が儀式に使われたという説がありますが、今でも、この遺跡の上に蛟網(こうもう)神社が建っているのは歴史の流れを感じさせます。】

  • その3<br />「蛟網(こうもう)神社 門の宮」

    その3
    「蛟網(こうもう)神社 門の宮」

  • その3<br />「蛟網(こうもう)神社 門の宮」<br /><br />扁額

    その3
    「蛟網(こうもう)神社 門の宮」

    扁額

  • 社殿前から南側を眺める。<br /><br />縄文時代は淡水湖?だった!<br /><br />利根町観光案内コピーです。<br /><br />【立木台の下に広河の砂州が堆積し、その砂丘上にあらわれたヤマトシジミ、マシジミの主淡貝塚です。縄文後晩期貝塚の特徴である洪積台地下の湖成段丘面に立地しています。東西150m、南北50mの貝塚ですが、100個以上といわれる日本最多級の土偶出土遺跡として知られています。】

    社殿前から南側を眺める。

    縄文時代は淡水湖?だった!

    利根町観光案内コピーです。

    【立木台の下に広河の砂州が堆積し、その砂丘上にあらわれたヤマトシジミ、マシジミの主淡貝塚です。縄文後晩期貝塚の特徴である洪積台地下の湖成段丘面に立地しています。東西150m、南北50mの貝塚ですが、100個以上といわれる日本最多級の土偶出土遺跡として知られています。】

  • その4<br /><br />「徳満寺」利根町布川3004<br /><br />正式名称「海珠山多聞院徳満寺」<br /><br />

    その4

    「徳満寺」利根町布川3004

    正式名称「海珠山多聞院徳満寺」

    徳満寺 寺・神社・教会

  • 「徳満寺」入り口の千葉県道・茨城県道4号千葉竜ヶ崎線<br /><br />利根川に掛かる栄橋(さかえはし)は渋滞!<br />

    「徳満寺」入り口の千葉県道・茨城県道4号千葉竜ヶ崎線

    利根川に掛かる栄橋(さかえはし)は渋滞!

    徳満寺 寺・神社・教会

  • 「徳満寺」<br /><br />色々と説明版があり、訪問者に優しいお寺である。<br /><br />【涅槃像(ねはんぞう)と沙羅(さら)双樹(そうじゅ)<br />八十才になったお釈迦様は、死期の近いことを感じ、 弟子の阿難(あなん)を伴って故郷に向かいました。その途中、クシナガラで体調をこわし、沙羅(さら)の木の下で、頭を北にしてお休みになりました。 そしてそこで涅槃(ねはん)(死)を迎えられました。今日、葬儀の時、 ご遺体を北枕にする風習はここから来ています。】<br /><br />物知りになる事請け負います!

    「徳満寺」

    色々と説明版があり、訪問者に優しいお寺である。

    【涅槃像(ねはんぞう)と沙羅(さら)双樹(そうじゅ)
    八十才になったお釈迦様は、死期の近いことを感じ、 弟子の阿難(あなん)を伴って故郷に向かいました。その途中、クシナガラで体調をこわし、沙羅(さら)の木の下で、頭を北にしてお休みになりました。 そしてそこで涅槃(ねはん)(死)を迎えられました。今日、葬儀の時、 ご遺体を北枕にする風習はここから来ています。】

    物知りになる事請け負います!

    徳満寺 寺・神社・教会

  • 「徳満寺」<br /><br />お隣は「布川保育園」園舎…合掌は仏様と私達が一体となった姿を表したものだそうです。保育園HPは<br />「http://www.ans.co.jp/n/fukawa/」<br /><br />お釈迦様「涅槃像」その他「成道」「誕生」等あった。

    「徳満寺」

    お隣は「布川保育園」園舎…合掌は仏様と私達が一体となった姿を表したものだそうです。保育園HPは
    http://www.ans.co.jp/n/fukawa/

    お釈迦様「涅槃像」その他「成道」「誕生」等あった。

    徳満寺 寺・神社・教会

  • 「徳満寺」<br />正面:本堂(地蔵堂)<br />右側:客殿

    「徳満寺」
    正面:本堂(地蔵堂)
    右側:客殿

    徳満寺 寺・神社・教会

  • 弘法大師修行僧

    弘法大師修行僧

    徳満寺 寺・神社・教会

  • 七福神_説明版を読むと時間が掛かる!

    七福神_説明版を読むと時間が掛かる!

    徳満寺 寺・神社・教会

  • お水屋

    お水屋

  • 客殿前の標識<br /><br />この中に「水子(間引)絵馬があります。<br /><br />「ご覧なりたい方は庫裏のブザーを鳴らして下さい。」<br /><br />と言う案内版がありましたので、午後1時ごろですが遠慮なく押した!<br /><br />奥様が出てこられて「間引き絵馬」等の説明をして下さった。<br /><br />この場を借りてお礼申しあげます。

    客殿前の標識

    この中に「水子(間引)絵馬があります。

    「ご覧なりたい方は庫裏のブザーを鳴らして下さい。」

    と言う案内版がありましたので、午後1時ごろですが遠慮なく押した!

    奥様が出てこられて「間引き絵馬」等の説明をして下さった。

    この場を借りてお礼申しあげます。

  • 「海珠山多聞院徳満寺」<br /><br />客殿の扁額

    「海珠山多聞院徳満寺」

    客殿の扁額

  • 客殿の天蓋(てんがい)<br /><br />いわゆる“シャンデリア”

    客殿の天蓋(てんがい)

    いわゆる“シャンデリア”

  • 本物「間引き絵馬」<br /><br />透明カバーがしてあり窓からの光が反射して写しにくい。<br /><br />以前は誰もが触れるようになっており、子供が仏様になって行く場所が手でさわり仏様が消えてしまっている。<br /><br />明治時代に警察官より<br />「大衆の目にさらしては駄目だ!」<br />と言われ、長い間倉庫に隠してあったそうです。<br /><br />説明版からです。<br />【柳田国男と徳満寺<br />日本民俗学の父と云われる、柳田国男(1875~1962)は兵庫県の福崎町で生まれましたが、13歳の時養生の為、布川で開業していた兄のもとで、2年余過ごしました。<br />この間に徳満寺の間引き絵馬を見たことが、後に民俗学に進む元になりました。<br />故郷70年に、「約2年間を過ごした利根川べりの生活で、私の印象に最も強く残っているのは、あの川畔に地蔵堂があり、誰が奉納したものであろうか、堂の正面右手に一枚の彩色された絵馬が掛けてあったことである。その図柄は、産褥の女がはちまきを締めて生まれたばかりの嬰児を抑えつけているという悲惨なものであった。障子にその女の影絵が映り、それには角がはえている。その傍らに地蔵様が立って泣いているというその意味を、私は子供心に理解し、寒いような心になったことを今も憶えている。」と書いています】

    本物「間引き絵馬」

    透明カバーがしてあり窓からの光が反射して写しにくい。

    以前は誰もが触れるようになっており、子供が仏様になって行く場所が手でさわり仏様が消えてしまっている。

    明治時代に警察官より
    「大衆の目にさらしては駄目だ!」
    と言われ、長い間倉庫に隠してあったそうです。

    説明版からです。
    【柳田国男と徳満寺
    日本民俗学の父と云われる、柳田国男(1875~1962)は兵庫県の福崎町で生まれましたが、13歳の時養生の為、布川で開業していた兄のもとで、2年余過ごしました。
    この間に徳満寺の間引き絵馬を見たことが、後に民俗学に進む元になりました。
    故郷70年に、「約2年間を過ごした利根川べりの生活で、私の印象に最も強く残っているのは、あの川畔に地蔵堂があり、誰が奉納したものであろうか、堂の正面右手に一枚の彩色された絵馬が掛けてあったことである。その図柄は、産褥の女がはちまきを締めて生まれたばかりの嬰児を抑えつけているという悲惨なものであった。障子にその女の影絵が映り、それには角がはえている。その傍らに地蔵様が立って泣いているというその意味を、私は子供心に理解し、寒いような心になったことを今も憶えている。」と書いています】

  • ネットを検索すると「子返し絵馬」として絵馬の複製画が載っていました。<br />モノ黒ですが、母親の影が鬼になっており角(つの)があります。子供を見る仏様も良く描かれているのが良く分かる。<br />「https://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/50628792.html」参考Kawakatuワールド<br />上記URLは閉鎖されましたのでネットで「子返し絵馬」を検索してください。

    ネットを検索すると「子返し絵馬」として絵馬の複製画が載っていました。
    モノ黒ですが、母親の影が鬼になっており角(つの)があります。子供を見る仏様も良く描かれているのが良く分かる。
    https://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/50628792.html」参考Kawakatuワールド
    上記URLは閉鎖されましたのでネットで「子返し絵馬」を検索してください。

    徳満寺 寺・神社・教会

  • 他の説明版

    他の説明版

  • 説明版要約です。<br />【赤松宗旦(義知)はここ布川で開業医を営みながら利根川領域の地誌の研究をする。「利根川図誌」の中に徳満寺の門前町で地蔵市が開かれている絵があり、「20石 相馬郡布川村 徳満寺」と記載されている。】

    説明版要約です。
    【赤松宗旦(義知)はここ布川で開業医を営みながら利根川領域の地誌の研究をする。「利根川図誌」の中に徳満寺の門前町で地蔵市が開かれている絵があり、「20石 相馬郡布川村 徳満寺」と記載されている。】

  • 客殿の天井の駕籠<br /><br />「江戸徳川家へ土地を頂いたのでお礼を言うために、この駕籠に乗って行ったそうです。」と聞いたような…

    客殿の天井の駕籠

    「江戸徳川家へ土地を頂いたのでお礼を言うために、この駕籠に乗って行ったそうです。」と聞いたような…

  • 「金銅版両界曼荼羅」コピーがありました。<br />説明版は利根川町HPコピーです。<br />【府川城址にある布川の徳満寺(真言宗)の寺宝であり、赤松宗旦も「布川案内記」の中で、その重要性を高く評価しています。曼荼羅は一面が横約50㎝、縦が約100㎝の金剛界、胎蔵界の二面で、それぞれ九枚の金銅板から成り立っています。各板共に各尊像の概要を打ち出しで現わし、更に線彫を加えて図様を一層明瞭にしています。制作時期は建久5年(1194年)で、現在は東京国立博物館に寄託されています。】

    「金銅版両界曼荼羅」コピーがありました。
    説明版は利根川町HPコピーです。
    【府川城址にある布川の徳満寺(真言宗)の寺宝であり、赤松宗旦も「布川案内記」の中で、その重要性を高く評価しています。曼荼羅は一面が横約50㎝、縦が約100㎝の金剛界、胎蔵界の二面で、それぞれ九枚の金銅板から成り立っています。各板共に各尊像の概要を打ち出しで現わし、更に線彫を加えて図様を一層明瞭にしています。制作時期は建久5年(1194年)で、現在は東京国立博物館に寄託されています。】

  • 「金銅版両界曼荼羅」<br />重要文化財指定書<br />

    「金銅版両界曼荼羅」
    重要文化財指定書

  • 徳満寺前の利根川に栄橋が掛けられていますが、以前の栄橋の写真がありました。<br />こちらの橋が“橋”らしい橋でした。

    徳満寺前の利根川に栄橋が掛けられていますが、以前の栄橋の写真がありました。
    こちらの橋が“橋”らしい橋でした。

  • 本堂(地蔵堂)

    本堂(地蔵堂)

  • 本堂(地蔵堂)

    本堂(地蔵堂)

  • 本堂(地蔵堂)のお賓頭盧(おびんずる)さま <br /><br />病んでいる場所と同じ所をなでると、病気が治るらしい!<br /><br />頭を一杯なでてきた!

    本堂(地蔵堂)のお賓頭盧(おびんずる)さま

    病んでいる場所と同じ所をなでると、病気が治るらしい!

    頭を一杯なでてきた!

  • 本堂の左手(南側)<br /><br />72年前に茨城県下の名勝地・史跡100選の人気投票したところ100番目が「豊島台からの栄橋と利根川の眺めが素晴らしかったそうです。現在は木々が邪魔で川も橋も良く見えない。<br />説明版最後に“石段を登っても利根川は展望できません。”とあった。非常に親切な説明版であった。<br /><br />階段左手に「小林一茶」句碑<br />【「春立つや 先ず人間の 五十年」<br />「おのれやれ いまや五十の 花の春」<br />「口べたの 東鳥も けさの春」<br />等々布川にて詠んでおり<br />ここ徳満寺では<br />「段々 朧よ月よ こもり堂」<br />と詠んだそうです。】<br />説明版より<br /><br />

    本堂の左手(南側)

    72年前に茨城県下の名勝地・史跡100選の人気投票したところ100番目が「豊島台からの栄橋と利根川の眺めが素晴らしかったそうです。現在は木々が邪魔で川も橋も良く見えない。
    説明版最後に“石段を登っても利根川は展望できません。”とあった。非常に親切な説明版であった。

    階段左手に「小林一茶」句碑
    【「春立つや 先ず人間の 五十年」
    「おのれやれ いまや五十の 花の春」
    「口べたの 東鳥も けさの春」
    等々布川にて詠んでおり
    ここ徳満寺では
    「段々 朧よ月よ こもり堂」
    と詠んだそうです。】
    説明版より

  • こんな景色が見えたかも…高瀬舟!<br /><br />パンフレットからコピーです。

    こんな景色が見えたかも…高瀬舟!

    パンフレットからコピーです。

  • 本堂裏手に回った。<br /><br />お堀跡らしき くぼ地(空掘と土塁の跡)の西側に「琴平神社」が“ちょこん”とあった。<br /><br />布川城があったときは「馬出曲輪(郭)」だったらしい。

    本堂裏手に回った。

    お堀跡らしき くぼ地(空掘と土塁の跡)の西側に「琴平神社」が“ちょこん”とあった。

    布川城があったときは「馬出曲輪(郭)」だったらしい。

    琴平神社 寺・神社・教会

  • 「琴平神社」

    「琴平神社」

  • 「べったりと 人のなる木や 宮角力  一茶」句碑<br /><br />小林一茶が詠んだ句。<br />琴平神社の奉納相撲、文化14年(1817年)8月に詠んだそうです。<br /><br /><br />

    「べったりと 人のなる木や 宮角力  一茶」句碑

    小林一茶が詠んだ句。
    琴平神社の奉納相撲、文化14年(1817年)8月に詠んだそうです。


  • 「琴平神社」

    「琴平神社」

  • 山門から客殿(工事中)を眺める。

    山門から客殿(工事中)を眺める。

  • 客殿(工事中)

    客殿(工事中)

  • 説明版からです。<br />【日本最古の十九夜塔<br />日暦十九日の夜、 寺ゃ当番の家に集まって、如意輪観音(にょいりんかんのん)の前で般若心経や和讃を唱える行事(十九夜講)がありました。特に茨城や栃木などで盛んに行われていました。当寺の十九夜塔は、万治元年(1658年)のもので、 今見つかっている中では日木最古の石塔です。】

    説明版からです。
    【日本最古の十九夜塔
    日暦十九日の夜、 寺ゃ当番の家に集まって、如意輪観音(にょいりんかんのん)の前で般若心経や和讃を唱える行事(十九夜講)がありました。特に茨城や栃木などで盛んに行われていました。当寺の十九夜塔は、万治元年(1658年)のもので、 今見つかっている中では日木最古の石塔です。】

  • 庫裏の裏手に咲いていた枝垂れ桜<br /><br />……「利根町歴史民俗資料館」見学と散策終了です。……<br /><br />初めて知った利根町_若柴宿場から南へ約9Kmと近かった。<br />若柴宿探索記も見て下さい「http://4travel.jp/travelogue/11114887」<br /><br />作詞、永六輔の「知らない街を歩いて見たい~~」ピッタシの散策でした。<br />時間があれば「鎌倉街道」「泪塚」等散策すれば面白かったかも

    庫裏の裏手に咲いていた枝垂れ桜

    ……「利根町歴史民俗資料館」見学と散策終了です。……

    初めて知った利根町_若柴宿場から南へ約9Kmと近かった。
    若柴宿探索記も見て下さい「http://4travel.jp/travelogue/11114887

    作詞、永六輔の「知らない街を歩いて見たい~~」ピッタシの散策でした。
    時間があれば「鎌倉街道」「泪塚」等散策すれば面白かったかも

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