2014/09/24 - 2014/09/24
112位(同エリア172件中)
滝山氏照さん
真岡鉄道北真岡駅から徒歩で約10分、貞観4年(862)慈覚大師の開山と伝えられる大前山・般若寺(はんにゃじ、栃木県真岡市田町)は江戸時代下野真岡藩初代藩主である稲葉正成(いなば・まさなり、1571~1628)の菩提寺となっています。
戦国時代の当地域は宇都宮氏を支える重臣芳賀氏支配のもと同氏の厚い庇護を受けた最盛期には末寺15寺を擁するほどでしたが、宗家宇都宮氏無嗣子で養子を巡る内訌が発生、秀吉より咎を受け宇都宮氏改易され、これに連座して芳賀氏も没落の憂き目に遭います。
関ヶ原戦いの翌年慶長6年(1601)、豊臣時代五奉行を勤めた浅野長政3男長重(ながしげ、1588~1632)が2万石を以て入封、その後慶長16年(1611)堀親良(ほり・ちかよし、1580~1637)が1万2千石で真岡に転封し城下町建設に尽力します。
寛永4年(1627)親良が加増されて下野国烏山に移封後は稲葉正成が2万石を以ての入封となります。
かつて正成は備前岡山の小早川秀秋の家老職でありましたが慶長7年(1602)秀秋死去し小早川家断絶後は家康家臣となり、慶長12年(1607)には旧領美濃国に1万石の知行が与えられその後家康孫の松平忠昌家老に就任します。
慶長19年(1614)大坂夏の陣では忠昌を補佐して戦功挙げ、元和4年(1618)には越後国糸魚川2万石の知行を与えられ忠昌の付家老となります。
寛永元年(1624)忠昌の越前福井藩移動には従わず、幕府より蟄居を命ぜられますが、寛永4年(1627)再び召し出され晴て上述の通り下野国真岡藩2万石に封ぜられます。
翌年寛永5年(1628)正成は58歳で死去、葬儀はこの般若寺で執り行われ、.境内に霊廟を建立その中には.正成の分骨・位牌・木像が安置されるも火災により焼失し現在は位牌のみ残されています。
その後は後室お福(=春日局)を母親に持つ二男正勝(まさかつ、1597~1634)が既に知行していた柿岡2万石と父遺領の2万石とを合わせて4万石を継いで二代藩主となります。
正勝は正成の菩提寺として石燈籠や取水舎などを寄進し般若寺を庇護しますが、寛永9年(1632)幕命により8万5千石で小田原藩に移封、真岡は一時小田原藩の飛地となりますが後に幕府直轄地となります。
天領となった真岡ですが稲葉正成は春日局の夫君だったことで菩提寺の般若寺は幕府から朱印寺として庇護を受け繁栄を続けます。
2022年12月3日追記
境内に建てられた説明板には次のように紹介されています。
『 大前山金剛院 般 若 寺
真岡市田町
貞観4年(862)若覚大師の開山である。
弘範を中興の祖とし、往時には末寺十五ヶ寺を有していたといわれる。
本尊は阿弥陀如来であり、稲葉家が崇敬せる薬師如来(県指定文化財)が安置されている。
寛永5年(1628)善政を行った真岡藩主稲葉政成公(春日局の夫)が死亡し、この般若寺で葬儀が行われ、その後に境内に特別霊廟を建立し、その中に政成公の分骨、お位牌、木造が安置され明治の中期まで、毎年命日(9月17日)に供養が行われていたが、度々の火災により焼失し、現在はお位牌のみが残されている。
政成公が前髪(元服の頃と思われる)のころ般若寺において手習い、ふみよみされたと記録された古文書、54通の正成公が使ったといわれる見右、稲葉家寄進の灯籠、机、手水鉢など多くの資料が残る稲葉家ゆかりの寺院である。
真 岡 市 』
- 旅行の満足度
- 3.0
- 交通手段
- JRローカル 私鉄 徒歩
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