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真岡鉄道の中心地真岡駅から徒歩約10分、南北に流れる行屋川を渡る手前の左手の高台に真岡小学校があり、当該小学校が真岡城(もおかじょう、栃木県真岡市台町)の城郭跡とされています。<br /><br />真岡城築城に関しては諸説がありますが貞治元年(1362)に芳賀高貞(はが・たかさだ)が築城してそれまでの御前城から移転、天正5年(1577)高継(たかつぐ、1526~1592)が小田原北条氏の侵攻に対応すべく、強固な城郭に改修したとの説が有力のようです。<br /><br />天正13年(1585)高継には嗣子がなく主家である宇都宮国網(<br />うつのみや・くにつな、1568~1608)の弟高武(たかたけ、1572~1612)を養子に迎え家督を継がせ自らは隠居します。<br /><br />同年小田原北条氏が軍を率いて襲来した際、高武は国網の命を受け支城の多功城を支援し、天正17年(1589)国網と協調して小田原北条氏に通じていた益子氏を攻め滅ばします。<br /><br />翌年には秀吉の小田原攻めに際して秀吉に従い国網の代理として軍勢を率いて参戦し戦功を挙げ、秀吉の関東・奥州仕置きの際主家の宇都宮氏と共に芳賀氏本領安堵を勝ち取り、更に文禄元年(1592)秀吉の朝鮮出兵にも宇都宮勢の先陣大将として参戦します。<br /><br />その後慶長2年(1597)嗣子のない兄宇都宮国網の養子の件で内訌を引き起こし秀吉の命に背いたとして兄国網共々芳賀高武は一族郎党残らず知行地没収され改易となり真岡城は廃城となります。<br /><br />江戸時代になりますと遺構の一部が陣屋となり、その後天明3年(1783)幕府直轄地となると代官所が設けられます。<br /><br /><br /><br />2023年9月17日追記<br /><br /><br />現地で建てられている説明板には次の通り記載されています。<br /><br />『 真岡城(芳賀城)について<br /><br />真岡城は、宇都宮氏との縁戚関係にある芳賀氏(清原氏)の居城である。芳賀氏は益子の紀氏とともに紀清両党と呼ばれ、太平記にも「元より戦場に臨んで命を捨てること塵芥(ごみくず)よりもなお軽くす」とその勇猛さを称された名族である。<br />         真岡城の築城には<br /><br />貞治元年(1362)15代 高貞築城説(続群書類従)<br />天文元年(1522)21代 高経築城説(広沢家古記録)<br />天正5年(1577)23代 高継築城説(下野国誌)<br /><br />の三説あるが、高貞が午前城(真岡市田町・現真岡東中学校)から移転築城し、高継が後北条氏の侵攻にそなえ堅固な城郭に改築したと考える説が有力である。<br /><br />廃城は、宇都宮家が豊臣秀吉によって改易された慶長2年(1597)で、最後の城主は高武である。<br /><br />寛文11年(1671)11月の「稲葉美濃守様芳賀郡御領分村々明細書上帳」によると、総回り14町12間(1534m)、東5町4間(548m)、西4町(440m)、北2町(216m)とあり、五角形の城であった。<br /><br />現在の大通りは城と町を区切る堀であったが、明治以降拡張し掘り下げられたものである。<br />        平成11年3月<br />                    真岡市教育委員会 』   

下野真岡 北関東名家の宇都宮氏を主家とし代々から同氏を支えるも小田原北条氏敗北後の関東仕置で秀吉処断により没落の芳賀氏本拠『真岡城』訪問

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2014/09/24 - 2014/09/24

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33

滝山氏照

滝山氏照さん

真岡鉄道の中心地真岡駅から徒歩約10分、南北に流れる行屋川を渡る手前の左手の高台に真岡小学校があり、当該小学校が真岡城(もおかじょう、栃木県真岡市台町)の城郭跡とされています。

真岡城築城に関しては諸説がありますが貞治元年(1362)に芳賀高貞(はが・たかさだ)が築城してそれまでの御前城から移転、天正5年(1577)高継(たかつぐ、1526~1592)が小田原北条氏の侵攻に対応すべく、強固な城郭に改修したとの説が有力のようです。

天正13年(1585)高継には嗣子がなく主家である宇都宮国網(
うつのみや・くにつな、1568~1608)の弟高武(たかたけ、1572~1612)を養子に迎え家督を継がせ自らは隠居します。

同年小田原北条氏が軍を率いて襲来した際、高武は国網の命を受け支城の多功城を支援し、天正17年(1589)国網と協調して小田原北条氏に通じていた益子氏を攻め滅ばします。

翌年には秀吉の小田原攻めに際して秀吉に従い国網の代理として軍勢を率いて参戦し戦功を挙げ、秀吉の関東・奥州仕置きの際主家の宇都宮氏と共に芳賀氏本領安堵を勝ち取り、更に文禄元年(1592)秀吉の朝鮮出兵にも宇都宮勢の先陣大将として参戦します。

その後慶長2年(1597)嗣子のない兄宇都宮国網の養子の件で内訌を引き起こし秀吉の命に背いたとして兄国網共々芳賀高武は一族郎党残らず知行地没収され改易となり真岡城は廃城となります。

江戸時代になりますと遺構の一部が陣屋となり、その後天明3年(1783)幕府直轄地となると代官所が設けられます。



2023年9月17日追記


現地で建てられている説明板には次の通り記載されています。

『 真岡城(芳賀城)について

真岡城は、宇都宮氏との縁戚関係にある芳賀氏(清原氏)の居城である。芳賀氏は益子の紀氏とともに紀清両党と呼ばれ、太平記にも「元より戦場に臨んで命を捨てること塵芥(ごみくず)よりもなお軽くす」とその勇猛さを称された名族である。
         真岡城の築城には

貞治元年(1362)15代 高貞築城説(続群書類従)
天文元年(1522)21代 高経築城説(広沢家古記録)
天正5年(1577)23代 高継築城説(下野国誌)

の三説あるが、高貞が午前城(真岡市田町・現真岡東中学校)から移転築城し、高継が後北条氏の侵攻にそなえ堅固な城郭に改築したと考える説が有力である。

廃城は、宇都宮家が豊臣秀吉によって改易された慶長2年(1597)で、最後の城主は高武である。

寛文11年(1671)11月の「稲葉美濃守様芳賀郡御領分村々明細書上帳」によると、総回り14町12間(1534m)、東5町4間(548m)、西4町(440m)、北2町(216m)とあり、五角形の城であった。

現在の大通りは城と町を区切る堀であったが、明治以降拡張し掘り下げられたものである。
        平成11年3月
                    真岡市教育委員会 』   

旅行の満足度
4.0
交通手段
JRローカル 私鉄 徒歩
  • 真岡城跡入口<br /><br />真岡鉄道・真岡駅から徒歩約10分、城山公園となっている高台の真岡城跡に向けて進みます。

    真岡城跡入口

    真岡鉄道・真岡駅から徒歩約10分、城山公園となっている高台の真岡城跡に向けて進みます。

  • 真岡城跡に関する案内<br /><br />入口右側にはなにやら屋根付きの案内板が立っています。

    真岡城跡に関する案内

    入口右側にはなにやら屋根付きの案内板が立っています。

  • 「真岡城と高札場」説明

    「真岡城と高札場」説明

  • 福姫舞ちゃん像<br /><br />真岡名産である木綿をピ−ア−ルする観光キャラクタ−として福姫舞ちゃん像を立てています。

    福姫舞ちゃん像

    真岡名産である木綿をピ−ア−ルする観光キャラクタ−として福姫舞ちゃん像を立てています。

  • 「福姫舞ちゃん」説明

    「福姫舞ちゃん」説明

  • 行屋川風景<br /><br />真岡小学校の南麓に接する行屋川は水辺公園となっていますが、往時は城郭を護る外堀だった様相を呈しています。

    行屋川風景

    真岡小学校の南麓に接する行屋川は水辺公園となっていますが、往時は城郭を護る外堀だった様相を呈しています。

  • 行屋川<br /><br />橋の向こう側を捉えます。

    行屋川

    橋の向こう側を捉えます。

  • 真岡城跡<br /><br />橋を渡ると立ちはだかる石垣とその向こうには真岡小学校の校舎一部が視野に入ります。

    真岡城跡

    橋を渡ると立ちはだかる石垣とその向こうには真岡小学校の校舎一部が視野に入ります。

  • 真岡城石垣<br /><br />庭園には水が満たされていない池の他、石垣は自然岩石がそのまま役割を果たしているようです。

    真岡城石垣

    庭園には水が満たされていない池の他、石垣は自然岩石がそのまま役割を果たしているようです。

  • 真岡城石垣<br /><br />大胆にカットされた岩が逞しく積まれており、難攻不落の城郭を思わせるほどです。

    真岡城石垣

    大胆にカットされた岩が逞しく積まれており、難攻不落の城郭を思わせるほどです。

  • 帯郭<br /><br />城郭の東側に南北に走る帯郭が見られます。

    帯郭

    城郭の東側に南北に走る帯郭が見られます。

  • 帯郭<br /><br />すっかり公園化されて帯部分は散策通路に造られています。

    帯郭

    すっかり公園化されて帯部分は散策通路に造られています。

  • 真岡城跡石垣<br /><br />草むらに覆われた逞しい石垣が部分的に顔を出して往時を偲ばせます。

    真岡城跡石垣

    草むらに覆われた逞しい石垣が部分的に顔を出して往時を偲ばせます。

  • 市街展望<br /><br />真岡小学校グランドに向かう途中の路から市街を見渡します。

    市街展望

    真岡小学校グランドに向かう途中の路から市街を見渡します。

  • 真岡小学校校舎とグランド<br /><br />境目はわかりませんが正門前掲載の縄張図を参考にするとグランドが二の丸跡で校舎が本丸跡と思われます。

    真岡小学校校舎とグランド

    境目はわかりませんが正門前掲載の縄張図を参考にするとグランドが二の丸跡で校舎が本丸跡と思われます。

  • 市街展望<br /><br />真岡小学校傍らから行屋川方向を捉えます。

    市街展望

    真岡小学校傍らから行屋川方向を捉えます。

  • 真岡公園<br /><br />石段を降りて進むと右側に真岡小学校正門に辿り着きます。

    真岡公園

    石段を降りて進むと右側に真岡小学校正門に辿り着きます。

  • 真岡小学校正門<br /><br />真岡小学校は往時の真岡城跡地に造られ、学校正門傍ら掲載の縄張図を参考にすると正面から奥に向けて三の丸跡、二の丸跡そして本丸跡であったと思われます。

    真岡小学校正門

    真岡小学校は往時の真岡城跡地に造られ、学校正門傍ら掲載の縄張図を参考にすると正面から奥に向けて三の丸跡、二の丸跡そして本丸跡であったと思われます。

  • 「真岡城について」説明

    「真岡城について」説明

  • 真岡城縄張図(拡大)<br /><br />「真岡城について」の縄張図を取り上げ拡大すると現在の真岡小学校敷地がほぼ城郭となっていることが判ります。

    イチオシ

    真岡城縄張図(拡大)

    「真岡城について」の縄張図を取り上げ拡大すると現在の真岡小学校敷地がほぼ城郭となっていることが判ります。

  • 城山公園全景<br /><br />真岡小学校正門から公園方向を眺めます。往時の姿がかなり改変されており、三の丸跡に続く四の丸の様相を呈しています。

    城山公園全景

    真岡小学校正門から公園方向を眺めます。往時の姿がかなり改変されており、三の丸跡に続く四の丸の様相を呈しています。

  • 城山公園<br /><br />樹木は残された土塁と共に立っており、土塁全体が保存されてないのは残念なことです。

    城山公園

    樹木は残された土塁と共に立っており、土塁全体が保存されてないのは残念なことです。

  • 真岡陣屋跡・説明板<br /><br /><br />「 真岡陣屋跡 真岡市台町字城内(城山公園内)<br /><br />真岡陣屋は寛政9年(1797)竹垣三左衛門直温が小児養育・荒地起返並入百姓差入、村柄立直仕法を実施するために建てられたもので、敷地は三反七せ二十歩、建坪は六十七坪である。(費用は幕府)<br /><br />山内総左衛門ただ正は、弘化5年(1848)に真岡・東郷両陣屋を統合する形で支配した。嘉永4年(1851)、2月に陣屋(御用達場ー役所部分)が焼失し、建坪五十五坪七五に縮小して同年中に原類助と二宮金次郎が中心になって再建した。<br /><br />慶応4年(1868)5月に再び焼失、廃陣となった。 <br /><br />           ( 陣屋見取り図は省略 )   」<br /><br /><br /><br />

    真岡陣屋跡・説明板


    「 真岡陣屋跡 真岡市台町字城内(城山公園内)

    真岡陣屋は寛政9年(1797)竹垣三左衛門直温が小児養育・荒地起返並入百姓差入、村柄立直仕法を実施するために建てられたもので、敷地は三反七せ二十歩、建坪は六十七坪である。(費用は幕府)

    山内総左衛門ただ正は、弘化5年(1848)に真岡・東郷両陣屋を統合する形で支配した。嘉永4年(1851)、2月に陣屋(御用達場ー役所部分)が焼失し、建坪五十五坪七五に縮小して同年中に原類助と二宮金次郎が中心になって再建した。

    慶応4年(1868)5月に再び焼失、廃陣となった。 

               ( 陣屋見取り図は省略 )   」



  • 石碑正面<br /><br />「二宮先生 遺蹟 真岡陣屋址」と刻されています。「二宮先生」とは二宮尊徳(にのみや・たかのり、1787~1856)の事であり武家奉公人として小田原藩の家老服部家の財政再建を成功させ、その才能を見込まれて東郷陣屋にて真岡代官領の経営にあたり成果をあげます。

    石碑正面

    「二宮先生 遺蹟 真岡陣屋址」と刻されています。「二宮先生」とは二宮尊徳(にのみや・たかのり、1787~1856)の事であり武家奉公人として小田原藩の家老服部家の財政再建を成功させ、その才能を見込まれて東郷陣屋にて真岡代官領の経営にあたり成果をあげます。

  • 石碑右側

    石碑右側

  • 石碑左側

    石碑左側

  • 城山公園<br /><br />公園内部から小学校方向を捉えます。公園敷地一帯は何ら手当されておらず未整備の状況のようです。

    城山公園

    公園内部から小学校方向を捉えます。公園敷地一帯は何ら手当されておらず未整備の状況のようです。

  • 本城稲荷神社<br /><br />造ったばかりの神社の様相で、石段右側の神社名が刻印された石標があります。

    本城稲荷神社

    造ったばかりの神社の様相で、石段右側の神社名が刻印された石標があります。

  • 稲荷神社拝殿<br /><br />現在は簡素な拝殿ですがこれからどのように肉付けをするのでしょうか。

    稲荷神社拝殿

    現在は簡素な拝殿ですがこれからどのように肉付けをするのでしょうか。

  • 稲荷神社鳥居<br /><br />拝殿から周辺を一望しますが公園化されている状況ではなく造成途中と思われます。

    稲荷神社鳥居

    拝殿から周辺を一望しますが公園化されている状況ではなく造成途中と思われます。

  • 真岡公園外溝<br /><br />拝殿から真岡小学校方向を一望します。<br /><br />

    真岡公園外溝

    拝殿から真岡小学校方向を一望します。

  • 馬之跡

    馬之跡

  • 「公園整備工事」案内<br /><br />平成27年2月27日完成をめざして工事を進めている状況のようです。

    「公園整備工事」案内

    平成27年2月27日完成をめざして工事を進めている状況のようです。

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