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JR八高線丹荘(たんしょう)駅と高崎線神保原駅を結ぶ県道22号線の途中の神川町元阿保を中心に支配していた安保(あぼ)氏の氏寺が上里町に入った大御堂にあり、その名は吉祥院真光寺(きちじょういん・しんぎょうじ)という古刹です。<br /><br />当寺は説明板によれば京都仁和寺の末、真言宗智山派で阿保山吉祥院と呼ばれ、大同元年(806)に武蔵介阿保人上が開基、沙門任覚を開山として創建されたといわれます。<br /><br />更に治承4年(1180)安保刑部丞実光(あぼ・ぎょうぶのじょう・さねみつ、1142~1221)が当寺を再興し、沙門真隆を招き中興の開山とします。<br /><br />とりわけ上述の実光は早くから鎌倉幕府の御家人として頼朝に仕え、寿永3年(1184)の平氏追討の一ノ谷合戦には範頼に従い、文治5年(1189)の奥州藤原泰衡征伐にも頼朝に随陣しそれぞれ軍功を挙げますが、承久3年(1221)の承久の乱では後鳥羽上皇の倒幕に対応するため上洛、宇治橋合戦で武運なく一族の安保四郎・安保八郎・安保左衛門次郎と共に戦死していまいます。<br /><br />そもそも安保氏が属する丹党は武蔵七党の一つで伝承では宣化天皇の後裔といわれ、その皇子殖栗王より出たと言われています。殖栗王の12代孫の武信が武蔵国に配流され、賀美・秩父郡に居住しその孫峯時は石田牧の別当(長官)となり、この地に土着して丹貫主を称します。<br /><br />武峯の子の時代になって郡の内外に拡散して一大勢力となります。即ち武峯の嫡男網房(つなふさ)は阿保に移って安保三郎大夫、綱房の二男実光は安保二郎と称し、以降この地にて安保氏が繁栄を極めます。<br /><br />その発展理由の一つとしては安保氏は実光七男実員(さねかず、生没不詳)の頃娘が執権北条泰時(ほうじょう・やすとき、1183~1242)の継室となり北条氏との姻戚関係が生じ北条氏と一体化したことがその背景にあります。<br /><br />元弘年(1333)鎌倉幕府滅亡に際しては北条氏との姻戚関係にあった理由で嫡流の安保入道道堪(あぼ・にゅうどう・どうたん)は幕府側として新田義貞軍との武蔵・分倍河原の戦いで戦死、建武新政権により所領地没収となります。<br /><br />建武2年(1335)7月に滅亡した北条高時の遺児である時行(ときゆき、生誕不詳~1353)が諏訪頼重の支持を得て信濃で挙兵(中先代の乱)、足利直義(あしかが・ただよし)軍が対応するも敗退し鎌倉を離れ在京都の兄尊氏の軍事支援を求めます。<br /><br />この時尊氏軍に従っていた飛騨の分家出身の安保光泰(あぼ・みつやす)は先陣となって時行軍を攻撃し足利軍勝利に貢献、尊氏は光泰の戦功を称えて没収されていた嫡流の旧領と安保氏の惣領職を光泰に与えます。<br /><br />その後堂宇は延元2年(1337)に阿保ケ原の戦いで伽藍消失、歴応5年(1342)安保肥前守直実(あぼ・ひぜんのかみ・なおざね)らによって復興されるも、永禄元年(1558)安保氏小田原北条氏合戦により再度焼失しますが、寛永19年(1642)江戸幕府より30石の御朱印を賜り諸堂を再建します。<br /><br />然しながら宝暦元年(1751)と文化元年(1804)には再々に亘り火災に見舞われ、現在の本堂は翌年文化10年(1813)に再建され現在に至っています。<br /><br /><br /><br />2022年11月23日追記<br /><br />境内の一隅に建てられた説明板には次の如く紹介されています。<br /><br /><br />『 吉 祥 院<br />        所在地 上里町大字大御堂<br /><br />吉祥寺は、京都仁和寺の末、真言宗智山派で阿保山真光寺吉祥院と呼ばれる。<br /><br />当寺は、大同元年に武蔵介阿保人上が開基となり沙門任覚を開山として創建されてものであるといわれる。<br /><br />治承4年安保刑部丞実光が再興し、沙門真隆を招き、寺領300石を付して中興の解散とした。<br /><br />嘉禄3年には、上州小野氏が洪鐘三個を寄進している。<br /><br />その後延元2年には、児玉・丹両党・北畠顕家らと足利義詮の阿保ケ原合戦で伽藍を焼失、暦応5年になり快秀和尚の代に阿保肥前守直実らにより復興された。<br /><br />永禄元年、阿保氏北条氏の合戦でまたも焼失、わずかな草庵を結び寺名を伝え、慶長18年には関八州の真言山伏の触頭となったのである。<br /><br />寛永19年幕府より30石の御朱印を賜り、諸堂を再建したが、宝暦元年、文化元年と再々火災にあい、現在の堂は文化10年に再建されたものである。<br /><br />当寺は阿保氏の氏寺で、中でも中興の阿保光実は、武蔵七党の内丹党に属し、新里綱房の次男で安保に住した大豪族で、早くから頼朝に仕え、一の谷の合戦に範頼に従い、奥州の泰衡征伐にも参加し軍功を立て、承久3年宇治橋の合戦で討ち死にした武蔵武士である。<br /><br />ここ大御堂という地名も阿弥陀様が遠近の信仰が厚く、堂が荘厳であったことに由来するといわれる。<br /><br />児玉33霊場めぐりの内24番霊場として親しまれ、阿弥陀池跡の梅苑は人々を楽しませてくれる。<br /><br />元来、境内に窯があり寺で使用する雑記類を焼いていたものといわれ、その窯を復元したものが吉祥院焼で、古伊賀を模したその作風は味わいの深いものである。<br /><br />    昭和61年3月<br />               上 里 町 役 場 』<br />

武蔵上里 9世紀初頭武蔵七党丹党出自の安保氏開基の氏寺で、鎌倉期は頼朝及び北条氏に、南北朝期は尊氏にそれぞれ属し家名を永らえた『吉祥院』散歩

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2014/07/23 - 2014/07/23

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滝山氏照

滝山氏照さん

JR八高線丹荘(たんしょう)駅と高崎線神保原駅を結ぶ県道22号線の途中の神川町元阿保を中心に支配していた安保(あぼ)氏の氏寺が上里町に入った大御堂にあり、その名は吉祥院真光寺(きちじょういん・しんぎょうじ)という古刹です。

当寺は説明板によれば京都仁和寺の末、真言宗智山派で阿保山吉祥院と呼ばれ、大同元年(806)に武蔵介阿保人上が開基、沙門任覚を開山として創建されたといわれます。

更に治承4年(1180)安保刑部丞実光(あぼ・ぎょうぶのじょう・さねみつ、1142~1221)が当寺を再興し、沙門真隆を招き中興の開山とします。

とりわけ上述の実光は早くから鎌倉幕府の御家人として頼朝に仕え、寿永3年(1184)の平氏追討の一ノ谷合戦には範頼に従い、文治5年(1189)の奥州藤原泰衡征伐にも頼朝に随陣しそれぞれ軍功を挙げますが、承久3年(1221)の承久の乱では後鳥羽上皇の倒幕に対応するため上洛、宇治橋合戦で武運なく一族の安保四郎・安保八郎・安保左衛門次郎と共に戦死していまいます。

そもそも安保氏が属する丹党は武蔵七党の一つで伝承では宣化天皇の後裔といわれ、その皇子殖栗王より出たと言われています。殖栗王の12代孫の武信が武蔵国に配流され、賀美・秩父郡に居住しその孫峯時は石田牧の別当(長官)となり、この地に土着して丹貫主を称します。

武峯の子の時代になって郡の内外に拡散して一大勢力となります。即ち武峯の嫡男網房(つなふさ)は阿保に移って安保三郎大夫、綱房の二男実光は安保二郎と称し、以降この地にて安保氏が繁栄を極めます。

その発展理由の一つとしては安保氏は実光七男実員(さねかず、生没不詳)の頃娘が執権北条泰時(ほうじょう・やすとき、1183~1242)の継室となり北条氏との姻戚関係が生じ北条氏と一体化したことがその背景にあります。

元弘年(1333)鎌倉幕府滅亡に際しては北条氏との姻戚関係にあった理由で嫡流の安保入道道堪(あぼ・にゅうどう・どうたん)は幕府側として新田義貞軍との武蔵・分倍河原の戦いで戦死、建武新政権により所領地没収となります。

建武2年(1335)7月に滅亡した北条高時の遺児である時行(ときゆき、生誕不詳~1353)が諏訪頼重の支持を得て信濃で挙兵(中先代の乱)、足利直義(あしかが・ただよし)軍が対応するも敗退し鎌倉を離れ在京都の兄尊氏の軍事支援を求めます。

この時尊氏軍に従っていた飛騨の分家出身の安保光泰(あぼ・みつやす)は先陣となって時行軍を攻撃し足利軍勝利に貢献、尊氏は光泰の戦功を称えて没収されていた嫡流の旧領と安保氏の惣領職を光泰に与えます。

その後堂宇は延元2年(1337)に阿保ケ原の戦いで伽藍消失、歴応5年(1342)安保肥前守直実(あぼ・ひぜんのかみ・なおざね)らによって復興されるも、永禄元年(1558)安保氏小田原北条氏合戦により再度焼失しますが、寛永19年(1642)江戸幕府より30石の御朱印を賜り諸堂を再建します。

然しながら宝暦元年(1751)と文化元年(1804)には再々に亘り火災に見舞われ、現在の本堂は翌年文化10年(1813)に再建され現在に至っています。



2022年11月23日追記

境内の一隅に建てられた説明板には次の如く紹介されています。


『 吉 祥 院
        所在地 上里町大字大御堂

吉祥寺は、京都仁和寺の末、真言宗智山派で阿保山真光寺吉祥院と呼ばれる。

当寺は、大同元年に武蔵介阿保人上が開基となり沙門任覚を開山として創建されてものであるといわれる。

治承4年安保刑部丞実光が再興し、沙門真隆を招き、寺領300石を付して中興の解散とした。

嘉禄3年には、上州小野氏が洪鐘三個を寄進している。

その後延元2年には、児玉・丹両党・北畠顕家らと足利義詮の阿保ケ原合戦で伽藍を焼失、暦応5年になり快秀和尚の代に阿保肥前守直実らにより復興された。

永禄元年、阿保氏北条氏の合戦でまたも焼失、わずかな草庵を結び寺名を伝え、慶長18年には関八州の真言山伏の触頭となったのである。

寛永19年幕府より30石の御朱印を賜り、諸堂を再建したが、宝暦元年、文化元年と再々火災にあい、現在の堂は文化10年に再建されたものである。

当寺は阿保氏の氏寺で、中でも中興の阿保光実は、武蔵七党の内丹党に属し、新里綱房の次男で安保に住した大豪族で、早くから頼朝に仕え、一の谷の合戦に範頼に従い、奥州の泰衡征伐にも参加し軍功を立て、承久3年宇治橋の合戦で討ち死にした武蔵武士である。

ここ大御堂という地名も阿弥陀様が遠近の信仰が厚く、堂が荘厳であったことに由来するといわれる。

児玉33霊場めぐりの内24番霊場として親しまれ、阿弥陀池跡の梅苑は人々を楽しませてくれる。

元来、境内に窯があり寺で使用する雑記類を焼いていたものといわれ、その窯を復元したものが吉祥院焼で、古伊賀を模したその作風は味わいの深いものである。

    昭和61年3月
               上 里 町 役 場 』

旅行の満足度
4.0
交通手段
JRローカル 徒歩

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  • 吉祥院・入口<br /><br />神保原ー丹荘を繋ぐ22号線はトラックやダンプが多数走って産業道路の様を呈しています。(炎天下のなか歩行している姿は他にはありません)

    吉祥院・入口

    神保原ー丹荘を繋ぐ22号線はトラックやダンプが多数走って産業道路の様を呈しています。(炎天下のなか歩行している姿は他にはありません)

  • 吉祥院・寺域<br /><br />道路から吉祥院社域を捉えます。<br /><br />

    吉祥院・寺域

    道路から吉祥院社域を捉えます。

  • 吉祥院・山門<br /><br />

    イチオシ

    吉祥院・山門

  • 吉祥院・寺標<br /><br />「真言宗智山派阿保山吉祥院」と刻された石碑には圧倒されます。

    吉祥院・寺標

    「真言宗智山派阿保山吉祥院」と刻された石碑には圧倒されます。

  • 吉祥院・山門<br /><br />古刹にふさわしい山門の姿があります。

    吉祥院・山門

    古刹にふさわしい山門の姿があります。

  • 吉祥院・山門扉

    吉祥院・山門扉

  • 吉祥院・山門前

    吉祥院・山門前

  • 吉祥院説明板

    吉祥院説明板

  • 吉祥院・土塁

    吉祥院・土塁

  • 吉祥院・土塁

    吉祥院・土塁

  • 堀

  • 参道<br /><br />山門内側から参道を見ます。

    参道

    山門内側から参道を見ます。

  • 山門<br /><br />参道から見た山門内側を捉えます。

    山門

    参道から見た山門内側を捉えます。

  • 吉祥院・石燈籠<br /><br />参道右横には粗削りですが迫力のある石燈籠が見えます。

    吉祥院・石燈籠

    参道右横には粗削りですが迫力のある石燈籠が見えます。

  • 吉祥院・境内

    吉祥院・境内

  • 吉祥院・鐘楼堂

    吉祥院・鐘楼堂

  • 吉祥院・境内<br /><br />

    吉祥院・境内

  • 吉祥院・本堂<br /><br />本堂は戦火により3度ほど焼失した経緯があります。

    イチオシ

    吉祥院・本堂

    本堂は戦火により3度ほど焼失した経緯があります。

  • 吉祥院・本堂(近景)

    吉祥院・本堂(近景)

  • 吉祥院本堂・扁額<br /><br />本堂入口上部には安保氏の氏寺にふさわしい「阿保山」の山号が掲載されています。

    吉祥院本堂・扁額

    本堂入口上部には安保氏の氏寺にふさわしい「阿保山」の山号が掲載されています。

  • 吉祥院・境内<br /><br />本堂から山門方向を見渡し静寂な境内の雰囲気を感じます。

    吉祥院・境内

    本堂から山門方向を見渡し静寂な境内の雰囲気を感じます。

  • 吉祥院・境内

    吉祥院・境内

  • 吉祥院・境内

    吉祥院・境内

  • 吉祥院・本堂左側脇<br /><br />左側奥には一段高めの土手が見られます。

    吉祥院・本堂左側脇

    左側奥には一段高めの土手が見られます。

  • 吉祥院・本堂左側<br /><br />本堂側面から建屋を見ると奥行きの深い堂宇となっています。

    吉祥院・本堂左側

    本堂側面から建屋を見ると奥行きの深い堂宇となっています。

  • 吉祥院・本堂前面<br /><br />左横から本堂中央部を捉えます。

    吉祥院・本堂前面

    左横から本堂中央部を捉えます。

  • 吉祥院・境内中庭

    吉祥院・境内中庭

  • 安保氏墓石群

    安保氏墓石群

  • 安保氏墓石群(近景)

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    安保氏墓石群(近景)

  • 安保氏墓石群右側面

    安保氏墓石群右側面

  • 安保氏墓石左側面

    安保氏墓石左側面

  • 安保氏墓石群

    安保氏墓石群

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