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上越新幹線本庄早稲田駅に近接している栗崎は武蔵七党児玉党の嫡流である庄(しょう)氏の本拠地です。児玉党の始祖は児玉維行(こだま・これゆき)で藤原氏が遠祖と伝えられ、宥勝寺(ゆうしょうじ、埼玉県本庄市栗崎)は鎌倉御家人で一ノ谷合戦で戦死した庄小太郎頼家(しょう・こたろう・よりいえ、生誕不詳~1184)の菩提寺となっています。<br /><br />維行は平安時代末期の承平3年(933)に勅旨牧(ちょくしまき、天皇の勅旨により開発された牧場で軍馬などの供給源とされた)の別当(長官)に任ぜられますが任期終了後も留まりそのまま土着化します。<br /><br />土着した維行は旧児玉郡(本庄市・児玉郡)の地域を開発を進めいわば在地豪族として、入西郡と上野国西部(甘楽郡から多野郡・群馬郡)地方までその勢力を拡大します。<br /><br />維行には弘行と経行の二人の息子がおり嫡流の弘行は旧児玉郡内を流れる男堀川・女堀川(現在の九郷用水)の流域に居住し、その土地の名を苗字にします。<br /><br />嫡流の弘行からは児玉・今井・浅見・塩谷・富田・四方田・真下・牧西らが分かれ、維行5代の孫弘高が庄権守を称して庄氏の祖となります。<br /><br />宥勝寺伝によれば武蔵七党の一党である児玉党の嫡流・庄小太郎頼家(しょう・こたろう・よりいえ、生誕不詳~1184)が鎌倉幕府の御家人として平家追討の際、寿永3年(1184)一の谷合戦において戦死し、その菩提を弔うため夫人(妙清禅尼・みょうせいぜんに)が京より法印良運和尚を迎え建仁2年(1202)に建立し宥荘寺と称します。<br /><br />尚当寺院は延元2年(1338)新田義貞軍と足利尊氏軍との戦いで兵火で焼かれ、更に天文6年(1538)小田原北条氏と上杉氏との戦い(浅見山合戦)で二度目の戦火を受けます。<br /><br />これより先に児玉惟行は沙門空海巡礼の地である大久保山に一寺を造立し西光寺と称しますが南北朝及び戦国の争乱によって戦火を被り衰退していた中、天文24年(1555)紀州の僧頼暁によって西光・有荘両寺を併せて一寺を建立、西光山有荘寺無量寿院と号してこの地方有数の名刹となります。<br /><br />尚上述の一ノ谷合戦に家頼と共に参戦していた父親である庄太郎家長(しょう・たろう・いえなが、生没不詳)は平重衛(たいらの・しげひら、1157~1185)を捕獲するという功績を挙げその恩賞として建久3年(1192)に頼朝より奥州室地庄を賜り、平家没後は備中守に任ぜられ、重衛の知行地である備前国小田郡草壁庄(岡山県矢掛町)を知行地として与えられます。<br /><br /><br />2022年11月26日追記<br /><br />現地寺院に建てられた説明板には下記の通り紹介されています。<br /><br />『 宥 勝 寺<br />       所在地 本庄市大字栗崎155<br /><br />宥勝寺は真言宗智山派に属し、京都智積院の末寺で、本尊に不動明王を祀る。<br /><br />寺伝によると、武蔵七党の一党である児玉党の一族の荘小太郎頼家が、源平合戦で有名な一の谷の合戦において戦死したため、その菩提を弔うために夫人により建仁年間(1201~4)に建立されたのが開山と伝えられる。境内北側の墓地に、小太郎頼家の墓と伝えられる古びた五輪塔が現存し、県の指定旧跡になっている。<br /><br />天文6年(1537)北条氏と上杉氏の浅見山合戦の戦火のため堂塔を焼失したが、その後の天文23年に再建され、当時宥勝寺は十数ケ寺の末寺を保有していたと伝えられる。なお、慶安元年(1648)に三代将軍家光より寺領10石の御朱印を与えられた。<br /><br />また、当寺の南方には、以前、西光寺と呼ばれる大がらんが存在した。これは本庄市では数少ない中世寺院跡として埼玉県選定重要遺跡の一つとなっており、現在、西光寺の名は宥勝寺の山号である西光山として、その名ごりを伝えている。<br /><br />     昭和60年3月<br />               埼 玉 県 本 庄 市  』<br />

武蔵本庄 源平一の谷合戦で戦死した鎌倉御家人で武蔵七党児玉党嫡流庄頼家の菩提を弔うため夫人が創建した『宥勝寺』散歩

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2014/07/23 - 2014/07/23

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滝山氏照

滝山氏照さん

上越新幹線本庄早稲田駅に近接している栗崎は武蔵七党児玉党の嫡流である庄(しょう)氏の本拠地です。児玉党の始祖は児玉維行(こだま・これゆき)で藤原氏が遠祖と伝えられ、宥勝寺(ゆうしょうじ、埼玉県本庄市栗崎)は鎌倉御家人で一ノ谷合戦で戦死した庄小太郎頼家(しょう・こたろう・よりいえ、生誕不詳~1184)の菩提寺となっています。

維行は平安時代末期の承平3年(933)に勅旨牧(ちょくしまき、天皇の勅旨により開発された牧場で軍馬などの供給源とされた)の別当(長官)に任ぜられますが任期終了後も留まりそのまま土着化します。

土着した維行は旧児玉郡(本庄市・児玉郡)の地域を開発を進めいわば在地豪族として、入西郡と上野国西部(甘楽郡から多野郡・群馬郡)地方までその勢力を拡大します。

維行には弘行と経行の二人の息子がおり嫡流の弘行は旧児玉郡内を流れる男堀川・女堀川(現在の九郷用水)の流域に居住し、その土地の名を苗字にします。

嫡流の弘行からは児玉・今井・浅見・塩谷・富田・四方田・真下・牧西らが分かれ、維行5代の孫弘高が庄権守を称して庄氏の祖となります。

宥勝寺伝によれば武蔵七党の一党である児玉党の嫡流・庄小太郎頼家(しょう・こたろう・よりいえ、生誕不詳~1184)が鎌倉幕府の御家人として平家追討の際、寿永3年(1184)一の谷合戦において戦死し、その菩提を弔うため夫人(妙清禅尼・みょうせいぜんに)が京より法印良運和尚を迎え建仁2年(1202)に建立し宥荘寺と称します。

尚当寺院は延元2年(1338)新田義貞軍と足利尊氏軍との戦いで兵火で焼かれ、更に天文6年(1538)小田原北条氏と上杉氏との戦い(浅見山合戦)で二度目の戦火を受けます。

これより先に児玉惟行は沙門空海巡礼の地である大久保山に一寺を造立し西光寺と称しますが南北朝及び戦国の争乱によって戦火を被り衰退していた中、天文24年(1555)紀州の僧頼暁によって西光・有荘両寺を併せて一寺を建立、西光山有荘寺無量寿院と号してこの地方有数の名刹となります。

尚上述の一ノ谷合戦に家頼と共に参戦していた父親である庄太郎家長(しょう・たろう・いえなが、生没不詳)は平重衛(たいらの・しげひら、1157~1185)を捕獲するという功績を挙げその恩賞として建久3年(1192)に頼朝より奥州室地庄を賜り、平家没後は備中守に任ぜられ、重衛の知行地である備前国小田郡草壁庄(岡山県矢掛町)を知行地として与えられます。


2022年11月26日追記

現地寺院に建てられた説明板には下記の通り紹介されています。

『 宥 勝 寺
       所在地 本庄市大字栗崎155

宥勝寺は真言宗智山派に属し、京都智積院の末寺で、本尊に不動明王を祀る。

寺伝によると、武蔵七党の一党である児玉党の一族の荘小太郎頼家が、源平合戦で有名な一の谷の合戦において戦死したため、その菩提を弔うために夫人により建仁年間(1201~4)に建立されたのが開山と伝えられる。境内北側の墓地に、小太郎頼家の墓と伝えられる古びた五輪塔が現存し、県の指定旧跡になっている。

天文6年(1537)北条氏と上杉氏の浅見山合戦の戦火のため堂塔を焼失したが、その後の天文23年に再建され、当時宥勝寺は十数ケ寺の末寺を保有していたと伝えられる。なお、慶安元年(1648)に三代将軍家光より寺領10石の御朱印を与えられた。

また、当寺の南方には、以前、西光寺と呼ばれる大がらんが存在した。これは本庄市では数少ない中世寺院跡として埼玉県選定重要遺跡の一つとなっており、現在、西光寺の名は宥勝寺の山号である西光山として、その名ごりを伝えている。

     昭和60年3月
               埼 玉 県 本 庄 市  』

旅行の満足度
4.0
交通手段
高速・路線バス JRローカル 徒歩

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  • 宥勝寺入口<br /><br />JR本庄駅から本庄・寄居線を走る朝日バスに乗車、15分程して前方に上越新幹線が見える「栗崎」にて下車、右手前方に宥勝寺看板が眼に入ります。

    宥勝寺入口

    JR本庄駅から本庄・寄居線を走る朝日バスに乗車、15分程して前方に上越新幹線が見える「栗崎」にて下車、右手前方に宥勝寺看板が眼に入ります。

  • 宥勝寺・参道<br /><br />暫く歩くと右手に入る小路がありこれを直進、宥勝寺が視野に入ります。

    宥勝寺・参道

    暫く歩くと右手に入る小路がありこれを直進、宥勝寺が視野に入ります。

  • 宥勝寺・山門<br /><br />「大久保山」という高台の地に宥勝寺が建立されています。

    宥勝寺・山門

    「大久保山」という高台の地に宥勝寺が建立されています。

  • 宥勝寺山門・石碑<br /><br />寺号である「宥勝寺」と刻された石碑が山門脇に立っています。<br /><br />

    宥勝寺山門・石碑

    寺号である「宥勝寺」と刻された石碑が山門脇に立っています。

  • 宥勝寺・寺標<br /><br />「西光山宥勝寺」の山号並びに寺号が確認されます。

    宥勝寺・寺標

    「西光山宥勝寺」の山号並びに寺号が確認されます。

  • 宥勝寺・案内柱<br /><br />下部には「建仁2年(1202)創建の宥勝寺には児玉党宗家を引き継いだ荘小太郎頼家の墓所がある」と記載されています。

    宥勝寺・案内柱

    下部には「建仁2年(1202)創建の宥勝寺には児玉党宗家を引き継いだ荘小太郎頼家の墓所がある」と記載されています。

  • 宥勝寺・山門<br /><br />上部には山号である「西光山」の扁額が掲示されています。

    宥勝寺・山門

    上部には山号である「西光山」の扁額が掲示されています。

  • 宥勝寺・参道<br /><br />左右の樹木に囲まれた参道は暑さを和らげてくれます。<br />

    宥勝寺・参道

    左右の樹木に囲まれた参道は暑さを和らげてくれます。

  • 宥勝寺・本堂<br /><br />薄茶色の格子がかかっている本堂の姿は落ち着いた雰囲気があります。

    イチオシ

    宥勝寺・本堂

    薄茶色の格子がかかっている本堂の姿は落ち着いた雰囲気があります。

  • 宥勝寺・本堂中央部<br /><br />ご本尊は不動明王像で本堂の中央格子戸上部には「西光山」の扁額が確認されます。

    宥勝寺・本堂中央部

    ご本尊は不動明王像で本堂の中央格子戸上部には「西光山」の扁額が確認されます。

  • 西光山無量壽院宥勝寺縁起

    西光山無量壽院宥勝寺縁起

  • 宥勝寺・鐘楼堂

    宥勝寺・鐘楼堂

  • 宥勝寺・説明板

    宥勝寺・説明板

  • 宥勝寺・客殿

    宥勝寺・客殿

  • 荘小太郎頼家墓通路<br /><br />本堂を結ぶ通路をくぐって墓群に向かいます。

    荘小太郎頼家墓通路

    本堂を結ぶ通路をくぐって墓群に向かいます。

  • 「荘(庄)小太郎頼家の墓」説明板<br /><br />一の谷合戦には頼家の父、家長(いえなが)は平家一族平重衡(たいらの・しげひら)を生捕る輝かしい軍功を挙げますが頼家は無念にも戦死し親子の明暗を分けます。

    「荘(庄)小太郎頼家の墓」説明板

    一の谷合戦には頼家の父、家長(いえなが)は平家一族平重衡(たいらの・しげひら)を生捕る輝かしい軍功を挙げますが頼家は無念にも戦死し親子の明暗を分けます。

  • 荘(庄)小太郎頼家及び一族墓群

    荘(庄)小太郎頼家及び一族墓群

  • 荘(庄)小太郎頼家五輪塔<br /><br />

    イチオシ

    荘(庄)小太郎頼家五輪塔

  • 荘(庄)小太郎頼家五輪塔

    荘(庄)小太郎頼家五輪塔

  • 宥勝寺・境内<br /><br />本堂から山門方向を捉えます。

    宥勝寺・境内

    本堂から山門方向を捉えます。

  • 宥勝寺・境内<br /><br />

    宥勝寺・境内

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