2008/10/23 - 2008/10/23
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ムッシュさん
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【深谷宿飯島本陣跡】の説明板(拡大にて読めます)
宝暦二年(1753)より本陣を勤め、上段の間、次の間、入側(いりかわ)を残しています。
参勤交代制を定めた江戸幕府は、権力者の休泊施設の運営を民間人に申し付け本陣と名付けた。
現今本陣跡は江戸時代の交通制度を物語る記念の場所として扱われる場合が多い。飯島家は宝暦2年(1752)より明治3年まで本陣職を務めた。
上段の間、次の間、入側が古色を帯びてこの奥に現存している。
本陣は当初,深谷氏の遺臣であった田中氏が勤めていたが当主の病弱を理由に本陣職の辞退を願い,宝暦6年(1756)より武田氏遺臣の飯島氏が勤めた。 -
三百年続いた銘酒七ツ梅の元蔵元があります、レンガ造りの煙突を残しています。
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文久三年(1863)創業、銘酒菊泉の蔵元滝澤酒造
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【深谷宿の西入口を示す常夜灯】
天保11年(1840)建立。
江戸時代中山道深谷宿の東と西の入り口に常夜燈が建てられ、旅人の便がはかられた。
高さ約4mで、中山道筋最大級の常夜燈である。深谷宿の発展を祈願して、天下泰平・国土安民・五穀成就という銘文が刻まれている。これを建てたのは、江戸時代の中頃から盛んになった富士講の人たちで、塔身に透し彫りになっている「○の中に三」の文字はこの講の印である。毎夜点燈される常夜燈の燈明料として、永代燈明、田、三反が講の所有となっていた。
天保14年には、深谷宿は約1.7Kmの間に80軒もの旅籠があり、近くに中瀬河岸場をひかえ中山道きっての賑やかさであった。東の常夜燈は稲荷町にある。
天保11年(1840)の建立。高さ4mで中山道最大といわれる常夜燈。
透かしの「三」はこの常夜燈を立てた富士講の講印。宿場の発展を願い,天下泰平,国土安眠,五穀豊穣と刻まれている。ここまでが深谷宿である -
この踏切をこえると【清心寺】
浄土宗石流山八幡院清心寺、天文18年(1549)の創建です。 -
【浄土宗石流山八幡院清心寺】(深谷市萱場441)
平清盛の弟、平忠度(ただのり)の供養塔があることで知られている
一の谷の戦いで、忠度を討ち取ったのが武蔵七党の一つ猪俣党の岡部六弥太忠澄(ただすみ)であった
平家物語や平治物語、保元物語にも記されている話である
戦いの後、忠澄は領地内でもっとも景色の良いこの地に忠度を偲んで供養等を建てたという -
境内に岡部六弥太が建立した【平忠度供養塔】があります。
六弥太は一の谷の合戦で平清盛の弟忠度(ただのり)を討ち取り、その菩提を弔う為に、領内で一番景色の好いここに五輪塔を建てた、これにより六弥太は武勇と情を合わせ持つもののふとして、武士の鑑といわれました。 -
【清心寺説明板】
「この地は荒川扇状地の末端で湧水が豊富で、古代より人が住み、六~七世紀古墳が多く築かれました。十二世紀源平一の谷の戦いで、岡部六弥太忠澄(ただすみ)が、平氏きっての知勇にすぐれた平薩摩守忠度(ただのり)を打ち、その菩提を弔うため忠澄の領地の中でいちばん景色のよいこの地に五輪塔を建てました。忠度ゆかりの菊の前が墓前でさした桜が紅白のニ花相重なる夫婦咲きとなり、忠度桜として有名です。
戦国期深谷上杉氏の三宿老、皿沼城主岡谷清英は、天文18年(1549)萬誉玄仙和尚を招いて清心寺を開きました。江戸幕府から寺領八石の朱印状が下付されました。境内に忠度供養塔、腕塚、千姫供養塔、秋蚕の碑、岡谷繁実の墓がある。 昭和57年3月 深谷上杉顕彰会 」 -
忠度を偲んで供養等を建てたという
【清心寺の平忠度の墓】
埼玉県大里郡岡部町は平家物語に出てくる平忠度を討ち取った岡部六弥太の故郷である。源平一の谷の合戦で平忠度は岡部六弥太忠澄に討たれた。忠澄は、平忠度の菩提を弔うために、領内の最も景色の良いこの地に五輪塔を建てた。キセル乗車のことを、「薩摩守」と言うが、薩摩守忠度=ただ乗り、から来ている。「キセル乗車」、「薩摩守」ともに完全な死語になってしまっている。 -
宿根の交差点。
左側はR17号のバイパス。右側が旧中山道につき右を歩きます。
右の森は滝宮神社。 -
【滝宮神社】で宿根交差点から近い場所です。
旧道に入ると瀧宮(たきのみや)神社があり、宿根村の総鎮守です。
室町時代明応5年(1496)大旱魃の時、領主加賀野守源香丹がこの地を掘ったところ、滝の如く水が湧き出た、この神徳に感謝して社殿が建立。
この裏手に湧水を利用したひょうたん池と呼ばれた大きな溜め池があった
【瀧宮神社】
室町時代、後土御門天皇の御代、明応7年(1498)この地に鎮座された。
当社の裏手には昭和61年まで百坪ほどの湧水を利用した溜池があり、御手洗池あるいは、ひょうたん池と呼ばれていました。この湧水は、地内に点在する湧水池と共に当地一帯に広がる十八町歩の水田を潤す水源でありました。
社伝によると当地は応永23年(1416)関東管領上杉憲房の所領となり、後にその重親岡谷加賀守源香丹の納めるところとなりました。
明応5年(1416)6月、当地一帯が大干ばつに襲われ、領民は大変苦しんだのでした。香丹は直ちに水利の向上を督励し、その水源地として当社の辺りを選定し、広さ百余坪 、深さ一丈余りにわたって掘ったところ、水が殊のほか湧きだし、耕地をう潤したのでした。領民は歓喜し、これを神様のお恵み・導きとして、この湧水池に社殿を建て、瀧宮神社と奉 称してお祀りしたのでした。
「風土記稿」に「瀧宮命明神社 村の鎮守にて 伝々」と記されるように、古くから当社は宿根地区の鎮守として信仰されてきました。 -
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【普済寺(ふさいじ)】(深谷市普済寺973)
曹洞宗普済寺、岡部六弥太忠澄が栄朝禅師を招いて開山しました、栄朝は栄西を師事し禅宗を広く布教。
参道口に武州榛名郡岡部と刻まれた領界石や境内に平忠度歌碑「ゆきくれて 木のしたかげを やどとせば 花やこよいの 主ならまし」があります。
一の谷の合戦で平忠度を討ち取った鎌倉武士、岡部六弥太忠澄の墓と伝えられる五輪塔群がある。 -
晋済寺に残る平忠度の句碑
「行き暮れて 木の下陰を宿とせば 花や今宵の主ならまし」
晋済寺の参道口に、武州榛名郡岡部と刻まれた領界石や境内に平忠度歌碑がある。一の谷の戦いで六弥太が平家武者を討ち取ると、この句を詠んだと書いてある。
【岡部六弥太忠澄(おかべろくやたただすみ】
武蔵七党のひとつ猪俣党の出身で、猪俣野兵衛時範の孫、六太夫忠綱が榛沢郡岡部に居住し、岡部氏と称した。
忠澄は忠綱の孫にあたる。源義朝の家人として、保元・平治の乱に活躍した。六弥太の武勇については、保元・平治物語、源平盛衰記に書かれており、特に待賢門の戦いでは、熊谷次郎直実、別当実盛、猪俣小平六等源氏十七騎の一人して勇名をはせた。その後、源氏の没落により、岡部にいたが治承4年(1180)頼朝の挙兵とともに出陣し、はじめ木曾義仲を追討し、その後平氏を討った。特に一の谷の合戦では平氏の名将平忠度を討ち、一躍名を挙げた。
恩賞として、荘園五ヵ所及び伊勢国の地頭職が与えられた。その後、奥州の藤原氏征討軍や頼朝上洛の際の譜代の家人313人の中にも、六弥太の名が見える。忠澄や武勇に優れているだけでなく、情深く、自分の領地のうち一番景色の良い清心寺(県深谷市萱場)に平忠度の墓を建てた。
現在地には鎌倉時代の典型的な五輪塔が六基並んで建っているが(県指定史跡)、北側の三基のうち中央の最も大きいものが岡部六弥太忠澄の墓(高さ1.8m)向かって右側が父行忠の墓、左側が夫人玉の井の墓といわれている。
六弥太の墓石の粉を煎じて飲むと、子のない女子には子ができ、乳の出ない女子は乳が出るようになるという迷信が伝わっており、このため現在六弥太の五輪塔は削られ変形している。 -
この大木の根の張り方は芸術的です。
記念に一枚撮影。 -
JR岡部駅
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こちらで昼食。
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安産の神様と言われる【島護産泰神社(しまもりさんたい)(とうごさんたい)】
旧榛沢群内の開拓が当神社の加護により進められたため、郡内の信仰が厚くなり総鎮守と言われるようになったと伝えられる。また、安産の神として遠近よりの参拝が多い。
榛沢郡の総鎮守で利根川氾濫鎮護の神です、底の抜けた柄杓が奉納されています、皇女和宮は降嫁の際に参拝しています。
創建時期は不明、創建は日本武尊とされる。この地方が利根川の氾濫により度々被害を受けたのでこれが守護神として信仰された。 -
ザクロが沢山。
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【百庚申塔】 現在は60基程が残っている。
百庚塔は、岡坂下への降り口、旧中山道に沿う坂道に建てられている。
幕末、万延元(1860)年の庚申の年に建立、翌万延二年にかけて完成した庚申塔群。
万延元年は、黒船の渡来や桜田門外の変などがあり、国情は騒然としており、民衆の生活も不安なものであった。庚申により安定を願った。
その途中の左側に丁度旧中山道を見下ろすように沢山の庚申塔が建てられている
万延元年庚申の年(1860年)、田島新兵衛を中心に岡部の有志13人によって建立されたという
百庚申
百庚申が建てられたのは幕末、万延元年(1860)が庚申の年に当り、岡(地名)の有志13人で計画され、翌年の万延2年にかけて完成された。このことは庚申塔の裏面に刻まれた13人の氏名からうかがい知ることが出来る。もともとこの場所には、享保元年(1716)に建てられた庚申塔があって、二十二夜待塔、馬頭観音の石碑も建っていた。万延元年は徳川幕府の井伊直助大老が水戸浪士達に桜田門外で暗殺されたり、黒船の来航により長い鎖国の夢を破られた日本の国情は騒然としたものであった。このような状況だったので、自然神仏に頼ろうとした心理と万延元年が庚申年に当ることが重なり百庚申が造立されたと言われる。
【百庚申】
中山道に戻って進んでいくと、庚申塔がずらりと並んだ「百庚申(ひゃくこうしん)」という場所がある。
説明板によれば、万延元年の庚申の年(1860年)に、この地の有志13人が建てたものらしい。
この年には「桜田門外の変」があり、その前には黒船も来航していて、民衆も、これからどのような時代になるのかと不安が重なっていた時期。
「そういう背景から「神仏に頼ろう」という民衆心理が働いたのだろう」と説明板に書かれていた。
それにしてもおびただしい数の庚申塔だ。 -
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百庚申の説明板(拡大画面で読めます)
【百庚申】
百庚申が建てられたのは幕末、万延元年(1860)が庚申の年に当り、岡(地名)の有志13人で計画され、翌年の万延2年にかけて完成された。このことは庚申塔の裏面に刻まれた13人の氏名からうかがい知ることが出来る。もともとこの場所には、享保元年(1716)に建てられた庚申塔があって、二十二夜待塔、馬頭観音の石碑も建っていた。万延元年は徳川幕府の井伊直助大老が水戸浪士達に桜田門外で暗殺されたり、黒船の来航により長い鎖国の夢を破られた日本の国情は騒然としたものであった。このような状況だったので、自然神仏に頼ろうとした心理と万延元年が庚申年に当ることが重なり百庚申が造立されたと言われる。 -
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【植木の一里塚】
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【牧西(もくさい)八幡大神社】本庄市牧西)
大木に覆われて厳かにたたずむ八幡大神社。神楽殿や土蔵造りの小祠を持つ。
牧西(もくさい)村の鎮守、建久6年(1195)児玉党一族の牧西四朗広末が鎌倉八幡宮を勧請したものです、文明3年(1471)五十子(いかっこ)合戦の兵火で焼失、慶長17年(1612)依田氏(後に宮崎と改姓)が再建し、代々神主を勤めました、奉納される神楽金鑽神楽(かなさらかぐら)宮崎組は本庄市指定文化財です。
当社は、建久年間(1195)児玉党の一族・牧西四郎広末が、武運長久の守護神・相州鎌倉の鶴岡八幡宮を奉遷して当所に祭ったものである。
こえて文明3年(1471)五十子合戦のとき兵火にかかって焼失。その後は廃社になっていたが、慶長17年(1612)ごろ信州佐久郡依田荘の住人・依田五郎左衛門が当地に来て在住したが、八幡大神社再興、ふかく信仰した。依田氏は後に姓を宮崎と改め、当社の神主として代々奉仕した。徳川時代には領主より神田五畝二十五歩の寄進があった。明治41年本県より神餞幣帛料共進社の指定があった。
なお当社奉納の宮崎組神楽は市の指定文化財になっている。
この神楽は、天照大神の岩屋のかくれ神話が、その起こりとされており、神をよろこばせる舞楽(まい音楽)として各地にそれぞれのいわれをもって伝えられてきた。金鑚神楽、宮崎組の起こりについてはまだ明らかではないが、使われている面は江戸時代正徳年間(1711~1715)以前の作であり、この地の神楽が古くから行われてきたことを物語っている。宮崎組は変わり面などの珍しい舞い方も伝えられ、また遠くは信州上諏訪など各地に出かけて神楽を奉納してきた。なお座(出し物)はいま二十五座伝えられている。 -
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【円心寺】(本庄2丁目)
山門は、天明年間(18世紀後半)の建立といわれる。三間一戸(柱間が3つで真ん中があいている)の重層建物。
昭和53年(1978)に解体修理が行われ、朱塗りの鮮やかな外観に復元された。木割を縦横に駆使し、構造的にも安定した美観を表現するように工夫されているため、建築技術が最も発達した時期の建築とされている。 -
【本庄宿田村本陣の門】(本庄市中央1丁目)
本庄宿に入り、埼玉信用金庫(田村本陣)と群馬銀行(内田本陣)の所に2つ本陣があった。当時の田村本陣の門が北へ曲がって少し行った慈恩寺の手前の歴史民俗資料館に移され保存されていることだ
脇本陣2、旅籠はなんと70軒もあった武州路では最大の宿場であった
この門は本庄宿の北本陣といわれた田村本陣の正門です。
本陣とは宿場を往来する大名や幕府役人などの公用旅館のことです。田村本陣があったのは現在の中央1丁目6の区域で、寛永19年(1642)から宿泊記録が残されています。
この田村本陣の門は皇女和宮が御降嫁の際にくぐったといわれる。
江戸・板橋宿から近江・守山宿までの69次のうちで最大の宿場町として賑わい,明治以降も利根川の水運の便が本庄を発展させる要因となったと考えられる。
田村本陣は,南の内田本陣に対して北本陣と呼ばれていた。田村作兵衛が勤め,建坪200坪,門構え,玄関付きで間口五間の専用道路をもち奥に門があった。本陣入り口前に高札場があった。
南本陣は,内田七兵衛が勤めた。建坪205坪,門構え,玄関付き,敷地3反3畝10歩であった。 -
田村本陣門
【本庄宿】 日本橋から21里30町(85.7Km)、京へ114里4町 (448.1Km)
天保14年(1843)で人口4554名、総家数1212軒、本陣2軒、脇本陣2軒、 旅籠屋70軒。
次へ 中山道NO8本庄宿から高崎宿へ
https://ssl.4travel.jp/tcs/t/editalbum/edit/10288043/
利根川の水運の集積地として経済的に栄え、中でも戸谷半兵衛(とやはんべえ)という人物は関東一の豪商として知れ渡っていた。
明治時代には、近代海軍の創設や日本赤十字社の創立に貢献した佐賀の七賢人のひとり、佐野常民が、沿岸防備の観点から「本庄に首都を移すべきだ」という意見書を政府に提出したこともあったらしい。
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