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日本大通りは、イギリス人 R.H.ブライトンが設計した、明治3年にほぼ完成した日本初の西洋式街路です。日本初の西洋式公園「横浜公園」から港への通りです。この通りを挟んで、外国人居留地と日本人街を分けたことからそう名付けられたました。当初、道幅は36mあり、両側に3mの歩道、9mの植樹帯を備えた大通りでした。関東大震災の復興整備で、道幅が22m、歩道が植樹帯を含めて7mに削られましたが、2002年の再整備で当初の道幅に近い13,5mに変更されました。

横浜中区の近代建築散歩 - 5  旧横浜英国総領事館 ~ 旧新港保税倉庫

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2014/05/19 - 2014/06/02

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belledune

belleduneさん

日本大通りは、イギリス人 R.H.ブライトンが設計した、明治3年にほぼ完成した日本初の西洋式街路です。日本初の西洋式公園「横浜公園」から港への通りです。この通りを挟んで、外国人居留地と日本人街を分けたことからそう名付けられたました。当初、道幅は36mあり、両側に3mの歩道、9mの植樹帯を備えた大通りでした。関東大震災の復興整備で、道幅が22m、歩道が植樹帯を含めて7mに削られましたが、2002年の再整備で当初の道幅に近い13,5mに変更されました。

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  • 昭和6年(1931)に建てられた旧英国総領事館(現・横浜開港資料館)は、イギリス国務省が設計し、昭和土木建築が施工を請け負いました。鉄筋コンクリート造地上3階、地下1階です。

    昭和6年(1931)に建てられた旧英国総領事館(現・横浜開港資料館)は、イギリス国務省が設計し、昭和土木建築が施工を請け負いました。鉄筋コンクリート造地上3階、地下1階です。

    横浜開港資料館 美術館・博物館

  • 横浜開港資料館前の広場に展示してあるこの時計塔は、明治2年(1891)頃、大桟橋付近に設置されてあったものです。暴風雨時に旗を掲げて、港近くの船に信号を送っていたそうです。

    横浜開港資料館前の広場に展示してあるこの時計塔は、明治2年(1891)頃、大桟橋付近に設置されてあったものです。暴風雨時に旗を掲げて、港近くの船に信号を送っていたそうです。

  • その横に展示してあるのは、旧居留地90番地の大砲です。口径11,5cm、全長282,5cm、重量1480kgです。生糸の輸出と時計の輸入をしていたスイスの商社、シーベル・ブレンワルド商会(慶応元年創立)は、戊辰戦争中に武器の輸入もしていました。これは、鋳鉄製の11ポンドカノン砲で、オランダ東印度会社のエンクハイゼン商会所属船の備砲でした。

    その横に展示してあるのは、旧居留地90番地の大砲です。口径11,5cm、全長282,5cm、重量1480kgです。生糸の輸出と時計の輸入をしていたスイスの商社、シーベル・ブレンワルド商会(慶応元年創立)は、戊辰戦争中に武器の輸入もしていました。これは、鋳鉄製の11ポンドカノン砲で、オランダ東印度会社のエンクハイゼン商会所属船の備砲でした。

  • 門を入ると、四角い建物が旧イギリス総領事館ですが、こちらからは入れませんので、西の通用門へ廻ります。

    門を入ると、四角い建物が旧イギリス総領事館ですが、こちらからは入れませんので、西の通用門へ廻ります。

  • 3階の丸窓の上部にキーストーンが嵌め込まれて、周囲に装飾が施されています。

    3階の丸窓の上部にキーストーンが嵌め込まれて、周囲に装飾が施されています。

  • 5月中旬に行った時には、庭にカルミナが綺麗に咲いていましたが、6月2日には、もう枯れていました。葉に有毒なんですね。

    5月中旬に行った時には、庭にカルミナが綺麗に咲いていましたが、6月2日には、もう枯れていました。葉に有毒なんですね。

  • この時代には半地下のものが多いのは、やはり採光でしょう。

    この時代には半地下のものが多いのは、やはり採光でしょう。

  • 5月の月曜に行った時は休館日だったので、閉まっていました。日本大通りから見た建物の西面です。

    5月の月曜に行った時は休館日だったので、閉まっていました。日本大通りから見た建物の西面です。

  • 西の通用門を入ると1階玄関が高くなっているのは、半地下の部屋のため、建物全体が上がっているためです。

    西の通用門を入ると1階玄関が高くなっているのは、半地下の部屋のため、建物全体が上がっているためです。

  • 6月2日も月曜ですが、開港記念日なので、開いています。

    6月2日も月曜ですが、開港記念日なので、開いています。

  • これが、西側の1枚の通用口扉です。正面玄関はここより広いので、同じ仕様で両開きになっています。

    これが、西側の1枚の通用口扉です。正面玄関はここより広いので、同じ仕様で両開きになっています。

  • 玄関を入って、直ぐのガラス戸は、両開きで、上部が左右に引き違い戸になっています。イギリス人が設計したそうですが、日本は蒸し暑い時期があるので、こういう窓になったのでしょうか。

    玄関を入って、直ぐのガラス戸は、両開きで、上部が左右に引き違い戸になっています。イギリス人が設計したそうですが、日本は蒸し暑い時期があるので、こういう窓になったのでしょうか。

  • 6月2日が開港記念日なので、執務室が公開されていましたが、撮影禁止でした。こじんまりとした部屋には、横浜の中国人経営の楽器店のピアノがありました。

    6月2日が開港記念日なので、執務室が公開されていましたが、撮影禁止でした。こじんまりとした部屋には、横浜の中国人経営の楽器店のピアノがありました。

  • 廊下の壁のスクラッチタイルが渋い。

    廊下の壁のスクラッチタイルが渋い。

  • 玄関から入って、正面にあるのが、曾ては待合室でしたが、現在は記念ホールとして使用されています。

    玄関から入って、正面にあるのが、曾ては待合室でしたが、現在は記念ホールとして使用されています。

  • 床や天井のシーリングファンは、当時のものですが、ファンは現役だそうです。

    床や天井のシーリングファンは、当時のものですが、ファンは現役だそうです。

  • ここに置いてある椅子は座っても良いので、ゆっくり腰を下ろしてみました。この家具はイギリス人の設計で、横浜家具の職人さんが作ったものではないかなぁ。

    ここに置いてある椅子は座っても良いので、ゆっくり腰を下ろしてみました。この家具はイギリス人の設計で、横浜家具の職人さんが作ったものではないかなぁ。

  • 正面玄関の両脇に守衛室があります。現在はありませんが、暖房の玄関側とこの部屋と両方に使えるような暖房あったと思われます。

    正面玄関の両脇に守衛室があります。現在はありませんが、暖房の玄関側とこの部屋と両方に使えるような暖房あったと思われます。

  • 正面玄関を入ったところです。先程の守衛室と共用の暖房が見えます。

    正面玄関を入ったところです。先程の守衛室と共用の暖房が見えます。

  • 正面玄関扉は、両開きです。

    正面玄関扉は、両開きです。

  • 正面玄関  総領事館として、1階は執務室、2階は事務官2世帯の住宅、3階は使用人の住居として設計されていました。

    正面玄関  総領事館として、1階は執務室、2階は事務官2世帯の住宅、3階は使用人の住居として設計されていました。

  • 玄関上部のアイアンワーク

    玄関上部のアイアンワーク

  • 大きなコリント式柱の柱上部にアカンサスの葉と蔓が彫刻されています。扉上部に屋根のような破風が付いていますが、2階の窓台の部分と重なっているところに、総領事館時代の英国王室の紋章が付けられていたそうです。

    大きなコリント式柱の柱上部にアカンサスの葉と蔓が彫刻されています。扉上部に屋根のような破風が付いていますが、2階の窓台の部分と重なっているところに、総領事館時代の英国王室の紋章が付けられていたそうです。

  • 3階の部分は、アーチ状の切れ込みのヴォールト天井と3階の半円アーチの窓が見えています。

    3階の部分は、アーチ状の切れ込みのヴォールト天井と3階の半円アーチの窓が見えています。

  • 正面玄関前の柱下部

    正面玄関前の柱下部

  • 玄関脇にあるのが、獅子頭共用栓です。日本最初の近代水道となった横浜水道(明治18〜20)が創設された時、市内各所にこの共用栓が配置されていました。創設期は英国グレンフィールド社から600基を輸入していたそうです。一般的には街路頭の共用栓から水の供給を受けていました。

    玄関脇にあるのが、獅子頭共用栓です。日本最初の近代水道となった横浜水道(明治18〜20)が創設された時、市内各所にこの共用栓が配置されていました。創設期は英国グレンフィールド社から600基を輸入していたそうです。一般的には街路頭の共用栓から水の供給を受けていました。

  • 海岸通りの前広場に、煉瓦造りマンホールと下水管が展示してあります。明治14年から20年にかけて、旧関内外国人居留地(現・山下町と日本大通りの一部)一帯で、下水道改造工事が実施され、卵形煉瓦管と陶管の下水道が完備していました。その下水幹線7本とマンホール37箇所は煉瓦造りで、材料の煉瓦は小菅の東京集治監の煉瓦工場に注文して築造されたものだそうです。

    海岸通りの前広場に、煉瓦造りマンホールと下水管が展示してあります。明治14年から20年にかけて、旧関内外国人居留地(現・山下町と日本大通りの一部)一帯で、下水道改造工事が実施され、卵形煉瓦管と陶管の下水道が完備していました。その下水幹線7本とマンホール37箇所は煉瓦造りで、材料の煉瓦は小菅の東京集治監の煉瓦工場に注文して築造されたものだそうです。

  • 日本で最初の近代下水道は、神奈川県土木課御用掛の三田善太郎が設計しました。このマンホールは、明治15年頃、築造され、昭和57年にこの公園の整備中に発見されました。当時のままの状態で保存されています。

    日本で最初の近代下水道は、神奈川県土木課御用掛の三田善太郎が設計しました。このマンホールは、明治15年頃、築造され、昭和57年にこの公園の整備中に発見されました。当時のままの状態で保存されています。

  • 明治4年(1871)〜明治32年(1899)まで、この辺りを本拠地とした居留地消防隊の防火貯水槽として建設されました。百年以上良好に保存され、昭和47年(1972)まで使用されていました。内部はアーチ型の天井と十字の補強用の間仕切りによって4室に分かれていることで、現在でも、地下水の流入により常時貯水されています。横の覗き窓から貯水槽を見ることが出来るのですが、太陽光線で反射して殆ど見えませんでした。

    明治4年(1871)〜明治32年(1899)まで、この辺りを本拠地とした居留地消防隊の防火貯水槽として建設されました。百年以上良好に保存され、昭和47年(1972)まで使用されていました。内部はアーチ型の天井と十字の補強用の間仕切りによって4室に分かれていることで、現在でも、地下水の流入により常時貯水されています。横の覗き窓から貯水槽を見ることが出来るのですが、太陽光線で反射して殆ど見えませんでした。

  • 旧居留地消防隊の地下貯水槽の遺構です。明治26年(1893)に作られたもので、イギリス積みの煉瓦造りです。底面3,19m X 3,17m 、高さ45mで、貯水量は、28立法mです。

    旧居留地消防隊の地下貯水槽の遺構です。明治26年(1893)に作られたもので、イギリス積みの煉瓦造りです。底面3,19m X 3,17m 、高さ45mで、貯水量は、28立法mです。

  • 明治14年頃の消防隊

    明治14年頃の消防隊

  • 日本初の消防車(大正3年)、救急車(昭和8年)が配置され、日本における近代消防ゆかりの地となっています。

    日本初の消防車(大正3年)、救急車(昭和8年)が配置され、日本における近代消防ゆかりの地となっています。

  • 旧横浜中央電話局(現・横浜都市発展記念館・横浜ユーラシア文化館)は、昭和4年(1929)に逓信省営繕課・中山広吉の設計、安藤組の施工で建てられました。鉄筋コンクリート造地上4階、地下1階。濃い茶色のタイル張りの外壁、装飾を控えた堅実な外観になっています。

    旧横浜中央電話局(現・横浜都市発展記念館・横浜ユーラシア文化館)は、昭和4年(1929)に逓信省営繕課・中山広吉の設計、安藤組の施工で建てられました。鉄筋コンクリート造地上4階、地下1階。濃い茶色のタイル張りの外壁、装飾を控えた堅実な外観になっています。

    旧横浜市外電話局 名所・史跡

  • この建物はみなとみらい線の日本大通り駅3番出口と直結しています。日本情報文化センターの隣になります。裏手から見た建物全体ですが、左側に硝子の面が見えるのが、平成15年、改築後のエレベーター部分です。1階と3階の天井高は大きく、営業室、交換室として使用され、2階は局長室、技術官室などがあり、4階には女子職員専用休憩室、食堂、宿直室などがありました。1階のアーチ窓列や頂部コーニスが特色になっています。

    この建物はみなとみらい線の日本大通り駅3番出口と直結しています。日本情報文化センターの隣になります。裏手から見た建物全体ですが、左側に硝子の面が見えるのが、平成15年、改築後のエレベーター部分です。1階と3階の天井高は大きく、営業室、交換室として使用され、2階は局長室、技術官室などがあり、4階には女子職員専用休憩室、食堂、宿直室などがありました。1階のアーチ窓列や頂部コーニスが特色になっています。

  • 昭和4年横浜中央電話局は、その後横浜市外電話局及びNTT横浜情報案内センターとなりましたが、NTTの移転に伴って、横浜の施設のして活用されることになりました。本町通り側と大桟橋通り側の外壁を保存し、改築され、平成15年に完成しました。

    昭和4年横浜中央電話局は、その後横浜市外電話局及びNTT横浜情報案内センターとなりましたが、NTTの移転に伴って、横浜の施設のして活用されることになりました。本町通り側と大桟橋通り側の外壁を保存し、改築され、平成15年に完成しました。

  • 竣工時の玄関ホールの写真です。

    竣工時の玄関ホールの写真です。

  • これが、現在の玄関ホールです。

    これが、現在の玄関ホールです。

  • 横浜ユーラシア文化管の中庭には、色んな物が展示してあります。この卵型下水管は、平成13年県庁前の日本大通りで発見された煉瓦造りの卵型下水管です。外国人居留地に煉瓦造りの下水網が拡がっていました。下水管は明治10年代半ばに設置されたもので、大中小の3種類のうち「中下水」に相当し、煉瓦造りのマンホールに接続していました。一定の流速を確保するため、管の断面は、卵型をしていて、枕木を敷き並べた上にコンクリートを巻いて敷設しました。

    横浜ユーラシア文化管の中庭には、色んな物が展示してあります。この卵型下水管は、平成13年県庁前の日本大通りで発見された煉瓦造りの卵型下水管です。外国人居留地に煉瓦造りの下水網が拡がっていました。下水管は明治10年代半ばに設置されたもので、大中小の3種類のうち「中下水」に相当し、煉瓦造りのマンホールに接続していました。一定の流速を確保するため、管の断面は、卵型をしていて、枕木を敷き並べた上にコンクリートを巻いて敷設しました。

  • 国内最古のガス管  この鋳鉄管は、平成14年に市立本町小学校の校庭から出土しました。同校の敷地は、日本で最初にガス事業を興した横浜ガス会社の施設が建っていたところでした。ここで製造されたガスは、地中のガス管で町中のガス灯に送られていました。ガス会社の創業は、資材を購入したイギリスのレイロード社(R.Laidlaw & Son) のイニシャルがありました。

    国内最古のガス管  この鋳鉄管は、平成14年に市立本町小学校の校庭から出土しました。同校の敷地は、日本で最初にガス事業を興した横浜ガス会社の施設が建っていたところでした。ここで製造されたガスは、地中のガス管で町中のガス灯に送られていました。ガス会社の創業は、資材を購入したイギリスのレイロード社(R.Laidlaw & Son) のイニシャルがありました。

  • 横浜市ガス局のガスタンク基礎  平成25年、市立本町小学校内の発掘調査で発見された煉瓦積み基礎の一部です。明治5年(1872)に操業を開始した横浜市ガス会社はガスホルダー(ガスタンク)を4基建設しました。円筒形のタンクを支えるため、基礎は二重の円形になっていました。

    横浜市ガス局のガスタンク基礎  平成25年、市立本町小学校内の発掘調査で発見された煉瓦積み基礎の一部です。明治5年(1872)に操業を開始した横浜市ガス会社はガスホルダー(ガスタンク)を4基建設しました。円筒形のタンクを支えるため、基礎は二重の円形になっていました。

  • 旧露亜銀行横浜支店(現・La Banque du Loa)は、大正10年(1921)に、イギリス人 Barnard M.Ward の設計で建てられました。<br />その後、ドイツ領事館、法務省横浜入国管理事務所を経て、警友病院別館となりましたが、病院移転に伴い、その後長く閉鎖されていました。平成23年にブライダル施設.ラ・バンク・ロアとして開館しました。

    旧露亜銀行横浜支店(現・La Banque du Loa)は、大正10年(1921)に、イギリス人 Barnard M.Ward の設計で建てられました。
    その後、ドイツ領事館、法務省横浜入国管理事務所を経て、警友病院別館となりましたが、病院移転に伴い、その後長く閉鎖されていました。平成23年にブライダル施設.ラ・バンク・ロアとして開館しました。

  • 中央の2、3階に、イオニア式大オーダーを構え、玄関と両端の2階の窓に三角ペディメントがあり、古典主義建築の意匠が見られます。

    中央の2、3階に、イオニア式大オーダーを構え、玄関と両端の2階の窓に三角ペディメントがあり、古典主義建築の意匠が見られます。

  • こちらが玄関です。

    こちらが玄関です。

  • 煉瓦造りと鉄筋コンクリート造りが混合した過渡期の作品となっています。

    煉瓦造りと鉄筋コンクリート造りが混合した過渡期の作品となっています。

  • 露亜銀行の前身、露清銀行は、明治31年(1898)に居留地7番地に支店を架設しました。その後、山下町180番地にドイツ人技師Richard Seel の設計で煉瓦造り、地上2階、地下1階の建物が完成しました。内部にはチーク材を使用し、正面に銅葺きのドームがあったそうでしたが、関東大震災で、崩壊しました。<br />ここから側面を見に行きます。

    露亜銀行の前身、露清銀行は、明治31年(1898)に居留地7番地に支店を架設しました。その後、山下町180番地にドイツ人技師Richard Seel の設計で煉瓦造り、地上2階、地下1階の建物が完成しました。内部にはチーク材を使用し、正面に銅葺きのドームがあったそうでしたが、関東大震災で、崩壊しました。
    ここから側面を見に行きます。

  • 戦後、明治38年(1905)に横浜支店が再開しましたが、戦後の主導権はフランス資本に移り、明治43年(1910)フランス系の北方銀行( Banque du Nord ) と合併して、露亜銀行と改称しました。その後、ロシア革命による混乱や日露関係の悪化などにより、大正15年(1926)に露亜銀行は解散となりました。

    戦後、明治38年(1905)に横浜支店が再開しましたが、戦後の主導権はフランス資本に移り、明治43年(1910)フランス系の北方銀行( Banque du Nord ) と合併して、露亜銀行と改称しました。その後、ロシア革命による混乱や日露関係の悪化などにより、大正15年(1926)に露亜銀行は解散となりました。

  • 裏手も同じ外観ですね。

    裏手も同じ外観ですね。

  • 旧横浜居留地48番 モリソン商会<br />明治16年(1883)に建てられた横浜最古の煉瓦造りの洋風建築物でした。石灰製の目地を持つフランス積みで、設計尺はメートル法を用いていました。北側入り口のアーチ上部に創建時と思われるキーストンが置かれています。

    旧横浜居留地48番 モリソン商会
    明治16年(1883)に建てられた横浜最古の煉瓦造りの洋風建築物でした。石灰製の目地を持つフランス積みで、設計尺はメートル法を用いていました。北側入り口のアーチ上部に創建時と思われるキーストンが置かれています。

  • 当時、山手町外国人居留地には、48番地のイギリス系貿易商社・モリソン商会の他、54番地にドイツ系総合商社・イリス商会、55番地にイギリス系商社・コッキング商会などがありました。

    当時、山手町外国人居留地には、48番地のイギリス系貿易商社・モリソン商会の他、54番地にドイツ系総合商社・イリス商会、55番地にイギリス系商社・コッキング商会などがありました。

  • この建物の設計者や施工主は不明です。日本でダイナマイトや紅茶の取引をしていた J.P.Morison の事務所兼住宅として、建てられました。大正15年から昭和53年まで、ヘルム兄弟商会が所有し、補習を繰り返し行ないました。居留地時代で、唯一フランス積みの煉瓦造りの遺構でした。外壁は煉瓦積みの上に漆喰ぬりでした。保存工事では、モルタル塗りで仕上げられました。

    この建物の設計者や施工主は不明です。日本でダイナマイトや紅茶の取引をしていた J.P.Morison の事務所兼住宅として、建てられました。大正15年から昭和53年まで、ヘルム兄弟商会が所有し、補習を繰り返し行ないました。居留地時代で、唯一フランス積みの煉瓦造りの遺構でした。外壁は煉瓦積みの上に漆喰ぬりでした。保存工事では、モルタル塗りで仕上げられました。

  • 大正12年の関東大震災で倒壊し、2階西側の妻壁と1階の煉瓦壁のみが残りました。<br />復興事業の区画整理で、建物西側部分は取り壊され、玄関西側部分は規模を縮小されました。<br />大正15年(1926)から昭和53年(1978)まで、ヘルム兄弟商会が所有して、「ヘルムハウス・アパートメント」(外国人住宅)として補修を繰り返されていましたが、老朽化のため、平成12年(2000)に解体されました。翌年、神奈川県が保存・改修工事を実施しました。

    大正12年の関東大震災で倒壊し、2階西側の妻壁と1階の煉瓦壁のみが残りました。
    復興事業の区画整理で、建物西側部分は取り壊され、玄関西側部分は規模を縮小されました。
    大正15年(1926)から昭和53年(1978)まで、ヘルム兄弟商会が所有して、「ヘルムハウス・アパートメント」(外国人住宅)として補修を繰り返されていましたが、老朽化のため、平成12年(2000)に解体されました。翌年、神奈川県が保存・改修工事を実施しました。

  • 現在はこんな感じて保存してあります。

    現在はこんな感じて保存してあります。

  • 英館第一番館跡 安政6年(1859)に横浜港が開港すると、上海支店にいた英国人 William Keswick は横浜に来航し、山手町居留地一番館で、 Jardine Matheson 商会を設立しました。鹿島に因って建設された横浜初の外国商館である社屋は、地元民から「英一番館」と呼ばれていました。その跡地には、現在「シルクセンター」(国際貿易開館)が建っています。

    英館第一番館跡 安政6年(1859)に横浜港が開港すると、上海支店にいた英国人 William Keswick は横浜に来航し、山手町居留地一番館で、 Jardine Matheson 商会を設立しました。鹿島に因って建設された横浜初の外国商館である社屋は、地元民から「英一番館」と呼ばれていました。その跡地には、現在「シルクセンター」(国際貿易開館)が建っています。

  • ウィリアム・ケズウィックは、ジャーディン・マセソン商会の創設者で、当初は、香港でアヘンの密輸とお茶をイギリスへ輸出していました。ロスチャイルド系の香港上海銀行(HSBC) は、ジャーディン・マセソンなどが香港で稼いだ資金をイギリスへ送金するために設立された銀行だったのです。ジャーディンマセソングループは、現在でも国際コングロマリットとして、香港を中心に世界的に活躍しています。マンダリンホテルでも知られています。

    ウィリアム・ケズウィックは、ジャーディン・マセソン商会の創設者で、当初は、香港でアヘンの密輸とお茶をイギリスへ輸出していました。ロスチャイルド系の香港上海銀行(HSBC) は、ジャーディン・マセソンなどが香港で稼いだ資金をイギリスへ送金するために設立された銀行だったのです。ジャーディンマセソングループは、現在でも国際コングロマリットとして、香港を中心に世界的に活躍しています。マンダリンホテルでも知られています。

  • また、ウイリアム・ケズウィックは、文久3年(1863)、井上聞多、遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉、伊藤博文の長州五傑のイギリス留学を支援しました。長崎でも、ジャーマン・マセソン商会・長崎代理店として、Thomas Blake Glover が、安政6年に「グラバー商会」を設立しました。グラバーもまた、五代友厚(薩摩)、坂本龍馬(海援隊)、岩崎弥太郎(三菱財閥)らを支援しました。その他、神戸、大阪、函館にも代理店を開設しました。

    また、ウイリアム・ケズウィックは、文久3年(1863)、井上聞多、遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉、伊藤博文の長州五傑のイギリス留学を支援しました。長崎でも、ジャーマン・マセソン商会・長崎代理店として、Thomas Blake Glover が、安政6年に「グラバー商会」を設立しました。グラバーもまた、五代友厚(薩摩)、坂本龍馬(海援隊)、岩崎弥太郎(三菱財閥)らを支援しました。その他、神戸、大阪、函館にも代理店を開設しました。

  • 旧英館七番館は、現在、戸田平和記念開館として保存・改修後、利用されています。<br />元は、Butterfield &amp; Swire 商会横浜支店でしたが、1866年に上海租界で「Butterfield &amp; Swire」を設立し、その翌年(慶応2年)、横浜に支店を開設しました。この建物は、大正11年(1922)に建てられました。設計・施工は不明です。Butterfield &amp; Swire 商会は、海運、空運、貿易などを行なっていました。

    旧英館七番館は、現在、戸田平和記念開館として保存・改修後、利用されています。
    元は、Butterfield & Swire 商会横浜支店でしたが、1866年に上海租界で「Butterfield & Swire」を設立し、その翌年(慶応2年)、横浜に支店を開設しました。この建物は、大正11年(1922)に建てられました。設計・施工は不明です。Butterfield & Swire 商会は、海運、空運、貿易などを行なっていました。

  • 外壁は煉瓦と擬石が使用されています。当初はもっと奥行きの深い建物だったそうです。約三分の一ほどになってしまいまいた。関東大震災でも全面倒壊を免れた貴重な建物です。

    外壁は煉瓦と擬石が使用されています。当初はもっと奥行きの深い建物だったそうです。約三分の一ほどになってしまいまいた。関東大震災でも全面倒壊を免れた貴重な建物です。

  • Butterfield &amp; Swire 商会は、東京の英国大使館裏に「スワイヤーハウス」がありました。1994年までは、海運会社キュナードラインの日本代理店だったそうですが、現存していません。戦前、神戸北野町にバターフィールド・アンド・スワイヤー社の社宅がありましたが、戦時中は捕虜収容所となっていたそうです。現存していません。

    Butterfield & Swire 商会は、東京の英国大使館裏に「スワイヤーハウス」がありました。1994年までは、海運会社キュナードラインの日本代理店だったそうですが、現存していません。戦前、神戸北野町にバターフィールド・アンド・スワイヤー社の社宅がありましたが、戦時中は捕虜収容所となっていたそうです。現存していません。

  • 昭和51年、創価学会の所有となり、戸田記念開館として、保存・改修され、使用されています。

    昭和51年、創価学会の所有となり、戸田記念開館として、保存・改修され、使用されています。

  • 昔の写真に見えるように、建物左側に大型ポーチの付いた車寄せがありました。

    昔の写真に見えるように、建物左側に大型ポーチの付いた車寄せがありました。

  • 友人がヨコハマ・インターコンチネンタルに泊まっていたので、急に私も泊まることになりました。眼下に広がる夕暮れの港の景色が綺麗でした。20年経ったインターコンチネンタルホテルは、港に一番近い位置に建っているので、海側の部屋からの眺めは最高でした。神戸とはまた異なる夜景ですね。<br />陽が沈んでから、散歩に出ました。ホテルからだと歩いてほんの4、5分で行けます。赤煉瓦倉庫2号館が手前に見えています。こちらは商業施設が入っています。

    友人がヨコハマ・インターコンチネンタルに泊まっていたので、急に私も泊まることになりました。眼下に広がる夕暮れの港の景色が綺麗でした。20年経ったインターコンチネンタルホテルは、港に一番近い位置に建っているので、海側の部屋からの眺めは最高でした。神戸とはまた異なる夜景ですね。
    陽が沈んでから、散歩に出ました。ホテルからだと歩いてほんの4、5分で行けます。赤煉瓦倉庫2号館が手前に見えています。こちらは商業施設が入っています。

  • 明治政府によって保税倉庫として建設されました。当時の正式名称は「埠頭保税倉庫」で、2号館が明治44年(1911)、1号館が大正2年(1913)に竣工しました。平成元年その役割を終え、暫くそのまま放置されていますた。平成14年になって1号館は展示スペース、2号館は商業施設となり、付近一帯は広場、公園のある赤煉瓦パークとして整備されました。

    明治政府によって保税倉庫として建設されました。当時の正式名称は「埠頭保税倉庫」で、2号館が明治44年(1911)、1号館が大正2年(1913)に竣工しました。平成元年その役割を終え、暫くそのまま放置されていますた。平成14年になって1号館は展示スペース、2号館は商業施設となり、付近一帯は広場、公園のある赤煉瓦パークとして整備されました。

  • 埠頭保税倉庫の設計は妻木頼黄を中心とした大蔵省臨時建設部でした。全長約150mで、背面に鉄骨造ベランダを備え、日本初の業務用エレベーターや避雷針、消火栓を備えた赤煉瓦倉庫は、当時の組積造技術の最高レベルを示す建築と言われてました。煉瓦と煉瓦の間に、鉄を入れる補強が施されたことで、大正12年の関東大震災でも、1号倉庫は約30%の損傷に留まったそうです。当時のエレベーターは、現在1号館横に展示されています。

    埠頭保税倉庫の設計は妻木頼黄を中心とした大蔵省臨時建設部でした。全長約150mで、背面に鉄骨造ベランダを備え、日本初の業務用エレベーターや避雷針、消火栓を備えた赤煉瓦倉庫は、当時の組積造技術の最高レベルを示す建築と言われてました。煉瓦と煉瓦の間に、鉄を入れる補強が施されたことで、大正12年の関東大震災でも、1号倉庫は約30%の損傷に留まったそうです。当時のエレベーターは、現在1号館横に展示されています。

  • 終戦後、倉庫は、連合国軍に接収されました。昭和29年(1954)に商船の臨時使用が許可され、昭和31年(1956)には、1号から6号岸壁と赤煉瓦倉庫を含む上屋の接収が解除されました。その後、貿易の急増、貨物のコンテナ化が進展したために、他の埠頭に移り、昭和50年(1975)には取扱貨物量が激減しました。その後は、映画やドラマの撮影現場として利用され、注目を集めていました。

    終戦後、倉庫は、連合国軍に接収されました。昭和29年(1954)に商船の臨時使用が許可され、昭和31年(1956)には、1号から6号岸壁と赤煉瓦倉庫を含む上屋の接収が解除されました。その後、貿易の急増、貨物のコンテナ化が進展したために、他の埠頭に移り、昭和50年(1975)には取扱貨物量が激減しました。その後は、映画やドラマの撮影現場として利用され、注目を集めていました。

  • 以前昼間に来たことがありますが、夜景を見ると、当時の面影を感じることができます。

    以前昼間に来たことがありますが、夜景を見ると、当時の面影を感じることができます。

  • 人影の少ない広場や公園辺りは、散歩にお勧めのスポットです。

    人影の少ない広場や公園辺りは、散歩にお勧めのスポットです。

  • 1号館の向こうに横浜税関のクイーンの塔が見えます。

    1号館の向こうに横浜税関のクイーンの塔が見えます。

  • 山下臨海プロムナードを歩いて、後ろを振り向くと、赤煉瓦倉庫の後ろにインターコンチネンタルのシルエットがありました。ヨットの帆の形をしているので、どこから見ても目立ちますね。

    山下臨海プロムナードを歩いて、後ろを振り向くと、赤煉瓦倉庫の後ろにインターコンチネンタルのシルエットがありました。ヨットの帆の形をしているので、どこから見ても目立ちますね。

  • 新港客船ターミナルのイルミネーションが綺麗です。

    新港客船ターミナルのイルミネーションが綺麗です。

  • 大正元年(1912)頃、横浜港周辺に横浜鐵道が開通し、新港埠頭に臨時鐵道が建設されました。これは、そのレールです。

    大正元年(1912)頃、横浜港周辺に横浜鐵道が開通し、新港埠頭に臨時鐵道が建設されました。これは、そのレールです。

  • その時に造られた新港橋梁です。こういうものを保存していくのは、大変な努力だと思います。

    その時に造られた新港橋梁です。こういうものを保存していくのは、大変な努力だと思います。

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