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JR東海道線、東神奈川駅と横浜駅間の線路を見下ろす東側高台に「幸ケ谷公園」があり、その一部は権現山城(ごんげんやまじょう、神奈川県神奈川区幸ケ谷)の跡地といわれ、戦国時代前期に小田原北条氏が当該城主上田氏を調略し相模から武蔵南部を支配していた扇谷上杉氏に対し反乱を起こさせた合戦の舞台となっていました。<br />         <br />伊豆を平定した伊勢新九郎盛時(いせ・しんくろう・もりとき、1432~1519)、入道して早雲庵宗瑞、便宜上北条早雲と呼ぶ)は韮山から次に西相模方面に眼を向け、明応4年(1495)扇谷上杉氏の家臣大森氏居住の小田原城を策略により奪い城主大森藤頼(おおもり・ふじより、生誕不詳~1503)を放逐、更に武蔵と三浦半島を結ぶ重要地点に玉縄城(鎌倉市)を構築して武蔵進出をもくろみます。<br /><br />強大な勢力を有する山内・扇谷(おおぎがやつ)両上杉氏に正面から対抗する程の力を持たない早雲は永正4年(1507)、越後の守護代長尾為景(ながお・ためかげ、1489~1543・上杉謙信の父)と守護上杉房能の戦いに乗じて、扇谷上杉氏家臣の権現山城主上田政盛(うえだ・まさもり、生没不詳)を寝返らせます。<br /><br />当時権現山城は江戸と鎌倉を結ぶ重要地点で鎌倉に拠点を持つ扇谷上杉氏にとっては死活問題であったので直ちに朝定(ともさだ、1525~1546)は権現山城反乱の沈静の為出兵、早雲を共通の敵と認識した山内上杉憲房(うえすぎ・のりふさ、生誕不詳~1336)もこれに応じ権現山を包囲し攻め立てます。<br /><br />これを知った早雲は上田勢に戦力支援しますが敵勢2万に対し多勢に無勢で権現山城は10日足らずで落城に至ります。<br /><br />確かにこの戦いで敗れた早雲は翌年、扇谷上杉氏と和睦し、この後は方針を転換し、三浦半島統一に向けて転進し、永正13年(1516)に新井城(三浦市)に三浦義同(みうら・よしたつ、1451~1516)を攻めついに三浦半島を全て支配下に置きます。<br /><br />以降早雲から後継を受けた二代目氏綱(うじつな、1487~1541)は大永4年(1524)扇谷上杉朝興(うえすぎともおき、1488?1537)の江戸城、天文6年(1537)扇谷上杉朝定(うえすぎ・ともさだ、1525~1546)の河越城をそれぞれ奪取し念願の関東進出を果たします。<br /><br />権現山に登ってみると周囲よりも高くなっていることで城跡の雰囲気はありますが、遺構らしきものは見当たらず説明板がなければ普通の公園として見過ごしてしまいそうです。<br /><br />当時早雲は自力で上杉氏に対抗できないと認識しており、両上杉氏の内争を意識して誘い双方の戦力低下を狙うしか手立てがないと考えていた事でしょう。<br /><br />権現山合戦は上杉氏の臣下長尾氏と呼応した戦いであり、結果うまく連動できませんでしたが上杉氏に与えた心理的影響は大であったろうと思われます。新旧交代の序章と言ったところでしょうか。<br /><br /><br />2023年9月2日追記<br /><br />現地公園に掲げられた簡単な説明板には下記のように記述されています。<br /><br />『 権 現 山 合 戦 の 後<br /><br />永正7年(1510)北条早雲が当時の関東の支配者上杉氏の家臣上田蔵人を味方にしてここにとりでをきづかせた。上杉朝良ら2万の大軍がとりでを囲み合戦が10日間も行われたという。その結果上田勢が敗れた古戦場跡である。また安政年間のお台場づくりなど埋め立て用土に山がけづられて低くなった。<br />       昭和54年?月    神奈川区役所 』<br /><br />

武蔵横浜 調略するも勝利ならず小田原北条氏が山内・扇谷両上杉氏に対し武蔵進出の脅威を与えた上田氏反乱の『権現山城』訪問

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2012/02/02 - 2012/02/02

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滝山氏照

滝山氏照さん

JR東海道線、東神奈川駅と横浜駅間の線路を見下ろす東側高台に「幸ケ谷公園」があり、その一部は権現山城(ごんげんやまじょう、神奈川県神奈川区幸ケ谷)の跡地といわれ、戦国時代前期に小田原北条氏が当該城主上田氏を調略し相模から武蔵南部を支配していた扇谷上杉氏に対し反乱を起こさせた合戦の舞台となっていました。
         
伊豆を平定した伊勢新九郎盛時(いせ・しんくろう・もりとき、1432~1519)、入道して早雲庵宗瑞、便宜上北条早雲と呼ぶ)は韮山から次に西相模方面に眼を向け、明応4年(1495)扇谷上杉氏の家臣大森氏居住の小田原城を策略により奪い城主大森藤頼(おおもり・ふじより、生誕不詳~1503)を放逐、更に武蔵と三浦半島を結ぶ重要地点に玉縄城(鎌倉市)を構築して武蔵進出をもくろみます。

強大な勢力を有する山内・扇谷(おおぎがやつ)両上杉氏に正面から対抗する程の力を持たない早雲は永正4年(1507)、越後の守護代長尾為景(ながお・ためかげ、1489~1543・上杉謙信の父)と守護上杉房能の戦いに乗じて、扇谷上杉氏家臣の権現山城主上田政盛(うえだ・まさもり、生没不詳)を寝返らせます。

当時権現山城は江戸と鎌倉を結ぶ重要地点で鎌倉に拠点を持つ扇谷上杉氏にとっては死活問題であったので直ちに朝定(ともさだ、1525~1546)は権現山城反乱の沈静の為出兵、早雲を共通の敵と認識した山内上杉憲房(うえすぎ・のりふさ、生誕不詳~1336)もこれに応じ権現山を包囲し攻め立てます。

これを知った早雲は上田勢に戦力支援しますが敵勢2万に対し多勢に無勢で権現山城は10日足らずで落城に至ります。

確かにこの戦いで敗れた早雲は翌年、扇谷上杉氏と和睦し、この後は方針を転換し、三浦半島統一に向けて転進し、永正13年(1516)に新井城(三浦市)に三浦義同(みうら・よしたつ、1451~1516)を攻めついに三浦半島を全て支配下に置きます。

以降早雲から後継を受けた二代目氏綱(うじつな、1487~1541)は大永4年(1524)扇谷上杉朝興(うえすぎともおき、1488?1537)の江戸城、天文6年(1537)扇谷上杉朝定(うえすぎ・ともさだ、1525~1546)の河越城をそれぞれ奪取し念願の関東進出を果たします。

権現山に登ってみると周囲よりも高くなっていることで城跡の雰囲気はありますが、遺構らしきものは見当たらず説明板がなければ普通の公園として見過ごしてしまいそうです。

当時早雲は自力で上杉氏に対抗できないと認識しており、両上杉氏の内争を意識して誘い双方の戦力低下を狙うしか手立てがないと考えていた事でしょう。

権現山合戦は上杉氏の臣下長尾氏と呼応した戦いであり、結果うまく連動できませんでしたが上杉氏に与えた心理的影響は大であったろうと思われます。新旧交代の序章と言ったところでしょうか。


2023年9月2日追記

現地公園に掲げられた簡単な説明板には下記のように記述されています。

『 権 現 山 合 戦 の 後

永正7年(1510)北条早雲が当時の関東の支配者上杉氏の家臣上田蔵人を味方にしてここにとりでをきづかせた。上杉朝良ら2万の大軍がとりでを囲み合戦が10日間も行われたという。その結果上田勢が敗れた古戦場跡である。また安政年間のお台場づくりなど埋め立て用土に山がけづられて低くなった。
       昭和54年?月    神奈川区役所 』

交通手段
JRローカル 徒歩

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  • 幸ケ谷公園(こうがやこうえん)<br /><br />公園を入りますとすぐ広場で、その奥は一段高い広場となっています。

    幸ケ谷公園(こうがやこうえん)

    公園を入りますとすぐ広場で、その奥は一段高い広場となっています。

  • 権現山説明<br /><br />かつては向かいの本覚寺のある高島台(青木城跡)と尾根伝いに繋がる急峻な山でありました。幕末から明治に掛けてお台場や鉄道用地の埋立、開削のため山は削られ現在の低さになりました。(説明板)

    権現山説明

    かつては向かいの本覚寺のある高島台(青木城跡)と尾根伝いに繋がる急峻な山でありました。幕末から明治に掛けてお台場や鉄道用地の埋立、開削のため山は削られ現在の低さになりました。(説明板)

  • 公園入口広場<br /><br />上段広場への階段から公園入口広場を振返ります。

    公園入口広場

    上段広場への階段から公園入口広場を振返ります。

  • 上段広場全景<br /><br />桜の名所だそうです。桜の咲く頃はきれいでしょうね。

    上段広場全景

    桜の名所だそうです。桜の咲く頃はきれいでしょうね。

  • 上段広場西端<br /><br />東海道線を眼下に臨みます。西側には高層建物が連なっています。<br /><br />

    上段広場西端

    東海道線を眼下に臨みます。西側には高層建物が連なっています。

  • 青木城跡(本覚寺)を展望<br /><br />東海道線を越えて今では本覚寺となっている青木城跡を展望します。<br />

    青木城跡(本覚寺)を展望

    東海道線を越えて今では本覚寺となっている青木城跡を展望します。

  • 東海道線<br /><br />間断なく電車が往来します。さすがは交通の大動脈ですネ。

    東海道線

    間断なく電車が往来します。さすがは交通の大動脈ですネ。

  • 急峻な権現山<br /><br />住宅地帯とは一層高くなっていまして、城跡の雰囲気が感じられます。

    急峻な権現山

    住宅地帯とは一層高くなっていまして、城跡の雰囲気が感じられます。

  • 公園入口<br /><br />建物の下部に通路を設けており、権現山と周辺との高低差が判ります。

    公園入口

    建物の下部に通路を設けており、権現山と周辺との高低差が判ります。

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