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文久3年(1863)にフランス軍が横浜に着き、そのキャンプ地は、山手186番でした。3042坪の広大な敷地に3棟の建物が日本政府の費用で造営されたということです。初期の駐屯兵は、陸軍部隊20名に始まり、その後、208名の陸・海軍追加部隊が加わり、合わせて300名以上が横浜に駐屯しました。明治8年に撤退するまでの約12年間、駐屯したことからこの辺りを「フランス山」と呼ぶようになりました。仏軍撤退後、明治29年にフランス人サルダの設計で、跡地のフランス山下方に領事館(山手185番)とフランス山上方に領事官邸(山手186番)が完成しました。関東大震災で倒壊し、震災後、領事館は仮設で業務を行なっていましたが、昭和5年にスイス人ヒンデルの設計で山手186番に再建されました。その官邸も昭和22年に火災で焼失し、現存しているのは、1階の焼け残った部分だけとなっています。

フランス山と横浜中区近代建築散歩 ー 1

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2014/05/09 - 2014/05/19

4028位(同エリア9499件中)

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belledune

belleduneさん

文久3年(1863)にフランス軍が横浜に着き、そのキャンプ地は、山手186番でした。3042坪の広大な敷地に3棟の建物が日本政府の費用で造営されたということです。初期の駐屯兵は、陸軍部隊20名に始まり、その後、208名の陸・海軍追加部隊が加わり、合わせて300名以上が横浜に駐屯しました。明治8年に撤退するまでの約12年間、駐屯したことからこの辺りを「フランス山」と呼ぶようになりました。仏軍撤退後、明治29年にフランス人サルダの設計で、跡地のフランス山下方に領事館(山手185番)とフランス山上方に領事官邸(山手186番)が完成しました。関東大震災で倒壊し、震災後、領事館は仮設で業務を行なっていましたが、昭和5年にスイス人ヒンデルの設計で山手186番に再建されました。その官邸も昭和22年に火災で焼失し、現存しているのは、1階の焼け残った部分だけとなっています。

旅行の満足度
4.5

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  • フランス山入り口にあるこの鉄骨は、パリのレ・アール地区にあったパリ中央市場の地下階部分の鋳鉄製の鉄骨構造体です。19世紀後半のナポレオン3世時代にオスマン市長がバルタールに設計を依頼して建設されたものです。全体は12棟で構成されており、1854年〜1858年に3棟、1886年に1棟、1935年に2棟が完成しました。地上階の鉄骨上屋はパリ郊外に復元されています。エッフェル塔より前の初期鉄骨様式で、貴重なものとなっています。

    フランス山入り口にあるこの鉄骨は、パリのレ・アール地区にあったパリ中央市場の地下階部分の鋳鉄製の鉄骨構造体です。19世紀後半のナポレオン3世時代にオスマン市長がバルタールに設計を依頼して建設されたものです。全体は12棟で構成されており、1854年〜1858年に3棟、1886年に1棟、1935年に2棟が完成しました。地上階の鉄骨上屋はパリ郊外に復元されています。エッフェル塔より前の初期鉄骨様式で、貴重なものとなっています。

  • イギリス領事館邸の門柱は、外壁の仕上げが関東大震災後のフランス領事館邸と同じことから、同じ時代に設置されてものだと考えられています。

    イギリス領事館邸の門柱は、外壁の仕上げが関東大震災後のフランス領事館邸と同じことから、同じ時代に設置されてものだと考えられています。

  • フランス軍駐屯時代の軍兵舎で、背後に山手186番の兵舎からの石段が見えています。

    フランス軍駐屯時代の軍兵舎で、背後に山手186番の兵舎からの石段が見えています。

  • 大正12年(1923)9月1日の関東大震災で倒壊したので、スイス人Max Hinder の設計で、昭和5年(1930)に新しい領事館邸が建てられました。1階部分はコンクリート造、2、3階部分は木造で、塔屋付きの3階建てでした。大きな屋根窓が設けられていて、4階に相当する屋根裏部屋があったと考えられています。天井高3m、建築面積222,5平方m、建設費用は53万3千フランと言われています。

    大正12年(1923)9月1日の関東大震災で倒壊したので、スイス人Max Hinder の設計で、昭和5年(1930)に新しい領事館邸が建てられました。1階部分はコンクリート造、2、3階部分は木造で、塔屋付きの3階建てでした。大きな屋根窓が設けられていて、4階に相当する屋根裏部屋があったと考えられています。天井高3m、建築面積222,5平方m、建設費用は53万3千フランと言われています。

  • 明治27年(1894)、フランス人サルダの設計で建設着工し、2年後に完成しました。設計図に因ると、煉瓦造り2階建て、建坪約24mX18mでしたが、関東大震災で倒壊しました。跡地から使用されたジェラール瓦、煉瓦などが掘り出されました。<br />ジェラール瓦とは、フランス人実業家アルフレッド・ジェラールが山手77番の工場で製造していた西洋瓦のことです。機械でプレスして、成型した瓦の裏面にはジェラール(A GERARD&#39;S STEAM TILE &amp; BRICK WORKS ) の刻印があります。

    明治27年(1894)、フランス人サルダの設計で建設着工し、2年後に完成しました。設計図に因ると、煉瓦造り2階建て、建坪約24mX18mでしたが、関東大震災で倒壊しました。跡地から使用されたジェラール瓦、煉瓦などが掘り出されました。
    ジェラール瓦とは、フランス人実業家アルフレッド・ジェラールが山手77番の工場で製造していた西洋瓦のことです。機械でプレスして、成型した瓦の裏面にはジェラール(A GERARD'S STEAM TILE & BRICK WORKS ) の刻印があります。

  • 震災後に建てられたフランス領事館邸の1階部分は、14,5m X 14m  の正方形に近い矩形で、東隅に設けられた主玄関は、幅5,5m、奥行き2mのポーチと、その奥の5,5m X 5m のホールからなっていました。ポーチは擬石積みで、ホールには壁と床のタイル張りが残っています。

    震災後に建てられたフランス領事館邸の1階部分は、14,5m X 14m の正方形に近い矩形で、東隅に設けられた主玄関は、幅5,5m、奥行き2mのポーチと、その奥の5,5m X 5m のホールからなっていました。ポーチは擬石積みで、ホールには壁と床のタイル張りが残っています。

  • 西側には同じく擬石積み仕上げの脇玄関と思われる開口部があり、その傍にトイレと2階への階段やその他、使用人の部屋や厨房などがありました。

    西側には同じく擬石積み仕上げの脇玄関と思われる開口部があり、その傍にトイレと2階への階段やその他、使用人の部屋や厨房などがありました。

  • 2階への階段辺りです。

    2階への階段辺りです。

  • フランス領事館邸の建設時に、フランス山には井戸水を汲み上げるための風車が設置されました。煉瓦造りの井戸の遺構が残っています。風車が回ると、水を汲み上げる仕組みになっていました。井戸の北川斜面に2基、南側にやや小さめの基礎が2基ありました。

    フランス領事館邸の建設時に、フランス山には井戸水を汲み上げるための風車が設置されました。煉瓦造りの井戸の遺構が残っています。風車が回ると、水を汲み上げる仕組みになっていました。井戸の北川斜面に2基、南側にやや小さめの基礎が2基ありました。

  • フランス領事館邸の風車の写真は残っていませんが、同時代のヴィラ・サクソニアの風車の写真から多翼型の風車だと推測されます。風車の色は、フランス国旗のトリコロールに塗り分けられていました。

    フランス領事館邸の風車の写真は残っていませんが、同時代のヴィラ・サクソニアの風車の写真から多翼型の風車だと推測されます。風車の色は、フランス国旗のトリコロールに塗り分けられていました。

  • フランス山にある株式会社東洋信号通信社です。船舶動静通知、国際VHF、海難事故の発見防止、灯台灯火の監視、船舶の通行量航跡調査、船舶日報発行、港湾気象通報連絡などの業務を行なっています。

    フランス山にある株式会社東洋信号通信社です。船舶動静通知、国際VHF、海難事故の発見防止、灯台灯火の監視、船舶の通行量航跡調査、船舶日報発行、港湾気象通報連絡などの業務を行なっています。

  • みなとみらい線の馬車道駅1b出口に直結しているのが、横浜アイランドタワーです。平成7年竣工の新宿アイランドタワーと同じ事業主で、都市再生機構が開発し、北仲通南区第一工区の開発計画として、平成15年(2003)に竣工しました。低層部は、ヨコハマ想像都市センター(YCC) の施設として活用されていますが、以前は旧第一銀行横浜支店でした。<br />

    みなとみらい線の馬車道駅1b出口に直結しているのが、横浜アイランドタワーです。平成7年竣工の新宿アイランドタワーと同じ事業主で、都市再生機構が開発し、北仲通南区第一工区の開発計画として、平成15年(2003)に竣工しました。低層部は、ヨコハマ想像都市センター(YCC) の施設として活用されていますが、以前は旧第一銀行横浜支店でした。

  • 設計者の西村好時は、大正博覧会設計に携わり、大正3年(1914)清水組設計技師となり、第一銀行建築課長に就任。本店及び支店30箇所の設計を行ないました。

    設計者の西村好時は、大正博覧会設計に携わり、大正3年(1914)清水組設計技師となり、第一銀行建築課長に就任。本店及び支店30箇所の設計を行ないました。

  • 頭上に見える2本の金属棒らしきものは、旗を提げるものか?

    頭上に見える2本の金属棒らしきものは、旗を提げるものか?

  • 東側先端のトスカーナ式オーダーの列柱のある低層部は、昭和4年(1929)に建てられた歴史主義建築で、第一銀行横浜支店の後、1980年以降は、横浜銀行本店として使用されていました。このバルコニー部分を曳き家工法で、移築し、組み込みそれ以外の外観部分は、ファサードを形態復元したそうです。低層部の設計は、清水組・西村好時、RC造、地上3階、地下1階でした。

    東側先端のトスカーナ式オーダーの列柱のある低層部は、昭和4年(1929)に建てられた歴史主義建築で、第一銀行横浜支店の後、1980年以降は、横浜銀行本店として使用されていました。このバルコニー部分を曳き家工法で、移築し、組み込みそれ以外の外観部分は、ファサードを形態復元したそうです。低層部の設計は、清水組・西村好時、RC造、地上3階、地下1階でした。

  • 正面玄関

    正面玄関

  • 正面玄関扉

    正面玄関扉

  • 玄関の照明

    玄関の照明

  • 玄関ホールの天井

    玄関ホールの天井

  • 内部は吹き抜けになっていて、創建当初の装飾が施されています。ここは、広い喫茶スペースとなっています。何かのイベントにも使用されるのかもしれません。

    内部は吹き抜けになっていて、創建当初の装飾が施されています。ここは、広い喫茶スペースとなっています。何かのイベントにも使用されるのかもしれません。

  • 横浜アイランドタワーは、高さ119mで、設計は、槇総合計画事務所、施工は竹中工務店、清水建設、戸田建設 JV。RC造、地上27階、地下3階、塔屋2階となっています。敷地面積3700平方m、建築面積2200平方mです。

    横浜アイランドタワーは、高さ119mで、設計は、槇総合計画事務所、施工は竹中工務店、清水建設、戸田建設 JV。RC造、地上27階、地下3階、塔屋2階となっています。敷地面積3700平方m、建築面積2200平方mです。

  • アイランドタワーの向かいに見えるのが、第一帝産ビル・帝蚕倉庫事務所(旧横浜生糸検査付属倉庫事務所)です。設計は、遠藤於菟で、大正15年に建てられました。

    アイランドタワーの向かいに見えるのが、第一帝産ビル・帝蚕倉庫事務所(旧横浜生糸検査付属倉庫事務所)です。設計は、遠藤於菟で、大正15年に建てられました。

  • この事務所棟は、七大学共同プロジェクト「北仲スクール」開校しましたが、現在はどうなっているんでしょうか?

    この事務所棟は、七大学共同プロジェクト「北仲スクール」開校しましたが、現在はどうなっているんでしょうか?

  • 正面玄関に座っている人がいたので、横から撮った玄関です。

    正面玄関に座っている人がいたので、横から撮った玄関です。

  • 反対側の通用口

    反対側の通用口

  • 側面

    側面

  • 裏手です。

    裏手です。

  • 遠くに見えるのが、横浜アイランドタワーです。やはり超高層ビルですね。

    遠くに見えるのが、横浜アイランドタワーです。やはり超高層ビルですね。

  • こちらが、帝蚕倉庫群で、ただ一つ残っている C 棟です。これも全て遠藤於菟の設計です。<br />遠藤於菟(1866〜1943)は、帝国大学工科大学校造家学科卒で、同期には野口孫市、矢橋賢吉がいます。1895年横浜税関倉庫監督、農商務省生糸検査所嘱託(生糸検査所本館工事監督)、明治31年(1898)横浜正金銀行技師に就任し、横浜銀行集会所、三井物産横浜支店、横浜生糸検査所などの設計をしています。<br />

    こちらが、帝蚕倉庫群で、ただ一つ残っている C 棟です。これも全て遠藤於菟の設計です。
    遠藤於菟(1866〜1943)は、帝国大学工科大学校造家学科卒で、同期には野口孫市、矢橋賢吉がいます。1895年横浜税関倉庫監督、農商務省生糸検査所嘱託(生糸検査所本館工事監督)、明治31年(1898)横浜正金銀行技師に就任し、横浜銀行集会所、三井物産横浜支店、横浜生糸検査所などの設計をしています。

  • C 棟を表す頭文字が見えます。倉庫にしては、なかなか外壁に凝った造りです。

    C 棟を表す頭文字が見えます。倉庫にしては、なかなか外壁に凝った造りです。

  • 遠くにみなとみあらいのインターコンチネンタルホテルが見えます。

    遠くにみなとみあらいのインターコンチネンタルホテルが見えます。

  • こちらは、横浜第二合同庁舎(旧生糸検査所庁舎)で、大正15年竣工です。設計は、遠藤於菟、鉄筋コンクリート造、地上4階、地下1階です。

    こちらは、横浜第二合同庁舎(旧生糸検査所庁舎)で、大正15年竣工です。設計は、遠藤於菟、鉄筋コンクリート造、地上4階、地下1階です。

  • 平成5年に中央部を改築。

    平成5年に中央部を改築。

  • 玄関上に「蚕」を象ったがあります。

    玄関上に「蚕」を象ったがあります。

  • 日本郵船歴史博物館(旧横浜郵船ビル)は、昭和11年(1936)に建てられました。設計は、和田順顕で、鉄筋コンクリート造、地上3階建てです。

    日本郵船歴史博物館(旧横浜郵船ビル)は、昭和11年(1936)に建てられました。設計は、和田順顕で、鉄筋コンクリート造、地上3階建てです。

  • 和田順顕は、明治45年、東京美術学校図案科を卒業。同期には今和次郎がいました。<br />その後、横浜鶴屋の工事に携わりました。東京美術学校の卒業生で、民間建築事務所を構えた第一人者と言われています。<br />彼の設計には、昭和6年(1931)の日本医学大学第一病院(現存せず)、昭和9年(1934)の旧濱口邸(現・タイ王国大使館)、昭和12年(1937)の慶應義塾大学北里記念医学図書館(信濃町メディアセンター)などがあります。

    和田順顕は、明治45年、東京美術学校図案科を卒業。同期には今和次郎がいました。
    その後、横浜鶴屋の工事に携わりました。東京美術学校の卒業生で、民間建築事務所を構えた第一人者と言われています。
    彼の設計には、昭和6年(1931)の日本医学大学第一病院(現存せず)、昭和9年(1934)の旧濱口邸(現・タイ王国大使館)、昭和12年(1937)の慶應義塾大学北里記念医学図書館(信濃町メディアセンター)などがあります。

  • 2003年に、日本郵船歴史博物館に改修するため、大規模な工事が行なわれました。1階部分を竣工時と同じに復元するため、天井、照明なども復元されました。内装はアールデコ様式。当時3階には船の司厨員(コック)を養成所も設けられていました。戦後、米軍に接収されましたが、後に日本郵船横浜支店として復活しました。

    2003年に、日本郵船歴史博物館に改修するため、大規模な工事が行なわれました。1階部分を竣工時と同じに復元するため、天井、照明なども復元されました。内装はアールデコ様式。当時3階には船の司厨員(コック)を養成所も設けられていました。戦後、米軍に接収されましたが、後に日本郵船横浜支店として復活しました。

  • 日本郵船は、三菱グループの創始者、岩崎弥太郎が土佐藩の回漕業者の九十九商会を継承したのに始まる日本最古の船会社です。横浜港に係留されている「氷川丸」は、日本郵船の旅客船です。

    日本郵船は、三菱グループの創始者、岩崎弥太郎が土佐藩の回漕業者の九十九商会を継承したのに始まる日本最古の船会社です。横浜港に係留されている「氷川丸」は、日本郵船の旅客船です。

  • コリント式の16本の列柱があり、古典主義建築としては横浜で最後のものです。

    コリント式の16本の列柱があり、古典主義建築としては横浜で最後のものです。

  • 旧安田銀行横浜支店で、昭和4年(1929)竣工です。設計は、安田銀行営繕課、施工は大倉土木です。鉄筋コンクリート造、地上2階建てです。

    旧安田銀行横浜支店で、昭和4年(1929)竣工です。設計は、安田銀行営繕課、施工は大倉土木です。鉄筋コンクリート造、地上2階建てです。

  • 昭和29年(1954)に創建時と同じスタイルで南側に増築されました。

    昭和29年(1954)に創建時と同じスタイルで南側に増築されました。

  • ルスティカの外壁は、ロマネスク時代の中部イタリアの城郭風邸宅に好んで用いられました。

    ルスティカの外壁は、ロマネスク時代の中部イタリアの城郭風邸宅に好んで用いられました。

  • 2階は半円窓になっています。

    2階は半円窓になっています。

  • ルスティカの外壁、二つのファサードの中央にトスカーナ式の大オーダーの円柱があり、正統的な古典主義建築になっています。<br />トスカーナ式は、柱身に彫溝がなく、柱間も大きく、エンタブラチュア(柱で支えられる水平材)も簡素なもの。

    ルスティカの外壁、二つのファサードの中央にトスカーナ式の大オーダーの円柱があり、正統的な古典主義建築になっています。
    トスカーナ式は、柱身に彫溝がなく、柱間も大きく、エンタブラチュア(柱で支えられる水平材)も簡素なもの。

  • 昭和23年に財閥解体で富士銀行横浜支店に改称されました。その後平成14年に横浜市が買取り、現在に至っています。

    昭和23年に財閥解体で富士銀行横浜支店に改称されました。その後平成14年に横浜市が買取り、現在に至っています。

  • 後日、1階へ入って、内部を見てきました。半円アーチの入り口から入ってみると、吹き抜けで銀行らしい設計でした。

    後日、1階へ入って、内部を見てきました。半円アーチの入り口から入ってみると、吹き抜けで銀行らしい設計でした。

  • 2階の回廊の装飾も凝っています。

    2階の回廊の装飾も凝っています。

  • 天井部分

    天井部分

  • 当時の金庫がまだ現役で活躍していましたが、中にはカメラ機材がぎっしりと入っていました。金庫扉上部は、換気の為の装置でした。2階からは、東京芸大大学院映像学課の領域です。

    当時の金庫がまだ現役で活躍していましたが、中にはカメラ機材がぎっしりと入っていました。金庫扉上部は、換気の為の装置でした。2階からは、東京芸大大学院映像学課の領域です。

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