2014/05/19 - 2014/06/02
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belleduneさん
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日本大通りもイギリス人が設計した大通りですが、馬車道駅から日本大通り駅、元町・中華街駅辺りには、明治から大正、昭和初期の近代建築物が集まっています。次第に老朽化して、取り壊されているものもありますが、保存されているものが多く、特に横浜開港記念会館では、ボランティアの方が細かく案内、説明してくださいます。私がお会いした方は、81歳になられる方でしたが、ずっとこういうボランティア活動をなさっている勢か、とても若々しく素敵な方でした。私も浅草でボランティアを始めてから、6年になりますが、こういう方のお姿を拝見していると、頑張らなくてはと励まされました。
- 旅行の満足度
- 5.0
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出入り口の扉のガラス面には、現在の「横浜市開港記念会館」と書かれています。
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通用口の階段の曲線が良いですね。
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明治42年(1909)に横浜開港50周年を記念して、公募設計により大正6年(1917)に「開港記念横浜会館」が建設されました。設計原案及び基本構造設計は、福田重義と山田七五郎、佐藤四郎です。当初の建築様式は、腰石まで花崗岩積みで、1、2階は赤い化粧煉瓦と白い花崗岩を積み上げた辰野式フリークラシックになっています。
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大正12年の関東大震災で、外壁を残して屋根と内部が焼失しましたが、その後、昭和2年に再建されました。銅製のドームは復元されず、内装も簡素化されていました。
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終戦から昭和33年6月まで米軍に接収され、メモリアルホールと呼ばれていました。その後、利用再開され、翌年、中区公会堂として開館し、「横浜市開港記念開館」と改称され、現在も利用されています。年々、老朽化が進んで、保存するか、取り壊すかという決断を迫られましたが、昭和53年(1978)に改修工事が行なわれ、貴賓階段室・ステンドグラス修復がなされました。平成元年(1989)、市政100周年・開港130周年を記念して、念願のドームが復元されました。
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ジャックの塔です。6月2日は横浜開港記念日だったので、ジャックの塔に上ってきました。丁度四角形の上の部分迄で、その上は上れませんでしたが、天然スレート(玄昌石)鱗葺の屋根や飾りが良く見えました。
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ちょっと見難いかもしれませんが、上部に付いているのは、蚕をイメージしたものです。
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この辺りは、土地が傾斜しているため、階段を上って、正面玄関へ
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階段を上って、玄関を入ると、大理石の柱やアーチ窓が扉上部に見られます。
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そこから更に4段上がると、玄関ホールになります。3段目に地下への明り取りが見られます。
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玄関を入って、直ぐの漆喰仕上げの天井部分です。
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その上の玄関ホール入り口の天井部分です。照明が点いているので、暗くなってしまいましたが、前のものと同様白い漆喰仕上げです。
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玄関ホールから見るとこんな風になっています。
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玄関ホールは改修されたものですが、耐震のため4本の大理石の柱で支えていますが、デザイン的にちょっと残念です...
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玄関ホールの床は、創建当時はもっと大きなタイルだったそうですが、改修後は、細かいタイルに変更されました。
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ホール横の貴賓階段室への階段です。
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玄関ホールの天井部分です。
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天井の梁部分の漆喰にも紋章があります。
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1階の講堂(481名収容)は使用中でした。
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講堂の中央扉上部の紋章は全て生糸に関係したもの、繭、蚕、生糸です。
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直ぐ横の扉との間にある柱上部の装飾
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それが直ぐ横の扉上部の紋章です。
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案内されて建物を一周して来ると、ちょうど講演の休憩時間でした。ボランティアの方が一緒だったので、入ることができました。2階を案内してくださった時に、ちらっと2階からこの講堂を見ることもできました。2階からだと上部に付いた紋章飾りが良く見えて、とても綺麗でした。
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後ろの席に座って、ボランティアの方の説明を聞きながら、写真を撮っていました。私のコンパクトカメラは勿論フラッシュなしです。
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創建当時はエアコンなどの設備がありませんでしたので、改修工事で、2階席のした部分にぐるっとエアコンの設備が設置されています。そのため当初の内部の美観が損なわれているのも仕方ないことでしょうね。
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このグレーがかったオリーブグリーンの柱も良いですね。
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講堂の窓下にある腰掛け上部の大理石も当初のものだそうです。
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まず1階から。右手に見えるのが、昭和の改修工事で新しく造られたスタンドだそうです。このカウンターでちょっと飲み物を立って飲んだりしていたのでしょうか。
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廊下の部分も変形アーチです。
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廊下に仕切り扉がありますが、以前はこの先が渡り廊下になっていたためです。やはり上部の木枠の先端が少し尖っています。
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こちらの部屋の扉は幅が60cm位でとても細長いものになっています。1、2階と同じ寸法の扉仕様でした。
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ここが渡り廊下だったところで、屋外でした。改修後に屋内にしました。
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右手のエレベーターを新設する際に、当初の通路壁の切断面をそのまま展示しています。碇聯鉄構法というもので、煉瓦造建築の耐震工法の一つです。煉瓦壁の要所に水平方向に帯鉄を敷き連ねて、交差部では垂直方向の鉄棒によって帯鉄を定着させるという工法です。ここでは、1間間隔で直径約40mmの鉄棒を垂直に通し、各階毎に幅3寸、厚さ3分の帯鉄が連結されているという。この工法が使われているのは、旧横浜正金銀行、赤煉瓦倉庫などがあります。
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ここに展示してある壁は、建設当初の2階の通路壁です。黄色の丸印部分に見えるのが、帯鉄です。
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これが帯鉄です。持ってみましたが、鉄なのでかなり重いです。
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1階の廊下が創建当初、屋外だった時のタイル床面です。
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なので、廊下の部屋側の壁は、屋外だったため外壁仕上げです。
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中庭に面した建物は、煉瓦が高価だったため、白い仕上げになっていますが、それが良かったのか、白い壁に当たる太陽光が反射して、2階のステンドグラスが明るく照らされています。
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この中庭に面した壁面も、何気ないラインデザインが気品を感じさせます。
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現在使用されていない来賓用玄関
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八角形の天井
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床の六角形の細かいタイルは、やはり改修工事の際に取り替えたものです。階段が円弧になっているので、このタイルを敷き詰めるのには苦労したそうです。中央から敷き進めて行って、階段下の四角形のタイル手前で円弧に合わせて、タイルを切って敷いています。四角形のタイルも円弧に合わせて、目地で調節しながら敷き詰めてあります。
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1階の廊下
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ステンドグラスのある階段辺り
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階段のステップ部分も波模様か、千鳥のようになっています。
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階段の手摺りにも紋章が刻んであります。
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このステンドグラスは、宇野澤ステンド硝子工場が制作したものです。関東大震災で焼失しましたが、昭和2年(1927)に当初のものを復元したそうです。
黒船ポーハタン号来航を題材にしたものです。嘉永7年(1854)、ペリーがこの船を旗艦として来航し、横浜村に上陸して日米和親条約を締結します。その後、安政5年(1858)この船上で、米国代表・総領事タウンゼント・ハリスと日米修好通商条約が調印されました。万延元年(1860)、この条約を正式批准するため、日本使節団がこのポーハタン号に乗って、太平洋を横断し、アメリカへ向かいました。 -
2階のこのドア上部の紋章は、色が付けられていません。
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2階の特別室は、震災後に改修されましたが、天井は全て新しい様式で仕上げられています。
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入り口に展示したあった写真は、大正6年の貴賓室天井部分です。八角形の天井の中心に木象眼が施されていました。
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2階の階段ホール天井のアーチは震災後の耐震工事で造られたものです。
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昭和2年7月1日に開業した食堂
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大正期の食堂(現・2階6号室)
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同じく食堂
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昭和期会議室兼控え室(現・1階1号室)
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昭和期球技室(現・2階9号室)
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2階広間のステンドグラスは、開港当時の交通の様子を表しているそうです。左は「呉越同舟」右が「箱根越え」と呼ばれています。中央は「鳳凰」で、明治12年(1909)に横浜開港50周年に制定した横浜市の市章「ハマ菱」がデザインされています。これも関東大震災で焼失しましたが、左右のステンドグラスは、当初のものを忠実に宇野澤ステンド硝子工場によって復元されましたが、中央はデザインを変えて復旧したそうです。オリジナルの制作者は不明。
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この階段ホールのアーチも震災後の改修工事で耐震のために造られたものなので、当初は正面のステンドグラスの端が欠けずに見えたのですが、このアーチのために両端が少し欠けてしまいます。
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天井部分
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2階のドア上部の紋章は、生糸をイメージしたものらしい。
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蚕と生糸の紋章だと思われます。
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階段上部の改築工事後のアーチ部分
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階段上のバラ窓から港方向を見たところです。
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この窓の下部の植物の装飾も面白いです。道路側から見ると、同じものが施されていました。
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大正期の2階階段室の写真です。震災前なので、アーチの梁は見られません。
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広間にあるステンドグラスの扉を開けると、そちら側にもこのバラ窓があります。
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丸い部分の両脇に5箇所窓が外側に開けることが出来ます。
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このように、下が3枚、上が2枚開けられます。
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その天井部分
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米軍が接収していた時期、US ARMY と刻印のある電球は、現在の東芝が作っていたそうです。
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関東大震災後の当館の写真
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左が大正6年竣工時、中央は昭和2年再建後、右は平成元年ドーム復元後の当館の写真です。
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時計塔への階段室の天井
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時計塔への階段は117段あります。高さは約36m。
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螺旋階段が終わったところから屋根の様子が良く見えます。
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ブロンズ製頂部飾りは、バラ窓(円形窓)の頂部に取り付けてある銅製鋳物製飾りです。厚さ約6mmで、表面は人工緑青加工してあり、年月と共に天然緑青となっていくそうです。
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そこからはこのような梯子階段で上ります。手摺りが良いですね。
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四面に電波時計が設置されていて、今見えているのは、時計の裏です。12時と5時に時刻を知らせています。関東大震災でもこの電波時計は崩落しなかったそうです。
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この梯子で上に上っていくのですが、現在はここ迄です。鐘の写真が吊るしてありますが、震災で落ちてしまいました。
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開けてあるドアから風が入ってきますが、ドアの外には危険なので、出ることが出来ません。時計塔の縦の鉄骨を要所で固定する四角形の枠には、角を挟んで斜めに火打梁(日本の木造建築の工法)が施されています。
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体を少し乗り出すと、四隅にある石造装飾が見えます。落下防止のネットが掛けられています。
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安政6年(1895)に運上所脇に町会所が設置されました。翌年、岡倉天心の父、勘右衛門が支配人だった石川屋(生糸売込店)が開店しました。明治6年、石川屋が閉店し、その跡に石造2階建て、屋上に時計台のあるの新・町会所が竣工しました。明治13年、横浜商法会議所が町会所内に設立し、明治23年(1890)、横浜貿易商組合会館と改称。その5年後に、横浜会館になりましたが、明治39年(1906)に類焼しました。
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中庭へ下りて行きます。
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2階のステンドグラスを外から見たところです。もし、この中庭に面した外壁も煉瓦だったら、今のようにステンドグラスは明るくなかったようです。
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この屋根飾りは、昭和2年の竣工した改修工事で、パラペットに設置されたものだそうですが、平成元年のドーム復旧工事で不要となったので、南玄関上の屋根から取り外されたものです。
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創建当初は、半地下となっていて、採光の点からそういう建物が多く見られます。
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黒い丸印のところに色が濃いタイルは、改修工事で取り替えたものですが、被害があまりに少ないので驚きました。
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道路に面した煉瓦の壁も、改修工事の際に、黒い丸印のところに見える濃い煉瓦が取り替えた箇所だそうです。
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馬車道から直線の道路が通る計画だったそうですが、この建物があったため、道路を少しカーブさせて整備されたそうです。
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