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Romantische Strasseロマンチック街道、Schwaebische Alb Strasseシュヴェービッシュ・アルプ街道、Burgenstrasse古城街道の旅<br />期間:2012年05月15日(火)〜05月29日(火)15日間の旅・5月26日(土)<br /><br />ドイツ・バーデン・ヴュルテンベルク州、ネッカー川に沿って走る古城街道上にあるEberbachエーベルバッハの町は現在人口15千人、かつての帝国自由都市である。<br />ハイデルベルクから東33kmの距離にある。<br /><br />中世盛期にはすでにヴォルムス司教領のBurg Eberbachエーベルバッハ城が築かれていたと云う。今は木組みの家並みの美しい旧市街がある保養地として知られている。<br />町の紋章は珍しい図柄で、銀(白)地に青い波帯があり、その上を歩む黒いイノシシが特徴的で、Eberはイノシシ + Bach小川の名前に因んだものだ。<br />http://www.eberbach.de/<br /><br />写真は町の紋章

≪Eberbachエーベルバッハに残る英国ヴィクトリア女王のお話≫

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2012/05/15 - 2012/05/29

42位(同エリア110件中)

jijidaruma

jijidarumaさん

Romantische Strasseロマンチック街道、Schwaebische Alb Strasseシュヴェービッシュ・アルプ街道、Burgenstrasse古城街道の旅
期間:2012年05月15日(火)〜05月29日(火)15日間の旅・5月26日(土)

ドイツ・バーデン・ヴュルテンベルク州、ネッカー川に沿って走る古城街道上にあるEberbachエーベルバッハの町は現在人口15千人、かつての帝国自由都市である。
ハイデルベルクから東33kmの距離にある。

中世盛期にはすでにヴォルムス司教領のBurg Eberbachエーベルバッハ城が築かれていたと云う。今は木組みの家並みの美しい旧市街がある保養地として知られている。
町の紋章は珍しい図柄で、銀(白)地に青い波帯があり、その上を歩む黒いイノシシが特徴的で、Eberはイノシシ + Bach小川の名前に因んだものだ。
http://www.eberbach.de/

写真は町の紋章

旅行の満足度
4.5
同行者
カップル・夫婦(シニア)
一人あたり費用
30万円 - 50万円
交通手段
レンタカー
航空会社
ルフトハンザドイツ航空 ANA
旅行の手配内容
個別手配

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  • ≪Eberbachエーベルバッハに残る英国Koenigin Victoriaヴィクトリア女王のお話≫<br /><br />ヴィクトリア女王は繁栄を極めた大英帝国を象徴する女王として知られ、その治世はヴィクトリア朝と呼ばれた。その在位は63年7か月にも及んだ。<br /><br />エーベルバッハでは、英国のヴィクトリア王女(後のヴィクトリア女王)の誕生について、人々が特別な思いを持って語られている話がある。<br /><br />つまり、すんでのことにヴィクトリア王女が“生粋のエーベルバッハッ子”になったかもしれないと云う事なのだ。<br /><br />写真はエーベルバッハの町とネッカー川

    ≪Eberbachエーベルバッハに残る英国Koenigin Victoriaヴィクトリア女王のお話≫

    ヴィクトリア女王は繁栄を極めた大英帝国を象徴する女王として知られ、その治世はヴィクトリア朝と呼ばれた。その在位は63年7か月にも及んだ。

    エーベルバッハでは、英国のヴィクトリア王女(後のヴィクトリア女王)の誕生について、人々が特別な思いを持って語られている話がある。

    つまり、すんでのことにヴィクトリア王女が“生粋のエーベルバッハッ子”になったかもしれないと云う事なのだ。

    写真はエーベルバッハの町とネッカー川

  • 1819年のある日、ヴィクトリア王女の両親であったHerzog Eduard von Kent ケント公爵エドワード(ハノーヴァー朝第3代英国王ジョージ3世の四男)と公妃Gemahlin Victoria Luiseヴィクトリア・ルイーザ(Herzog Franz Friedrich Anton von Sachsen-Coburg-Saalfeザクセン・コーブルク・ザールフェルト公国のフランツ・フリードリヒ・アントン公の娘)はここエーベルバッハに滞在していた。その日、丁度、公妃の陣痛が始まっていたのだ。<br />しかし、将来において、英国の王位を継ぐかもしれないお腹の子が英国領土以外で生まれるわけにはいかないと、ケント公はヴィクトリア公妃を港に停泊していた英国船に大急ぎで移したのです。ヴィクトリア王女が生まれたと云う場所がその英国船でした。<br /><br />写真は町の名物イノシシの像

    1819年のある日、ヴィクトリア王女の両親であったHerzog Eduard von Kent ケント公爵エドワード(ハノーヴァー朝第3代英国王ジョージ3世の四男)と公妃Gemahlin Victoria Luiseヴィクトリア・ルイーザ(Herzog Franz Friedrich Anton von Sachsen-Coburg-Saalfeザクセン・コーブルク・ザールフェルト公国のフランツ・フリードリヒ・アントン公の娘)はここエーベルバッハに滞在していた。その日、丁度、公妃の陣痛が始まっていたのだ。
    しかし、将来において、英国の王位を継ぐかもしれないお腹の子が英国領土以外で生まれるわけにはいかないと、ケント公はヴィクトリア公妃を港に停泊していた英国船に大急ぎで移したのです。ヴィクトリア王女が生まれたと云う場所がその英国船でした。

    写真は町の名物イノシシの像

  • さて、この話は歴史的に実証されていませんが、いずれにせよ、エーベルバッハの地は英国ヴィクトリア女王の生誕地である名誉を得る事は無く、その事で世に知られる事はありませんでした。<br /><br />尚、ヴィクトリア王女の父・ケント公は王位継承権第4位で、王族の一員としては少々問題の方だったようです。<br />ケント公は当時、多額の借金をかかえて、物価の高いイギリスでは暮らしていけないと、ベルギーやドイツ国内を転々として暮らしていたとか、生活費の安いドイツで生活をせねばならなかったと云う話も、当時の独英の経済水準を語っているようで、興味深い。<br />また、公妃の出産が近くなると、生まれてくる子を「ロンドン出生」にする為、流産の危険を冒して一時帰国している。記録によると、ヴィクトリア王女は1819年5月24日午後4時15分頃にロンドンのケンジントン宮殿で生まれたとある。<br /><br />写真はヴィクトリア女王一家

    さて、この話は歴史的に実証されていませんが、いずれにせよ、エーベルバッハの地は英国ヴィクトリア女王の生誕地である名誉を得る事は無く、その事で世に知られる事はありませんでした。

    尚、ヴィクトリア王女の父・ケント公は王位継承権第4位で、王族の一員としては少々問題の方だったようです。
    ケント公は当時、多額の借金をかかえて、物価の高いイギリスでは暮らしていけないと、ベルギーやドイツ国内を転々として暮らしていたとか、生活費の安いドイツで生活をせねばならなかったと云う話も、当時の独英の経済水準を語っているようで、興味深い。
    また、公妃の出産が近くなると、生まれてくる子を「ロンドン出生」にする為、流産の危険を冒して一時帰国している。記録によると、ヴィクトリア王女は1819年5月24日午後4時15分頃にロンドンのケンジントン宮殿で生まれたとある。

    写真はヴィクトリア女王一家

  • 従って、ヴィクトリア女王が“生粋のエーベルバッハッ子”になる事は無かったようだ。<br />エーベルバッハに滞在したことは事実でしょうが、陣痛が始まって慌てて英国船にというのは、川か海かはともかくに、確かに話として面白く、町の人々の願望が現れています。<br /><br />因みにネッカー川の運河開発も1930年代に入ってからの事で、英国船が来るのもその後からでしょう。<br />王侯貴族の発想は違うのでしょう。王位継承権は馬鹿にならないもので、何度もその事でヨーロッパは戦争していますし、継承戦争と云われる争いは多い。<br />ヴィクトリア女王もその継承権資格順位は5番手で、高くはなかったようです。<br />イギリスでは、基本的にイギリス国王の領土内に生まれた者にイギリス国籍が認められていたそうです。従って、ドイツのエーベルバッハで生れればドイツ国籍になる!英国船も英国領土ですから、ケント公夫妻はそれに拘ったのでしょう。<br />(上述したようにケンジントン宮殿で生まれたとなっていますけど・・・)<br /><br />尚、マーガレット・サッチャー首相による1981年の国籍法改正で、父か母がイギリス国籍でなければイギリス国籍は認められないとなった。もし、この法が当時に出来ていれば、ケント公もあわてることもなかったでしょう。<br /><br />写真は若々しいヴィクトリア女王

    従って、ヴィクトリア女王が“生粋のエーベルバッハッ子”になる事は無かったようだ。
    エーベルバッハに滞在したことは事実でしょうが、陣痛が始まって慌てて英国船にというのは、川か海かはともかくに、確かに話として面白く、町の人々の願望が現れています。

    因みにネッカー川の運河開発も1930年代に入ってからの事で、英国船が来るのもその後からでしょう。
    王侯貴族の発想は違うのでしょう。王位継承権は馬鹿にならないもので、何度もその事でヨーロッパは戦争していますし、継承戦争と云われる争いは多い。
    ヴィクトリア女王もその継承権資格順位は5番手で、高くはなかったようです。
    イギリスでは、基本的にイギリス国王の領土内に生まれた者にイギリス国籍が認められていたそうです。従って、ドイツのエーベルバッハで生れればドイツ国籍になる!英国船も英国領土ですから、ケント公夫妻はそれに拘ったのでしょう。
    (上述したようにケンジントン宮殿で生まれたとなっていますけど・・・)

    尚、マーガレット・サッチャー首相による1981年の国籍法改正で、父か母がイギリス国籍でなければイギリス国籍は認められないとなった。もし、この法が当時に出来ていれば、ケント公もあわてることもなかったでしょう。

    写真は若々しいヴィクトリア女王

  • 【英国ヴィクトリア女王の父母とエーベルバッハの歴史】<br /><br />Herzog von Sachsen Coburg Saalfeldザクセン・コーブルク・ザールフェルト公爵の娘Victoria Marie Luiseヴィクトリア・マリー・ルイーゼはThe Prince Edward Augustus英国ケント公エドワード・オーガスタスの妻であり、英国女王ヴィクトリアの母である。<br /><br />彼女は若々しい17歳の1803年に、23歳上のEmich Carl Fuersten von Leiningenエミッヒ・カール・ライニンゲン侯爵(第二代;1763〜1814年)の後添え(先妻はヴィクトリアの叔母)として結婚した。<br />二人はエーベルバッハからもそう遠くないAmorbachアモールバッハ(*B469・B47が交差する町)に住み、狩猟シーズンになるとしばしばエーベルバッハに滞在したと云う。<br />1814年に10年余り連れ添った、年上のカール侯爵に先立たれた後、ヴィクトリア侯爵夫人はいまだ若く、魅力的であった。<br />そしてその事が彼女の運命を変えた。ちょうど、結婚相手を探していた英国国王ジョージ3世の四男ケント公に求婚され、2人の子共を婚家に残し、1818年5月にヴィクトリアとケント公はドイツのコーブルクの町で結婚式を挙げた。<br /><br />この結婚の背景には英国国王の王位継承をめぐる思惑があったようだ。<br />1817年に摂政王太子ジョージの一人娘シャーロット・オーガスタが若くして死去すると、ジョージの弟たちは王位継承者たるべき嫡出の子をもうけるため相次いで妻を迎えることになった。<br />その一人であったエドワードも、それまで何人もの愛人を持ちながらも結婚をしないまま過ごしてきたが、1818年に50歳となったエドワードは32歳のヴィクトリアと結婚した。<br /><br /><br /><br />写真は大変魅力的な女王の母ヴィクトリア・マリー・ルイーゼ侯爵夫人

    【英国ヴィクトリア女王の父母とエーベルバッハの歴史】

    Herzog von Sachsen Coburg Saalfeldザクセン・コーブルク・ザールフェルト公爵の娘Victoria Marie Luiseヴィクトリア・マリー・ルイーゼはThe Prince Edward Augustus英国ケント公エドワード・オーガスタスの妻であり、英国女王ヴィクトリアの母である。

    彼女は若々しい17歳の1803年に、23歳上のEmich Carl Fuersten von Leiningenエミッヒ・カール・ライニンゲン侯爵(第二代;1763〜1814年)の後添え(先妻はヴィクトリアの叔母)として結婚した。
    二人はエーベルバッハからもそう遠くないAmorbachアモールバッハ(*B469・B47が交差する町)に住み、狩猟シーズンになるとしばしばエーベルバッハに滞在したと云う。
    1814年に10年余り連れ添った、年上のカール侯爵に先立たれた後、ヴィクトリア侯爵夫人はいまだ若く、魅力的であった。
    そしてその事が彼女の運命を変えた。ちょうど、結婚相手を探していた英国国王ジョージ3世の四男ケント公に求婚され、2人の子共を婚家に残し、1818年5月にヴィクトリアとケント公はドイツのコーブルクの町で結婚式を挙げた。

    この結婚の背景には英国国王の王位継承をめぐる思惑があったようだ。
    1817年に摂政王太子ジョージの一人娘シャーロット・オーガスタが若くして死去すると、ジョージの弟たちは王位継承者たるべき嫡出の子をもうけるため相次いで妻を迎えることになった。
    その一人であったエドワードも、それまで何人もの愛人を持ちながらも結婚をしないまま過ごしてきたが、1818年に50歳となったエドワードは32歳のヴィクトリアと結婚した。



    写真は大変魅力的な女王の母ヴィクトリア・マリー・ルイーゼ侯爵夫人

  • 結婚後、ヴィクトリアとケント公は初め英国に渡りましたが、経済的に生活のしにくいロンドンでの生活は短い期間だけで、物価の安いドイツに戻り、アモールバッハに住んだ。この事はライニンゲン侯爵家に残した二人の子も気になっていたのだろう。<br />また、エーベルバッハのThalheimschen Hausタルハイムシェン・ハウスでも暮らした。<br />唯、子供を生むのはイギリスでと決め、妊娠中の身でありながらイギリスへ渡る。1819年5月にAlexandrina Victoriaアレクサンドリナ・ヴィクトリア(後の英国女王)を得たが、1820年にケント公は生後8ヶ月の一人娘ヴィクトリアを残して死去した。<br /><br />尚、シャーロット・オーガスタの夫レオポルド公子はケント公妃ヴィクトリアの弟であり、後に初代ベルギー国王レオポルド1世となる。<br />また、娘(英国女王)ヴィクトリアの婿となるアルバート公は甥(兄エルンスト1世の子)である。<br /><br />写真は女王の父ケント公エドワード・オーガスタス

    結婚後、ヴィクトリアとケント公は初め英国に渡りましたが、経済的に生活のしにくいロンドンでの生活は短い期間だけで、物価の安いドイツに戻り、アモールバッハに住んだ。この事はライニンゲン侯爵家に残した二人の子も気になっていたのだろう。
    また、エーベルバッハのThalheimschen Hausタルハイムシェン・ハウスでも暮らした。
    唯、子供を生むのはイギリスでと決め、妊娠中の身でありながらイギリスへ渡る。1819年5月にAlexandrina Victoriaアレクサンドリナ・ヴィクトリア(後の英国女王)を得たが、1820年にケント公は生後8ヶ月の一人娘ヴィクトリアを残して死去した。

    尚、シャーロット・オーガスタの夫レオポルド公子はケント公妃ヴィクトリアの弟であり、後に初代ベルギー国王レオポルド1世となる。
    また、娘(英国女王)ヴィクトリアの婿となるアルバート公は甥(兄エルンスト1世の子)である。

    写真は女王の父ケント公エドワード・オーガスタス

  • <br /><br />写真はヴィクトリア王女時代



    写真はヴィクトリア王女時代

  • <Burgruine Eberbachエーベルバッハ城址><br /><br />Itterイッテル川(全長28km)がネッカー川に注ぐ河口に面し、川から160mの高台に築城されたエーベルバッハ城址がある。オーデンの森に連なる丘の上に残った城址は中世以来のもので、山頂から南にかけて築かれた3つの城(Vorderburgフォルダーブルク、Mittelburgミッテルブルク、Hinterburgヒンターブルク)からなる大きな城塞であった。1196年にGraf Konrad von Eberbach エーベルバッハのコンラッド伯(多分、Graf Konrad von Lauffenラウフェン伯と同一人物)により築城されたのが始まりと云う。<br />この城郭は1403年にはすでに破壊されてしまい、20世紀になって漸く発掘されたものだ。<br /><br /><br />写真はエーベルバッハ・Mittelburgミッテルブルクの城址

    <Burgruine Eberbachエーベルバッハ城址>

    Itterイッテル川(全長28km)がネッカー川に注ぐ河口に面し、川から160mの高台に築城されたエーベルバッハ城址がある。オーデンの森に連なる丘の上に残った城址は中世以来のもので、山頂から南にかけて築かれた3つの城(Vorderburgフォルダーブルク、Mittelburgミッテルブルク、Hinterburgヒンターブルク)からなる大きな城塞であった。1196年にGraf Konrad von Eberbach エーベルバッハのコンラッド伯(多分、Graf Konrad von Lauffenラウフェン伯と同一人物)により築城されたのが始まりと云う。
    この城郭は1403年にはすでに破壊されてしまい、20世紀になって漸く発掘されたものだ。


    写真はエーベルバッハ・Mittelburgミッテルブルクの城址

  • 写真はエーベルバッハ旧市庁舎

    写真はエーベルバッハ旧市庁舎

  • ヴィクトリア女王の名はケーキの名にも残っている。<br />Viktoria Torteヴィクトリア・トルテと称するもので、世界で一番美しく、優雅なお菓子と言われている。<br />19世紀のイギリスのヴィクトリア女王の時代からの華麗な雰囲気があって、今も盛んに作られ、親しまれている。<br />(尚、*GATEAU VICTORIA ガトー・ヴィクトリアは仏語だが、同じケーキである。)<br /><br />写真はエーベルバッハ名物ヴィクトリア・トルテ(ガトー・ヴィクトリア)

    ヴィクトリア女王の名はケーキの名にも残っている。
    Viktoria Torteヴィクトリア・トルテと称するもので、世界で一番美しく、優雅なお菓子と言われている。
    19世紀のイギリスのヴィクトリア女王の時代からの華麗な雰囲気があって、今も盛んに作られ、親しまれている。
    (尚、*GATEAU VICTORIA ガトー・ヴィクトリアは仏語だが、同じケーキである。)

    写真はエーベルバッハ名物ヴィクトリア・トルテ(ガトー・ヴィクトリア)

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この旅行記へのコメント (3)

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  • とんちゃん健康一番さん 2014/04/14 09:49:25
    お邪魔しますぅ☆
    jijidarumaさんへ

    Eberbach エーベルバッハの旅行記にお邪魔させて頂きます。
    私はぶぅ〜ちゃんが好きで、Eberbach エーベルバッハの街に
    2度ほど足を運んでいます。
    jijidarumaさんが記載して下さっている歴史を読ませて頂き、また足を運びたくなりました。
    また、ゆっくりお邪魔させて頂きます♪♪♪
    今日も一日楽しく過ごせますように☆

    jijidaruma

    jijidarumaさん からの返信 2014/04/14 19:40:11
    RE: お邪魔しますぅ☆
    とんちゃん健康一番さん

    コメントありがとうございます。

    エーベルバッハは古城街道沿いですが、近くのMosbachモスバッハの方が木組みの町として好まれる所為か、どうしてもこの町は通過してしまうので、じっくりと見る事が少ないですね。
    それがフランクフルトの近郊にある古城ホテル クロンベルク城で余生を送っていたヴィクトリア皇妃が英国ヴィクトリア女王の長女であった事を知ったのがきっかけになりました。
    一つがきっかけに色々と波及して、勉強になりました。

    今度行かれたら、是非エーベルバッハ生まれのヴィクトリア・トルテをご賞味下さい。私もまだ味わっていないのです(苦笑)。

    jijidaruma

    とんちゃん健康一番

    とんちゃん健康一番さん からの返信 2014/04/15 09:40:14
    RE: RE: お邪魔しますぅ☆
    おはようございます。

    Mosbach モスバッハ!!
    素敵な街ですよねぇ☆
    昨年、足を運んだのですが、イベントがあり通常のマルクト広場の雰囲気がわからなかったので、今回、再訪しようと思っております。
    時間があれば、エーバルバッハも行きたいところなのですが・・・

    >今度行かれたら、是非エーベルバッハ生まれのヴィクトリア・トルテをご賞>味下さい。私もまだ味わっていないのです(苦笑)。
    ちょっと、頑張ってスケジューリングしてみようかと思います☆

    今日も一日楽しく過ごせますように♪♪♪

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