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JR山手線品川駅から徒歩で約7分、仏日山・東禅寺(とうぜんじ、東京都港区高輪)は高輪の閑静な住宅地に囲まれた谷地にあります。<br /><br />慶長15年(1610)日向国飫肥藩第二代藩主伊東祐慶(いとう・すけのり、1589~1636)を開基として赤坂にて創建、寛永13年(1636)に現在の高輪に移転、当時は江戸湾を一望できることから海上禅林とも呼ばれ山門にその文言が扁額に刻されています。<br /><br />開基の伊東祐慶は飫肥藩主二代ですが元亀3年(1572)年日向国西部の木崎原(きざきばる)合戦で伊東軍は島津義弘率いる島津軍に大敗、本拠都於郡(とのこおり)を一族撤退するまでは日向国大半を治める覇者として歴代二十二代を数えるまでとなっています。<br /><br />遠祖は伊豆田方郡伊東に居を構えた豪族で当然ながら鎌倉幕府御家人として活躍、建久元年(1190)惣領の祐経(すけつね、生年不詳~1193)は日向に地頭職を与えられ自らは鎌倉にて幕府に出仕、所領には庶子を代官として現地支配を委ねます。<br /><br />南北朝時代では一時九州に敗走した足利尊氏(あしかが・たかうじ、1305~1358)が筑前に勢力有する小弐氏らの支持を得て京都をめざし、この時当主祐持(すけもち)は尊氏に属し湊川の戦いで功あったとして日向国児湯郡内都於郡(とのこおり)に所領を与えられ合わせて南朝方優勢の日向に下向することになります。<br /><br />惣領が自ら日向に下向、先発で下向して土着化している伊東氏庶流である木脇伊東氏・田嶋伊東氏・門川伊東氏をそれぞれ吸収、更にその他豪族と養子縁組等により親戚衆として自勢力に組み入れなどして日向中南部以北を支配するに至ります。<br /><br />前後しますが鎌倉創設後も旧平氏勢力強く残っている九州南部対策として幕府は御家人島津氏を守護職として薩摩に下向させ、薩摩・大隅に島津の支配力が浸透する中、日向西部の覇権を求める伊東氏は島津氏と木崎原で衝突、結果島津義弘(しまづ・よしひろ、1535~1916)の小勢ながら巧みな作戦と用兵で不意を討たれ大敗を喫し伊東義祐(いとう・よしすけ、1512~1585)は一族ともども豊後大友氏に頼る事になります。<br /><br />豊後太守大友宗麟(おおとも・そうりん、1530~1587)は義祐を庇護し伊東氏本領の回復に合わせ自らが信奉するキリスト教布教のため日向に向けて出陣、耳川の戦いで島津軍により大打撃を被り豊後に敗走します。<br /><br />島津軍の九州全土に向けた戦いに脅威を受け大友宗麟は畿内を統一した豊臣秀吉に島津征伐を懇願、天正14年(1586)秀吉軍は島津氏討伐を行い、その際秀吉軍に随陣した祐兵(すけたか,1559~1600)は戦功により飫肥城に復帰して2万八8千石の知行を得ます。<br /><br />慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは当主祐兵は徳川方として働き、日向国における島津佐土原城を攻めたて合戦後の結果として飫肥を中心とする本領安堵、祐兵の死去を受け祐慶が家督を継いで5万7千石の拝領となります。<br /><br /><br /><br /><br />2022年10月18日追記<br /><br />境内に建てられた説明板には次のように記されています。<br /><br />『 国指定史跡<br />     東 禅 寺<br /><br />          所在地 港区高輪三丁目<br />          指 定 平成22年2月22日<br /><br />東禅寺は、幕末の安政6年(1859)、最初の英国公使館が置かれた場所です。東禅寺は、臨済宗妙心寺派に属し、開基の飫肥藩主伊東家の他、仙台藩主伊達家、岡山藩主池田家等の菩提寺となり、また、臨済宗妙心寺派の江戸蝕頭でもありました。<br /><br />幕末の開国に伴い、安政6年6月、初代英国公使(着任時は総領事)ラザフォード・オールコックが着任すると、東禅寺はその宿所として提供され、慶応元年(1865)6月まで7年間英国公使館として使用されました。その間、文久元年(1861)5月には尊皇攘夷派の水戸藩浪士に、翌2年5月には松本藩士により東禅寺襲撃事件が発生し、オールコックが著した「大君の都」には東禅寺の様子や、東禅寺襲撃事件が詳述されています。<br /><br />現在の東禅寺の寺域は王子に比べ縮小し、建物の多くも失われていますが、公使館院の宿所となっていた「せん源亭」やその前の庭園などは良好に残っています。庭園とせん源亭を含めた景観は、公使館時代にベアトが撮影した古写真の風景を今に伝えています。<br /><br />幕末期の米・仏・蘭などの各国公使館に当てられた寺院は大きく改変され、東禅寺が公使館の姿を伝えるほぼ唯一の寺院であることから国史跡に指定されました。<br /><br />  平成24年3月<br />            東京都教育委員会 』

武蔵高輪 鎌倉御家人で島津氏との覇権争いで惨敗秀吉に島津討伐懇願成就でようやく一部の失地回復を果たした日向国飫肥藩主伊東氏開基『東禅寺』散歩

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2014/02/28 - 2014/02/28

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滝山氏照

滝山氏照さん

JR山手線品川駅から徒歩で約7分、仏日山・東禅寺(とうぜんじ、東京都港区高輪)は高輪の閑静な住宅地に囲まれた谷地にあります。

慶長15年(1610)日向国飫肥藩第二代藩主伊東祐慶(いとう・すけのり、1589~1636)を開基として赤坂にて創建、寛永13年(1636)に現在の高輪に移転、当時は江戸湾を一望できることから海上禅林とも呼ばれ山門にその文言が扁額に刻されています。

開基の伊東祐慶は飫肥藩主二代ですが元亀3年(1572)年日向国西部の木崎原(きざきばる)合戦で伊東軍は島津義弘率いる島津軍に大敗、本拠都於郡(とのこおり)を一族撤退するまでは日向国大半を治める覇者として歴代二十二代を数えるまでとなっています。

遠祖は伊豆田方郡伊東に居を構えた豪族で当然ながら鎌倉幕府御家人として活躍、建久元年(1190)惣領の祐経(すけつね、生年不詳~1193)は日向に地頭職を与えられ自らは鎌倉にて幕府に出仕、所領には庶子を代官として現地支配を委ねます。

南北朝時代では一時九州に敗走した足利尊氏(あしかが・たかうじ、1305~1358)が筑前に勢力有する小弐氏らの支持を得て京都をめざし、この時当主祐持(すけもち)は尊氏に属し湊川の戦いで功あったとして日向国児湯郡内都於郡(とのこおり)に所領を与えられ合わせて南朝方優勢の日向に下向することになります。

惣領が自ら日向に下向、先発で下向して土着化している伊東氏庶流である木脇伊東氏・田嶋伊東氏・門川伊東氏をそれぞれ吸収、更にその他豪族と養子縁組等により親戚衆として自勢力に組み入れなどして日向中南部以北を支配するに至ります。

前後しますが鎌倉創設後も旧平氏勢力強く残っている九州南部対策として幕府は御家人島津氏を守護職として薩摩に下向させ、薩摩・大隅に島津の支配力が浸透する中、日向西部の覇権を求める伊東氏は島津氏と木崎原で衝突、結果島津義弘(しまづ・よしひろ、1535~1916)の小勢ながら巧みな作戦と用兵で不意を討たれ大敗を喫し伊東義祐(いとう・よしすけ、1512~1585)は一族ともども豊後大友氏に頼る事になります。

豊後太守大友宗麟(おおとも・そうりん、1530~1587)は義祐を庇護し伊東氏本領の回復に合わせ自らが信奉するキリスト教布教のため日向に向けて出陣、耳川の戦いで島津軍により大打撃を被り豊後に敗走します。

島津軍の九州全土に向けた戦いに脅威を受け大友宗麟は畿内を統一した豊臣秀吉に島津征伐を懇願、天正14年(1586)秀吉軍は島津氏討伐を行い、その際秀吉軍に随陣した祐兵(すけたか,1559~1600)は戦功により飫肥城に復帰して2万八8千石の知行を得ます。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは当主祐兵は徳川方として働き、日向国における島津佐土原城を攻めたて合戦後の結果として飫肥を中心とする本領安堵、祐兵の死去を受け祐慶が家督を継いで5万7千石の拝領となります。




2022年10月18日追記

境内に建てられた説明板には次のように記されています。

『 国指定史跡
     東 禅 寺

          所在地 港区高輪三丁目
          指 定 平成22年2月22日

東禅寺は、幕末の安政6年(1859)、最初の英国公使館が置かれた場所です。東禅寺は、臨済宗妙心寺派に属し、開基の飫肥藩主伊東家の他、仙台藩主伊達家、岡山藩主池田家等の菩提寺となり、また、臨済宗妙心寺派の江戸蝕頭でもありました。

幕末の開国に伴い、安政6年6月、初代英国公使(着任時は総領事)ラザフォード・オールコックが着任すると、東禅寺はその宿所として提供され、慶応元年(1865)6月まで7年間英国公使館として使用されました。その間、文久元年(1861)5月には尊皇攘夷派の水戸藩浪士に、翌2年5月には松本藩士により東禅寺襲撃事件が発生し、オールコックが著した「大君の都」には東禅寺の様子や、東禅寺襲撃事件が詳述されています。

現在の東禅寺の寺域は王子に比べ縮小し、建物の多くも失われていますが、公使館院の宿所となっていた「せん源亭」やその前の庭園などは良好に残っています。庭園とせん源亭を含めた景観は、公使館時代にベアトが撮影した古写真の風景を今に伝えています。

幕末期の米・仏・蘭などの各国公使館に当てられた寺院は大きく改変され、東禅寺が公使館の姿を伝えるほぼ唯一の寺院であることから国史跡に指定されました。

  平成24年3月
            東京都教育委員会 』

交通手段
JRローカル 徒歩

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  • 東禅寺山門<br /><br />品川駅から第一京浜を北上、途中で左折し直進しますと正面に東禅寺山門が現れます。都会のど真ん中にある静寂な古刹です。

    東禅寺山門

    品川駅から第一京浜を北上、途中で左折し直進しますと正面に東禅寺山門が現れます。都会のど真ん中にある静寂な古刹です。

  • 「最初のイギリス公使宿館跡」石碑<br /><br />山門の右側にはイギリス公使館が置かれました。現在では当寺が公使館の姿を伝える唯一の寺院である事で国史跡に指定されています。<br /><br />

    「最初のイギリス公使宿館跡」石碑

    山門の右側にはイギリス公使館が置かれました。現在では当寺が公使館の姿を伝える唯一の寺院である事で国史跡に指定されています。

  • 東禅寺・説明板

    東禅寺・説明板

  • 東禅寺・山門<br /><br />上部の扁額は「東禅寺」と寺号が描かれています。

    東禅寺・山門

    上部の扁額は「東禅寺」と寺号が描かれています。

  • 東禅寺山門・仁王像

    東禅寺山門・仁王像

  • 東禅寺山門・仁王像

    東禅寺山門・仁王像

  • 東禅寺・境内

    東禅寺・境内

  • 東禅寺・三重塔

    イチオシ

    東禅寺・三重塔

  • 東禅寺・本堂<br /><br />「海上禅林」の扁額が掲示されています。正式には「海上禅林沸日山東禅興聖禅寺」という臨済宗妙心寺派別格本山となっています。

    東禅寺・本堂

    「海上禅林」の扁額が掲示されています。正式には「海上禅林沸日山東禅興聖禅寺」という臨済宗妙心寺派別格本山となっています。

  • 東禅寺・書院

    東禅寺・書院

  • 東禅寺・宝物殿

    東禅寺・宝物殿

  • 東禅寺・境内<br /><br />本堂から山門方向を捉えます。都心部にこれほど静寂な場所があるとは思えません。

    東禅寺・境内

    本堂から山門方向を捉えます。都心部にこれほど静寂な場所があるとは思えません。

  • 東禅寺・鐘楼堂

    東禅寺・鐘楼堂

  • 東禅寺・参道<br /><br />三重塔辺りから山門を捉えます。左右に樹木を従えた直線参道がすっきりしています。

    東禅寺・参道

    三重塔辺りから山門を捉えます。左右に樹木を従えた直線参道がすっきりしています。

  • 伊東氏菩提寺<br /><br />東禅寺開基の日向飫肥藩主伊東氏廟所を捉えます。(東禅寺墓は境内から分離された位置にあり、門扉は固く閉ざされ入場不能です。後刻社務所で参拝希望を伝えると檀家のみ可能とのことで参拝不可でした)

    イチオシ

    伊東氏菩提寺

    東禅寺開基の日向飫肥藩主伊東氏廟所を捉えます。(東禅寺墓は境内から分離された位置にあり、門扉は固く閉ざされ入場不能です。後刻社務所で参拝希望を伝えると檀家のみ可能とのことで参拝不可でした)

  • 伊達家諸霊之墓<br /><br />門扉の近くだったので墓の一部が撮れました。

    伊達家諸霊之墓

    門扉の近くだったので墓の一部が撮れました。

  • 東禅寺・墓地

    東禅寺・墓地

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