2014/02/28 - 2014/02/28
808位(同エリア897件中)
滝山氏照さん
麻布十番にある興国山・賢崇寺(けんそうじ、東京都港区元麻布)は肥前佐賀初代藩主鍋島勝茂(なべしま・かつしげ、1580~1657)が「ほうそう」で亡くなった三男の忠直(ただなお、1613~1635)の冥福を祈って建立した曹洞宗の寺院です。
鍋島氏は元々は九州・肥前に勢力を有していた龍造寺氏の重臣で、特に鍋島清房(なべしま・きよふさ、1513~死没不明)の頃主君の娘を娶り血縁関係を結びこれによって主従の関係が強固となります。
清房の二男直茂(なおしげ、1538~1618)の代になると、主君竜造寺隆信(りゅうぞうじ・たかのぶ、1529~1584)の陣代として幾多の戦いで活躍し遂に九州を島津・大友とで覇権を争う九州三強の一角の勢力に登り詰めます。
しかしながら隆信が沖田畷の戦いで島津軍に討ち取られ後継は孫にあたる龍造寺高房(りゅうぞうじ・たかふさ、1586~1607)でわずか5歳の幼少で家督を相続するも藩をまとめる力量不足につき、家老であった直茂が豊臣秀吉認可の下龍造寺氏支配を代行する立場となり事実上実権を有することになります。
関ヶ原合戦では当初佐賀藩は西軍に属しますが、途中で西軍の立花宗茂の柳川城や早川秀包の久留米城を攻撃して戦功をあげ東軍側の立場を鮮明にしたため戦後徳川家康から所領の安堵を得ることになります。
慶長12年(1607)龍造寺高房が急死し、後継については家康によって鍋島直茂を佐賀藩主と正式に認定され、ここに35万石の大名が誕生することになり、以降勝茂を初めとする鍋島氏歴代に家督が明治維新まで引き継がれていきます。
境内にある鍋島家墓所の脇に建てられた説明板には下記の通り紹介されています。
『 東京都港区指定文化財
史跡 肥前佐賀藩主鍋島家墓所
賢崇寺は、肥前佐賀藩主鍋島勝茂が、寛永12年(1635)「ほうそう」で死んだ嗣子忠直の菩提を弔うために忠直を開基として創建したお寺で、忠直の戒名「興国院殿敬英賢崇大居士」より、興国山賢崇寺と名づけられ、江戸における鍋島家の菩提寺となった。
鍋島家墓所は、約千百m2の範囲に整然とした墓域を形成しており、開基忠直、初代勝茂、九大斉直、初代小城藩主元茂(忠直兄)とその夫人達など一族の五輪塔の墓が並んでいる。各墓へは、参拝用の門をもつ石造りの格子状の垣を巡らして聖域を形作り、各門の前両側には石灯篭が配されている。門の扉は既に失われているが、江戸時代の有力な大名家の墓の形態をよく遺している。とくに、墓石のすべてが五輪塔に統一されていることは興味深い。
勝茂の墓の裏には、勝茂の死に際して殉死した重臣たちの板石状の墓三十基が整然と並んでいる。これは、殉死という江戸初期の武士の遺風を知るうえで貴重である。
昭和62年10月28日
東京都港区教育委員会 』
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
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