上野・御徒町旅行記(ブログ) 一覧に戻る
 上野東照宮を参拝する途中に清水観音堂(http://4travel.jp/travelogue/10661477)に寄った。「清水堂」と刺繍された紺の作務衣(さむえ)を着ていたお坊さんに話を伺った。この清水観音堂はここ上野の寛永寺の開山・天海大僧正(天文5年(1536年)〜寛永20年(1643年))が私財を投じて建立したものであるという。そのために、柱も太くはないという。清水寺の脇持であった観音坐像を祀っているという。また、天海大僧正が桜を植え、花見の時期に上野の山を江戸町民に開放したのが上野の花見の起源であるという。江戸町民を思っていた天海大僧正のお心を継いで、花見の時期には都の夜桜照明が消灯する午後8時以降も午後11時まで清水観音堂をライトアップしているのだという。取り分けて桜好きの私でさえも、江戸の桜見の始まりは8代将軍徳川吉宗公(在位:享保元年(1716年)〜延享2年(1745年))が飛鳥山に桜を植え、江戸町民が桜見をして日頃の倹約令での憂さを晴らすことができるようにしたのだと思っていた。天海大僧正は上野の山に立派な大伽藍を建立し、桜見の時期に江戸町民に開放して徳川家の御世になって世の中が安寧になったことを知らしめたのであろう。<br /> 桜は吉野山から移植したと言われている。こうした上野の花見などは以降の江戸町民文化や気質を形創る起源となったのではあるまいか?平和な江戸時代になると江戸町民の大山詣でやお伊勢さん参りが盛んになるのも、こうした上野の山への物見遊山がその起こりであるようにも思われる。徳川3代(家康・秀忠・家光)に使えた天海大僧正の一面、幕政意外の、いわば風俗に関する寄与の一面を垣間見た気がする。<br /> 上野が花の名所となったのは寛永年間(1624年〜1644年)からで、江戸町民が物見遊山(行楽)で花見に出かけるようになったのは寛文(1661年〜1673年)の頃からといわれる。そして、元禄期(1688年〜1704年)になると「花の雲、鐘は上野か浅草か」と芭蕉の句に詠まれたように上野は桜の名所となっている。その後、明治維新での上野戦争があり、太平洋末期の大空襲もあったが、今でも桜見といえば上野として定着している。それは江戸の花見の発祥地としての歴史の古さも影響していようか?<br /> なお、清水観音堂は上野の山では枝垂れ桜の名所でもある。女流俳人・菊后亭秋色(きくごてい しゅうしき)(寛文9年(1669年)〜 -享保10年(1725年))が呼んだ俳句「井戸端の 桜あぶなし 酒の酔」を清水堂の脇にある桜の木に結わえておいたところ、将軍の目にとまり、江戸城に呼ばれたという。それに因んだ「秋色桜」の枝垂れ桜(3代目とも)もある。<br />(表紙写真は寛永寺清水堂)

天海大僧正と上野の花見

3いいね!

2014/01/29 - 2014/01/29

3284位(同エリア4236件中)

0

2

ドクターキムル

ドクターキムルさん

 上野東照宮を参拝する途中に清水観音堂(http://4travel.jp/travelogue/10661477)に寄った。「清水堂」と刺繍された紺の作務衣(さむえ)を着ていたお坊さんに話を伺った。この清水観音堂はここ上野の寛永寺の開山・天海大僧正(天文5年(1536年)〜寛永20年(1643年))が私財を投じて建立したものであるという。そのために、柱も太くはないという。清水寺の脇持であった観音坐像を祀っているという。また、天海大僧正が桜を植え、花見の時期に上野の山を江戸町民に開放したのが上野の花見の起源であるという。江戸町民を思っていた天海大僧正のお心を継いで、花見の時期には都の夜桜照明が消灯する午後8時以降も午後11時まで清水観音堂をライトアップしているのだという。取り分けて桜好きの私でさえも、江戸の桜見の始まりは8代将軍徳川吉宗公(在位:享保元年(1716年)〜延享2年(1745年))が飛鳥山に桜を植え、江戸町民が桜見をして日頃の倹約令での憂さを晴らすことができるようにしたのだと思っていた。天海大僧正は上野の山に立派な大伽藍を建立し、桜見の時期に江戸町民に開放して徳川家の御世になって世の中が安寧になったことを知らしめたのであろう。
 桜は吉野山から移植したと言われている。こうした上野の花見などは以降の江戸町民文化や気質を形創る起源となったのではあるまいか?平和な江戸時代になると江戸町民の大山詣でやお伊勢さん参りが盛んになるのも、こうした上野の山への物見遊山がその起こりであるようにも思われる。徳川3代(家康・秀忠・家光)に使えた天海大僧正の一面、幕政意外の、いわば風俗に関する寄与の一面を垣間見た気がする。
 上野が花の名所となったのは寛永年間(1624年〜1644年)からで、江戸町民が物見遊山(行楽)で花見に出かけるようになったのは寛文(1661年〜1673年)の頃からといわれる。そして、元禄期(1688年〜1704年)になると「花の雲、鐘は上野か浅草か」と芭蕉の句に詠まれたように上野は桜の名所となっている。その後、明治維新での上野戦争があり、太平洋末期の大空襲もあったが、今でも桜見といえば上野として定着している。それは江戸の花見の発祥地としての歴史の古さも影響していようか?
 なお、清水観音堂は上野の山では枝垂れ桜の名所でもある。女流俳人・菊后亭秋色(きくごてい しゅうしき)(寛文9年(1669年)〜 -享保10年(1725年))が呼んだ俳句「井戸端の 桜あぶなし 酒の酔」を清水堂の脇にある桜の木に結わえておいたところ、将軍の目にとまり、江戸城に呼ばれたという。それに因んだ「秋色桜」の枝垂れ桜(3代目とも)もある。
(表紙写真は寛永寺清水堂)

PR

  • 寛永寺清水堂。

    寛永寺清水堂。

  • 上野公園の桜並木。

    上野公園の桜並木。

この旅行記のタグ

関連タグ

3いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

タグから国内旅行記(ブログ)を探す

PAGE TOP