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 11月11日午後に、JR羽越本線村上駅の3番ホームの改札横に水槽の中に2匹の鮭が飼われて生体展示されていた。目を遣ると精悍な姿で悠然としており、迫力があった。写真を撮ろうと思ったが、急いでいたので帰りにしようとそのまま改札を出た。<br /> 11月14日の夕方に3番ホームに入るともうあの水槽は撤去されていた。自由席に乗車予定のおばさんが駅員に鮭の水槽はどうなったのか尋ねている。甥に聞くと昨日(11月13日)の夕方にはあったという。結局、来たときに1、2分をケチったためにあの鮭の雄姿を写真に撮り損ねてしまった。<br /> 村上地方では鮭を「いよぼや」という。「いよ」も「ぼや」も魚という意味で、「魚の中の魚」という意味であり、英語にある’King of king’のような使い方だ。<br /> 村上藩では鮭が孵化し易いようにと種川を設け、孵化した鮭の稚魚を多く川(海)に戻していた。村上藩士・青砥武平治(正徳3年(1713年)〜天明8年(1788年))は鮭の回帰性に気付き、それを利用し、「種川の制」を創設して鮭の増殖方法を確立したことで知られる。村上藩は「種川の制」の成功で財政が潤った。市内三面川傍にある「イヨボヤ会館」の裏の鮭公園には「青砥武平治」の銅像が建てられている。今年が武平治の生誕300年に当たる。<br /> こうした歴史的背景から、種川の鮭の漁業権は、明治7年(1874年)から旧藩士に5年間という条件付きで独占が認められ、その後は永年漁業権が認められて、昭和23年(1948年)まで続いた。旧士族に漁業権などとは聞かない話だが、この入札料は旧士族の師弟の育英資金として利用された。ただし、廃藩置県で武士は士分であったものは「士族」に、足軽身分であったものは「卒族」に分類された。その後卒族が廃止され、卒族のうち上格の者は「士族」その他の者は農工商と同じく「平民」になったのだが、ここ辺境の地・村上では足軽身分であった「卒族」にも進学する場合にはこうした奨学金を与えた。足軽だった小和田家が師範学校へ進学し、何代か後には東大を卒業するようになり、遂には天皇家に皇太子妃として輿入れしている。<br /> なお、戊辰戦争に負けた長岡藩が、支藩の三根山藩から贈られた米を売って教育のために使ったという史実が「米百俵」として知られている。一方、旧村上藩士は明治12年(1879年)に本町小学校を建設し、さらに中学校(後の県立村上中学校)を私学として設立し、卒業後にさらに上の学校に進学する子弟には奨学金を与えた。旧村上藩士の方が旧長岡藩士よりも教育熱心であったともされる。しかし、士族の本町小学校と町民の町小学校とは塀を隔てて存立し、戦後の教育制度改革まで続いたことも中央から遠い田舎の話として知られている。教育改革で旧制村上中学校は県立村上高等学校となった。昭和40年代でも村上高校ではクラスに多くて1人の旧士族出身のクラスメートがいる場合があった。私のクラスにも1人いたが、町から通うクラスメートは中学時代まで野球とかをやり、旧村上本町から通う士族出のクラスメートは剣道2段の腕前であった。そして町屋に住むクラスメートのところに遊びに行くことも、逆に町屋に住むクラスメートが武家屋敷に住むクラスメートのところに遊びに行くことも殆どなかったと思う。明治維新は68年前の敗戦で完結したのではなく、それ以降も長く尾を引いているのである。<br />(表紙写真は産卵する2匹の鮭)

JR村上駅ホームの鮭の水槽展示

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2013/11/11 - 2013/11/14

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ドクターキムル

ドクターキムルさん

 11月11日午後に、JR羽越本線村上駅の3番ホームの改札横に水槽の中に2匹の鮭が飼われて生体展示されていた。目を遣ると精悍な姿で悠然としており、迫力があった。写真を撮ろうと思ったが、急いでいたので帰りにしようとそのまま改札を出た。
 11月14日の夕方に3番ホームに入るともうあの水槽は撤去されていた。自由席に乗車予定のおばさんが駅員に鮭の水槽はどうなったのか尋ねている。甥に聞くと昨日(11月13日)の夕方にはあったという。結局、来たときに1、2分をケチったためにあの鮭の雄姿を写真に撮り損ねてしまった。
 村上地方では鮭を「いよぼや」という。「いよ」も「ぼや」も魚という意味で、「魚の中の魚」という意味であり、英語にある’King of king’のような使い方だ。
 村上藩では鮭が孵化し易いようにと種川を設け、孵化した鮭の稚魚を多く川(海)に戻していた。村上藩士・青砥武平治(正徳3年(1713年)〜天明8年(1788年))は鮭の回帰性に気付き、それを利用し、「種川の制」を創設して鮭の増殖方法を確立したことで知られる。村上藩は「種川の制」の成功で財政が潤った。市内三面川傍にある「イヨボヤ会館」の裏の鮭公園には「青砥武平治」の銅像が建てられている。今年が武平治の生誕300年に当たる。
 こうした歴史的背景から、種川の鮭の漁業権は、明治7年(1874年)から旧藩士に5年間という条件付きで独占が認められ、その後は永年漁業権が認められて、昭和23年(1948年)まで続いた。旧士族に漁業権などとは聞かない話だが、この入札料は旧士族の師弟の育英資金として利用された。ただし、廃藩置県で武士は士分であったものは「士族」に、足軽身分であったものは「卒族」に分類された。その後卒族が廃止され、卒族のうち上格の者は「士族」その他の者は農工商と同じく「平民」になったのだが、ここ辺境の地・村上では足軽身分であった「卒族」にも進学する場合にはこうした奨学金を与えた。足軽だった小和田家が師範学校へ進学し、何代か後には東大を卒業するようになり、遂には天皇家に皇太子妃として輿入れしている。
 なお、戊辰戦争に負けた長岡藩が、支藩の三根山藩から贈られた米を売って教育のために使ったという史実が「米百俵」として知られている。一方、旧村上藩士は明治12年(1879年)に本町小学校を建設し、さらに中学校(後の県立村上中学校)を私学として設立し、卒業後にさらに上の学校に進学する子弟には奨学金を与えた。旧村上藩士の方が旧長岡藩士よりも教育熱心であったともされる。しかし、士族の本町小学校と町民の町小学校とは塀を隔てて存立し、戦後の教育制度改革まで続いたことも中央から遠い田舎の話として知られている。教育改革で旧制村上中学校は県立村上高等学校となった。昭和40年代でも村上高校ではクラスに多くて1人の旧士族出身のクラスメートがいる場合があった。私のクラスにも1人いたが、町から通うクラスメートは中学時代まで野球とかをやり、旧村上本町から通う士族出のクラスメートは剣道2段の腕前であった。そして町屋に住むクラスメートのところに遊びに行くことも、逆に町屋に住むクラスメートが武家屋敷に住むクラスメートのところに遊びに行くことも殆どなかったと思う。明治維新は68年前の敗戦で完結したのではなく、それ以降も長く尾を引いているのである。
(表紙写真は産卵する2匹の鮭)

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  • 産卵する2匹の鮭。郵便番号の桁が増える前の絵葉書。<br />JR村上駅ホームの鮭の水槽展示はもっと迫力があった。

    産卵する2匹の鮭。郵便番号の桁が増える前の絵葉書。
    JR村上駅ホームの鮭の水槽展示はもっと迫力があった。

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