2012/10/15 - 2012/10/20
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4nobuさん
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いつも後悔しながら懲りないのがドライブ旅行での突撃ぶりです。貧乏症だからでしょうかレンタカーだと楽に走り回るので欲張って訪問先を増やしたり、また徒歩でゆっくりと散策するのを忘れてしまうのです。
今日も午前に平戸の市内の観光の後、途中に田谷教会に立ち寄っただけで長崎まで直通です。
長崎ではその日の夕方と明日の午前だけの滞在です。まったくツアー並みの旅程になってしまいました。
10/16:長崎到着後暗くなり始めた出島の観光と今日の夕食にはなにを摂ろうかと街中をぶらつきました。卓袱(しっぽく)か蒸し寿司にしようと考えていましたが結局好物のちゃんぽんになってしまいました。
10/17:今日は天草泊まりなので午後には出発しなければいけません。これまでに行ってないオランダ坂周辺の中国風雰囲気の街を歩きました。
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- レンタカー JALグループ
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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午後平戸を発って夕刻に長崎到着。さっそく新中華街を通って出島見学に出掛けます。
なお夕食はまだ味わってない長崎名物にしようと、卓袱か蒸し寿司のいずれかにするつもりでしたが手っとり早いちゃんぽんになってしまいました。
中華街は修学旅行の学生でごったがえしてましたす。 -
出島の由来
1636年、キリスト教の布教を防ぐ目的でポルトガルト人(カソリック教徒)の監視を容易にしようと一か所に集めために人口島(扇形の出島)を作る。
ポルトガル人の撤退後にキリスト教布教の意思がないオランダ人(新教徒)にのみ交易を許しその商館が平戸にあったのをこの出島に移した。以来明治までの216年間唯一外国に向かって開いた窓となる。
この人口島を造る費用のほとんどが幕府でなく長崎商人から出ておりポルトガル人の追放で出島の建設資金の回収が滞ることに対する対策として平戸からの移転がなされました。 -
復元した出島の東端の部分に昔の出島の復元模型があります。
これは島の西端つまり舟から荷物を搬入する水門側から見ています。 -
北側から出島の中央部付近を見ています。
左端に出島への出入り口があります。 -
島の東端付近です。
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いまの出島の地図。1996年(平成8年)長崎県が再建を始め、現在も続けられています。
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南側の護岸とその上部の塀
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西端にある水門。ここから舟で運んできた品物が搬入された。
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出島の日本人
出島には公用者のみが出入りでき、またオランダ人は例外者のみが出入りできる厳しい鎖国状態でした。
1855年の日蘭和親条約後は出入りが自由になる。 -
通りの両側には2階建ての家が並び、左側(北側)の多くは倉庫、右側(南側)の多くは事務所でした。現在は当時の模様を再現した博物館となっています。
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通りの正面に旧長崎内外クラブが見えます。
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右側は商館長宅(カピタン部屋)商館長の居住と来賓用施設。
左側は乙名(おとな)部屋。日本の貿易事務・管理用詰所。 -
旧長崎内外クラブ。在留外国人と日本人の交流の場所として建てられた。
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旧出島神学校。明治11年にできた日本最古のプロテスタント神学校です。
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翌朝訪れた孔子廟の入り口。
孔子は中国の思想の根本にある儒教の開祖で孔子廟は孔子を祀る建物です。没後にその生家が孔廟と呼ばれ儒教の総本山となっています。日本でも儒教の学校に付属して孔子廟が各地にあります。有名なのは東京の湯島聖堂ですが、最も立派で中国人が初めて海外に建てたのはこの長崎の廟です。
孔子の遺品を祀ったのが始まりで明治26年に清朝政府と華僑が現在の廟を建設した。原爆で崩壊寸前となりましたが華僑そして中国政府によって現在の形の廟が建設されました。 -
廟の正門。儀門(ぎもん)
左右には孔子をたたえる碑を背負って亀のような動物(龍福)があります。 -
入り口と正門の間の小さな中庭には川が横切り、石橋がある。
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橋のたもとには奇妙な動物(獅子?)が護っている。
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廟の正門。儀門(ぎもん)を正面から見る。真ん中の扉は神と皇帝のみが通れる入り口なので普段は閉まっている。
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儀門の左にある獅子の像
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門を通して中庭の群像が見える。
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中庭の全景(パノラマ)
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正面が本殿の大成殿。左右に72賢人の像が並ぶ。
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礼、楽、射、御、書、数の六芸に通じた賢人
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本殿内には金色の孔子像が祀ってあります。
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本殿の奥にある中国歴代博物館には北京故宮博物館所蔵の一級文物(国宝)級の宝物が展示されてます。
黄地青梅 九桃紋 大盤 (清代) -
窯変 梅瓶 (清代)
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窯変 貫耳 方瓶 (清代)
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天球儀
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秦の始皇帝の兵馬俑(墳墓の副葬品)
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博物館の背後からちょうど降り出した雨の中オランダ坂を上りました。
多くの本で言われているオランダ坂はカステラ元亀堂の横から活水学院を目指しさらに左に折れてウイリアムズ宣教師館跡までといわれています。しかし今回の孔子廟浦からの坂道も合わせてオランダ坂としているガイドブックもあります。
なお当時は欧米人はすべてがオランダさんと呼び、この坂は山手にある住居と出島をつなぐいわば通勤路でした。
前者のオランダ坂には当時の面影の跡はほとんど残ってなく「・・跡の碑」の類いだけで「日本がっかり名所」のひとつでもあります。それに比べればこの坂の方が明治初期の建物が残りその頃の雰囲気が少しだけ残っています。 -
オランダ坂の両側には明治中期に建てられた洋風住宅が沢山残っています。原爆の被害がなかったのですね。
明治時代の洋館の外壁はこの南京下見板張り(イギリス下見とも)でした。私の学んだ小学校はバットレス付き2階構造の南京下見板張り外壁でしたが隣村のガキからはつっかい棒付きボ校舎と揶揄られましたが今は懐かしい建物です。 -
東山手洋風住宅の一つ。
向うのシックな建物はNTT長崎病院 -
坂の途中で振り返ると向うの丘の大浦天主堂が見える。帰宅しこの写真をみてなぜ行かなかったかと大後悔する。なにせ今回の旅の小さなテーマが教会訪問だったのだから。
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ウイリアムズ宣教師館跡から昔の中華人の街までの近道を行きました。この狭い下り坂の方が雨の坂道の風情がありました。坂を下っていくと道はさらに狭まり一人がやっとになりますが生活感がいっぱいの楽しい道で印象深いです。
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狭くて急な坂を下りたところがかっての中国人の町、唐人屋敷の入口です。江戸時代には土塀と竹垣に囲まれた中国人がここのみに居住を許されたいわば「もうひとつの出島」でした。
中国に関係する建物のひとつ土神堂の屋根が見えます。 -
中国の民間信仰での土地、建物を守りまた豊饒の神様の土神を祀る堂です。唐人屋敷ができた翌々年に居留中国人によって建立されました。
反り上がった屋根が目立ちます。 -
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旧唐人街を進んで行くと福建会館への道標があって助かった。これらの建物以外は唐人の街の面影はなくなっています。
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江戸時代ではなくずっと後の明治元年に航海の守護神「まそ神」を祀るために建立されたが明治30年に福建省の人が改装したのでこの名に変ったそうです。
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島原から天草へ
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島原城見取り図
キリスト教に帰依していた有馬晴信は日野江城を築いたがその後移封して来た松倉重政が新たな土地島原に新城を築く。
本丸と二の丸、三の丸を従えてそれを囲む堀を巡らす強固な構えで島原の一揆軍に耐えました。
地図の下側、城の正面にある姫松屋で名物の具雑煮を遅めの昼食に摂りました。 -
破風のない5層の天守閣。
4万石の大名に不相応の規模の大きさは新興大名の勇み足?。
資金は海外貿易の利益もだが、キリシタン弾圧を利用した厳しい年貢の取り立てがあったのが事実で、これが島原の乱の主因ともいわれています。またそれ故に殉死した民が聖人に列っせられなかったといわれている。
明治維新で廃城となり解体されたが1964年の地元の熱意で再建されました。 -
本丸前から見た丑寅の櫓。今は民具資料館ですが先を急いで立ち寄りません。
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水草の美しい城壁と堀。背後は西の櫓
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前報(九州ドライブ旅行(2)平戸・島原・天草の教会巡り)で詳述の島原市内のステンドグラスのユニークな島原教会
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これも前報で詳述の島原の乱の古戦場、原城跡
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島原半島の突端の口の津港から天草へフェリーで渡る。
口の津港は平戸に次いで長崎より先に貿易港として開港し、宣教師はここから日本に散らばって行った。
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