2012/10/15 - 2012/10/20
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4nobuさん
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今回の九州旅行の目的は景観と遺跡巡りです。平戸、長崎、島原となるとやはりキリシタン時代の遺跡=教会となります。今回は訪れた教会のみを取り上げました。そして場所は平戸、島原、天草の3か所、日にちも別々の日のが混ざっております。
注1:これらの教会は世界遺産暫定リスト「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」に含まれたのがかなりあります。
さて、登録を目指す文化遺産は、2012年4月現在、長崎県内の12遺産(大浦天主堂、出津教会堂、大野教会堂、日野江城跡、原城址、黒島天主堂、田平天主堂、平戸島の聖地と集落、旧野首教会と関連遺跡、頭ヶ島天主堂、旧五輪教会堂堂と関連遺跡、江上天主堂)、熊本県内の1資産(崎津・今富のキリシタン史跡と集落)です。
注2:教会はかって御堂とか天主堂といわれていました。その名残でいまでも天主堂といわれているのと教会といわれているのがあります。ここではよく用いられている呼び方をとりましたので混ってでてきますが了承ください。
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- レンタカー JALグループ
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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平戸市内の教会マップ
本島:9
生月島:2
九州本島:3
のうち歴史的意義のあるところと行き易い所に絞って訪問しました。
すなわち
宝亀教会、紐差教会、平戸カソリック教会(聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂)、田平天主堂
を訪れました。 -
宝亀(ほうき)教会
平戸島に入り紐差を目指し東海岸を南下して行き宝亀の部落に入ります。右手の山に上がって行くと丘の上の森と畑の中に煉瓦と白亜の縁取りのコントラストが映える宝亀(ほうき)教会が現れます。
まず正面が見えましたがこんなに明るい教会は初めて!
歴史:この地区は紐差教会の教区であったが1885年(明治18年)に18戸の信徒によって始めて仮教会がたてられた。1898年に信徒50戸の供出金と紐差教会司祭マタラ神父のそれを超える基金によって現教会が建立された。基金の不足は信徒の労力奉仕によったそうで、たとえばレンガはそれぞれが焼いたせいで色がまちまちなのがわかる。
1899年に教会として認可され紐差教会から分離して宝亀小教区となる。平戸では最古の教会で前述のように世界遺産候補のなかにも加わっている。 -
教会の正面(ファサード)から1間は煉瓦造りだがその先は木造で屋根は瓦葺き。予算のせいでしょうか。
建屋の側面に下屋がつきそれがアーケードのようなベランダという珍しい構造です。 -
内部は3廊式、つまり身廊と左右に側廊があります。
身廊の奥、内陣は身廊を延長したけの簡単な構造でそこの祭壇もまた簡単であたかもプロテスタント教会のように感じました。祭壇の正面にはゴチック様式の尖頭アーチ形の窓がありステンドグラスから光がそそいでいます。
そののち訪れた教会も多くは同じように簡素で我が国の教会にあまり訪れる機会のなかった私には新鮮でした。
天井は柱間の単位で4分割されたボールトの境界はリブが付いていてリブの間は板張りという和風のゴチック様式というような私にとってはじめて見る構造でした。
床は今は板張りですがかっては畳敷きだったそうです。 -
側廊の天井も同様に板張りのリブ付きボールトです。
身廊との教会の列柱は四角で台座と柱頭がついています。 -
紐差(ひもさし)教会
東海岸をさらに南下して紐差町の高台に壮大な教会がありました。直前に訪れた宝亀教会のエスプリのあるかわいい外観に対して対照的です。
幅の広い階段を上っていきます。
原爆で崩壊した長崎の浦上天主堂が再建されるまでは日本で最大の教会だったそうです。
明治に入ってキリスト教の解禁後外人宣教師が隠れキリシタンの発掘をかねて来島した最初の地がここ紐差であったことからいまでも島内で最大の信者数の教会といわれている。
1885年(明治18年)に初代聖堂が建立され、1887年マタラ神父の着任ご信徒の増加に対応する本格的な聖堂の計画があったが資金の調達に時間がかかりようやく1929年(昭和4年)に落成する。初代聖堂は解体し佐賀県馬渡島教会として移築された。 -
聖堂は天主堂建築の第一人者の鉄川与助の設計する鉄筋コンクリート二階建て正面に8角のドームの付いた四角の鐘楼があって堂々たる風格をつくっています。
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正面の階段は二階に通じ、そのフロワーが会堂となっている変わった構造なのがわかります。
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反対側から見る。
一階は教理を修める教室だそうです。 -
入り口の鐘楼を見上げる。
窓の形状は半円アーチのロマネスク様式を真似ている。宝亀教会が尖頭アーチのゴチック様式風と対照的です。 -
内部は3廊式で、身廊の天井は船底形で額縁がならんだなかに和風の模様がある特徴的なものです。
列柱にはコリント風の柱頭があるのも珍しいことです。 -
外に出ると神社が隣接していました。三輪神社といいます。
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境内に十字架と聖母の像があります。その横にある小屋は礼拝堂?
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平戸カソリック教会
平戸市街西部の寺の多い地区にあります。
島北部の中心教会だった上神埼教会から1910年(明治43年)に独立しました現在の位置に移り建立されたのは1931年です。
1550年にフランシスコ・ザビエルがここを訪れたことを記念した像が昭和46年に建立されたの記念して聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂とよばれるようになりました。 -
中央のひと際高い尖塔とそれを囲む小尖塔。尖頭アーチの窓や入り口。バットレス(側面の控え壁)などいかにもゴチックらしい形でその人気が高い。
けれどもなにかちぐはぐで飾り過ぎのように思うのは私の天の邪鬼のせい? -
内部は3廊式で、白に統一された天井と壁、アクセントの黒い柱頭など簡素ですっきりした感じが気に入りました。
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高台にある教会から見下ろすと周囲の寺々とうまく溶け込んでいるように感じます。
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田平天主堂:
平戸城郭内にある市の観光案内所の壁に架けられた市内の名所写真のなかに煉瓦造りの重厚な教会を見つけました。ちょっと大袈裟ですが北ドイツの教会のような素晴らしい形の教会です。
それには田平天主堂と書かれていました。普通のガイドブックにはこの名は出ていませんし私が不勉強なせいですがこれまでに見たパンフレットでも気がつきませんでした。そこでもらったパンフレットでその位置が同じ平戸市ながら九州本島側であることがわかりました。旅行2日目は平戸を発って九州本島の長崎に泊まる予定だったのでその途中で寄ることができる!
この天主堂は世界遺産の暫定リスト「長崎教会群」に選ばれており、また近年になって国の重要文化財に指定されている貴重な建物なのになぜか他の教会に比べて道標が備わってなくまた前述のようにガイドブックに紹介されていません。
散々道に迷い車のディーラーにとびこんで教えてもらってようやく到着できました。
歴史:平戸に赴任した伝道師二人によって離島などに孤立している信者を呼寄せて瀬戸山の土地を与えて開拓を通じて信徒の集落を作る試みがなされた。やがて自発的な移住もあって大正初期には80戸になったといわれます。
信徒によって明治21年には仮の聖堂ができましたが本格的な聖堂の計画が始まったのは大正になってからです。
信徒は貧しく建設資金はまったくたりませんでしたが神父の声に応えた母国フランス人々の寄付によってようやく見通しがたちました。さらに信徒の努力が続き1918年(大正7年)に完成しました。
設計は紐差教会と同じ教会建設の第一人者の鉄川与助で、正面の塔および建物の壁は総煉瓦造りの煉瓦のむきだしのままでそれがこの手手ものの重厚な雰囲気を醸し出している。塔は建物の正面につながった3層でその上に設計者の得意とする8角のドームと十字架がある。 -
瓦葺きの屋根は身廊の高い屋根と側廊の屋根の2層構造で窓は半円形のロマネスク様式風。
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教会の遠景。横に広い墓地があります。
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堂内は3廊式で、天井は紐差と同じく4分割のリブ付きヴォールト。
列柱は四角でそれの各面に半円形の附柱がついている。 -
戦時中に軍に使われたり空襲にもあったがそれが修復された後に建立80年を迎える。その際に内陣と外壁に納められたステンドグラスが美しい。
写真はその一部でテーマは「山上の垂訓」
イエスの教えと病気治療のきせき奇跡を求めて集まる群衆と弟子たちに教えを説きました。その教えは宗教運動の共同体としての運動方針・生活綱領のようなものです。 -
「放蕩息子」
後悔の念を抱いて家のもどる息子を温かく迎える父。神は悔悛した罪人をよろこんで迎え入れるたとえ -
「カナの婚宴」
農村カナの婚礼に招かれた。そこには聖母マリア(右)も居合わせた。宴が続きブドー酒のかめが空になったのでキリストはかめに水を満たすように言いつけた。やがて奇跡が起こり水はブドー酒に変わっていた。 -
天主堂の建立の推進者「中田藤吉神父」の像
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島原教会
島原城の観光と名物の愚雑煮の昼食後に町はずれの白土(しらち)湖畔の島原教会を訪れる。島原の乱などで殉教した数万人のキリシタンの祈りの家として建立されました。島原半島殉教者記念聖堂。
こじんまりとしたドーム状の聖堂です。 -
正面の簡素な祭壇には磔刑のキリストのみが掲げられています。
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聖堂入り口左側のステンドグラス
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有馬のセミナリオから天正遺欧少年使節として派遣された4人の少年。
有馬セミナリオ:洗礼を受けた日野江城主有馬晴信の庇護の下にヴァリニャーノ神父が開いた学校で宗教、語学、文学、美術を柱として他の人に奉仕する人間を育てることを目的としました。 -
アルメイダとヴァリニャーノの使命
アルメイダ修道士が島原に「神の憐みの福音」を告げ、また医師としての奉仕につとめました。イエスズ会ヴァリニャーノ神父は口の津で最初の宗教会議を開き、有馬セミナリオをつくりました。 -
入り口から右側のステンドグラスは衝撃的な内容です。
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1627年に海に投げ込まれたキリシタンの様子です。
幼少年の内堀3兄弟を含む16名の信者が両手の指を切断されて海に投げ込まれたのです。
上の舟の小さな男子が最年少(5才)のイグナチオ内堀でした。残酷なことにそれを下の舟の両親の目前で行ったことです。 -
その一週後に16名、2か月後に10名の信者が雲仙地獄で熱湯かけられた後に湯壷に投げ込まれて殉教した様子です。
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島原の乱・最後の砦・原城
キリスト教に帰依し洗礼した有馬晴信が居城の日野江場より堅固で守りやすい城として築いた。しかしその子の時代に幕府によって移封され後の領主松倉勝家は島原に新城を築き原城は廃城とした。
その廃城を島原・天草一揆の農民が占拠し幕府軍12万4000とオランダ軍艦に対して3万4000人で4カ月持ちこたえた。
1938年に国の史跡に指定される。
①ほねかみ地蔵:有馬村願心寺住職が遺骨を集めて供養した地蔵尊の塔
②本丸虎口
③本丸櫓跡
④本丸
⑥本丸北口 -
空堀跡:戦闘中はここに女子子供が隠れたという。落城後に処刑された村人はここに投げ捨てられ、その上に城壁を崩して埋めたので発掘調査で沢山の遺骨が発見された。
廊城した3万4千人は婦女子供まで惨殺され内通がばれて牢に繋がれていた一人だけが助かったという残酷さでした。そしてその死体はこの空堀に捨てられました。
石垣の石はほかに使うために外されましたが上部だけで下部までは取られてないことが後の調査でわかりましたがこれは死体がそこまで達するほど多かったのではと想像されています。
日本には珍しい施政と宗教の残酷物語です。
子の一揆の原因は宗教弾圧だけでなくむしろ過酷な年貢の取り立て、収賄などの失政が原因であり、幕府は後に島原領主松倉勝家を前例のない斬首とした。また天草の領主寺沢堅高は領地を没収されのちに自害した。 -
本丸への道
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セミナリオのあった口の津からフェリーで早崎瀬戸を横断して天草に渡ります。
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島原・天草地区で訪れたキリシタン関連の教会と遺跡。
島原教会、原城址、大津天主堂、崎津天主堂 -
大江天主堂
なだらかな丘の中腹に見えたがそれが紐差教会そっくり。
同じ設計者砂川与助によるからでしょう。
ザビエルにより日本にキリスト教が伝わってから17年後にポルトガル人修道士アルメイダ(島原教会のステンドグラスで記述)が天草に伝道する。明治25年にフランス人ガルニエ神父が赴任し私財をなげうって昭和8年に完成しました。 -
天草下島のこの地区はかっては陸の孤島であったために島原・天草の乱に参加できず、またそれ故に弾圧もかなり遅くなってからで、隠れキリシタンの時代が続きました。
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崎津天主堂
大江からトンネルを抜けると崎津の港の中に天主堂が見えてきます。
海の天主堂といわれるわけがわかります。 -
この景観は「国の重要文化的景観」に選ばれています。
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漁村の小路の向うに教会がみえます。村の中の庶民的な雰囲気です。
色が他の教会と違ってグレーなのも庶民的と感じるわけの一つかもしれません。 -
同じく砂川与助の設計ですがドームでなく8角錐の尖塔でいわゆるゴチック様式風です。
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板張りのリブ付きボールトも砂川設計の特徴です。
かっては畳張りの床だったそうですが。
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