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JR外房線土気(とけ)駅下車徒歩約30分、難攻不落の土気城(とけじょう、千葉県千葉氏緑区土気町)を訪問しました。<br /><br />平安時代の神亀年間に鎮守府将軍の大野東人なる武将が蝦夷に対する軍事拠点の一つとして砦を築いたと伝えられ、それなりに古い歴史が残されています。<br /><br />罪人として伊豆に配流の源頼朝が平家に謀反を起こし失敗、房総に逃れ半年後には勢力を盛り返す状況に至る功労者の一人として挙げられ、幕府創立後も頼朝の側近として活躍した千葉氏一族の勢力圏となり南北朝時代には千葉氏一派の土気氏が当地の地頭職を得て砦跡に入り拠点として整備したものと考えられます。<br /><br />現地は過去に一時大手航空会社の研修所として活用されていましたが、現在では高齢者専用住宅となっており、自由に見学できる環境ではなく自重した行動となってしましました。<br /><br />城主の変遷については南北朝時代後期に大関城主の畠山重康(はたけやま・しげやす)の支配下に置かれ、長享元年(1487)に千葉氏宿老の原氏の支援を受けた中野城主酒井定隆(さかい・さだたか、1435~1522)が入城し以降同氏一族により約百年余りの統治となります。<br /><br />戦国時代後半では下総を攻略する小田原北条氏との戦いに巻き込まれ、房総有力豪族である里見氏に属して小田原北条氏に対峙しますが敗北を喫し北条氏に降り従属化の道を辿ります。天正18年(1590)秀吉の小田原城攻略では北条氏と運命を共にし、当該城は開城をへて廃城となります。<br /><br /><br /><br />関係する説明板には下記の通り紹介されています。<br /><br /><br />「 土 気 城 跡<br /><br />         所在地  千葉氏緑区土気町829番地<br /><br />土気城は、平安時代の鎮守府将軍であった、大野東人(おおのあづまびと)が東北地方の蝦夷に対する軍事的拠点の一つとして築いたものと伝えられている。その後、1488年(長享2年)中野城主であった酒井定隆がこの城を修復して入城し、以後、5代・100年間に亘って酒井氏の居城として上総の地に君臨した。<br /><br />城は鹿島川や村田川の水源となっている標高90mを越える台地上に、その急峻な地形を利用して築かれ、難攻不落の名城として知られていたが、天正18年(1590)豊臣秀吉の房総攻めの際に敗れ、廃城となった。本丸、二の丸などの城の中核となる部分は現在、日本航空研修センターの敷地になっており、部分的な改変はあるものの全体の保存状態は良好で戦国時代の城郭の形態を良く残している。<br />                 千葉市教育委員会」<br /><br />*現在は「ひまわりの郷」(高齢者専用賃貸住宅)となっています。

上総千葉 神亀年間対蝦夷砦と伝えられ南北朝以降千葉氏庶流の酒井氏統治をへて小田原北条氏に臣属し搦手口に大胆な切通を有する『土気城』訪問

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2013/01/05 - 2013/01/05

1008位(同エリア1367件中)

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滝山氏照

滝山氏照さん

JR外房線土気(とけ)駅下車徒歩約30分、難攻不落の土気城(とけじょう、千葉県千葉氏緑区土気町)を訪問しました。

平安時代の神亀年間に鎮守府将軍の大野東人なる武将が蝦夷に対する軍事拠点の一つとして砦を築いたと伝えられ、それなりに古い歴史が残されています。

罪人として伊豆に配流の源頼朝が平家に謀反を起こし失敗、房総に逃れ半年後には勢力を盛り返す状況に至る功労者の一人として挙げられ、幕府創立後も頼朝の側近として活躍した千葉氏一族の勢力圏となり南北朝時代には千葉氏一派の土気氏が当地の地頭職を得て砦跡に入り拠点として整備したものと考えられます。

現地は過去に一時大手航空会社の研修所として活用されていましたが、現在では高齢者専用住宅となっており、自由に見学できる環境ではなく自重した行動となってしましました。

城主の変遷については南北朝時代後期に大関城主の畠山重康(はたけやま・しげやす)の支配下に置かれ、長享元年(1487)に千葉氏宿老の原氏の支援を受けた中野城主酒井定隆(さかい・さだたか、1435~1522)が入城し以降同氏一族により約百年余りの統治となります。

戦国時代後半では下総を攻略する小田原北条氏との戦いに巻き込まれ、房総有力豪族である里見氏に属して小田原北条氏に対峙しますが敗北を喫し北条氏に降り従属化の道を辿ります。天正18年(1590)秀吉の小田原城攻略では北条氏と運命を共にし、当該城は開城をへて廃城となります。



関係する説明板には下記の通り紹介されています。


「 土 気 城 跡

         所在地  千葉氏緑区土気町829番地

土気城は、平安時代の鎮守府将軍であった、大野東人(おおのあづまびと)が東北地方の蝦夷に対する軍事的拠点の一つとして築いたものと伝えられている。その後、1488年(長享2年)中野城主であった酒井定隆がこの城を修復して入城し、以後、5代・100年間に亘って酒井氏の居城として上総の地に君臨した。

城は鹿島川や村田川の水源となっている標高90mを越える台地上に、その急峻な地形を利用して築かれ、難攻不落の名城として知られていたが、天正18年(1590)豊臣秀吉の房総攻めの際に敗れ、廃城となった。本丸、二の丸などの城の中核となる部分は現在、日本航空研修センターの敷地になっており、部分的な改変はあるものの全体の保存状態は良好で戦国時代の城郭の形態を良く残している。
                 千葉市教育委員会」

*現在は「ひまわりの郷」(高齢者専用賃貸住宅)となっています。

交通手段
JRローカル 徒歩

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  • 土橋<br /><br />大手道にはいくつかの土橋を通ります。

    土橋

    大手道にはいくつかの土橋を通ります。

  • 空堀<br /><br />薮に覆われた空堀が横たわっています。

    空堀

    薮に覆われた空堀が横たわっています。

  • 空堀<br /><br />反対側も薮で覆われています。

    空堀

    反対側も薮で覆われています。

  • 貴船大明神<br /><br />三の丸跡虎口土塁の上に建つ貴船大明神があります。<br /><br />神亀年間に大野東人によって築かれた貴船城が起源とされた経緯で大手口に当該神社が配されています。<br /><br />

    貴船大明神

    三の丸跡虎口土塁の上に建つ貴船大明神があります。

    神亀年間に大野東人によって築かれた貴船城が起源とされた経緯で大手口に当該神社が配されています。

  • 貴船大明神石標

    貴船大明神石標

  • 土気城跡説明<br /><br />貴船大明神石標の裏面には土気城に関する説明があります。神亀年間(767~770)に鎮府将軍大野東人が蝦夷に対する構えとして「金城」または「貴船城」と呼ばれる城砦を築いたのがその始まりとされるがはっきりしていません。

    土気城跡説明

    貴船大明神石標の裏面には土気城に関する説明があります。神亀年間(767~770)に鎮府将軍大野東人が蝦夷に対する構えとして「金城」または「貴船城」と呼ばれる城砦を築いたのがその始まりとされるがはっきりしていません。

  • 土気城・大手道<br /><br />広い三の丸跡から二の丸跡に繋がる大手道が見られます。

    土気城・大手道

    広い三の丸跡から二の丸跡に繋がる大手道が見られます。

  • 土気城跡・説明板

    土気城跡・説明板

  • 土気城跡・概略図

    土気城跡・概略図

  • 三の丸跡<br /><br /><br />

    三の丸跡


  • 三の丸跡<br /><br />広い三の丸跡の一部は畑となっています。

    三の丸跡

    広い三の丸跡の一部は畑となっています。

  • 三の丸跡

    三の丸跡

  • 空堀<br /><br />三の丸跡から二の丸跡には土橋がありその右側は空堀の一部が見えます。

    空堀

    三の丸跡から二の丸跡には土橋がありその右側は空堀の一部が見えます。

  • 空堀

    空堀

  • 二の丸跡

    二の丸跡

  • 二の丸跡

    二の丸跡

  • 二の丸跡

    二の丸跡

  • 本丸跡

    本丸跡

  • 土気城跡石標<br /><br />日本航空研修センター当時に製作された土気城跡の記念石碑があります。

    土気城跡石標

    日本航空研修センター当時に製作された土気城跡の記念石碑があります。

  • 土気城跡説明文<br /><br />石標裏面には当時の日本航空代表者名で土気城跡に関して克明に説明されています。<br /><br />

    土気城跡説明文

    石標裏面には当時の日本航空代表者名で土気城跡に関して克明に説明されています。

  • 本丸櫓台<br /><br />本丸跡に櫓台があります。

    本丸櫓台

    本丸跡に櫓台があります。

  • 高齢者専用賃貸住宅・看板<br /><br />日本航空研修センターは今では「ひまわりの郷」となっています。

    高齢者専用賃貸住宅・看板

    日本航空研修センターは今では「ひまわりの郷」となっています。

  • ひまわりの郷敷地

    ひまわりの郷敷地

  • ひまわりの郷建物

    ひまわりの郷建物

  • 土塁

    土塁

  • クラン坂<br /><br />土気城跡の特徴として深い切通が続きます。通称「クラン坂」と呼ばれています。

    クラン坂

    土気城跡の特徴として深い切通が続きます。通称「クラン坂」と呼ばれています。

  • クラン坂

    クラン坂

  • クラン坂<br /><br />南東方向に続く深く切り込んだ切通しとなっています。

    クラン坂

    南東方向に続く深く切り込んだ切通しとなっています。

  • クラン坂<br /><br />台風の影響などで樹木が倒れて堀底に放置されたままになっています。

    クラン坂

    台風の影響などで樹木が倒れて堀底に放置されたままになっています。

  • クラン坂<br /><br />昼間でも暗く何やら不気味な雰囲気があります。

    クラン坂

    昼間でも暗く何やら不気味な雰囲気があります。

  • 櫓台<br /><br />あまりにもクラン坂が長いのでこの辺りで引き返します。<br /><br />

    櫓台

    あまりにもクラン坂が長いのでこの辺りで引き返します。

  • クラン坂<br /><br />両側は断崖となっており高さは3mほどになるでしょうか。

    クラン坂

    両側は断崖となっており高さは3mほどになるでしょうか。

  • クラン坂

    クラン坂

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