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JR外房線土気(とけ)駅から徒歩約25分、土気城跡から南東に約500mにある寶珠山・善勝寺(ぜんしょうじ、千葉県千葉氏緑区土気町)はかつては土気城の出城ともいわれており、山門をくぐり参道を右なりに登りますと広々とした境内が認められます。<br /><br />長享2年(1488)酒井定隆(さかい・さだたか、1435~1522)が土気城城主となった際、帰依していた本行寺開山日泰上人を招き、寛正5年(1464)、それまでの真言宗から法華宗に改められ、山寺号を「寶珠山善生寺」と号し酒井氏の菩提寺と定めます。<br /><br />天正18年(1590)小田原北条氏に属していた経緯により豊臣秀吉派遣軍の攻撃を受け酒井氏は所領地を失いますがその子孫は徳川家康旗本として脈を保ち大坂夏の陣などで活躍、一方当寺は家康の関東入府後は寺領50石を受け以降「善勝寺」と名乗り今日に至ります。<br /><br /><br /><br /><br />2022年9月1日追記<br /><br />当該寺院の縁起については下記の通りです。<br /><br />『 善勝寺の縁起<br /><br />善勝寺の創建時代等は不詳ながら、極楽法寺と号する真言宗寺院として創建したといいます。酒井定隆が土気城主となると、帰依していた本行寺開山日泰上人を当地へ招聘、寛正5年(1464)日泰上人の求めにより真言宗だった当寺を法華宗に改めて如意実珠山善生寺と号し、酒井家の菩提寺としたといいます。その後日泰上人の求めにより本寿寺を創建した際、山号を実珠山としています。<br /><br />徳川家康の関東入国後、天正19年(1591)には寺領50石を寄進され、江戸期には末寺21ヶ寺を擁し、妙満寺輪番上総十固寺の一に数えられる、本寺格の寺院でした。』<br /><br /><br />また、境内には酒井氏の墓所が配されており、その周辺には下記の掲示板があります。<br /><br /><br />「 土気城主酒井家の御墓所<br /><br />土気城主酒井家は、初代定隆が一四八七年(長享元年)に土気城に進出し、二代定治、三代玄治、四代胤治、五代康治の約百年間、上総国の七里四方、三二ケ町村を領地として治め、日泰上人と共に二七四ケ寺を顕本法華宗に回収した。又、酒井家最盛期の一五七〇年代には三十三万四千四百石の領主となった。<br /><br />そして、一五九〇年、豊臣秀吉の小田原城侵攻により土気城は廃城となり、酒井家六代重治、七代実治は家臣富田彦兵衛が三浦監物重成に働き掛け、徳川家康に九五〇石の旗本として仕える事ができ、大坂の陣へ出陣した。<br /><br />ここに、先祖の藤原姓を刻んだ酒井六代重治、七代実治、家臣富田の三名の眠る墓所改修に当たり、酒井家の由来の一端を記す。 」

上総土気 戦国前期に当地進出し領国を法華宗に改宗小田原合戦で没落後は旗本として再生し家康より50石の寺領を受けた酒井氏の菩提寺『善勝寺』散歩

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2013/01/05 - 2013/01/05

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滝山氏照

滝山氏照さん

JR外房線土気(とけ)駅から徒歩約25分、土気城跡から南東に約500mにある寶珠山・善勝寺(ぜんしょうじ、千葉県千葉氏緑区土気町)はかつては土気城の出城ともいわれており、山門をくぐり参道を右なりに登りますと広々とした境内が認められます。

長享2年(1488)酒井定隆(さかい・さだたか、1435~1522)が土気城城主となった際、帰依していた本行寺開山日泰上人を招き、寛正5年(1464)、それまでの真言宗から法華宗に改められ、山寺号を「寶珠山善生寺」と号し酒井氏の菩提寺と定めます。

天正18年(1590)小田原北条氏に属していた経緯により豊臣秀吉派遣軍の攻撃を受け酒井氏は所領地を失いますがその子孫は徳川家康旗本として脈を保ち大坂夏の陣などで活躍、一方当寺は家康の関東入府後は寺領50石を受け以降「善勝寺」と名乗り今日に至ります。




2022年9月1日追記

当該寺院の縁起については下記の通りです。

『 善勝寺の縁起

善勝寺の創建時代等は不詳ながら、極楽法寺と号する真言宗寺院として創建したといいます。酒井定隆が土気城主となると、帰依していた本行寺開山日泰上人を当地へ招聘、寛正5年(1464)日泰上人の求めにより真言宗だった当寺を法華宗に改めて如意実珠山善生寺と号し、酒井家の菩提寺としたといいます。その後日泰上人の求めにより本寿寺を創建した際、山号を実珠山としています。

徳川家康の関東入国後、天正19年(1591)には寺領50石を寄進され、江戸期には末寺21ヶ寺を擁し、妙満寺輪番上総十固寺の一に数えられる、本寺格の寺院でした。』


また、境内には酒井氏の墓所が配されており、その周辺には下記の掲示板があります。


「 土気城主酒井家の御墓所

土気城主酒井家は、初代定隆が一四八七年(長享元年)に土気城に進出し、二代定治、三代玄治、四代胤治、五代康治の約百年間、上総国の七里四方、三二ケ町村を領地として治め、日泰上人と共に二七四ケ寺を顕本法華宗に回収した。又、酒井家最盛期の一五七〇年代には三十三万四千四百石の領主となった。

そして、一五九〇年、豊臣秀吉の小田原城侵攻により土気城は廃城となり、酒井家六代重治、七代実治は家臣富田彦兵衛が三浦監物重成に働き掛け、徳川家康に九五〇石の旗本として仕える事ができ、大坂の陣へ出陣した。

ここに、先祖の藤原姓を刻んだ酒井六代重治、七代実治、家臣富田の三名の眠る墓所改修に当たり、酒井家の由来の一端を記す。 」

交通手段
JRローカル 徒歩
  • 善勝寺・山門<br /><br />善勝寺はかつては土気城の一部であったといわれており、山門から参道をやや右方向に登りますと広々とした高台が境内となっており、境内隅には土塁の僅かながら見られます。

    善勝寺・山門

    善勝寺はかつては土気城の一部であったといわれており、山門から参道をやや右方向に登りますと広々とした高台が境内となっており、境内隅には土塁の僅かながら見られます。

  • 善勝寺・参道

    善勝寺・参道

  • 善勝寺・境内

    善勝寺・境内

  • 善勝寺・本堂<br /><br />正式名称は「實珠山善勝寺」といい、宗派は顕本法華宗、本尊は大曼茶羅となっています。

    善勝寺・本堂

    正式名称は「實珠山善勝寺」といい、宗派は顕本法華宗、本尊は大曼茶羅となっています。

  • 土気城主酒井氏・墓塔<br /><br />中央部は土気酒井氏最後の城主、5代目康治(やすはる、1546~1608)の子、酒井重治(さかい・しげはる、生没不詳)、右は重治の息子胤治(たねはる、1536~1577)、左は重臣富田彦兵衛の墓です。建立したのは重治の子、豊治(とよはる、生没不詳)となっています。<br /><br />

    土気城主酒井氏・墓塔

    中央部は土気酒井氏最後の城主、5代目康治(やすはる、1546~1608)の子、酒井重治(さかい・しげはる、生没不詳)、右は重治の息子胤治(たねはる、1536~1577)、左は重臣富田彦兵衛の墓です。建立したのは重治の子、豊治(とよはる、生没不詳)となっています。

  • 石碑

    石碑

  • 供養塔

    供養塔

  • 歴代住職墓

    歴代住職墓

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