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 横浜市中区山手町にある山手外国人墓地の始まりはペリー来航時に遡る。安政元年(1854年)、日米会談のため横浜に来航した艦隊のミシシッピー号の水兵のウィリアムズが墜死し、ペリーが要求した「海の見える地」という条件にも合う、現在の元町にあった増徳院の境内に埋葬された。しかし、日米和親条約によって伊豆下田の玉泉寺に米国人用墓地が作られることになり、ウィリアムズの遺体はこの3ヶ月後に玉泉寺に改葬されている。<br /> 安政6年(1859年)、アメリカなどと結ばれた修好通商条約によって、下田に代わって横浜が開港した。それから間もなく、2人のロシア艦隊員が何者かに殺害され、増徳院境内に埋葬された。その際、幕府は石塔や囲いの設置をロシア政府に約束し、土地が狭かったので隣接する農民の畑も買収した。<br /> 翌、安政7年(1860年)には、オランダ人船長と商人の2人が殺害され、やはり増徳院境内に埋葬された。しかし、元々、増徳院境内には日本人の墓もあったが別の墓地に移されることになる。さらに翌年には、とかく評判の悪かったさる英国領事が、病死したイギリス人水夫を別の場所に勝手に埋葬して問題になった。そこで、幕府は約5300平方メートルの土地を柵で囲って外国人の墓域に定めた。その後、拡張を重ね、明治11年(1878年)までに現在の墓域が確定した。<br /> 実は、横浜外国人墓地は現在まで、外国人に無償で貸与されている。幕末に有料化が検討されたが、攘夷派浪人の凶刃によって不慮の死を遂げた外国人が多かったこともあり、国際親善の観点から無償貸与と決まった。<br /> 幕末には、幕府が土地や柵を造成し、外国領事団に貸与する形式だったが、明治2年(1869年)に全ての管理を外国側に委ねることになり、明治3年(1870年)に外国領事団から居留外国人の代表で作る管理委員会に管理権が委譲された。この委員会は明治33年(1900年)に、財団法人横浜外国人墓地となり、現在に至っている。<br /> 現在は3月〜12月末の毎週土・日・祭日(雨天を除く)の午後12時00分〜午後4時00分に、「OPEN HOUSE」と題して山側にある墓地を一般公開し、ボランティアが案内して回っている。外国人墓地の維持管理のための募金(200〜300円程度)にご協力いただくと,そのお礼として入苑できまる。この募金は現在、財団の年間収入の3分の1を占め、観光地としての特色を生かしつつ、墓地としての役割も果たしている(読売新聞(2008年2月17日)を参照した)。<br /> 横浜にある4つの外国人墓地(横浜外国人墓地(中区山手町)、根岸外国人墓地(中区仲尾台)、中華義荘(中区大芝台)、英連邦戦没者墓地(保土ヶ谷区狩場町))のうち最も古く、有名なのは山手町の横浜外国人墓地であり、日本人でも訪れる人が多い。そこは山手門から入る資料展示室などがある山手本通側が中心であろうか。見尻坂を下った元町プラザ脇の平地まで山手外国人墓地があり、増徳院跡とされる元町プラザ辺りに伽藍が建ち並んでいたであろうから、オランダの立派な石塔や「生麦事件犠牲者の墓」(生麦事件は文久2年(1862年)に起った)があるが、裾野にある外国人墓地は公開はされていない。特に、オランダと言えば、長崎・出島という思い込みが強く、幕末に横浜で殺害されたオランダ人船長ら2人の墓が建てられていることなど想像も付かなかった。<br /> 万延元年12月((1861年1月)には、江戸・東麻布でアメリカ公使館通訳(アメリカ公使ハリスの書記兼通訳)ヒュ−スケンが暗殺された(ヒュ−スケン事件)。ヒュ−スケンはオランダ人であったが、アメリカに帰化した。また、安政7年(1860年)、ヒュ−スケン事件の前にはオランダ商船の船長・ヴェッセル・デ=フォス(Wessel de Vos)と商人・ナニング・デッケル(Jasper Nanning Dekker)の2人が、横浜の街路上で斬殺されている。二人の墓は横浜外国人墓地の最も古い区画である22区(元町側通用門/ルゥーリー記念門付近)に建てられている。<br /> この2人のうち船長・ヴェッセル・デ=フォス(Wessel de Vos)の墓である。公開もされない上、解説看板もないために、こうした歴史は中々伝えられてはいかないだろう。<br />(表紙写真はオランダ人船長の墓の石塔)

山手外国人墓地−22区(横浜市中区山手町)

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2013/06/29 - 2013/06/29

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ドクターキムル

ドクターキムルさん

 横浜市中区山手町にある山手外国人墓地の始まりはペリー来航時に遡る。安政元年(1854年)、日米会談のため横浜に来航した艦隊のミシシッピー号の水兵のウィリアムズが墜死し、ペリーが要求した「海の見える地」という条件にも合う、現在の元町にあった増徳院の境内に埋葬された。しかし、日米和親条約によって伊豆下田の玉泉寺に米国人用墓地が作られることになり、ウィリアムズの遺体はこの3ヶ月後に玉泉寺に改葬されている。
 安政6年(1859年)、アメリカなどと結ばれた修好通商条約によって、下田に代わって横浜が開港した。それから間もなく、2人のロシア艦隊員が何者かに殺害され、増徳院境内に埋葬された。その際、幕府は石塔や囲いの設置をロシア政府に約束し、土地が狭かったので隣接する農民の畑も買収した。
 翌、安政7年(1860年)には、オランダ人船長と商人の2人が殺害され、やはり増徳院境内に埋葬された。しかし、元々、増徳院境内には日本人の墓もあったが別の墓地に移されることになる。さらに翌年には、とかく評判の悪かったさる英国領事が、病死したイギリス人水夫を別の場所に勝手に埋葬して問題になった。そこで、幕府は約5300平方メートルの土地を柵で囲って外国人の墓域に定めた。その後、拡張を重ね、明治11年(1878年)までに現在の墓域が確定した。
 実は、横浜外国人墓地は現在まで、外国人に無償で貸与されている。幕末に有料化が検討されたが、攘夷派浪人の凶刃によって不慮の死を遂げた外国人が多かったこともあり、国際親善の観点から無償貸与と決まった。
 幕末には、幕府が土地や柵を造成し、外国領事団に貸与する形式だったが、明治2年(1869年)に全ての管理を外国側に委ねることになり、明治3年(1870年)に外国領事団から居留外国人の代表で作る管理委員会に管理権が委譲された。この委員会は明治33年(1900年)に、財団法人横浜外国人墓地となり、現在に至っている。
 現在は3月〜12月末の毎週土・日・祭日(雨天を除く)の午後12時00分〜午後4時00分に、「OPEN HOUSE」と題して山側にある墓地を一般公開し、ボランティアが案内して回っている。外国人墓地の維持管理のための募金(200〜300円程度)にご協力いただくと,そのお礼として入苑できまる。この募金は現在、財団の年間収入の3分の1を占め、観光地としての特色を生かしつつ、墓地としての役割も果たしている(読売新聞(2008年2月17日)を参照した)。
 横浜にある4つの外国人墓地(横浜外国人墓地(中区山手町)、根岸外国人墓地(中区仲尾台)、中華義荘(中区大芝台)、英連邦戦没者墓地(保土ヶ谷区狩場町))のうち最も古く、有名なのは山手町の横浜外国人墓地であり、日本人でも訪れる人が多い。そこは山手門から入る資料展示室などがある山手本通側が中心であろうか。見尻坂を下った元町プラザ脇の平地まで山手外国人墓地があり、増徳院跡とされる元町プラザ辺りに伽藍が建ち並んでいたであろうから、オランダの立派な石塔や「生麦事件犠牲者の墓」(生麦事件は文久2年(1862年)に起った)があるが、裾野にある外国人墓地は公開はされていない。特に、オランダと言えば、長崎・出島という思い込みが強く、幕末に横浜で殺害されたオランダ人船長ら2人の墓が建てられていることなど想像も付かなかった。
 万延元年12月((1861年1月)には、江戸・東麻布でアメリカ公使館通訳(アメリカ公使ハリスの書記兼通訳)ヒュ−スケンが暗殺された(ヒュ−スケン事件)。ヒュ−スケンはオランダ人であったが、アメリカに帰化した。また、安政7年(1860年)、ヒュ−スケン事件の前にはオランダ商船の船長・ヴェッセル・デ=フォス(Wessel de Vos)と商人・ナニング・デッケル(Jasper Nanning Dekker)の2人が、横浜の街路上で斬殺されている。二人の墓は横浜外国人墓地の最も古い区画である22区(元町側通用門/ルゥーリー記念門付近)に建てられている。
 この2人のうち船長・ヴェッセル・デ=フォス(Wessel de Vos)の墓である。公開もされない上、解説看板もないために、こうした歴史は中々伝えられてはいかないだろう。
(表紙写真はオランダ人船長の墓の石塔)

  • 元町側通用門には「ルゥーリー記念門」の名がある。

    元町側通用門には「ルゥーリー記念門」の名がある。

  • 「生麦事件犠牲者の墓」とあるが、負傷した2人の墓が並ぶ。<br /><br />生麦事件は文久2年(1862年)に起ったがこの墓は最近のものだ。<br />向かって右がW.チャールズ・クラーク(1867年没)、左がウィリアム・マーシャル(1873年没)の墓。<br />墓石の後ろに「生麦事件犠牲者の墓」の石碑があるが、生麦で落命した犠牲者であるチャールズ・レノックス・リチャードソンの墓は見られない。新しい鉄柵の中に古い石柵が見え、桜の大木が植えられているが、この桜の後ろに見える大きな石碑がチャールズ・レノックス・リチャードソンの墓か?<br />ボロデール夫人も一撃を受けていたが、無傷であった。マーシャルとクラークも深手を負い、血を流しながらも馬を飛ばし、神奈川宿のアメリカ領事館として使われていた本覚寺へ駆け込んで助けを求め、ヘボン博士の手当を受けた。<br />ボロデール夫人は無傷ではあったが、事件のため、精神的な後遺症が残り、間もなく帰国したために横浜には墓はない。<br />

    「生麦事件犠牲者の墓」とあるが、負傷した2人の墓が並ぶ。

    生麦事件は文久2年(1862年)に起ったがこの墓は最近のものだ。
    向かって右がW.チャールズ・クラーク(1867年没)、左がウィリアム・マーシャル(1873年没)の墓。
    墓石の後ろに「生麦事件犠牲者の墓」の石碑があるが、生麦で落命した犠牲者であるチャールズ・レノックス・リチャードソンの墓は見られない。新しい鉄柵の中に古い石柵が見え、桜の大木が植えられているが、この桜の後ろに見える大きな石碑がチャールズ・レノックス・リチャードソンの墓か?
    ボロデール夫人も一撃を受けていたが、無傷であった。マーシャルとクラークも深手を負い、血を流しながらも馬を飛ばし、神奈川宿のアメリカ領事館として使われていた本覚寺へ駆け込んで助けを求め、ヘボン博士の手当を受けた。
    ボロデール夫人は無傷ではあったが、事件のため、精神的な後遺症が残り、間もなく帰国したために横浜には墓はない。

  • オランダ人船長の墓の石塔。<br />関東大震災(大正12年(1923年))でも倒壊しなかったのだろう。

    オランダ人船長の墓の石塔。
    関東大震災(大正12年(1923年))でも倒壊しなかったのだろう。

  • ルゥーリー記念門(元町側通用門)から見えるオランダ人船長の墓の石塔。<br />Wessel de Vos(ヴェッセル・デ=フォス)と刻まれている。<br />Jasper Nanning Dekker(ナニング・デッケル)の墓は?

    ルゥーリー記念門(元町側通用門)から見えるオランダ人船長の墓の石塔。
    Wessel de Vos(ヴェッセル・デ=フォス)と刻まれている。
    Jasper Nanning Dekker(ナニング・デッケル)の墓は?

  • 22区平地の外国人墓地。

    22区平地の外国人墓地。

  • 22区台地の外国人墓地。

    22区台地の外国人墓地。

  • 22区台地の外国人墓地にはオランダ石塔を1/10程度に小さくしたものも見られる。

    22区台地の外国人墓地にはオランダ石塔を1/10程度に小さくしたものも見られる。

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