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平安時代後期から三浦半島に於ける一大豪族で、治承4年(1180)源頼朝が伊豆で僅か三百の手勢をもって平家追討の旗揚げをした際いち早く頼朝側に立った三浦一族の総帥である三浦義明(みうら・よしあき、1092~1180)の墓が義明山・満昌寺(まんしょうじ、神奈川県横須賀市大矢部)にあります。<br /><br />三浦氏の本拠は満昌寺の西方5-6Kmの高台に位置する衣笠城で、頼朝が平家に反旗をひるがえすとの知らせを聞くや自ら全勢力を挙げて石橋山に向かいます。ところが折からの暴風雨で川が氾濫し渡れずにいる内に頼朝敗北の報せを聞きやむなく引揚げる途中に平家方についていた畠山重忠軍と遭遇、三浦軍は相手に痛撃を与え衣笠に戻ります。<br /><br />思いがけない戦いに痛手を受けた畠山軍は一族の江戸氏・川越氏の応援を得て衣笠を包囲攻撃します。難攻不落の衣笠城ではありますが総勢三千に及ぶ攻め手の攻勢には守り手の約五百では守備に自ずから限界があります。<br /><br />ついに義明は全員を集め、「自分はここに残るが皆は早く逃げろ」と一族郎党と別れを告げて自らは覚悟の死を遂げます。<br /><br />義明に別れた三浦一族は久里浜から船に乗って房総へ逃れ、前後して房総に身を置いた頼朝と合流します。<br /><br />鎌倉に幕府を創設した頼朝は義明のことを忘れておらず、緒戦における義明の奮闘振りを讃え、建久5年(1194)頼朝の意思に基きその冥福を祈るために創建されたと伝えられています。<br /><br /><br />2022年8月15日追記<br /><br />当該寺院ホームページには下記の通り紹介されています。<br /><br />『 沿革<br /><br />当山は建久5年(1194)、三浦大介義明を開基として源頼朝が建立して820年余の星霜をへた名刹である。<br /><br />この年は義明が逝って14年もたったが、頼朝は伊豆挙兵のおりに老体を投げうち、幕府開設の礎となった無二の忠臣義明の霊に一宇を献じたかったのであろう。<br /><br />140年ののち、仏乗禅師が中興開山となり、臨済宗建長寺派の寺となり、禅寺として今に至っている。<br /><br />宝永2年(1705)火災にあい堂宇が鳥有に帰したのを、寛延2年(1749)仏心禅師が再建し、旧山号の雲龍山を改め、義昭山としたと伝えられている。<br /><br />義明の法名は万昌寺殿義明禅鑑大禅定門といい、位牌は本尊の右手におまつりしている。本堂前のサツキの大株は「頼朝手向けの牡丹花」といわれている。』<br /><br />

相模三浦衣笠 鎌倉に幕府創設した頼朝が14年後に旗揚時に支持表明し礎を築いた三浦義明の冥福を祈るため建立した『満昌寺』散歩

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2012/10/20 - 2012/10/20

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滝山氏照

滝山氏照さん

平安時代後期から三浦半島に於ける一大豪族で、治承4年(1180)源頼朝が伊豆で僅か三百の手勢をもって平家追討の旗揚げをした際いち早く頼朝側に立った三浦一族の総帥である三浦義明(みうら・よしあき、1092~1180)の墓が義明山・満昌寺(まんしょうじ、神奈川県横須賀市大矢部)にあります。

三浦氏の本拠は満昌寺の西方5-6Kmの高台に位置する衣笠城で、頼朝が平家に反旗をひるがえすとの知らせを聞くや自ら全勢力を挙げて石橋山に向かいます。ところが折からの暴風雨で川が氾濫し渡れずにいる内に頼朝敗北の報せを聞きやむなく引揚げる途中に平家方についていた畠山重忠軍と遭遇、三浦軍は相手に痛撃を与え衣笠に戻ります。

思いがけない戦いに痛手を受けた畠山軍は一族の江戸氏・川越氏の応援を得て衣笠を包囲攻撃します。難攻不落の衣笠城ではありますが総勢三千に及ぶ攻め手の攻勢には守り手の約五百では守備に自ずから限界があります。

ついに義明は全員を集め、「自分はここに残るが皆は早く逃げろ」と一族郎党と別れを告げて自らは覚悟の死を遂げます。

義明に別れた三浦一族は久里浜から船に乗って房総へ逃れ、前後して房総に身を置いた頼朝と合流します。

鎌倉に幕府を創設した頼朝は義明のことを忘れておらず、緒戦における義明の奮闘振りを讃え、建久5年(1194)頼朝の意思に基きその冥福を祈るために創建されたと伝えられています。


2022年8月15日追記

当該寺院ホームページには下記の通り紹介されています。

『 沿革

当山は建久5年(1194)、三浦大介義明を開基として源頼朝が建立して820年余の星霜をへた名刹である。

この年は義明が逝って14年もたったが、頼朝は伊豆挙兵のおりに老体を投げうち、幕府開設の礎となった無二の忠臣義明の霊に一宇を献じたかったのであろう。

140年ののち、仏乗禅師が中興開山となり、臨済宗建長寺派の寺となり、禅寺として今に至っている。

宝永2年(1705)火災にあい堂宇が鳥有に帰したのを、寛延2年(1749)仏心禅師が再建し、旧山号の雲龍山を改め、義昭山としたと伝えられている。

義明の法名は万昌寺殿義明禅鑑大禅定門といい、位牌は本尊の右手におまつりしている。本堂前のサツキの大株は「頼朝手向けの牡丹花」といわれている。』

交通手段
高速・路線バス 私鉄 徒歩

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  • 満昌寺全景<br /><br />幹線道路から満昌寺を捉えます。

    満昌寺全景

    幹線道路から満昌寺を捉えます。

  • 満昌寺社標<br /><br />山門の右手に臨済宗建長寺派 満昌寺との社標が建ってます。

    満昌寺社標

    山門の右手に臨済宗建長寺派 満昌寺との社標が建ってます。

  • 「三浦義明座像」石碑

    「三浦義明座像」石碑

  • 満昌寺山門

    満昌寺山門

  • 指定重要文化財の紹介<br /><br />当寺には横須賀市の指定重要文化財として「木像天岸慧広座像」、「木像宝冠釈迦如来座像」、「満昌寺襖絵」が保存されています。

    指定重要文化財の紹介

    当寺には横須賀市の指定重要文化財として「木像天岸慧広座像」、「木像宝冠釈迦如来座像」、「満昌寺襖絵」が保存されています。

  • 義明山満昌寺由来説明板

    義明山満昌寺由来説明板

  • 本堂

    本堂

  • 源頼朝お手植えつつじ

    源頼朝お手植えつつじ

  • お手植えつつじ説明板

    お手植えつつじ説明板

  • 御霊明神社の鳥居<br /><br />義明の孫である和田義盛が境内鎮護のために造った明神社の鳥居といわれています。

    御霊明神社の鳥居

    義明の孫である和田義盛が境内鎮護のために造った明神社の鳥居といわれています。

  • 三浦義明座像説明板<br /><br />座像は御霊明神社に伝蔵されています。

    三浦義明座像説明板

    座像は御霊明神社に伝蔵されています。

  • 伝 三浦義明廟所説明板

    伝 三浦義明廟所説明板

  • 三浦義明廟所<br /><br />この階段を伝って登ってゆきます。

    三浦義明廟所

    この階段を伝って登ってゆきます。

  • 三浦義明廟所

    三浦義明廟所

  • 三浦義明宝物殿

    三浦義明宝物殿

  • 義明廟所からの風景

    義明廟所からの風景

  • 三浦義明廟所

    イチオシ

    三浦義明廟所

  • 三浦義明廟所案内板

    三浦義明廟所案内板

  • 鐘楼

    鐘楼

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